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おもしろうてやがて悲しきコンドーム「コンドームの歴史」

 良いコンドームで、良い人生を。

コンドームの歴史 コンドームを軸に、文化史、医学史、宗教史、技術史を横断的に俯瞰しながら、避妊具から性病予防、奇想天外な使い方を紹介する。そして、人類に対し、この道具がいかに偉大な役割を果たしているかに気づき、驚かされるだろう。次に使うときは、おもわずまじまじと見つめてしまうに違いない。

 コンドームの歴史は避妊技術の歴史。ファラオまでさかのぼると、パピルス製のコンドームが登場する。紙のコンドームをつけてまでいたすとは、間違った畑に種をまくという事態を権力者がどれほど心配していたかを如実に物語っている。布製だったり魚の浮き袋や腸を使ったりと、涙ぐましいテクノロジーの進歩(?)が語られる。今なお残る最古のコンドームは、1640年にブタの腸で作られているそうな。洗えば再利用可能で、さすがスウェーデン製、エコだね。いっぽう最新のコンドームはオカモト製で、0.02mmという驚異的な薄さを誇る。まるで「つけてない」つけ心地、さすが日本製、エロだね。

 コンドームの歴史は性病の予防と拡散の歴史。それは、大航海時代と異世界の混交の歴史を紐解くことになる。文明間の性感染症の広がりと、コンドームの普及具合は、まったく同じパターンをたどっている。まるでコンドームが性病を広めたかのように地域も歴史も示しあわせたかのようにぴったりと重なるのだ。コンドーム/性感染症が急速に普及/蔓延する後押しをしているのが、戦争だ。ナポレオン戦争、独立戦争、第一次大戦、第二次大戦と、まったく同じ苦労と徒労をくりかえしている。

 コンドームの歴史は性と倫理の歴史。便利な道具じゃないかと素直に喜べないのがキリスト教圏なのだ。妊娠のため以外のセックスはすべて罪とされていたから、避妊のためのコンドームは、罪深い道具とみなされる。コンドームがどのように社会に受け入れられてきたか、あるいは受け入れられてこなかったかをたどると、どうやって規制がかけられてきたかがあぶりだされる。特に1873年の米国におけるカムストック法が酷く、個人の判断でもって包括的に猥雑判定ができ、なおかつ実力行使ができたという。青少年健全育成条例をゴリ押しする、現代のカムストックたちは、第8章が参考になるだろう。

 では、そうした性にたいする偽善的な態度は、どんな結果を招いたか?議論は常に繰り返される。子どもたちにコンドームについて教えるのは、コンドームの使用=セックスを推奨することになりかねないと批判する団体がいる。彼・彼女らは、避妊や性病予防といったメリットから目を背け、禁欲教育を主張して、コンドームを排斥する。現実から目を背けた結果は、梅毒からエイズまでの性感染症の蔓延の歴史になる。特にアメリカ合衆国において、バースコントロールやフリーセックスに対して、極端から極端へと議論がゆれていることが分かる。革新論者とガチガチの保守の両極しかいないのだ。両者は完全に水と油で、歴史のなかでこなれた、いわゆる「中庸」にまで至っていないのだろうか。

 このちっぽけな道具に詰まった大きな歴史をたどるのは、最初は楽しいんだが段々重くなってくる。エイズとコンドームの関係は、販売会社の脅し戦術の賜物だし、恐怖に麻痺した人たちには、「チャリティ」戦略で売ろうとする。単なる避妊具という以上に、心理的な影響を与えているのかもしれない。コンドームに頼りすぎる心情を、ボブ・ルービンはうまく言い当てている。曰く、「コンドームは完全に安全ではない。ぼくの友達はそいつをつけていてバスに轢かれた」。

サガミオリジナル 最後に。わたしの愛用品をオススメしておこう。舶来品を試したこともあるが、やはりこれはメイド・イン・ジャパンが最高だぜぇ~ウォーッ!コンビニで売っているフツーのラテックス製もいいけれど、サガミが段違いに素晴らしい。「つけてない」つけ心地は、装着後に息を吹きかけてみれば分かる。隔てるものはなにもない。下品ですまんが、ナマ入れ中出し感覚ならこれがピカイチ也。

 良いコンドームで、良い人生を。


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電子化できない体験「本から引き出された本」

本から引き出された本 書店に行くのがおっくうな理由として、新刊の山がある。

 もちろん、できたばかりの作品を沢山の人に読んで欲しいというタテマエは分かる。だがわたしには、あの山がまだ不良化されてない債権に見えるのだ。一冊一冊ていねいに永く読んでもらいたい、という扱いから遠い。風俗や流行を集めて束ねて並べた流通体で、いずれ断片が reblog/twit されるからいーや、と考えてしまう。レジまで騙せたら御の字という態度なら、すべて電子化してしまえ、あとはこっちで選ぶから、と乱暴に想像する。

 しかし、どんなにスクリーニングされても「本」という形としてなくならないものがある。たとえ電子化されても固有名詞で記憶され検索されて、(別料金で)紙のカタチになる本がある。人が生きている限り、忘れられることのない本がある。

 本書は、そうした「残る本」から引き出された本だ。著者はマイケル・ディルダ。ワシントンポスト紙で書評欄を担当し、ピューリッツァーまで受賞している練達の書評家。その読書人生で出逢った珠玉の文を引き合いながら、自身の人生を語る。「よく読むことは、よく生きること」というメッセージが伝わってくる。オーソドックスにシェイクスピアを勧める一方で、日本アニメ「ムネモシュネの娘たち」を絶賛している。人文系に寄っているものの、探索範囲がすごく深い。

 本書は、いわゆる箴言集として読める。名著と呼ばれるたくさんの作品から、じわじわくる寸鉄を抜き出しているから。経験という知恵がごく短い文に凝縮されている。そこから何を汲みだすかは、読み手(の経験値)次第だろうし、そこから何を酌み交わすかは、杯をどう掲げるかによる。Tumblr 向けならこのへん。

詩に完成はない、断念あるのみ (ポール・ヴァレリー)

ほんとうの発見とは、未知の風景を求めることではなく、新たな目を持つこと (マルセル・プルースト)

幸せな結婚生活がほとんど存在しないのは、若い女性が時間をかけてつくっているのが網であって檻でないからだ (ジョナサン・スウィフト)
 じわじわクる片言が並ぶ。プルーストの上の警句は有名だが、本書では続きが記載されている。以下の通り。
――新たな目を持つこと、別の目、別の百の目で宇宙を見つめ、それぞれの目に映る百の宇宙を見ることにある。われわれはそれをルノワールやドビュッシーの作品に見ることができる。このとき、われわれは紛れもなく、星から星へと旅しているのだ
 もっと読みたいという気持ちにさせてくれる。その文句が吐かれた文脈や、物語なら全体の中の位置づけもひっくるめて、知りたい気持ちにさせてくれる。単なる名言集なら巷に沢山ある。そうではなく、あるテーマ(上述では"芸術の信条")に沿ってコレクトされた警句は、そのまま著作物へのポインタへとなっているのだ。プルーストでいうなら、「ツンデレ」を100年先取りしていることが分かる惹句はこれ。どの物語・エッセイで、どんな効果を狙って言ったのか気になる気になる。
不在や晩餐の誘いへの断り、何気ない冷淡さのほうが、いかなる化粧品や極上の装いよりも効果的である (プルースト)
 または、本書を"ディルダの抜書き集"としても読める。短い警句や箴言だけでなく、お気に入りの本からの一定量を抜き書いたもの。そして、鋭い洞察や挑発的な引用を枕にして、人生や愛、仕事、教育、芸術、死に関する自己の見解や逸話を添えている。ディルダは、ユーモアたっぷりに、本書を「ブーケ」と評している。なるほど、名著・好著のお花畑から集めてきた華が、一冊の花束となって、そっと渡されている。

