子どもに「怒り」を教える話。
わたしの息子は怒りっぽい。理由は至極かんたんだ、わたし自身が怒りっぽいから。無茶な割込みをかけるセルシオに怒鳴り、脱税は謝りゃいいんでしょと嘯く政治家は○ねと呪う。教える親こそ未熟者だね。
ささいなこと……計算ミスに気づいたり、誤字を指摘されたりすると、ムキーとなる息子に、「ガマンしろ!」と叱りつけそうになって、ハッと気づく。これは、わたし自身が小さい頃からいわれ続けてきたこと。そう、怒っているときに「怒るな」と強要されることほど理不尽なことはない。だが、わたしは言われ続けた。我慢しなさい、お兄ちゃんなんだから。こらえなさい、もう高学年(中学生、高校生)なんだから、恥しいことだと分かるでしょ?
その結果どうなったか?自分の「怒りの感情」とは、抑えるべきもの、こらえるべきものだと教えこまれた。怒りとはウンコのようなもので、適切な場所で排出する以外は、その兆候を漏らすことすら許されないと刷り込まれた。怒りとは溜め込まれ、はけ口に向かってうっぷんを晴らすものだと信じた。
これは辛かった。トイレまでウンコをガマンすることは可能だ。しかし、「はけ口」とはどこにあるのか?人に向けた場合、それは悪意=イジワル=いじめという袋小路に至り、モノに当たれば、破壊された跡を見て自己嫌悪に陥る。最悪なのは、自分に「はけ口」を向けた場合。自分を傷つけたり、苛んだりすることになる。親元から離れ、独り立ちするようになって初めて、「怒り」を自身から分離させることができることに気づいた。怒りとは抑圧されるものではなく、手にとって観察するべき、もう一人の自分であることに気づいたのだ。
「親が○○したから」というのはやめる。わたしが怒りっぽいのは、わたしの性格だと信じる。いっぽうで、わたしは、もう少し上手く「親」をやれると信じる。これは、根拠のない思い込みかもしれないが、わたしの「親」のやり方を変えてみよう。
で、子どもに諄々と言い聞かせて・実践させていることをまとめるとこう。
1. 「怒り」とは、押さえるものではなく、コントロールするもの
怒りとは、お腹が空いたりオシッコに行きたくなるのと同じ、ごく普通の生理現象だ。「あってはならないもの」として目を逸らしてはいけない。そして、無理に押さえ込むものではない。ただ、怒りにまかせて喚いたり叫んだりしても、何の役にも立たない。時間と感情と関係(人間関係)が浪費されてしまう。
そのため、適切なコントロールが必要。ガマンするのではなく、怒りを制御するのだ。怒りは溜め込むと恨みになり、恨みが重なると憎悪になる。憎悪は強い酸のようなもので、人に振りまいて中和させるか、そうでなければ自分自身を蝕むようになる。憎悪に取り込まれてしまった最悪の例は、「ぼくはお城の王様だ」[レビュー]になる。
2. 怒りを感じたとき、最初にすること
まず、「怒り」を感じること。「ああー、いま、オレは怒ってるんだなー」と心から感じることが大事。怒りに無自覚な怒りに駆られて怒鳴るオヤジは醜い。そういうオヤジを職場で、電車で、ネットで見かけるたびに、「これはオレだ」と反省している。なので、その轍を踏ませないよう、まず怒っている自分に気づくのが最初。
次に、それを味わうこと。一瞬で燃え上がる熱度なのか、断続的に湧き上がる苦味なのかを分析する。なぜ分析が必要かというと、コントロール不能の怒りがあるから。うまく言語化できないが、わたしは「白い怒り」と呼んでいる。文字どおり視界が真っ白になり、音はくぐもって聴こえ、動けなくなる。次に視界・音声ともにクリアになり、殺意の塊となり、非常に戦闘的になる。非常に危険。すぐその場を去らないと自分自身を攻撃しだす。強すぎる怒りは、自分を滅ぼす。コントロール不能だと直感したら、その「場所」を逃げることが肝要。
怒りは場所についてくる。感じとったり分析したりするために、物理的にその場所から離れることが必要だ。息子にはも少し噛み砕いて、「怒ったらトイレに行って手を洗え」と教えている。「頭を冷やせ」とか「冷静になれ」と言うは易し、行いは難し。「手を洗え」が具体的だね。
3. 「怒り」をコントロールする : 「怒り」を自分から離す
