今年もお世話になりました、すべて「あなた」のおかげ。
スゴい本は多々あれど、独力で発掘できるはずもないので、スゴ本を読んだ「あなた」を探す。好きな本ばかりで食傷気味で、お山の蛙か、井の中の大将になったつもりのわたしにとって、「あなた」は良い刺激であり指針でありアドバイザーなんだ。
そう、好きな本だけ読むのもいいし、本屋さんだけで事足れりとしてもいい、それでも読みきれないほど。そして、自分の周りに壁を築いて、ヒキコモるのもアリ(わたし自身がそうだった)。時折みかける独善に陥っている人を反面教師として、自らを戒める。ブンガク小説ばっかり読んで、世界を分かった気になっている人、科学リテラシーこそ全てで他はクズだとのまたう人、それぞれの得意分野では天狗だろうが、外から眺めていると、こっけいで仕方ない。
そんな「わたし」にならないために、広く、深く、遠くまで「あなた」を探す。「あなた」のおかげで、こんなにスゴい本に出会ってきた(ありがとうございます)。
この本がスゴい!2008
この本がスゴい!2007
この本がスゴい!2006
この本がスゴい!2005
この本がスゴい!2004
このエントリは、2009年の探索結果。アク・ドク・クセのあるスゴい本を選んだ。ブック・ハンティングの一助になれば、嬉しい。そして、「それがスゴいなら、コレは?」と語りかけてくれると、もっと嬉しい。
┌―――――――――――――――――――――――――――――――
│□□□
│□□□ このノンフィクションがスゴい!2009
│□□□
└―――――――――――――――――――――――――――――――
■ 「死ぬときに後悔すること25」 大津秀一
余命、数週間。不自由な体、満足に歩くこともできない。日中も寝ている時間が多くなり、頭もうまくはたらかない ──そんな人生の最終章の人に向かって、こう問いかける。
いま、後悔していることは、何ですか?
「死ぬときに後悔すること25」の著者は、終末期における緩和医療に携わる医師。現場で見聞した、「余命いくばくもない状態で、後悔すること」をまとめたのが本書なのだ。得られた答えは、多様でいて一様だし、複雑なようで単純だったりする。
もうすぐ自分が死ぬと分かっている人が、何を悔いているのか。これを知ることで、わたしの人生で同じ後悔をせずにすむのだろうか。考え考え読んで、いくつかの「先立つ後悔」を得ることができた。後悔は後からしかできないものだが、これはわたしにとって「先悔」となるものを、ランキング形式でご紹介。本書では25章に分かれているが、わたし流にベスト10に絞ってみた→「死ぬときに後悔すること」ベスト10
このリストを作る際、自分の後悔も一緒に鑑みる。人は必ず死ぬし、わたしは人なので、わたしは必ず死ぬ。妻子やローンや背負うもので一杯いっぱいだったのが、スっと楽になれた。いずれ死ぬのだから、そのときに悔いのないようにね、ってね。陳腐なセリフが実感できると、具体的なリストができあがる。「ありがとう」はちゃんと目を見て言うとか、セックスはたっぷりじっくりしましょうね、とか。
時折混ぜ込まれる著者の意見の"若さ"が目立つが、それぞれの「後悔」に向かいあうことで「自分の死」を意識し、ひいては「自分の生」を確認できる。
■ 「人生の短さについて」 セネカ
セネカに言わせると、「人生は短い」とは大嘘だそうな。人生が短いと言うものは、与えられた時間の大半を無駄にしているにすぎないという。人の一生の短さを嘆くアリストテレスをひきあいに出して、「賢者にはとうてい似合わぬ」とバッサリ斬っている。
では、どんな「無駄」をしているのかというと、これまた容赦ない。
無意味な仕事にあくせくするもの
酒や怠惰な生き方に溺れるもの
上司にこびへつらって疲弊するもの
誰かに評価されることに血道を上げるもの
拝金主義に突き動かされ、儲けのために走り回るもの
だれもが、他人の富を奪うことか、自分の財産にケチつけることに大忙しで、結局、自分の一生を無駄遣いしてしまっているそうな。セネカは、さまざまな実例を挙げながら、人生を自ら短くしている人の生態を描き出し、痛烈に批判している。わたしたちが実際に「生きる」といえるのは、人生のほんの一部にすぎず、残りの部分は人生ではなく、単なる「時間」だという。
事業や仕事に打ち込む者を無駄だと断じ、芸術や趣味に生きるものを人生の浪費だとこきおろす。そのくせ、「悠々自適な人生」とは何か、なかなか示そうとしない。後に、「悠々自適=哲学」だと主張し、それ以外を無意味だと貶める。「自分の人生を自分のために使おう」というメッセージは共感できるが、そのためにあらゆる他者を批判するやりかたは、「最近の○○はなっとらん」と同じ臭いがするぞ。
人生の原則本として扱ってもいいが、かなえられなかった人生へのレクイエムとして読むと、より魅力的になる。つまり、裏返しに読むと、かなえられなかった人生への、強烈な嫉妬心に満ちていることがわかる。すでに手遅れとなった人生への呪詛を、社会批判にすり替えた鎮魂歌なのかもしれない。そんな彼には、いささか使い古されているが、この言葉を贈ろう。
∧_∧
( ´∀`) オマエモナー
( )
| | |
(__)_)
■ 「世界を変えた100日」 ニック・ヤップ
歴史の瞬間に立ちあう。
写真技術が誕生してから現代にいたるまでの、「世界の特別な一日」を100日分まとめて見る。
ページをめくるたびに、声がもれる。いつか見た決定的瞬間から、見たことのない歴史へ行き来する。花に埋もれたダイアナ妃の写真、ずぶぬれで「壁」を壊す人々、真っ二つに折れ落ちるビル、巨大な打ち上げ花火と化したスペースシャトル。
