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裸がまぶしい「さすらいエマノン」

 コミック版「おもいでエマノン」の続編。「おもいで」のレビューは、最後は、どうか幸せな記憶を「おもいでエマノン」 をどうぞ。

明日をどこまで計算できるか 彼女の名前はエマノン ――― 四十億年分の記憶とともに生き続ける女性。見た目はハタチそこそこの娘にすぎない。長い髪、おおきな瞳、彫りの深い貌、そばかすが、日本人ぽく見えず、メスティーソのよう。前作では分厚いセーターに包まれた肢体が、今回では惜しげもなく日のもとにさらされている。すんなりと伸びた、まぶしい、うつくしい、彼女のはだかを、たくさん堪能できる。凝視せよ、眼福とはまさにこのこと也。

 ストーリー的には小説版「おもいでエマノン」の後半のエピソードに想を得ている(ように見える)が、タイトルは「さすらいエマノン」なのでちょっと困惑する。ひょっとすると、わたしの思い違いかもしれないので、小説版「さすらい」を読む。すると、また違った「エマノン」が浮かび上がってきて面白い。

 地球と同じくらい永い永い記憶を守っているのはベースとして、人の可聴領域外の低音波が聴こえたり、時空間をジャンプしているとしか思えないような描写があったり、ちょい超能力が入っている。そして、それぞれのエピソードに出てくる彼女はいつも「ハタチそこそこ」のようだ。エマノンは(肉体的には)ごく普通の女性で、ただ記憶だけを世代ごとに引き継いでいるのだと思っていた。だが、こういう姿を見ていると、エマノンは永遠のハタチのように見えてくる。

Sasurai_2 太古からの記憶が「いま・ここ」を衝き動かしている壮大なテーマや、十年前の約束を果たすために身を危険にさらすエピソード、あるいは、究極のパンドラの箱を"警告"する役回りなど、短編のなかのエマノンは忙しい。ただ、役目を果たした ――― 次の"エマノン"にバトンタッチした彼女は、驚くほど平凡な女になるに違いない。興味深いことに、"先天的な記憶の引継ぎ"がなされない場合であれば、全ての母親はエマノンと等価になる。考えてみると、先天的な記憶の引継ぎをやっていないだけで、"生命"という炎は次々とバトンタッチしているんだなぁ…

 ヒトは生まれて、歴史の知的遺産を学習によって身につけるだけで、彼女と変わらない。さらにヒトのうち、個人はは自らの経験によって感情を経験している。エマノンにとって、生きているということは、記憶していることと等価なのだから、ヒトにとって("人類"というマスで見た場合)も同じことが言えるはず。わたしたちが、過去を、現在を覚えている限り、(わたしたちが)生きているといえるのだ。たとえヒトのメンバーの一人ふたりが死んだとしても、マスとしてそう言える。ヒトがマスになるとき、固有名詞や人種、特徴を失い、ただのヒトになる。NO-NAMEのただのヒトになる。

 それでも、彼女は、たった一人で、記憶を負っていることに変わりはないんだ。知だけでなく、情、感情も併せて負っているのだから。

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