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戦場を直視する「私が見た戦争」

私が見た戦争 戦場を直視する一冊。

 戦争はカッコ付きの「ニュース」として報道される。どこそこで戦闘行為があったとか、どこかを空爆をしたとかしか伝えられない。でなければ誤爆で何人死んだとか難民が何万人出たとか。それは人数や棟数や地名といったデータとして咀嚼され、マスメディアを通じて"消費"される。

 しかし、DAYS JAPANや本書などのフォトメディアにより、戦闘行為の結果そのものや、空襲の様子、地雷による血漿を、直接見ることができる。そう、爆弾が人体に当たった、飛び散りぐあいまで分かる。死者一名とカウントされる"彼"のアタマやウデのパーツは、べろべろになった皮だけでつながっている。人間ぽく見えない"それ"をぶら下げている米兵は笑っている。本国に帰ったら良き夫・良き父なのだろうというキャプションが付く。米兵も人間ぽく見えない。何か別の、人型の生物のようだ。

 記憶が頼りなので心もとないが、わたしが子どものころは、もっと現場に近い戦争が報道されていたように思える。現代の、プレス担当の軍人に誘導されたジャーナリズム・ツアーではなく、銃口を向けられる側から撮った画像だ。石川文洋「私が見た戦争」は、そんな写真ばかりで埋め尽くされている。

    ベトナム
    ラオス
    カンボジア
    ボスニア・ヘルツェゴビナ
    ソマリア
    アフガニスタン

 緊張に満ちた現場のショットから、眼を背けたくなるような行為がなされた映像まで、戦争の犬たちが通り過ぎた跡を、"安全なニッポン"から眺めることができる。ほぼ年代順に並んでいるが、やっていることは変わらない。帝国同士がそれぞれの傀儡を戦わせるか、再植民地化プロセスそのものは、たくさんの血を流し、たくさんの骨を残す。

 面白いことに、時代を追うごとに被写体との距離がだんだん広がっていく。バスト・ショットが近景になり遠景になり、望遠になってゆく。ベトナム・ラオスは同じ標的の立場から撮り、ソマリア・アフガンになると、まるでサファリパークのバスから取ったような写真になる。これは撮影者の意思ではなく、それだけ報道統制がとれている証左だろう(裏返すと、ベトナム戦争はジャーナリストが文字どおり最前線にいる、最初で最後の現場だったのかもしれない)。

 海外の戦争を撮る一方で、著者は、「そのとき日本は何をしていたのか?」という問いに自ら応える――オキナワを写すことで。嘉手納を撮り、コザ市(沖縄市)を撮り、ひめゆりを撮る。「集団自決」の生き残りを撮り、サイパンのSuicide Cliff を撮り、「集団自決」という言葉がいかに欺瞞にあふれているかを突きつける。戦争を直視することは、反戦のメッセージにつながる。数字や地名などのデータに還元されない、ナマの感情に突き動かされる。

 最後の第十章には救われた。延々と人の愚かしさを見せ付けられるかと思ったら――世界の笑顔ばかりを集めた写真に囲まれる。第十章は「命(ぬち)どぅ宝」というタイトルが付けられており、著者はこう述べる。

ネガを整理していると笑顔の写真が意外に多いことに気がついた。笑顔の撮影が目的で旅をしていたのではなく、何気なくシャッターを押したら笑顔が写っていたという感じだった。戦場で悲しみの表情をたくさん見ていたので、笑顔に合うと嬉しくなって反射的にシャッターを押していたのかもしれない。
 数字ではない戦争を直視できる。同時に、"ニッポン"は戦争に触れているどころか、昔も今もずぶずぶになっていることも分かる。

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