あるいは、いわゆる歴史上の人物の年齢を追いこしてしまっている自分に気づく。もみくちゃな歓迎を受けるカストロは33歳だし、モール地区を埋め尽くす群集を背負っているキング牧師は34歳だ。伝説化される人物を取り巻いている時代の空気が一緒に写しこまれている。彼等の偉大さとともに、それを支える時代の熱がふりかかってくる。
知ってるはずなのに、既視感のない写真がある。チェルノブイリをテーマにしたものがそれだ。「石棺」がどーんと写っているんだろうなぁと思いきや、災厄から20年後に撮影された、ある少女のポートレイトだった。同時代の一人として、チェルノブイリの映像を見てきたつもりだが、この9歳の少女ほど衝撃を受けたものはなかった。彼女にとって、チェルノブイリはリアルタイムそのものなんだ。
武器としての写真、プロパガンダの道具としての写真もある。士気高揚を目的とした合成写真を使ったソビエト当局や、俳優を使った「やらせ」写真を撮ったパリ・コミューンのプロパガンダ事例が面白い。死屍累々のゲティスバーグを見たら、南北戦争の大義に疑問を感じていたかもしれない。
昔と歴史のつながり感を、リアルに感じる一冊。
■ 「サイエンス・インポッシブル」 ミチオ・カク
SFのタネがぎっしり詰まった、けれども最先端の科学に裏付けられた科学読本。あるいは逆で、最先端科学でもって、SFのハイパーテクノロジーを検証してみせる。比較できない面白さに、かなりのボリュームにもかかわらず、イッキに読まされる。
本書を面白くしている視点は、「どこが不可能?」というところ。つまり、「それを不可能とみなしているのはどの技術上の問題なのか?」という課題に置き換えているのだ。「技術上の課題」にバラしてしまえば、あとはリソースやパトロンの話だったり、量産化に向けたボトルネックの話になる。
その結果、現在では「不可能」と見なされていながら、数十年から数世紀以後には当たり前になっていておかしくないようなテクノロジーが「課題」つきで紹介されている。しかも、その不可能ぐあいにもレベルがあって、レベル1(数百年以内)、レベル2(数千年)、レベル3(科学体系の書き換え要)と分かれている。
たとえば、不可視化(レベル1)。著者は「ハリー・ポッター」の透明マント(invisibility cloak)を例に、身につけた者を見えなくさせる技術について検証する。この研究成果の一端をWebで見かけたのだが、「後ろ側の映像を見せる出来のわるいスクリーン」といった印象だった。いかに平面的な「スクリーン」を三次元的に見せるかが課題だという。ハリポタなら万国共通かもしれないが、やはりこれは草薙少佐の「光学迷彩」のほうが「らしい」かと。このテクノロジーが充分に発達しても、「魔法」とは言わないだろうなぁ。
技術の速度は、予想を上回る。しかも、かなりしばしば。奇想天外だが現実的なSFを読みつつ、そうした時代に備えるか。あるいは本書をタネとして、自分で書いてみるのもいいかも。ウェルズやクラークがすごいのは、その想像力もさることながら、科学的根拠がしっかりしているから。SFのタネ本としてはバイブル級の一冊になる。
■ 「服従の心理」 スタンレー・ミルグラム
他人を服従させるマジックワードは、「責任はとるから」。
この一言で、善良な市民が信じられない残虐なことをする。良心の呵責に耐えきれなくなると、記憶の改変を行う。「自分はまちがってない、あいつが悪いからだ」と平気で人をおとしめる。信じられるか? わたしは信じられなかった … 最初は。
たとえば簡単なバイト。 実験室に入ると、いかにも研究者然とした人が指示してくる。あなたは先生の役で、一連のテストを行うんだ。で、生徒役の人がまちがえると、罰として、電気ショックをあたえるのがあなたの仕事だ。
そして、何回もまちがえると、そのたびに電撃は強くなってゆき、最後には耐え難いほどの強いショックを与えることになる。生徒は叫び声をあげてやめてくれやめてくれと懇願する。あなたは心配そうに研究者を見やるが、彼は「あなたの仕事を続けてください、責任はわたしが取りますから」とキッパリ。
実をいうと、この実験の被験者は先生役の「あなた」。生徒は役者で、電撃はウソ、叫び声は演技。実験のテーマは「権威 v.s. 個人」なんだ。つまり、良心に反するような行為を強いられたとき、権威に対して、どこまで服従し続けるのかを見るのが、この実験の真の目的なんだ。
この結果は、あなたをかなり不愉快にさせるかもしれない。事実、この実験は、結果だけでなくプロセスの倫理的問題も含め、厳しい批判にさらされることとなった。
なぜなら、著者スタンリー・ミルグラムは、この結果でもって、ナチスのアイヒマンがやったことは「悪の陳腐さ」にすぎないとみなしたから。ユダヤ人をせっせとガス室に送ったアイヒマンは、悪魔でもサディストでもなく、権威にからめとられたただの官僚にすぎないと主張する。単に彼は自分の役割を果たしていただけであって、民族や文化、人格に関係なく、「あなた」にも起こりうる――そうした「問題」を突きつけてくる。
■ 「人はなぜレイプするのか」 ランディ・ソーンヒル
レイプについて、進化生物学から答えている。
挑発的なタイトルや表紙とは裏腹に、まじめに、科学的に解き明かす。そして、オブラートにも修辞学的にも包んでいない、ある種の人びとの逆鱗を掻きむしるような結論に達する。さらに、こんな本を出せば大騒ぎになることを織り込んで、反対者の「主張」のいちいちに反証をあげている。
まず結論から。なぜ男はレイプし、女は苦痛を感じるのか?その理由は、養育の投資量に男女差があるからだという。
つまりこうだ。女は妊娠、出産、授乳に多大な時間とエネルギーを費やさなければならない。だから男選びも慎重になる。レイプは父親を選べず、子育てを困難にするため、女に大きな苦痛をあたえることになる。いっぽう男は養育投資が少ないことから、繁殖のため、多数の相手に関心を向けることになる。そんな男のセクシュアリティの進化が、レイプの究極要因だという。要するに男は色を好み、女は選り好みするんだね。