 ただ、このブーケ、人生の指針となる書であるように編まれている。人生の難局を乗り越えるためのハウツーではなく、迷うことそのものが前提の、もどってくるための本棚だ。つまり、予め一読しておいて、困難にぶつかったとき「そういえば」と思い出すための経験値かせぎの本なのだ。もちろん答えそのものは記されていないが、先人の奮闘がどの書に記されているか(それをディルダがどのように活かしてきたか)が分かる。いずれ命綱となる読書は、本棚の特定の位置だとか、開かれた本の"あるページ"といった「場所」のイメージで記憶される。検索したりタグ付けしたり「お気に入り」フォルダといった「データ」ではないのだ。

 つまり、わたしは読書というものを、その時の体感(気温、姿勢、紙質、空気、色や匂いや音)ひっくるめて経験しているらしい。なぜなら、過去の読書を掘り起こすとき、本そのもののセリフや警句やストーリーだけでなく、体感の残滓も一緒になって出てくるから。その本を読んだ場所に立ったときや、その本が置いてある棚に目をやったときに、立ち上がってくるものなのだ。わたしが存在するために、肉体としての物質が必要であるように、データではなく、モノとしての本(というか、その本がある場所)が必要になる。

 もちろん全ての本がそうあるわけではなく、強い影響力を永く及ぼすものに限る。そうした本は読む前からだいたい分かっているか、読み始めたら(手に取ったなら、背表紙をみたなら、タイトルを聞いたなら)ピンとくる。たとえ電子化されても指名買いというか本化して、わたしの人生に「場所」を与えたくなるのだ。本書には、自分の人生と共有したくなる本がしまいこまれている。一冊一冊、引き出して「場所」を与えるたびに、知りたい方向が拡張されていく。「本から引き出された本」の原題は、"Book by Book"というのは、「本による本」という内容とともに、人生を一歩一歩拡張していく"Step by Step"という意が込められているのだろう。

 マイケル・ディルダのこの本は、わたしの一つの目標になった。こういう本を出せたらいいなと願いながら、彼の書評スタンスを引いてみる。

よい書評とは、何が必要なのだろうか。H.L.メンケンが指摘するように、「書評はまず何よりも、おもしろくなければならない。つまり、巧妙に書かれなければならないし、関心を惹く個性を示さなければならないということだ。
 面白いこと、巧妙なこと、読み手を楽しませること―――精進しよう、そうしよう。

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東京の別の貌「TOKYO異形」

 都心の秘境、奇怪な東京、異空間TOKYOをうつした写真集。

TOKYO異形 「えっ!ここホントに都心?」と疑ったり、ありふれた街がアングルひとつで奇妙な場に変化したり、ページをめくるたびに驚きが並んでいる。けれどもどれも、東京だ。2008年10月から100回にわたり、東京新聞の夕刊に連載した「東京Oh!」を写真集にしたもの。

 たとえば「秘境」。東京タワーや高層ビルが目前の干潟に、無数のカニがうごめいているショット。生態系保護のため立入禁止となっている、葛西海浜公園の東なぎさだそうな。六本木ヒルズとカニの大群の組合わせ、ぶっちゃけありえない。「多摩川のヘドロ」が公害の象徴のように教えられた世代のわたしにとっては、目を疑う光景。そういや、通勤途中で東京湾に渡り鳥(?)の群れが羽根を休めているのを目にする。わたしの知らないところで、"自然"が戻ってきているのだろうか?

 あるいは、「富士見坂」。都心で「富士見坂」という名の坂は16ヶ所あるが、建物に遮られ、実際に富士山が見える場所は、ただ一つになったという(荒川区西日暮里)。何てことないこの坂を、年二回だけ、人並みが埋めるそうな。それは、富士山頂に夕陽が沈みこむ際の輝き(ダイヤモンドダスト富士)をカメラにおさめるため。その「人群」を撮っているナイスな一景ナリ。後姿から察するに、ご年配のカメラ爺ばかりで笑える。景色を撮るのではなく、「景色を撮るために群がる人」を撮る発想は面白い。美しい富士を撮るための、醜いポジション争いがあるようだ。

 けっこうシュールなやつもある。どれも特別な許可を要せず撮れるところがミソ。新幹線車両基地がいい。整然と並んでいる様子を真上から見ると、新幹線ぽくなく、まるでエンピツのようで妙な気になる。大井ふ頭から陸橋が横切るようにあるので、普通でない新幹線を撮り鉄するのに絶好ナリ。あるいは、「築地の雪山」。セリの後の発泡スチロールが雪山のように積みあがっており、人がまるで雪山登山しているようだ。大量消費+リサイクル時代が生んだ山やね。

 短い言葉で本質を捉えたタイトルも秀逸だ。見たことのない東京の断面を発見すべし。

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正しい怒り方

 子どもに「怒り」を教える話。

 わたしの息子は怒りっぽい。理由は至極かんたんだ、わたし自身が怒りっぽいから。無茶な割込みをかけるセルシオに怒鳴り、脱税は謝りゃいいんでしょと嘯く政治家は○ねと呪う。教える親こそ未熟者だね。

 ささいなこと……計算ミスに気づいたり、誤字を指摘されたりすると、ムキーとなる息子に、「ガマンしろ!」と叱りつけそうになって、ハッと気づく。これは、わたし自身が小さい頃からいわれ続けてきたこと。そう、怒っているときに「怒るな」と強要されることほど理不尽なことはない。だが、わたしは言われ続けた。我慢しなさい、お兄ちゃんなんだから。こらえなさい、もう高学年(中学生、高校生)なんだから、恥しいことだと分かるでしょ?

 その結果どうなったか?自分の「怒りの感情」とは、抑えるべきもの、こらえるべきものだと教えこまれた。怒りとはウンコのようなもので、適切な場所で排出する以外は、その兆候を漏らすことすら許されないと刷り込まれた。怒りとは溜め込まれ、はけ口に向かってうっぷんを晴らすものだと信じた。

 これは辛かった。トイレまでウンコをガマンすることは可能だ。しかし、「はけ口」とはどこにあるのか?人に向けた場合、それは悪意=イジワル=いじめという袋小路に至り、モノに当たれば、破壊された跡を見て自己嫌悪に陥る。最悪なのは、自分に「はけ口」を向けた場合。自分を傷つけたり、苛んだりすることになる。親元から離れ、独り立ちするようになって初めて、「怒り」を自身から分離させることができることに気づいた。怒りとは抑圧されるものではなく、手にとって観察するべき、もう一人の自分であることに気づいたのだ。

 「親が○○したから」というのはやめる。わたしが怒りっぽいのは、わたしの性格だと信じる。いっぽうで、わたしは、もう少し上手く「親」をやれると信じる。これは、根拠のない思い込みかもしれないが、わたしの「親」のやり方を変えてみよう。

 で、子どもに諄々と言い聞かせて・実践させていることをまとめるとこう。

1. 「怒り」とは、押さえるものではなく、コントロールするもの

 怒りとは、お腹が空いたりオシッコに行きたくなるのと同じ、ごく普通の生理現象だ。「あってはならないもの」として目を逸らしてはいけない。そして、無理に押さえ込むものではない。ただ、怒りにまかせて喚いたり叫んだりしても、何の役にも立たない。時間と感情と関係(人間関係)が浪費されてしまう。

ぼくはお城の王様だ そのため、適切なコントロールが必要。ガマンするのではなく、怒りを制御するのだ。怒りは溜め込むと恨みになり、恨みが重なると憎悪になる。憎悪は強い酸のようなもので、人に振りまいて中和させるか、そうでなければ自分自身を蝕むようになる。憎悪に取り込まれてしまった最悪の例は、「ぼくはお城の王様だ」[レビュー]になる。