ほとんどの怒りは、自分以外の誰か、何かに付随している。自分の内に「怒り」を感じるとき、いったんその対象(ヒト、モノ)を外して考え直してみる。つまり、「その人がいなかったら、怒っていただろうか?」「そのモノ(事象)が起きていなかったら、怒っていただろうか?」と想像するのだ。すぐに結論が出るはずだ、「わたしは怒っていなかった」と。
つまり、怒りの原因は自らではなく、外側にあるのだ。怒ってしまった自分を恥じることも悔いることもない。これで、「怒ってしまった自分に怒る」悪循環は断ち切れる。自分自身への怒りは、その反射のようなものだ。「自分は悪くない」と思うのは正しい。だからといって、他人やソレ(=モノ)に悪をなすりつけることは誤り。
なぜなら、怒りとは、その原因となったものであれ、その怒りそのものであれ、理不尽なものだから。理不尽とは、論理的ではないということだ。だから、「正しい」「誤り」「悪い」という評価も、怒りに対して何の役にも立たない。
よく「なんで怒ってるの?」と子どもに説明させようとして失敗するが、あたりまえだ。自分が怒っているときに、その怒りの原因を分析しようとしても無理筋だろう。分析の過程で冷静になったり、怒りの主体への認識誤りなどに気づかせるというテクニックがあるが、それができるのはソクラテスぐらい。
ここでは、怒りの原因に対し、「正しい」という言葉をもってこないだけでじゅうぶん。「正義=自分」 vs 「悪=相手」という構図が最悪だ。ここでは、怒りをコントロールする術を描いているのであって、怒りに任せて相手を打ち破ることはないのだから。
4. 「怒り」をコントロールする : 「怒り」を表明する/「怒り」を放す
怒りを感じて、自分の外のものとして認識できたら、その「怒り」を外に出す。「わたしは怒っている」と告げればいい。
・わたしは怒っている
・わたしは、○○に怒っている
・わたしは、○○という態度を不快に感じて、怒っている
・わたしは、するべき○○がなされていないので、怒っている
怒りが発生したその場所で告げるのは難しいかもしれない。時間がいくばくか経過しているから。しかし、大切なのは「怒っている」ことを表明すること。「怒り」を自分から離せたら、「わたしが正しく、あなたが誤りだから怒る」といった態度はとらないだろう。感情的になることで議論のイニシアチブをとる戦略もある。だが、ここでは議論に勝つことが目的なのではなく、怒りをコントロールすることが重要なんだ。
相手の反駁はまったく関係ない。その怒りは不合理だとか理不尽だとか言われるかもしれない。反対に、逆ギレ=怒り返しに遭うかもしれない。それでも、「わたしは怒っている」ことはまぎれのない事実で、隠してはいけない。自分の怒りを説明できなくてもOK、「とにかくイヤなの!」はありなんだ。そもそも相手も必要ではないのだ。「自身の怒りを外に出す」ことが、怒りのコントロールのために不可欠なのだ。
5. 「怒り」をコントロールする : 「怒り」の基準を自覚する
これで、感じた怒りを、自分から離し、放すことができる。「白い怒り」はともかく、練度を上げることでコントロール可能になる。感じたこと、理由をチラ裏に書くことも大切かも。自分が何に対し、どの程度になったとき怒るのか、その基準を書き出すのだ。そして、その基準に達しそうなとき、「怒る」前にその場を立ち去ったり、考えるのをやめることを心がける。「怒っている自分」をメタ化するわけ。その上でキャラを変えたりシチュを変えたりすればいい。あるいは、「分かって」怒ってもいい。
性格は変えられないが、キャラは被れる(と言ったのはyuripopだっけ?)。性格変えようと無理するこたーない。取り出して、眺めて、同じ地雷を踏まないキャラになるべし。
こんなエラそうなことを考え得たのは、わが子のおかげ。教えるわたしこそ未熟者なんだ、「怒っているわたし」に気づかせてくれるのはわが子だから。歯をくいしばってガマンしたけど怒っちまった、でもわが子が"怒り"を教えてくれた。変に照れくさくて言えなかったんだけど「ありがとな」と伝えたい。この絆にマジで感謝!!
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