ただし、レイプそのものが適応なのかどうかについては、判断を保留している。レイプとは、男の性淘汰の中における、偶然の副産物だという考えと、ずばりレイプは適応であるという仮説の両論を併記している。性淘汰における繁殖に有利な形質として、レイプが選び取られていたなんて、考えるだにゾッとするのだが、それが生き物としての雄の姿なのだろうか。
世界がどうあるべきかということよりも、現実がどうあるのかを理解するべきだ、という姿勢は共感できる。その反面、かなり言葉を選ばない直截な書きくちにタジタジとなる。科学的に、知的に真摯であろうという態度が伝わる分だけ、自らの感情的な反応がよく見えてくる。進化生物学からの提案はとてもロジカルなのだが、受け入れる感情は複雑。
賛否が割れる一冊。読んだら、ただじゃすまなくなる。で、レビューを公開した結果、叩かれたり共感を得たり、さまざまな反響があった。その議論の展開先→「レイプは適応か」
■ 「利己的な遺伝子」 リチャード・ドーキンス
かなり誤解を招きやすい教養書。
わたしの場合、タイトルと評判だけで読んだフリをしてきたが、その理解ですら間違っていることが分かった。ああ恥ずかしい。このエントリでは、わたしがどんな「誤読」をしてきたかを中心に、本書を紹介してみよう。
まず、「遺伝子が運命を決定する」という誤解。「利己的な遺伝子」なる遺伝子がいて、わたしの行動をコントロールしていると考えていた。遺伝子は、わたしの表面上の特徴のみならず、わたしが取りうる行動や反応を支配しており、そこから逃れることはできない――などと思っていた。わたしが利己的なのは遺伝子のせいなんだ、というリクツ。
次に、「われわれは遺伝子の乗り物(vehicle)にすぎない」ことから、虚無的な悲観論に染まりきったこと。「ニワトリは、卵がもう一つの卵を作るための手段」なのだから、われわれは生殖さえすればよろしい。極端に言うならば、生殖しないのであれば、その人生は意味がない、ということになってしまう。これはひどい。
これらは、ドーキンスが「利己的な遺伝子」で主張していると考えていた。すべてわたしの「読んだフリ」のせい。著者は似たようなことを書いているが、意図は激しく違う。注釈やまえがきなどで誤解を解こうとしているものの、誤読を招きそうな「演出」をあちこちでしているのも事実だ。
ドーキンスの主張をまとめると、「生物のあり方や行動様式を説明するとき、遺伝子の自己複製というレベルからだと整合的に理解できるよ」となる。どうしてそんな特徴をもつ生物がいるのかという疑問に対し、「そんな特徴をもっている奴が生き残ったからだ」と説明できる。この「そんな特徴を持っている" 奴 "」がクセモノで、論者によって異なる。
自然淘汰の単位を「種」に求めたり、種内の「個体群、集団」と考えたり、あるいは、「個体」を単位とする人もいる。本書で一番おもしろいのは、この単位を「遺伝子」としたところで、あたかもこの「遺伝子」が意志を持ち、自分の遺伝子を最大化するように個体を操っているかのように演出している。1976年版のまえがきに、こうある。
この本はほぼサイエンス・フィクションのように読んでもらいたい。イマジネーションに訴えるように書かれているからである。けれどもこの本は、サイエンス・フィクションではない。それは科学である。われわれは生存機械――遺伝子という名の利己的な分子を保持すべく盲目的にプログラムされたロボット機械なのだ。
怖いのはここ、太字はわたし。遺伝子に操作されたロボットとして、遺伝的決定を最終的なものと見なした瞬間、誤りに陥るのだという(p.417)。実際は逆で、後付けで行動を説明するために遺伝子が持ち出されているのだ。あたかもその行動が「決定」されたかのような書き方がなされているが、それ以外の行動をしたものが消えているだけ。統計的な「結果」にすぎないのを、予め「決定」しているかのように表現しているのだ。他にも、「遺伝子が組み込んだ」とか「遺伝子がプログラムした」という表現があちこちにあり、あたかも遺伝子が戦略的に計算をしているかのような印象を受ける。比喩として遺伝子を擬人化するのは、演出として上手いが、誤解を招くおそれも充分にある、両刃の剣なのだ。
これらはキチンと書いてあることだが、タイトルからして誤解を招きやすい。分かっていたつもりになっていて、分かりやすさという罠にハマっていたことが分かる読書だった。
■ 「科学哲学の冒険」 戸田山和久
サイエンスの目的と方法をさぐる一冊。
science を絶対確実不変なものと代名していたわたしは、これを読んで恥ずかしくなる。「間違えることができる」のがサイエンスなんだ。極論すれば、科学って宗教の一種でしょ?誰も見たこと/聞いたこと/観測すらできないことを、信じる・信じないの話じゃないの?ホラ、高度に発達した科学は魔法と変わらないなんて言うし――そんな独善に陥っていたわたしに、良いお灸になった。
もちろん原子は肉眼で見えないが、たしかに実在している。そしてその原子の本当の姿について、人類は知識を深めていっている――これは"常識"の範疇なんだろうが、この常識的な考え方をただ信じるだけでなくて、議論を通して正当化しようとする――これが、本書のテーマ「科学哲学」だ。
…なのだが、どうも著者が主張したい「科学的実在論」の形勢は不利だ。科学は確かに知識を深め、役に立っているのだが、哲学の凶器「相対主義」のバッシングに耐えられそうもない。いわゆる、「お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではな」というやつ。では客観性のための実験はというと、「ヒュームの呪い」「グルーのパラドクス」「決定不全性」を出してきて、帰納に対する懐疑論という寝技に持ち込む。