2. 怒りを感じたとき、最初にすること

 まず、「怒り」を感じること。「ああー、いま、オレは怒ってるんだなー」と心から感じることが大事。怒りに無自覚な怒りに駆られて怒鳴るオヤジは醜い。そういうオヤジを職場で、電車で、ネットで見かけるたびに、「これはオレだ」と反省している。なので、その轍を踏ませないよう、まず怒っている自分に気づくのが最初。

 次に、それを味わうこと。一瞬で燃え上がる熱度なのか、断続的に湧き上がる苦味なのかを分析する。なぜ分析が必要かというと、コントロール不能の怒りがあるから。うまく言語化できないが、わたしは「白い怒り」と呼んでいる。文字どおり視界が真っ白になり、音はくぐもって聴こえ、動けなくなる。次に視界・音声ともにクリアになり、殺意の塊となり、非常に戦闘的になる。非常に危険。すぐその場を去らないと自分自身を攻撃しだす。強すぎる怒りは、自分を滅ぼす。コントロール不能だと直感したら、その「場所」を逃げることが肝要。

 怒りは場所についてくる。感じとったり分析したりするために、物理的にその場所から離れることが必要だ。息子にはも少し噛み砕いて、「怒ったらトイレに行って手を洗え」と教えている。「頭を冷やせ」とか「冷静になれ」と言うは易し、行いは難し。「手を洗え」が具体的だね。


3. 「怒り」をコントロールする : 「怒り」を自分から離す

 ほとんどの怒りは、自分以外の誰か、何かに付随している。自分の内に「怒り」を感じるとき、いったんその対象(ヒト、モノ)を外して考え直してみる。つまり、「その人がいなかったら、怒っていただろうか?」「そのモノ(事象)が起きていなかったら、怒っていただろうか?」と想像するのだ。すぐに結論が出るはずだ、「わたしは怒っていなかった」と。

 つまり、怒りの原因は自らではなく、外側にあるのだ。怒ってしまった自分を恥じることも悔いることもない。これで、「怒ってしまった自分に怒る」悪循環は断ち切れる。自分自身への怒りは、その反射のようなものだ。「自分は悪くない」と思うのは正しい。だからといって、他人やソレ(=モノ)に悪をなすりつけることは誤り。

 なぜなら、怒りとは、その原因となったものであれ、その怒りそのものであれ、理不尽なものだから。理不尽とは、論理的ではないということだ。だから、「正しい」「誤り」「悪い」という評価も、怒りに対して何の役にも立たない。

 よく「なんで怒ってるの?」と子どもに説明させようとして失敗するが、あたりまえだ。自分が怒っているときに、その怒りの原因を分析しようとしても無理筋だろう。分析の過程で冷静になったり、怒りの主体への認識誤りなどに気づかせるというテクニックがあるが、それができるのはソクラテスぐらい。

 ここでは、怒りの原因に対し、「正しい」という言葉をもってこないだけでじゅうぶん。「正義=自分」 vs 「悪=相手」という構図が最悪だ。ここでは、怒りをコントロールする術を描いているのであって、怒りに任せて相手を打ち破ることはないのだから。


4. 「怒り」をコントロールする : 「怒り」を表明する/「怒り」を放す

 怒りを感じて、自分の外のものとして認識できたら、その「怒り」を外に出す。「わたしは怒っている」と告げればいい。

  ・わたしは怒っている
  ・わたしは、○○に怒っている
  ・わたしは、○○という態度を不快に感じて、怒っている
  ・わたしは、するべき○○がなされていないので、怒っている

 怒りが発生したその場所で告げるのは難しいかもしれない。時間がいくばくか経過しているから。しかし、大切なのは「怒っている」ことを表明すること。「怒り」を自分から離せたら、「わたしが正しく、あなたが誤りだから怒る」といった態度はとらないだろう。感情的になることで議論のイニシアチブをとる戦略もある。だが、ここでは議論に勝つことが目的なのではなく、怒りをコントロールすることが重要なんだ。

 相手の反駁はまったく関係ない。その怒りは不合理だとか理不尽だとか言われるかもしれない。反対に、逆ギレ=怒り返しに遭うかもしれない。それでも、「わたしは怒っている」ことはまぎれのない事実で、隠してはいけない。自分の怒りを説明できなくてもOK、「とにかくイヤなの!」はありなんだ。そもそも相手も必要ではないのだ。「自身の怒りを外に出す」ことが、怒りのコントロールのために不可欠なのだ。


5. 「怒り」をコントロールする : 「怒り」の基準を自覚する

 これで、感じた怒りを、自分から離し、放すことができる。「白い怒り」はともかく、練度を上げることでコントロール可能になる。感じたこと、理由をチラ裏に書くことも大切かも。自分が何に対し、どの程度になったとき怒るのか、その基準を書き出すのだ。そして、その基準に達しそうなとき、「怒る」前にその場を立ち去ったり、考えるのをやめることを心がける。「怒っている自分」をメタ化するわけ。その上でキャラを変えたりシチュを変えたりすればいい。あるいは、「分かって」怒ってもいい。

 性格は変えられないが、キャラは被れる(と言ったのはyuripopだっけ?)。性格変えようと無理するこたーない。取り出して、眺めて、同じ地雷を踏まないキャラになるべし。

 こんなエラそうなことを考え得たのは、わが子のおかげ。教えるわたしこそ未熟者なんだ、「怒っているわたし」に気づかせてくれるのはわが子だから。歯をくいしばってガマンしたけど怒っちまった、でもわが子が"怒り"を教えてくれた。変に照れくさくて言えなかったんだけど「ありがとな」と伝えたい。この絆にマジで感謝!!

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「ローマ人の物語」の種本?「ローマの歴史」

ローマの歴史 ベストセラー「ローマ人の物語」のタネ本だという噂だが、それはウソ。もし本当なら、塩野七生はもっと面白い本を書いただろうから。

 モンタネッリの「ローマの歴史」はそれくらい抜群の面白さで、文字どおりページ・ターナーやね。一方、これをネタにした類書は、水で割ったワインのように薄い。そういう意味で、本書は、ムダを削ぎ落としたモルツ100%の極上のウィスキーになる。

 著者はローマ在住のジャーナリスト。歴史学者の「解釈」を鵜呑みにせず、一次資料にあたるところは、"小説家"塩野七生と同じ。自分の判断を信じ、迷ったらより面白いほうに倒す。「人物」に焦点をあて、キャラ化することで人間くさい感情の動きを再現し、判断の理由を生々しく描写する。すべての歴史は(それぞれの時代にとっての)現代史なのだから、過去の行動は原因と結果によって律せられているはず。歴史とは一連のストーリー付けされた因果なのだ。その真偽はともかく、研究成果を「物語」の形で知らしめてくれるのは、ありがたい。これは塩野ローマも同様だね。

 さらに、古代ローマと現代社会を対照的に扱うことで、「たいして変わってないじゃないか」と皮肉ることを忘れない……そんなスタンスが共通しており、かつ、モンタネッリの方が古いため(初版1976)、塩野ローマの種本だと揶揄されるのだろう。

 しかし、モンタネッリがローマに注ぐまなざしは、非情に透徹している。惚れたキャラには大甘ベッタベタの塩野とは偉い違う。ローマの歴史の本質は、簒奪と内乱と搾取と蜂起であり、後世の歴史の典型であり規範となっている。ローマの繁栄は周辺地域からの収奪の上に成り立っており、ローマの文化は周辺文明からの上手なコピーと上手な運用にすぎないというのだ。

 たとえば、ローマ人はエトルリアから技術と制度を十分に吸収した後、時至ると知るや立って滅ぼし、あまつさえ文明の跡まで抹消したという。エトルリア文明は病毒、腐敗菌と見なされたが、その利点はそっくり模倣されたのだと。ローマの文明は、周辺の文明の運用・応用に秀でており、徹底的にプラクティカルだったらしい。

