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「隣の家の少女」観た、今は後悔している

 このエントリは、「どくいり、きけん」。

 虐待・監禁・陵辱を扱った「隣の家の少女」を観てきた。テーマは、痛みだ。

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 平日のレイトショーなので閑散してると思いきや、満席状態なのでビビる。野郎ばかりと思いきや、女性、しかもかなり若い女が結構いる。けっこう。ほぼ全員、「独り」で来ているようで、カップルが一組、男同士が数組。開始前の行列で誰も話さない。こわい。恐いもの見たさなのかねぇ、みんな変態だなー、と腹で笑っていたが、後に大まちがいだったことを思い知る。

 映画の内容は、小説を忠実に映像化しましたという感じ。小道具を使った伏線や、火のついたタバコをペニスのメタファー(後に文字どおりペニス)として扱う技巧はうまいなーと思う。憧れの女の子が監禁虐待されているにもかかわらず、何もできない主人公の歯がゆさというか無能感もこんなもんだろ。ただしラストの英雄贖罪行為は勇み足。

 ただ、内容はキツいです。原作で慣らしている人か、虐待スキーな人しか観てはいけない。演技とはいえ、裸に剥かれた少女が吊られ刻まれ焼かれるのは、見ていて気持ちのよいものではないから。彼女の絶叫とうめき声は、何度も夢にみるだろう。

 では、なぜそんなものを観るのか?最初に触れた、「恐いもの見たさ」なのだろうか……少なくともわたしにとって。どれぐらい強烈なやつに触れたら、わたしの情感が焼ききれるだろうか、という実験なのか。小説での実験結果は、劇薬注意「隣の家の少女」をどうぞ。だが、映画を見て後悔したのは、鬼畜に慣れてしまった自分に気づいたこと。姦され切られ焼かれるシーンを、かなり冷静に眺めている自分の"おぞましさ"に気づいたから。

 これは、対象との一体化やね。深淵を覗き込みすぎ。

 自分がひり出したウンコを観測している感覚。そのブツは、数分前には確かにわたしの体内におり、自己主張し、暴走を阻止するために愛と緊張をほかならぬわたしに強いたものだ。同様に、わたしはその"鬼畜"を確かに体内に飼っており、糞便ほど頻繁でなくとも定期的に放す必要がある。いったん自分の外側に出して、ためすがめつするのだ。通常は自分の感情や誰かの作品といった姿を取ることが多いが、わたしの"おぞましさ"は、たぶん、生きている限りついてまわるだろう。

 しかし、それでも疑問は残る。痛めつけられ衰弱していく少女を、ただ「観る」だけしかできなかった観客のうち、十人程度いた若い女性のことだ。隣の席の女性は、ビクッビクッとしていた。明らかにダメージを受けながら見ているのだ。なぜ見る?「見るレイプ」の共犯体験を愉しみたいのか?――― 映画が終わって出るとき、わたしが完全に間違っており、下劣で馬鹿だったことが分かった。ただ一組のカップルの女性が、パートナーに語りかけているのが耳に入ったのだ。

「わたしもそうだったから……でもこんなんじゃないからw」

 全員が全員、かどうかは分からない。でも、確かめに来た人もいるのだ。ああ、何も分かっていなかったのは、このわたしだ。観客としての共犯関係なんて戯言が虚言じみてくる。バカだな、ちゃんと冒頭で、"Based on True Story" と断っていたじゃないか。演技だけれど、フィクションじゃないんだ。ぐるんぐるんしているわたしの脳裏に、おおい被さるように冒頭が甦る。

「苦痛とはなにか、知ってるつもりになっていないだろうか?」

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