著者は一つ一つの批判に辛抱強く反論してゆくのだが、その反論にさらに反論が重ねられ、とてもスリリングな展開になっている。スルーすることもできるのに、わざわざ強力な反論を持ってくるので、「著者はマゾか?」と呟くこと幾度か。
そうした積み重ねが、「科学とは何か?」という問いに対する答えの歴史になる。この議論を通じて、著者の熱いメッセージ「科学というものは世界を理解しようという試み」と、「そして実際に、世界を理解できる試みのように私には思える」が伝わってくる。
■ 「哲学、脳を揺さぶる」 河本英夫
オートポイエーシスの練習問題。慣れ親しんだ世界が「揺さぶられる」感覚を訓練できるぞ。
本屋で見かけたとき、タイトルどおり「哲学」のエリアに置いてあったけれど、中身はちがうような気が。むしろ自己啓発書として使いたい。
著者曰く、「学習」と「発達」を区別せよという。視点や観点の選択肢が一つ増えることは、学習の成果で、それに伴い知識も増える。けれども、能力そのものの形成や、能力形成の仕方自身を習得するのでなければ、テクニックが一つ増えたにとどまるという。
。つまり、思考技術や、フレームワークの紹介ではなく、「あたらしい感覚・あたらしい経験を再獲得するやり方」が書いてあるんだ。「自転車の乗り方」が書いてあるのではなく、「自転車に乗れるようになるとき、何がはたらいているのか」が書いてあるんだ。
感覚のエクササイズに対し、既に知っていることと関連付けたり、今の知識に加えようとするのは禁物。学習の「前」に、その意味をカッコに入れ、自分の経験そのものを「動かす」ことを訓練してゆく。意味によって経験をラベリングするのではなく、再・経験する(創・経験する)のだ。
世界とのインタフェースを意識することで、自分の脳を「揺さぶって」みよう。
■ 「眼の冒険」 松田行正
「眼の経験値」を上げるスゴ本。
いデザインを見ることで、眼が肥える。同時に素材に対し、「いいデザイン」であるとはどんな表現なのかを感じ取れるようになる。いままで「感性を磨く」という言葉で片付けられていた経験は、「本書を読む/視る」に置き換えてもいい。
スーパーマンからマッドマックス、ピカソやエッシャー、ウォーホルといった実例がてんこ盛りで、絵画や写真、タイポグラフィやイラストから、デザインの手法・見方が紹介される。モノとカタチ、デザイナーはこれらをどのように見ているのかが、デザイナー自身の言葉で語られる。なじみ深い作品を入口として追いかけているうちに、いつしか自分の見方を変えてしまうぐらいの破壊力をもつ。
たとえば、映画のストーリーを視覚化する試みがある。ストーリーを構成するキャラクターや出来事、関係性などが、アイコンや矢印、タイポグラフィや色で表現される。一種の逆転の発想だ。つまり、脚本を映像化したのが「映画」なのではなく、キャラやイベントはアイコンのようにドラッグ&ドロップ可能に思えてくる。
その例として、「遊星からの物体X」のチャートがある。エイリアンが誰の人体を乗っ取っていくかがアイコン化されたグラフックで描かれるのだが、これを「アート」というよりも、動的ストーリーと呼びたい。ホラー映画が、アイコンの動きに応じて二転三転していく、いわば「ストーリー・シミュレーター」のように見えてくる。
異なる回路がつながってゆき、自分の認識が開かれていく、デザイン・アイディアの思考展――そんな経験ができる。そう、「読む」というより「経験する」一冊。
舌を肥やすように、眼を肥やすべし。
■ 「数学ガール」 結城浩
もちろん高校んときを思い出して赤面しましたが何か?
ゼータ関数、コンボリューション、テイラー展開――うむむ、さっぱり分からない。ここでいう「分かる」とは、同じ問題を自力で解けるかという意味で、だ。最初は「分かる」のだが、ひとつひとつ、イコールをたどるうち、数式の森にさまよいんでいく。
それでも数学ガール(ズ)に手を引かれ、数式を追いかける喜びは感じたぞ。「分かる・分からない」というよりも、うつくしさを「感じる・感じない」というのに近い。のびた数式が「たたまれていく」快感や、「閉じた式」を探索するドキドキは、分かるより感じとった。
分からないなりにも感じとれたのは、著者の力量だろう。手をとって、つれていってもらえる感覚や、知らない先から戻ってくる感覚が、たった数行の式を追うだけで味わえる。こんなの、小説や評論ではありえない。
この感覚は、料理や音楽に近いかも。自分には出せないけれど、よさは分かる。ここに出てくる式がスラスラと分かる人を、尊敬する。それは、ジャズピアノが弾ける人にあこがれるのに、ちょっと似ている。
読むよりも実際に「手を動かして」考えるのが愉しい一冊。
■ 「ファム・ファタル」 イ・ミョンオク
女は美しい、女は恐ろしい。
両者は固く結びついていることが分かる。女は美しいから恐ろしいのであり、恐ろしいから美しいのだ。恥も外聞もなく色を貪る吸精鬼、嫉妬の炎を宿した魔女、切断された男の首を抱えてイキ顔の淑女――ファム・ファタルとは、美しく、恐ろしい彼女たちを指す。
本書はファム・ファタルのイメージを、「残酷」「神秘」「淫蕩」「魅惑」という4つのテーマに分類し、妖婦たちの諸相を名画や彫刻で紹介する。オールカラーで図版豊富なのが嬉しい。官能的な肉体に心を奪われると同時に、おぞましい姿にゾっとさせられる。あるいは、女の犠牲となった男の哀れな姿に同情する。エロチカル・アートは見るものの欲情をかき立て、記憶の奥に刷り込まれようとする。
わたしを惹きつけるのは、あらわになった肌や乳房だけではない。サロメやユーディットの傍らにある生首から目が離れない。なぜ、「半裸の女+生首」なのだろうか?