 あるいは、だれもが金もうけに熱中したという。官職を買う資本さえあれば簡単にぼろもうけができたのだ。税金の着服、略奪、住民を奴隷に売ること、もうけ口はいくらでもあったそうな。カエサルはスペイン属州に赴任して、五億円の借金を一年で完済した。キケロはキリキアで六千万円しか着服しなかったので廉潔の士と呼ばれ、自分でも自慢したという。当時と現代と感覚が違うのかというとそうでもない。元老院議員は高利貸を禁じられていたから。ただ名義借用という抜け道があった。親族や秘書の名義を使った土地ころがしや金貸業は、いつの時代でも珍しいことではないね。

 また、ローマ紳士の富の源泉は、主として官庁ロビーでの利権の取引と属州の収奪だったそうな。巨額の金を投じて猟官に奔走し、いったん高級官職口にありつくと、莫大な利益をむさぼってすぐ元手を返し、あまった金は投資する。著者は、それを俗悪だとか断罪しない。反対にそれを美点だと錯覚することもない。ただ、「それがローマだ」と淡々と語るのだ。周辺からの搾取の歴史がローマからヨーロッパ、そして現代に至るまで(カタチは変われども)連綿と続いているのだ。

 「書かれていない」ことについての批判も辛らつだ。鉱山では奴隷が強制的に働かされており、賃金も支払われず、災害事故を防ぐ安全設備も施されていなかった。この時代の鉱山の状態では毎週のように大事故が起こって死者を出していたはずだが、ローマの歴史家たちには「ニュースにならない」らしく、何も記録されていないという。要するに、「ローマ人」の定義から外れる人間は、基本的に人扱いされないのだ。金品でやりとりされる貴重な家畜といったところか。家畜が歴史に残らないように、彼・彼女らも記録されない。この視線はジャーナリストならでは。

 あまりのミもフタもなさに、塩野七生は「反論」のつもりであんな萌えローマを書いたのでは、と思えてくる。ともあれ、併読すると面白さ倍増するぞ。特に、塩野ローマ本「だけ」で、脳があたたかになっている団塊に、目覚ましのつもりでオススメしたい。

 いそいで付け加えておくと、塩野ローマは格下だということではない。面白いところはスゴいぞ。「ハンニバル戦記」と、「カエサル(ルビコン以前)」「カエサル(ルビコン以後)」は、素晴らしくハマれる。想像力(創造力?)と描写筆力がダントツに優れており、戦場の駆引きから権謀術数まで、見てきたように書いている。この三作は夢中本・徹夜本であることを請合う。反対に、他の章との落差が激しく、中の人が違うのだろうと勝手に憶測している。ともあれ、全体を押さえるなら「ローマの歴史」、手に汗握るところは、上述の三作をオススメする。

ローマ人の物語3ローマ人の物語4ローマ人の物語5

 モンタネッリと塩野七生、あわせて読むと、より立体的に浮かんでくる。搾り取られる側から目を背け、歴史の残る一般民や貴族階級をもてはやす裏心には、読み手(書き手)の本心が透け見える。つまりこうだ。ローマ人だけに着目し、その生活や風俗や文化をヨイショする裏側には、自分の既得権益を是とする心理が働いているのではないか。なぜなら、ローマ人とは、ローマ人でない周辺地域からの搾取と略奪からなる既得権益で生かされた民なのだから。「ローマ人の物語」が団塊世代に大ウケだったのは、このためだろうと邪推する。無邪気にローマ(の搾取する側)に心酔する延長に、ヨーロッパひいてはアメリカ合衆国の帝国主義が控えているといったら、妄念の行き過ぎだなw頭冷やすために、サイード「オリエンタリズム」再読のいい機会かも。

関連 : 「ローマ人の物語」の読みどころ【まとめ】

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「隣の家の少女」観た、今は後悔している

 このエントリは、「どくいり、きけん」。

 虐待・監禁・陵辱を扱った「隣の家の少女」を観てきた。テーマは、痛みだ。

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 平日のレイトショーなので閑散してると思いきや、満席状態なのでビビる。野郎ばかりと思いきや、女性、しかもかなり若い女が結構いる。けっこう。ほぼ全員、「独り」で来ているようで、カップルが一組、男同士が数組。開始前の行列で誰も話さない。こわい。恐いもの見たさなのかねぇ、みんな変態だなー、と腹で笑っていたが、後に大まちがいだったことを思い知る。

 映画の内容は、小説を忠実に映像化しましたという感じ。小道具を使った伏線や、火のついたタバコをペニスのメタファー(後に文字どおりペニス)として扱う技巧はうまいなーと思う。憧れの女の子が監禁虐待されているにもかかわらず、何もできない主人公の歯がゆさというか無能感もこんなもんだろ。ただしラストの英雄贖罪行為は勇み足。

 ただ、内容はキツいです。原作で慣らしている人か、虐待スキーな人しか観てはいけない。演技とはいえ、裸に剥かれた少女が吊られ刻まれ焼かれるのは、見ていて気持ちのよいものではないから。彼女の絶叫とうめき声は、何度も夢にみるだろう。

 では、なぜそんなものを観るのか?最初に触れた、「恐いもの見たさ」なのだろうか……少なくともわたしにとって。どれぐらい強烈なやつに触れたら、わたしの情感が焼ききれるだろうか、という実験なのか。小説での実験結果は、劇薬注意「隣の家の少女」をどうぞ。だが、映画を見て後悔したのは、鬼畜に慣れてしまった自分に気づいたこと。姦され切られ焼かれるシーンを、かなり冷静に眺めている自分の"おぞましさ"に気づいたから。

 これは、対象との一体化やね。深淵を覗き込みすぎ。

 自分がひり出したウンコを観測している感覚。そのブツは、数分前には確かにわたしの体内におり、自己主張し、暴走を阻止するために愛と緊張をほかならぬわたしに強いたものだ。同様に、わたしはその"鬼畜"を確かに体内に飼っており、糞便ほど頻繁でなくとも定期的に放す必要がある。いったん自分の外側に出して、ためすがめつするのだ。通常は自分の感情や誰かの作品といった姿を取ることが多いが、わたしの"おぞましさ"は、たぶん、生きている限りついてまわるだろう。

 しかし、それでも疑問は残る。痛めつけられ衰弱していく少女を、ただ「観る」だけしかできなかった観客のうち、十人程度いた若い女性のことだ。隣の席の女性は、ビクッビクッとしていた。明らかにダメージを受けながら見ているのだ。なぜ見る?「見るレイプ」の共犯体験を愉しみたいのか?――― 映画が終わって出るとき、わたしが完全に間違っており、下劣で馬鹿だったことが分かった。ただ一組のカップルの女性が、パートナーに語りかけているのが耳に入ったのだ。

「わたしもそうだったから……でもこんなんじゃないからw」

 全員が全員、かどうかは分からない。でも、確かめに来た人もいるのだ。ああ、何も分かっていなかったのは、このわたしだ。観客としての共犯関係なんて戯言が虚言じみてくる。バカだな、ちゃんと冒頭で、"Based on True Story" と断っていたじゃないか。演技だけれど、フィクションじゃないんだ。ぐるんぐるんしているわたしの脳裏に、おおい被さるように冒頭が甦る。

「苦痛とはなにか、知ってるつもりになっていないだろうか?」

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恋の感覚は第七感「第七官界彷徨」

 読むとヘンな気になる乙女小説。読むと気がヘンになる、ではない。

   よほど遠い過去のこと、
   秋から冬にかけての短い期間を、
   私は、変な家庭の一員としてすごした。
   そしてそのあいだに私はひとつの恋をしたようである。

第七官界彷徨 オープニングはこんな感じ(改行はわたし、句点上手いと思う)。男三人の生活に参加する少女のろうばいっぷりや、逆に彼女の感情をもてあます男衆の困惑が、ときにユーモラスに、ときには憂哀たっぷりに描かれる。人物&小道具の配列や、会話・表現上の韻のイフェクト、人称のゆらぎが、読みという行為に一定のリズムを与え、物語を追うというよりもむしろ、彼女の感覚を通じた体験になる。

