ヒューマンエラーは裁けるか
仕事上の「ミス」は、「罪」として罰せられるのだろうか?
そのミスが、ただ一つの「原因→結果」として直結しているなら分かりやすいが、現実としてありえるのか。ミスを事故に至らしめた連鎖や、それを生み出した土壌を無視し、ミスを起こした「個人」を糾弾することは、公正なのか?「重大な過失」という判断は、誰が、何を基準になされるべきか?被害を受けた人や遺族の感情や補償は、どうケアされるのか?本書は、医療や航空の現場で実際に起きた事例を用い、こうした疑問に応えることで、議論の場をつくりだしている。
たとえば、誤薬により業務上過失致死罪を受けたスウェーデンの看護師の事例。
1. PCによる処方箋の作成の手間を厭って読みにくい手書きのメモを書いた医師
2. メモを「見せる」だけで口頭で引継ぎ指示した夜勤の担当(後にメモは消失)
3. シリンジの薬剤とバイアルの薬剤の箱を取り違えた看護師
4. ダブルチェックした同僚と小児科のスタッフ
5. 調剤の現場をサポートをした医師
6. 容態が急変した患者の対応をした医師
これらのプロセスを経て、規定量の10倍のキシロカインを含む薬剤が作成され、投与された生後三ヶ月の女児をが死亡した。たしかに、濃度の異なる容器を間違えたことは事実だが、ミスを誘発するような環境や、ミスを検出できなかったことはとがめられなかった。また、6. でキシロカインを繰り返し投与したことについてとがめられることもなかった。ただ、担当した一人の看護師の「過失」として扱われる。看護師は裁判を通じて、真実が明らかになることを求めるが、弁護士はこう言う。
それはできません。裁判所で求められているのは真実ではありません。求められているのは司法手続きと法的解釈であり、その手続きが正当であることと法的解釈が正しく行われ適用されるかどうかで、真実は二の次です。
この事故が明るみにでたのは、3. の取り違えを看護師が自発的に報告したから。2. のメモが誤読(誤記?)された可能性も考えられるが、残っていない。看護師の記憶のみ拠っているため、信憑性は低く評価される。結局、看護師は病院を守るためのスケープゴートとして扱われ、似たようなインシデントを起こしていた同僚たちは「私でなくてよかった」と胸をなでおろす。再発防止策は「その場ではない」としてスルーされ、インシデントの共有という絶好の機会は失われる。
同様に、パイロットと航空管制官の現場で、「あわや大事故」の事例を挙げている。インシデントそのものに着目すると、「ゴーアラウンドの失敗」や「離陸直前の横切り」といった当事者"だけ"に限定されているように見える。しかし、掘り下げていくうちに、「副操縦士の食中毒」や「設計パネルの不具合」、「内部通達上のミス」といったコントロール可能なものから、「燃料切れ」や「悪天候」といったコントロール外の要因が複雑にからみあっていることが分かってくる。しかし、そうした周囲の状況は無視され、司直やマスコミの糾弾により、エラーは「犯罪」として扱われる。そこでは、アクシデントはもはや accidental (偶発的)といった意味合いをなくし、一罰百戒のための厳罰化が横行する。
著者はこうした状況に異を唱える。ヒューマンエラーを「犯罪化」し、事故の責任者を探し出して罰することでは、問題は解決しないと考える。民事訴訟も刑事訴訟もヒューマンエラーの抑止力として機能しない。そこから生まれる不安は、例えば防衛医療といった後ろ向きの対策に向かうというのだ。「真実」よりも「もっともらしさ」を求め、後知恵バイアスで歪められたストーリーの下では、関係者は「オメルタ」を守るようになる。「オメルタ」とは沈黙の掟のことで、和風に言うなら「キジも鳴かずば撃たれまい」だろう。
人間である限り、ミスやエラーはつきもの。大切なのは、インシデント情報を共有し、活かすことで、次につなげないよう、事故を抑止するよう、システムを改善すること。そのために、インシデントを報告する「不安」や「恐怖」を取り除き、上司や管理者との信頼関係を築く「公正な文化」(Just Culture)が必要だと説く。著者は公正な文化のため、議論を次の三つの問いに集約させている。
- 組織において、ある行動が許容できる/できないの線引きをするのは誰か?
- 許容できる/できないの判断において、専門家が果たすべき役割は?
- 司法の介入に対して、どのようにインシデント調査を守るか?
ある行為が許される/許されない判断は、そのときの状況によることは明らかだろう。パイロット採ったある行動は、完全にマニュアルどおりのはずがない。なぜなら、あるインシデントがまさに起きようとする時は、予め想定されていない状況なのだから。そして、その判断はわたしのような門外漢がするのではなく、同じ領域の専門家がするべきだろう。似たような状況のとき、他のパイロットがどうするかに沿った上で、判断されるべきだから。そして、類似事例とともにそうしたインシデントを「犯罪」とさせないためのルールが必要になる。
著者は、この三つの問いかけが限定的に果たされる状況から、全面的に展開されるシチュエーションまでを想定し、専門家や司法がどのように対応するのかを検証する。そして、公正な文化をつくるためのアプローチを紹介している。
これらの主張はよく理解できる。インシデントに対し口をつぐませるような文化は、結果的にその社会や組織の損失になる、という理由付けも説得力がある。しかし、どうしても議論が足りないと思われる部分が二点あったので、ここに記しておく。
ひとつめ。専門職の治外法権について。「許容できる/できない」線引きは微妙なもので、専門家という第三者的な判定組織が必要だということは分かる。だが、その専門家というのはインシデントを起こした専門家(パイロット、医師 etc...)と同じ仲間だから、仲間同士でかばい合うということはないだろうか?本書の注釈では運輸安全委員会の報告書がそのまま警察に鑑定書として提出され、裁判の証拠となることを指摘している(p.191)。しかし、福知山線脱線事故調査の情報漏えいは、まさにその調査委員会の「先輩-後輩」の間柄でなされたことを思い出すと、著者・訳者の説得力は著しく下がってしまうだろう。「同じ穴のムジナ」とされないためのルール整備が必要になる。
もうひとつ。「責任者を罰しても、インシデントはなくならないし、むしろ報告されなくなる」という指摘も分かる……分かるのだが、それにより引き起こされた犠牲者や、その遺族・周囲の人たちはどうなるだろう?著者は失敗した医療行為により破壊された医者と患者の関係を取り持つメディエーション(調停)を提案することで、患者や遺族への充分なケアの必要性を説いている。しかし、もっと重大な事故、大惨事というレベルのものだったならどうなる?密室内での調停では、とうてい納得できないだろう。大きな事故が起き、沢山の人が亡くなった後、「調べたけれど、"責任者"はいませんでした」はありえない。「大惨事は対象外」というのであれば、どの規模から大惨事となるのか?程度問題であれば誰が線引きをするのか……と考えると、ひとつ上のパラグラフにループする。議論は尽きない。
ヒューマンエラーが悲惨な事故を引き起こしたとき、事故から学ぶために関係者を"保護"しようとする考え方と、遺された人の感情を思いやること……難しい。これは二択ではないし、ましてやバランスを取るといった教科書的な答えでは対処できない――というわけで、保留する。
久々に、自分を測る読書になった。
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