解説によると、サロメは自分をフった男の首を所望したという。盆に載せられた生首を掲げてふふふと笑う彼女は、輝くほどに美しい。あるいは、自分の体に溺れた男が眠っているすきに、その首を刈ってしまうユーディット。きらきらした目、上気した頬とひたい、首筋から胸元にかけてバラ色に染まった肌。セックスの跡ありありとした女体と、血にまみれた男の死体はよく似合う。
殺された男の血と、妖婦たちの唇の朱のコントラストが美しい。真っ白な肌には血の朱がよく映える。上気した頬や満足げな様子は、性欲だけでなく食欲までも満たされたかのようだ。ところで、男の肉体はどこへいったのだろうか?ひょっとして…いやまさか…
ひょっとするとセックスとは、男が「食べられる」行為なのかもしれない。したことを「食っちゃった」「いただいた」と表現する男がいるが、逆だ逆、食べられたのはキミの肉棒なのだ。男子の一部は草食系だが、女はすべて肉食系。男が密やかに抱いている、「食べられたい」欲求に気付かせてくれる一冊。あるいは女性なら、体の奥の"食欲"を刺激する(?)一冊。
■ 「パレスチナ」 ジョー・サッコ
アメリカ人のジャーナリストから見た「パレスチナ」が迫る。
本書を稀有なものにしているのは、「マンガ」なところ。画き手はジョー・サッコというマンガ家。フォト・ジャーナリストではなくコミック・ジャーナリスト、つまりマンガでパレスチナ問題に斬りこんでいるのだ。著者は1991年にヨルダン川西岸地区とガザ地区を訪れ、専ら占領地区のパレスチナ人にインタビューをする。そのときの感情、状況、境遇をつつみ隠さず、あまさず描きつくす。下手な物語化なぞせず、自分自身が登場し、一人称で語る。
いわゆる「マンガで分かる」ものではないことに注意。「分かりやすさ」なんぞ、これっぽっちも無い。入り組んだ主義・信条・身の上話をそのまま画き下す。「アラブ対ユダヤ」あるいは「イスラーム対イスラエル」といった対立構図を見ることも可能だが、さらに相対化され、「そうした構図で見ている人」として画かれている。
この相対化というか、取材対象への距離のとり方が面白い。作者は、どのインタビューにも顔をだし、肉親を殺された話や、収容所の生活、インティファーダの様子をふむふむと聞く。そのふむふむ顔の裏で独白する「思い」はなかなか辛らつだ。
マンガという手段は、画き手の「耳目」というフィルターを通した現実を、画き手の「手」を通じて表現したもの。バイアスとデフォルメが二重にかかっていることを承知の上で、その「ゆがみ」を徹底して描く。兵士の銃床が奇妙にクローズアップして描かれ、ふりあげられた棍棒がグロテスクなまでに巨大に見える。ねじまげられた「現実」へ当惑した感覚が、ゆがんだコマ割りと不均衡なパースにより、いっそう増幅される。
だれかの「正義」に相対するものは、「悪」などではなく、また別の正義なのか。姦通した娘に対するイスラム法の家族版があり、投石をしたか・しなかったかもしれない子どもに対するイスラエル軍版の正義、占領軍が従うべきジュネーヴ条約の指針、占領軍の撤退を呼びかける国連決議――ガザでは「正義」を選ぶことができるのだ。
■ 「読んでいない本について堂々と語る方法」 ピエール・バイヤール
自分の「読むこと」への揺さぶりがかかる、かなり貴重な一冊。疑似餌ばりのタイトルと、ハウツー本のフリをした体裁に、二重三重の罠が張り巡らされている。
有名作品をダシにして、読書論、読者論、書物論を次々と展開しているが、本書自身が「本」という体裁をとっている限り、どんな読み方をしても自己言及の罠に陥る。接近して読むと、「本当に読んだといえるのか?」というジレンマに囚われ、逆に読み飛ばして(あるいは読まないまま)テキトーに語ると、正鵠を射ていたりする(←これすらも本書に書いてあるという皮肉!)。
もちろん、こうした深読み、裏読みをせずに、ただ漫然と流してもいい。あるいは、ざっと目を通すことで「読んだという記憶」を作り上げることも可能だ。ただ、うっかり誉めたりすると、その「誉めかげん」によって、いかに本書を読んでいなかったがバレる仕掛けとなっている。本書を深くするのは、書き手よりも、むしろ読み手。どこに「斉天大聖」と記すか、注意しながら読んでみよう。あたりまえだと思っていた、自分の「読むこと」への常識が、疑わしく見えてくるかも。
■ 「詩学」 アリストテレス
古典というより教典。小説、シナリオなど、創作にかかわる人は必読。
著者アリストテレスは、悲劇や叙事詩を念頭においているが、わたしはフィクション全般に読み替えた。フィクションを創造するにあたり、観客(読み手)に最も強力なインパクトを与え、感情を呼び起こすにはどうすればよいか?構成は?尺は?キャラクターは?描写は?本書には、「解」そのものがある。
著者に言わせると、わたしたちヒトは、「再現」を好むのだという。この概念はミーメーシスといい、模倣とも再生とも翻訳される。現実そのものを見るのは不快で、その現実を模倣したもの――演劇だったり彫刻、絵画だったりする――を見るのを喜ぶのだという。彫刻や舞台を用いることで、これは「あの現実を模倣したのだ」とあれこれ考えたり語り合うことに、快楽をおぼえるのだ。
創作のデザインパターンともいえる一冊。小説、シナリオなど、創作にかかわる人は、ぜひ読んでほしい。読み手に快楽を与える原則があるのだから。
■ 「マンガの創り方」 山本おさむ
現代の語り手のためのバイブル。
ストーリーマンガ、特に短編を中心に解説しているが、マンガに限らない。小説やシナリオなど、あらゆるストーリーメーカーにとって有用だ。なぜなら、読者や観客といった「受け手」を楽しませるための秘訣があますところなく明かされているから。
いわゆる、「マンガ入門」ではない。ネーム作ったら下書きしてペン入れして…といったイロハ本ではなく、「ストーリーの作り方」「ネームの作り方」に限定している。だから、本書の技術を習得することで、次のことが根源から分かる・使える。
面白いストーリーとは何か、どうすれば「面白く」なるのか
良い演出とは何か、どうやって身につければよいか
素晴らしいクライマックスにするために、どうすればよいか
しかも、徹底的に具体的だ。高橋留美子「Pの悲劇」と山本おさむ「UFOを見た日」の全頁を収録し、32ページの作品に200ページかけて解説する。マンガをブロック単位に分解し、そこで作者がどのように考え、どのようなテクニックを用いてマンガを面白くしていったかを解き明かす。おそらく、かなりの人たちが手さぐりでやってきた作業が、実践的な形を与えられている。