 尾崎翠は主人公・町子の一人称で描きたかったようだが、いかんせん田舎からポッと出てきた小娘の観察や会話で詳らかになるはずもない。そのため、独白や告白や手記の形で登場人物が内心を吐露する。そう、この一家は全員、各々の恋に苦しんでおり、その真情をタメ息といっしょに吐き出す様子は、見ているこっちもいたたまれない。

 もちろん主人公の町子も恋を「したようである」ようで、読み手はこの相手を探すちょっとしたミステリを解いている気になる。だが、彼女の慕いはハッキリとは語られない(一人称なのに!)。これはスゴい技だと思う。だいたい彼女は極度のひっこみ思案で、人糞まみれの菜っ葉を初対面の隣人と洗うとき、一度も口を利かずに意思伝達させることができるし、そもそもこの作品中で一度しか会話体で発言しないのだ→「大根畠をとってしまわなければならないの。けれど――」

 ふつうの描写にそろりと、おかしな動きが混じっている。その「ふつうじゃなさ」へ横滑りしていく感覚が可笑しい。人間の五感に第六感をくわえ、さらにそれらを超えた「第七官」をさまようような日々がテーマなのだが、語り手の町子が受けたものが第七官なのではないように思えてくる。むしろ本書を手にした人が読中感覚としてうける、この「ふつうじゃなさ」こそが第七官なんじゃないかと。

 あるいは、町子が男衆の一人ひとりの心情に同期をとる「感覚」こそが第七官なのかも。惚れた腫れたでくっついたり離れたりはしない。ただ、しばらく側にいて話を聞いたり髪を切られたり、声を出さずに泣いたりするだけ。ときめきのない好意のようなものが香のように立ち上る。

 実はこの作品、読み直しになる。片想いのあの子がひそかに読んでいた尾崎翠―――という甘酸っぱい期待に満ちて頁を開いた、あの頃を思い出す。そのときは何が面白いのかサッパリ分からなかったのだから、笑える。だが、だからといって、高校生のわたしをオッサンになったわたしが嘲えるだろうか?小説の技巧は分かれども、恋を感じる第七官はずいぶん頽廃してしまったようだ。

 女の子の恋感覚とはこんなものか?よく分からない。むしろ男衆の「女の子はじつによく泣くものだ。女の子に泣かれると手もちぶさただ」とか、「女の子というものは感情を無駄づかいして困る」のほうに共感してしまう。やっぱりわたしは、"男の子"なんだなぁ。

 川上弘美や多和田葉子の系譜に連なる、"女の子という存在"に寄り添う一冊。

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スゴ本オフのお知らせ

 いつも本の紹介や変態性癖をダダ漏らしている blog だけど、趣旨を変えて、おのおのスゴい本を持ち寄って、まったりアツく語りましょう。

 もともと、スゴ本について語る場があればいいなー、で、お互いにオススメしあえれば、スゴ本ハンターの狩場になるし……などと妄念を逞しくしてたら、Book Talk Cafe というぴったりのスペースが!「本」だけでなく、「読み手」「創り手」「売り手」のリアルとネットを結ぶことが目的で、えxぺの中の人ことやすゆきさんが主催しています。渡りに船のこの企画、ありがとうございます。

 今回は、SF(サイエンスフィクション、すこしふしぎ)を軸に参加者のおススメの本を紹介する会。ただし、本に限らず、アニメ、映画でもOKで、みなさんのアツ~い想いをゆる~く語ってくださいませ。案内はここ→ [4/7に第1回目のBook Talk Cafeをやります] で、オススメを強要したり共用したりしましょう。目玉は「ブックシャッフル」で、皆さんが持ち寄ったオススメ本をランダムに交換します(放流、というやつですな)。新品である必要はないけれど、書き込みとかしてあるとちょっと恥ずかしいかも。

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プリキュアで性教育

 Tumblr で見かけた名問答。

  Q. プリキュアは何と戦っているのか?
  A. マンネリズム

 せらむん化したり、しゅごキャラ化したり、今度はどれみか……と思いきや、どうやら趣がちがう。思いっきり下品で笑った。ほらあれだ、ココロの種というやつ。プリキュアの精霊の子が感極まると、踊りつつ尻をこっちに向けて、「ココロの種が産まれるですぅ~プリプリッ~」と叫びながら粘液状の黄色ブツを噴出するのだ!で、その粘液は赤や青に変色して、「ココロの種」という固形物になる。

 「これって、ウンチじゃんwww」とテレビ指差して爆笑してると、娘が逆上する、「ウンチじゃないもん!」。そして、「ぜったいにゆるさない!」とキックやパンチをしてくる。痛い。プリキュアのせいで女児が暴力化していることは事実のようだ。せつないナリ。小町娘のかれんさを求める父の祈りは、のぞみ薄のようだ。だが娘よ、それをいうなら、「かんにんぶくろの緒が切れましたわ!」だろう。おかげで「プリプリ~ッ」のシーンは忌みきらうようになった。

 ところが、そんな精霊の脱糞を15の処女に集めさせる設定で、フと気づいた。これは隠喩なんだと。シプレとコフレは雌蕊と雄蕊とのメタファーなのだ。つまり、大地に咲こうがなぎさに咲こうが、いちりんのつぼみが開いて実となるためには、シプレとコフレが"必要"なのだ。オシベとメシベと受精の話を、シプレとコフレとココロの種に置き換えて説明する。息子はほのかに知っていたようで、満足そうに聞いている。娘は何のことか分からん顔をしているが、まーいいや。

 風薫る季節、ひかり差し込むリビングで、あらぶる娘をいなすのが、うららかな日曜日の常景となっている。後日、嫁さんに訊いたところ、シプレもコフレも香水関連の用語だそうな。シプレとは、ベルガモットやオークモスを基調とした香りの系統で、コフレとは、フランス語で小箱のことなんだと。ホワイトデーも近いことだし、会社がえりかってくるか。

追記 : yamabukipudding さん、ご指摘ありがとうございます

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ゆるふわ読書でも人生に根を張るモンテーニュ「エセー」

 「死ぬまでに読みたい」シリーズ。

エセー 今回はモンテーニュ爺の「エセー」。ボリュームある岩波6巻や白水3巻に挑戦する前に、みすずの抄訳で試す。「後悔について」「われわれはなにも純粋には味わわない」など、長短織り交ぜた11章が抜き出された一巻本で、爺さんのゆっくりした思考をたどり、自分もゆるゆる考えるのに、この短さはちょうどいい。長いと、つい、ざくざく読みたくなるからね。

 モン爺さんの考えは、流行りのJ-POPに似ている。「ありのままのアナタでいい」とか、「変わらぬ毎日を大切に」といった風味で、権力志向や夢をかなえる努力とかは、人生の添え物にすぎないらしい。そして「エセー」において、自分を肯定し、普遍的な存在としての自己を描くことで、人生を耕していく姿を見せ付けてくれる。松岡正剛氏は方丈記ならぬ"長丈記"と評したが、もっと「己」が出ているので、むしろ"徒然草"的に見える。故事逸話から古典のコメンテーター役をやったり、「壮年の主張」「老年の主張」みたいな日常ダダ漏れの体裁をとったりする様子は、"徒然草"よりも blog かも。

 モン爺に言わせると、日々を生きること、これこそが最も大切だという。人生で最も大切なものは、日常生活だとまで言い切る。栄達でも財産でもない、健康ですら二の次にして、いかに毎日を満ち足りたものにするかに心を配れと説く。巨大な事業であれ、健康的な肉体であれ、日常を充実させるという意義において意味があるという。つまり、いくら立派な仕事をしても、どんなに健康だったとしても、その人の毎日が悲惨だったり、基本的な欲求を犠牲にしているのであれば、まったくもって無意味なんだと。