自分が楽しんでいるとき、「なぜ面白いのか」「どこが良いと感じるのか」という視点は持たない。読み終えて振り返ってみても、その「面白さ」はうまく言語化できないもの。その面白さを論理的に種明かししてくれている。できあがったアウトプット(完成稿)から、そこへいたるネーム、箱書き、構成、ネタ逆算している。紆余曲折の過程で、効果的なテクニックを紹介し、どうやってそのマンガが面白くなっていったかをリコンパイルしてくれている。
ストーリーテラー必携の一冊。
┌―――――――――――――――――――――――――――――――
│□□□
│□□□ このビジネス書がスゴい!2009
│□□□
└―――――――――――――――――――――――――――――――
■ 「雷撃☆SSガール」 至道流星
めずらしいことに、まなめ王子がスゴ本認定していたので食指をのばす。ああ、これはスゴい。いい本を教えていただき、ありがとうございます >まなめ王子
これは、ビジネス書。ツンデレ、妹、綾波キャラといったラノベ風味でコーティングされた、苦い苦い現実を飲ませる、れっきとしたビジネス書なので、ご注意を。
中身を一言で語るなら、涼宮ハルヒが本気で世界征服を目指す話みたいな――とはいうものの、超次元的な存在ではなく、ごく普通の人間の女の子。といったら裏拳が飛んでくるかも。
このヒロイン、超美麗+超優秀+超ツンデレのハタチの小娘。零細企業の経営者がキャバクラで出会う設定や、「この私が特別に来てあげたわ。光栄に思いなさい!」なんてセリフまわしで、あいたたたた…と呻いたものの、なかなかどうして、ビジネスアイディアてんこ盛りで、ラノベのお化粧をした生々しい金融経済のリアルを堪能できる。
最初は電波系かと思いきや、「ねぇ、まさか、この世界が真っ当でだなんて思ってるの?」が質問ではなく、真っ正直な反語であることが明らかになる瞬間、心底びっくりする。彼女は、この異様な金融システムに"きわめて正しい方法で"勝負をかけて、勝ちつづける。
著者は経営を生業としてきた方らしく、ヒロインに憑依しては自説を開陳する。そのいちいちに、激しく同意しながらザクザク読める。次の部分に著者のホンネがズバリ現れている。で、そいつをサラリといってのける彼女がカッコイイんだ。
「そうね。この人間社会、昔も今も、お金の大本が世界の頂点。ほとんどの大衆は、お金を創るのは政府の造幣局だと誤解してる。でも実際には、頂点に君臨する一握りの金融資本家がお金を創るのよ。もし人類が後1000年文明を維持することができたらな、後生の歴史教科書にはきっとこう記述されるはずだわ。『産業革命以降300年に渡って人類は、貨幣システムを媒介にした持続不可能な奴隷制度を採用していた』ってね」
太字はわたし。お金を創るのは、そう、金融システムの胴元であり、それは中央銀行
ではないんだ。ミヒャエル・エンデを追いかけていたとき、「エンデの遺言」でマネーの正体を知り、目の前が真っ暗になったことがある。エンデは逃げろといい、このヒロインは利用せよ(ただしそのことを忘れるな)と主張する。
では、なぜ、彼女(リンちゃんっていうんだ)はお金を儲けようとするのか?それはもちろん、お題にあるように、SS(世界征服/Sekai Seifuku)のためなんだが――その方法を知って三たび仰け反るに違いない。やり方が型破りだからではなく、じゅうぶん実現可能だから。ここではヒントすら言わないので、本書を読む人は、楽しみにして欲しい。
■ 「プレゼンテーションZen」 ガー・レイノルズ
読むだけでプレゼンが上達する。いや、「見るだけ」で上手くなる。なぜなら、本書そのものが、優れたプレゼンテーションのお手本になっているから。
わたしはデザイナーではない。しかし、同じテーマについて、「まずいデザイン」と「うまいデザイン」が並んでいるなら、見分けることができる。デザインの原則――「コントラスト」「反復」「整列」「近接」を使って、凡庸なシートが、ダイナミックで統一感をもったものに変わっていく過程は、"見た"瞬間に理解できる。
いっぽうで、いわゆる「ハウツー本」に慣れている人はとまどうかもしれない。特定のフォーマットやプロセスを見開き一頁で解説するようなものではないから。著者は、「メソッドではなく、アプローチ」だという。進むべき道や方向、心構えを意味し、時には哲学まで示唆する。プレゼンの本なのに、(比喩的とはいえ)禅や武道まで言及しているのがユニークだ。
もっと面白いことに、「まず、パソコンから離れろ」と助言する。12ポイントの箇条書きとデータに埋め尽くされた、悪夢のようなPowerPointは、全てをPCで行おうとする過ちの結果なんだ。
スピーチに必要なのは、ストーリーテリング(物語り)。それは資料の作成よりもむしろ、ドキュメンタリー映画の技法と共通するする部分が多いという。そして、スライドはあなたの言葉をそのままなぞるものではなく、言葉を効果的に「演出」するものでなければならない。そのためには、紙とエンピツだけをもって、一人になって、「何が言いたいのか、なぜそれが重要なのか」を突き詰めろというのだ。
要注意なのは、これは上級者向けの実践本。テーマが何で、語るべき何かを持っており、ある程度は場慣れした人向けなので、ご注意を。よりベーシックなやつなら、「プロフェッショナル・プレゼンテーション」をオススメしておく。
■ 「影響力の法則」「続・影響力の法則」 アラン・コーエン
「正しい」根回しのやり方が分かる。
「論理的に正しい」からといって、自分の提案が通るとは限らない。社内ルールに則っているからといって、その部門の協力を得られるとは限らない。社畜も長いことやっていると、「根回し」や「政治力」の勘所が分かってくる。仕事をまわす、ティッピングポイント。本書は、こうした暗黙知をノウハウのレベルまで噛み砕いている。
米国はそんなの無用だろうと思ってたが、勝手な思い込みだったようだ。本書がバイブル扱いされているのは、必要性を痛感しているからだろう。動かないプロジェクト、死蔵される情報、コミュニケーション不全――ビジネス上の課題はどこも一緒ということか。
そして、その対策も共通している。権力を使わずに人を動かす原則を一言で表すならば、「お返し」になる。何かイイことしてもらったら、お返しに何かを返したくなる気持ちこそが、肩書きや立場を離れて人を動かす動機となる。