 この言には、かなり勇気づけられる。「わたしは人生を無為に過ごした」とか、「今日はなにもしなかった」などと悩む人は愚か者らしい。それよりも、まず今まで生きてきたことに目を向けさせる。カエサルを手本にするのではなく、自分を見ろというのだ。

 ああ、確かにそうだ。わたしの悩みの多くは、誰かと比べることによって生じる。じゃなくって、「わたし」と比べればいいのだ。悩みの「元」を吐き出して、それが自分に属するか否かを考えると、ほとんどの場合、他人か他人との関連において生まれている。そして、自分ではないもの(=悩み)を我がもののように抱え込んでいることに気づいて、『離す』。悩みを断ち切るのではなく、解決するのでもなく、ただ、手放す。本書に即効性はないが、じっくりつきあううちに自分の「なか」に答えが準備されていることに気づかされる。時を経た本の良さはここにある。書そのものが普遍性を帯びているのだ。

 では、お上品な古典かというと、そうではない。便器や女房にまたがるところを想像してみろとか、尿道結石を「ちんぽこに突き刺すような」といった強烈な(下品な)言い方で表す。若者がセックスをやりすぎると虚脱感におそわれるから、中庸をわきまえろと忠告する一方で、古稀をすぎたソクラテスが耄碌する前にカッコイイ死に方を選んだんじゃないのと述べる。快楽であれ、老いであれ、人間は全身で進んでいくものだから。卑俗と叡智が、いつのまにか渾然一体をなすというのも、本書の魅力のひとつだろう。

 モン爺さんの話は、けっこう深いところまで届く。ゆるふわ読むうち、考えの基準が重石のように降りてくる。まるで人生のアンカーのような判断の"もと"が下ろされるのだ。だから、何かに困ったとき、迷ったとき、「ああ、モン爺さんのあれは、(今のわたしの目の前の)このことだったのか!」と突然気づくにちがいない。そして、既読の本書を引っ張り出して、もういちどそのありかを辿ろうとするだろう。

 ゆるゆる読んでいくうちに、ふわふわ自分でも考え出し、気づく。そのとき気づかなくても、後になって思い出す。そんな遅効性の読書。「すぐに役立つ」ことを求める人には向かない。拙速は巧遅に勝るといったのは孫子だが、人生は長期戦、すぐに効くものは、すぐに効かなくなるからね。速読も無意味。「速習」「簡単」を謳っている入門書ばかり読んでも上達しない。ずっと初心者のままだということを知っている――そうした人こそ、読むべき本やね。

 そして、生涯レベルで寄り添っていきたい一冊(今度は白水3巻本で読もう)。

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ムー好きにはたまらない「奇界遺産」

奇界遺産 オカルト度No.1 X51.ORG の中の人こと佐藤健寿氏の強烈な写真集。

 グロまみれの博物館から全て人骨で作ったカタコンベ、取り憑かれてるとしか思えないテーマパークまで、世界中の変な・妙な・珍宝なものを撮りまくる。誰かの脳汁まみれの庭園や、無邪気に狂気を追求しているホルマリン漬の群れを眺めているうち、これはホントに現代か?地球の光景か?と自問する。

 もちろん、ナスカやエリア51、ギリシアのオーパーツといった"有名どころ"はきちんと押さえてある。「あの人はいま」的な話として、サティヤ・サイババがまことにビミョーな立場になっており、思わず微笑む。インド人の心の広さを見習うべき。胡散臭さで言うならば、「諸葛亮孔明の子孫」とか「二千年前の死体」(どちらも中国)が群を抜いているが、その怪しさ(妖しさ?)は白髪三千丈ならぬ乗か。漢民族の想像力を見習うべき。

 いわゆる観光名所となりそうな、奇岩やら奇景もある。崖っぷちに街がまるごと乗っかっていたり、洞窟の中に村全体が入っていたり、家や部屋が巨岩に呑み込まれている(あるいは岩と一体化した)光景を見ると、住人たちの心胆もかくやと想像するのだが、皆さん、のほほんとしている様子。「住めば都」の極端な例を眺めることができる。

 いちばん笑ったのが、表紙のベトナムのソイテンパーク。狂ったディズニーランドと称されるだけあって、すべてがカッ飛んでいる。それ誰のヘヴンだよ、とツッコみたくなる。テンション、巨大さ、壮麗さ、わけのわからなさ、全てが想像力のメーターを軽く振り切っている。ベトナムに行く予定はないが、もし行くなら、必ず見に行きたいものだ。何を参考にしたか考えたくないが、ムリヤリ天国を作ろうとすると、たいてい地獄ができあがる、という誰かの箴言を思い出す。

 奇怪な奇習や奇態を並べ、奇矯な奇傑や奇物が結集している。ずっと眺めていると、現実か妄想かなんて、多数決で決まるんじゃないか?そんな気がしてくる一冊。

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ゲームで子育て「イナズマイレブン2」

イナズマイレブン2 みんな!イナズマイレブンをするときは、部屋を明るくして、近づき過ぎないようにしよう。

 ゲーム脳に汚染された馬鹿親としては、子どももそうしたいワケ。XEVIOUS や KANON や Rez といった往年の名作はもうプラットフォームすら無いだろうが、それでも今のもので、試行錯誤と失敗の練習をさせたいワケ。ゲームとは現実をデフォルメした練習台だ、クリアできるようになってるし、何度ミスってもやりなおせる。一回こっきり真剣勝負である"リアル"にひるむ前に、ゲームでいっぱい転んでおけ、と伝えたい。あきらめない限り、いくらでもリトライできる。ゲーム脳とはチャレンジ精神のことなのだから。

 ある日のこと。子どもが真剣な面持ちで、「イナズマイレブン2を買ってほしい」と言い出す。「ん?もう持ってるじゃないか」と問うと、「パパと一緒にイナズマしたいんだ」。なんという破壊力。これはTVの宣伝のワンシーンだったんだけど、同じセリフを喰らった。ゲーム世代が親になり、「ゲームをする親」を狙い撃ちするあざとい戦略よ……と思いつつ、あっさり負ける。

 「サッカーRPG」という謎ジャンルなのだが、基本はお使い+バトルの構成。秀逸なのはサッカーバトルで、各選手の動線をタッチペンを用い、リアルタイムで指示できるところ。両サイドにFWをせり出してセンタリング→ダイレクトなんて動きや、DFラインを同時に押し上げてオフサイドトラップの罠を張るといった指示が、ペン一つでできてしまうのが愉快愉快。しかもスピードや得意技、成功率がそれぞれパラメータ管理されており、地道に「育てる」ことが楽しい。

 原作が「超次元サッカー」なので、なんでもありな世界もぶっとんでいる。サッカー場に津波を出現させてボールで波乗りしてロングシュートとか、周囲の時間を止めてドリブルして抜いていくといった「ひっさつわざ」は、バカバカしくも、懐かしい……そう、そうなんだ、翼くんの閃光雷獣シュートや若島津くんの正拳ディフェンスの既視感ありまくり。これは、キャプ翼世代のためのゲームでもあるんだ。

 他にも、ツンデレ女子マネやイケメン2-top(ただし中学生)を配置しており、翼くんにハァハァした世代への配慮も忘れない。まさに無敵の布陣、ハマるもイジるも自由自在だ。わたしは「円堂キャプテンと残りは全員女子チーム」を宇宙最強にすべく奮闘中(現在レベル21)。まってろ息子よ……レベルは50超えてるらしいが。

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マクニール「世界史」はスゴ本

 800ページで世界史を概観できる名著。

 「シヴィライゼーション」という文明のシミュレーションゲームがある。暇つぶしのつもりで始めたのに、暇じゃない時間まで潰されてしまう危険なゲームだ。マクニール「世界史」もそう。それからどうなる?なんでそうなる?に次々と答えてくれる本書は中毒性が高く、読むシヴィライゼーションといってもいい。

 ゲームのように面白がれないが、ゲームのように熱中して、マクニール「世界史」の最新完訳版を読む。世界で40年以上にわたって読み続けられており、blog/twitter/tumblr でスゴいスゴいと噂には聞いていたが、たしかに素晴らしい。何が良いかっていうと、「眠くならない歴史」であるところ。

 話は少しさかのぼる。流行に乗っかって教科書開いたはいいが、あれだね、睡眠導入剤として最適だね、山川世界史。パブロフのなんちゃらのように、開いた途端、急速に眠くなる。「メソポタミア」とか「プトレマイオス」なんて、文字列だけで眠れそう。睡魔と闘いながら、なぜなのか考える。シンプルな記述と、きれいにまとめられたトピックスは名編集といってもいいのに、どうしてこんなに眠いのか。高校授業の学習効果?

 ところが、本書でクリアになった。簡にして素な文はいかにも教科書的なのだが、トピックとトピックの因果をなるべく述べているところが違う。もちろん網羅性は求めるべくもないが、ただのトピックスの羅列である類書(含む教科書)とは雲泥。原因→結果が明記されてるところは批判的に(so-what?/why-so?)読み、省略されたり「分かっていない」とする部分は自分で考える。

 つまり、なぜそうなったのかだけでなく、なぜ「そうなったとされているのか」の両方を反問しながら読む。すると、歴史とは勝者のものであるだけでなく、(記録を残すという)取捨選択の結果だということが分かってくる。ウソは書かないが、ホントのことは全部書かなくてもいいからね。あるいは、そのホントって誰にとっての「本当」なのか、ツッコミを入れたくなる。

 この傾向は、評価が収束している古代よりも、判断が確定していない近現代に近づくほど顕著になる。なぜ日本の革命(明治維新)が成功したのかに対する筆者の見解は、そのまま欧米が日本をどのように見ているのかにつながっており、非常に興味深い。そう、下巻p.269から始まる8ページ足らずの「日本の自己変革」は必読だ。産業革命により地球規模で進出する欧米列強に対し、日本が取った態度を「アジア」という枠組みで解説してくれるのだ。

 かいつまむと、日本の成功は、武士と農民の関係にならう上下関係と相互義務の伝統が、会社や工場における「下請け制度」や「服従と義務」の観念に写しとられたのだという。こんなことができたのは日本だけで、そのタイミングも絶妙だったとか。さらに、日本の躍進の原動力は、かならずしも民主主義や自由主義ではないと踏み込んだ見方をしている。異論はあるだろうが、「日本がどのように判断されているか」を知る絶好の機会だろう。著者と脳内会話しながら読むと吉。

 本書の通読であらためて知ったことが沢山あった。もちろん、わたしの勉強不足に拠るのだが、気づきの宝庫だった。例えば鉄器。青銅器を駆逐したのは「より強力な武器だから」と習った(はず)が、本書では、鉄鉱石が得やすかったためだという(上巻p.115)。あるいは、聖書を壮大なプロパガンダと捉えると、物語の「理由」が理解しやすくなる。そのため、聖書の文脈からヘブライ史の真偽を検証する件は楽しめた。また、地政学的に見るならばアジアの支配者は中国であり、今の日本のほうが不自然な状態のように見えてくる ――― マクニールはシカゴ大学の教授。本書を鵜呑むのではなく、「そのように見られている」という自覚のもとに、判断材料にしたい。ホントかウソか、信じる・信じないを別として、そういう自覚を持つことで、よりメタな視座が得られるだろう。

 西欧の世界進出の動向が分かる「地球規模でのコスモポリタニズム」では、西欧がアフリカやアジアをどのようにレイプしていったかが、その自己正当化の詭弁も含めて克明に書いてある。思わず声に出して笑ってしまったのが、著者の立場(White-Men's side)からの以下の反論だ。人道主義者が泣いて悔しがることが、淡々と書かれている。下巻p.304のあたり。

実際のところ、帝国主義というのは現金に換算してみると、全体としては決して引き合わなかったことはたしかなようだ。アフリカの植民地行政と開発のためにかかった経費は、おそらくアフリカからヨーロッパに向けて送られた物資の総価額をこえていたであろう。(中略)もちろん経費をどのていどまで考慮に入れるかということによって、話は違ってくる。しかし、白人がアフリカの資源を掠奪して巨大な富を手にしたという意見は、単純計算による偏見でしかない

 太字化はわたし。オイルとコーヒー、ダイヤモンドとチョコーレート、そしてレアメタルというキーワードで、今でも、いつまででも反論できるだろうが、本書が書かれた1975年の「価値観」なのだから、大目に見てやるべきなのか。だが、注意するべきなのは、これが事実か事実でないかよりもむしろ、「そういう価値観」に乗っ取った教科書で今も勉強されているということなのだ。

 人類の格差をテーマとした「銃・病原菌・鉄」というスゴ本がある。これは「なぜ西欧が地球の覇者なのか?」という疑問に、真っ向から取り組んでいる。西欧が富や権力を独占し、アフリカや南北アメリカ、オーストラリアを征服できた究極の理由を、とことんまで追いかける。

 ものすごく簡単にまとめてしまうと、その答えは「ユーラシアが横長で、アフリカ/アメリカが縦長だったから」になる。その結果、作物の集積や都市化、稠密化が比較的容易に果たされたことが、覇者の要因だという。だから陸塊がこのままだったら、たとえ歴史を100回繰り返しても西欧が勝つ、という話なのだ。地勢や気候からの検証は、マクニール「世界史」でもなされており、それぞれ照応しながら読むと、かなり納得できる(というか、グゥの音も出ない)。

山川世界史図録 もう一つ。マクニール「世界史」は、かなり図版を取り入れているが、それは文庫の哀しい性。やはりカラーや大判で見たい。なので、山川世界史図録を傍らに読む。図録というだけあり、様々なシーンがグラフや写真で照会できる。マクニールで why-so を、山川図録で so-what を互いに補い合いながら進める。そういや、教科書は開くと眠くなるのだが、図録はいつまで見てても飽きないなぁ。

 そういえば、はてな人力検索で「世界史をやりなおしたい」という相談 [URL] に色々紹介されていたけれど、眠くなりそうな本がちらほら。まず図録から入ったら良いかと。また、「世界史講義録 [URL] 」という世界史を丸ごとWebにしたサイトがあるけれど、(画面で)全部読んだ人はいるのだろうか?青空文庫の長編といい、長文をケータイやPCの画面で読むのは慣れてないので、ブックマークしただけになっている。あるいは、iPhone や Kindle が最初からある世代が、こういうリソースにすんなり馴染むのだろうか。

 文庫2冊で、世界史をつかむ。線引き・付せんも書き込みもオッケーだ。ツッコミと気づきメモで、わたしの「世界史」はノートブックのようになってしまった。座右に置いて何度でも確認するつもり。

 「読むシヴィライゼーション」にハマろう。

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裸がまぶしい「さすらいエマノン」

 コミック版「おもいでエマノン」の続編。「おもいで」のレビューは、最後は、どうか幸せな記憶を「おもいでエマノン」 をどうぞ。

明日をどこまで計算できるか 彼女の名前はエマノン ――― 四十億年分の記憶とともに生き続ける女性。見た目はハタチそこそこの娘にすぎない。長い髪、おおきな瞳、彫りの深い貌、そばかすが、日本人ぽく見えず、メスティーソのよう。前作では分厚いセーターに包まれた肢体が、今回では惜しげもなく日のもとにさらされている。すんなりと伸びた、まぶしい、うつくしい、彼女のはだかを、たくさん堪能できる。凝視せよ、眼福とはまさにこのこと也。