本書では、も少し難しい言葉で、「レシプロシティの原則」と呼んでいる。レシプロシティ(reciprocity)とは、互恵性、返報性と呼ばれる社会的通念のことで、人間社会に見られる「もらったら返さなければならない」というルールの源だそうな。さらに著者は、相手を動かし協力を引き出す戦略を、「カレンシーの交換」を定義づけ、カレンシー(currency)、すなわち通貨の交換になぞらえている。こちらが求める価値(カレンシー)を得るために、それに相当するカレンシーを用意して渡すのだ。
なにをいまさら、と思うかもしれない。「困ったときはお互いさま」という間柄になるためには、日ごろから便宜してあげることが原則なのは自明だろう。あるいは、立場や肩書きを超えて協力しようとするときは、「アイツなら多少の無理を聞いてくれる」とか、「以前にお世話になったからなぁ」という気持ちになっている。日本では「もちつもたれつ」という言葉に代表される互恵関係が、非常に戦略的に、システマティックに語られる。
その基本編が、「影響力の法則」になる。類書に「影響力の武器」があるが、これは人間関係の心理を基とした知見で、ひとり対ひとりの一般的なやつ。本書はビジネスに特化しており、グループ、部門といった一対多にあたる「影響力の兵器」というべきもの。 そして、応用編が「続・影響力の法則」だ。成功例・失敗例ともども使って、「カレンシーの交換」がどのように影響力を発揮しているか、生々しく紹介している。
「権限がないのでできません」という前に読んでおきたい。
■ 「統計はこうしてウソをつく」 ジョエル・ベスト
「嘘には三つある。普通の嘘と、真っ赤な嘘と、統計だ」
マーク・トウェインのこの言葉に、笑うか納得したならば、本書は不要だ(でないなら、本書を読むと愕然とする)。メディア・リテラシーの基礎なので、このblogの読者なら既知のことばかりかと。統計がいかに恣意的になされ、曲解され、独り歩きしているかが丁寧に説明されている。
たとえば、恣意的な統計については、銃の規制に関する2つのアンケートが紹介されている。銃規制活動家が調べた結果では、米国民の3/4以上が銃規制に賛成している。いっぽうで、全米ライフル協会の調査によると、米国民の3/4以上が銃規制に反対しているそうな。なぜか?違いは、質問の仕方に秘密がある。
- 銃規制賛成者「あなたは違法な銃販売を取り締まることに賛成ですか?」
- 銃規制反対者「誰が銃を販売してよく、誰が銃を所持してはいけないかを決める権限を警察に与える法律に賛成ですか、反対ですか?」
当然のことながら、1. の「違法な銃販売」に対し、否定的な反応が得られ、結果「規制賛成」が大勢となるだろう。また、2. の「警察に権限」に対しても、否定的な回答となり、そのため「規制反対」という意見が大分を占めるに違いない。つまり、質問の言い回しにより、望みどおりの回答を得られるように「誘導」できるわけ。他にも、質問の順番により反応を制御する方法がある。「内閣支持率」「政党支持率」の"アンケート調査"で重宝されているね。
不適切な一般化、都合のいい定義づけ、暗数を使った詐術、「数」と「率」を使い分ける法、アンケート・コントロールなど、統計数字を使ってこじつけるありとあらゆる詭弁が紹介される。情報の受け手は数字を事実と考えるかもしれないが、発信者が事実に意味を持たせるのだ。そしてその意味は、発信者のイデオロギーで決まってくる。
ではどうすればいいのか?残念ながら万能薬はないそうな。せめて、統計を批判的に検討していけとアドバイスする。その観点として、次の問いかけをしてみろという。すなわち、「誰がこの統計をつくったのか?」、「この統計はなぜつくられたのか?」。
つまり、統計作成者の役割に注意を向けろという。いわゆるポジショントークやね。立場が数字を作るのだから。そして、数字が説得の道具として用いることを意識して、作成者の「動機」や「意図」を理解するんだ。その上で、その数字が妥当かどうかを吟味しろという。なんらかの視点や意図を持っているというだけで、その統計の価値を割り引いて考えてはいけない。そもそも、統計とは「意図」を持っているものだから。
数字は嘘をつかないが、嘘つきが数字を使うんだ。
┌―――――――――――――――――――――――――――――――
│□□□
│□□□ このフィクションがスゴい!2009
│□□□
└―――――――――――――――――――――――――――――――
■ 「15×24」 新城カズマ
やめられない+とまらない。読んでる自分を見失う。
はじまりは、ある自殺サイトの心中の勧誘――「ひとりで死ぬのはこわくって、でもひとりで生きてるのはとってもつらいんです」これに応じた自殺志願者ジュンは、12月31日の東京を彷徨う。彼を止めようと東奔西走する級友ら13人と、発端の自殺相手、合計15人の24時間のすれ違いを描くノンストップ群像劇。
ユニークなことに、全編これ会話で構成されている。対面だったり、メール越しだったり、ブログへのカキコだったり、ともすると独白だったりつぶやきだったり、とにかく、ありとあらゆるモノローグ、ダイアローグ、テトラローグ「だけ」で文章が奔る奔る。舞台は2005年なのだが、今ならニコニコ動画、youtube、twitter、セカイカメラなんでもござれだろうなぁ…
節目ごとにその会話がなされた時間が挿入され、タイムリミット(=自殺予定時刻)への緊張感が否が応でも高まってくる。同時に、離れた地点での他の人物がどのように行動しているのかも、並列的に分かる仕掛けとなっている。まさに現在進行中の「事件」へ放り込まれる感覚。
ダイアローグ「だけ」で構成された小説といえば、ニコルソン・ベイカー「もしもし」を思い出す。ダイヤルQ2(って今でもあるのかな)で初対面の男女がテレフォン・セックスに到るまでの会話を延々と続ける。読み手は現在進行中の対話に盗聴するような形で入り込む。こういうのは、対話体小説というらしい。
あるいは、メールを手紙と置き換えると、書簡体小説という立派なジャンルがある。夢野久作「瓶詰の地獄」とかギンズブルグ「モンテ・フェルモの丘の家」あたりを思い出す。これは、手紙を「見せてもらっている」立場から読者は参加する。「15×24」は、これらを混交させたような作りとなっている。
それだけじゃないんだ、「現在進行中の対話」の中に、「すべてが終わった後の回想」が、さらに混ざってくる。つまり、事件が全部解決(?)して、記者だか警察のインタビューに応えているような「会話」もある。「あのときはああだった」と過去形で語りだすんだ。その話し相手は登場人物によって異なるようだ――では、それは誰?