 ストーリー的には小説版「おもいでエマノン」の後半のエピソードに想を得ている(ように見える)が、タイトルは「さすらいエマノン」なのでちょっと困惑する。ひょっとすると、わたしの思い違いかもしれないので、小説版「さすらい」を読む。すると、また違った「エマノン」が浮かび上がってきて面白い。

 地球と同じくらい永い永い記憶を守っているのはベースとして、人の可聴領域外の低音波が聴こえたり、時空間をジャンプしているとしか思えないような描写があったり、ちょい超能力が入っている。そして、それぞれのエピソードに出てくる彼女はいつも「ハタチそこそこ」のようだ。エマノンは(肉体的には)ごく普通の女性で、ただ記憶だけを世代ごとに引き継いでいるのだと思っていた。だが、こういう姿を見ていると、エマノンは永遠のハタチのように見えてくる。

Sasurai_2 太古からの記憶が「いま・ここ」を衝き動かしている壮大なテーマや、十年前の約束を果たすために身を危険にさらすエピソード、あるいは、究極のパンドラの箱を"警告"する役回りなど、短編のなかのエマノンは忙しい。ただ、役目を果たした ――― 次の"エマノン"にバトンタッチした彼女は、驚くほど平凡な女になるに違いない。興味深いことに、"先天的な記憶の引継ぎ"がなされない場合であれば、全ての母親はエマノンと等価になる。考えてみると、先天的な記憶の引継ぎをやっていないだけで、"生命"という炎は次々とバトンタッチしているんだなぁ…

 ヒトは生まれて、歴史の知的遺産を学習によって身につけるだけで、彼女と変わらない。さらにヒトのうち、個人はは自らの経験によって感情を経験している。エマノンにとって、生きているということは、記憶していることと等価なのだから、ヒトにとって("人類"というマスで見た場合)も同じことが言えるはず。わたしたちが、過去を、現在を覚えている限り、(わたしたちが)生きているといえるのだ。たとえヒトのメンバーの一人ふたりが死んだとしても、マスとしてそう言える。ヒトがマスになるとき、固有名詞や人種、特徴を失い、ただのヒトになる。NO-NAMEのただのヒトになる。

 それでも、彼女は、たった一人で、記憶を負っていることに変わりはないんだ。知だけでなく、情、感情も併せて負っているのだから。

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官能小説の奥義

 タイトルに偽りなし。官能小説の奥義だけでなく、書き方指南まで開陳してくれる、ありがたい一冊。

 官能小説とは、読者の淫心を刺激するためのもの。独自の官能表現を磨き、競い合ってきた作家たちの足跡をたどり、豊穣な日本語の世界を堪能することが、本書の目的だ。官能小説としての文体が確立するまでの歴史を追い、性器描写の工夫を解説し、性交描写の方法をパターンごとにまとめている。

 スゴいのはフェティシズムを分類した章。乳房フェチから尻、太腿といったスタンダードから、腋窩(えきか)フェチ、パンストの肌触りフェチといったニッチ系のニーズまで網羅してある。ひととおり目を通すことで、隠されていた自分のフェチに気づくかもしれない。

 あるいは、斬新かつ淫心をかき立てるオノマトペの紹介に気づかされる。舐め音や粘液音、挿入から射精音に分類されたオノマトペを眺めていると、いわゆるエロマンガのそれとはかなり違うのだ。マンガのほうは絵が主、オノマトペは「効果音」なのだが、小説では「描写」になるのだ(「くぱぁ」はマンガ表現だが、「ギクンギクン」は小説的)。

 さらに、ひたすら妄想を逞しくさせる官能用語が、いかに苦労して編み出されてきたかが分かる。たとえば女性器ひとつとってみても、その表現手法は5つに分かれるそうな。花や果実に喩える「植物派」から、昔ながらの「魚貝派」、変わりダネ「動物派」、マグマや大地になぞらえる「陸地派」や、俗語や医学用語をストレートに用いる「直接派」がある。

 そして、これらに付随して、「肉」という語感をいかに操るか、作家たちの工夫はソコにあるという。「花芯」や「アワビ」はありがちかもしれないが、「肉のつまみ」や「マグロの赤身」といった言い方は、よく見ているなぁと感心するばかり。作家の発想力というか妄想力のスゴさを感じさせてくれる。

 オナニーのためだけならエロ画像や動画を見ればすむ。にもかかわらず、文章を読んで興奮するということは、そこに想像力が働いているはずだ。言葉に誘発されたイマジネーションに溺れているのであり、それは受身としての"生理的反応"ではない。その触媒となるシチュなりフェチに浸るのが、官能小説の醍醐味と言ってもいい。

 かくいうわたし自身、この世界から久しく離れており、本書で再会して懐かしい作品いくつかあった。特に館淳一「愛しのエレクトラ」は、お世話になった名作で、引用箇所はわたしが最も気に入っていたシーンだった(さすが!)。というのも、著者・永田守弘氏は、「ダカーポ」の官能小説を紹介するコラム、「くらいまっくす」の書き手なのだから。創刊以来、26年間も続いたそうな(「ダカーポ」は2007年に休刊)。

 紹介するだけでなく、書き方のレクチャーもすごい。官能小説の書き方十か条があるので、簡単にまとめてみよう。

  • 第一条 : 官能小説は性欲をかきたてるだけのものではない。性欲はオナニーで消えてしまうが、淫心は人間が根源的に抱えているものであり、オナニーでは消えない。性欲の奥に流れているものである。
  • 第二条 : 好きな作家を見つけよ。淫心の入口はフェチ、自分自身のフェチを見つけろ。
  • 第三条 : まず短編を書いてみる。30-50枚くらいの短編を、フェチを意識しながら書けという。好きな作家の未読作品の最初と最後をそれぞれ5ページだけを読んで、真ん中を自分で想像して書き、比べてみろという。
  • 第四条 : 官能シーンを早く出せ。いきなり性交シーンという意味ではなく、胸でも尻でもチラリズムでもいいから、読み手のフェチを刺激することを始めよという。
  • 第五条 : 自分がしたくてもできないことを書け。やったら犯罪だが、小説として書くのは問題なし。想像力、願望力をたくましくして、したくでもできないことを弄べと励ます。
  • 第六条 : 三人以上の人物を登場させよ。一人の男と一人の女だけでは、話がふくらまない。キャラ×シチュ×フェチがバリエーションの基本だね。
  • 第七条 : 恥ずかしいと思うな。自分のパンツを脱いでいるつもりで、すべてをさらけだすつもりで書けという。これは文芸小説についても言えるね。
  • 第八条 : オノマトペをうまく使う。オノマトペに限らず、その状況を的確にイヤらしく一語で示すことができれば、官能小説として成功だと思う。
  • 第九条 : 性の優しさ、哀しさ、切なさを知っておく。セックスを書くということは、基本的に男女の粘膜の触合いを表現することではあるが、それを掘り下げていくと、性というものが持っている優しさ、哀しさ、切なさに突き当たるというのだ。オルガスムスとは小さな死。
  • 第十条 : 書いている途中でオナニーをするな 【重要】。これ重要。自分が勃起しないような小説で、読者を勃起させることはできないが、だからといって、その勃起でオナニーをしてはいけない。パワーが落ちて、書き進める気がなくなってしまうというのだ。接して漏らさずの誓いを守るでござる。

 官能小説入門として読むと便利だが、それだけにとどまらない。「櫻木充は匂いフェチの本質をわきまえている」とか「女にハードエロは書けないという偏見を覆した藍川京」といった、作家の本質をズバリ言い当てており、官能小説ブックガイドとしても白眉。ホームのキオスクに並んでいるアンソロジーを手当たり次第に試す前に、まず本書で嗜好の傾向を押さえよう。ヒット率が高まること請合う。

 濃密で豊穣な日本語を、ご堪能あれ。

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