インタビュー形式の小説というものがあるのであれば、スティーヴン・キング「キャリー」「ドロレス・クレイボーン」、あるいは宮部みゆき「理由」を思い出す。これらは全編インタビューに「応える」形で構成されている。悲劇は通り過ぎた後になって初めて、気づくもの。
対話、つぶやき、メール、カキコミ、応答、回想、独白、筆談、そして絶叫。一切の注釈、解説などなく、すべてが「なりゆき」で転がっていく。最初は、「だれかの自殺を止める」ではじまった探索隊"ごっこ"が、別の現実の扉を開けてしまう。知りたくもない、知らないほうがよかった蓋を開けてしまうんだ。この「巻き込まれ感覚」はすごい。怖い。
まだある、情報が「追加」されているんだ。つまり、登場人物たちが知りえない(知るはずのない)ネタが、テキストの外側のイベントで共有されている。例えば、link one の p.295 で、自殺願望少年ジュンが一日周遊券を買って首都圏を彷徨しだす。このことは読者とジュン本人しか知り得ないのだが、なぜか探索メンバーの一人が知っている。では、そいつが怪しいのかというと、そうでもない。彼女自身、伝聞の形で知ったのだから。
では、ソースは?と考えてゆくと、「小説内の人物」と「読み手」と「裏切り者」がいることになる。別に小説だもん、おかしくないし。作家は神サマからただのナレーターまで、いくらでもどこまででも創造できるのだから――しかし、とそこで言いたい。全編会話で構成しようとしているのに、その縛りを自らぶち壊しにするか普通――?と考えると、一つの仮説が浮かび上がる――読み手のあずかり知らぬところで活動するメタ視点の"誰か"がいる。そしてその"誰か"は、テクストの外側からこの物語にかかわってきているのだと。
たとえるならば、あなたは、チュンソフトの「街」をプレイしているとしよう。既読部分は黄色、未読部分は白とテクストの色が変わるから便利だ。だが、ある晩、続きをやってみると、読んだはずのない箇所が「黄色」に変わっているのだ。このゲームをプレイする人なんていないのに、勝手にお話を進めているのは誰?という話になる。そしてその人の「かかわり」も演出の一つだとしたら――と、仕掛けを探し出すと止まらなくなる。愉しい、超愉しいぞ、このポリフォーニックな小説。
いい機会なので、3巻まで読んだ時点での「犯人当て」をしてみよう。ネタに絡むので、反転表示しておく。未読の方は、絶対にマウス反転させないように――犯人、つまり心中を装っている17(イチナナ)の正体は、温井川(妹)。自分の感情に自由な姉への確執から、姉を狙った心中偽装が真の目的かと。ジュンはそのトラップにかかっただけ。祖母の臨終に立ち会うため、ネットにアクセスできないことにより、心中時刻が延期されたんじゃぁないかな?かな?。心中場所は――そうだな、明治神宮の初詣の人ごみがいいんじゃない?――さて、この予想はどうなるか、年末が楽しみだー
読み始めたら感染する、「15×24」はそんな読書。
■ 「軽蔑」 モラヴィア
オシドリ夫婦が壊れていく話。
「よくあることじゃん、現実にも」という方には、次の点を強調しておこう。この小説は、男性側から一方的に見た、「オシドリ夫婦が壊れていく話」なんだ。インテリであり作家である夫が告白する形式なのだが、その回想描写が正確であればあるほど、心理分析が的確であればあるほど、疑わしく思えてくる。なにが?なにもかもが。
わたしたちは愛し合っていた。この物語の主題は、わたしが依然として妻を愛し、妻を無批判に受けいれていたときに、どのようにしてエミーリアがわたしの欠点を見出し、あるいは見出したと思いこみ、わたしを批判し、ついにはわたしを愛さなくなったかを語ることである。
愛さなくなっただけでなく、夫のことを軽蔑し、静かな怒りまで抱くようになったという。夫にしてみれば、身に覚えもなく、やましいことも一切していない(と思っている)。なので、最初は戸惑い、次に怒り、ついには泣きつく。
読み手は、「なぜ妻はわたしを愛さなくなったのか」という夫の繰り言に強制的に付き合わされることになる。夫が見過ごしてしまった言動の中にその原因を探す、いわば探偵役としてストーリーに入っていく。序盤から中ほどまでは、この探す楽しみがミステリのようで面白い。ただし、出だしから不吉な通低音が鳴り響いているので、カタストロフを覚悟しながらの読書になる。
■ 「ロリータ」 ウラジミール・ナボコフ
ロリータという幻肢。
かつて読んだはずなのだが、「見た」だけだった。ストーリーをなぞり、会話を拾い、あらすじと結末が言えるようになることを、「読む」と信じていたことが、痛いくらいわかった。
今回の読書で発見したもの――それは、濃度と速度。
「文章を味わう」といった自分でも説明できない言い方ではなく、物語や描写の濃度と速度そのものから快感を得る。アクセルを踏んでスピードがぐっとあがるときに感じる高揚感に近い。あるいは高速から下りた直後、視界が広くなると同時に、周囲が密集していることを感じるときにも似ている(スピード出していると、運転に関係しない情報は棄却される。逆に緩めると、世界が情報に満ち溢れていることに気づかされる)。
ロリータを含めた過去を総括する形の記述上、描写の濃淡が記憶の密度と比例している。だから、物語的だった描写が一転し、ひとつひとつの事物を綿密にしだすとき、わたしは身構える。S.キングやJ.アーヴィングでおなじみだったが、ナボコフは転調の兆しとして、「色」を与えているところが一枚上手だ。
喜劇を悲劇に転回するポイントで、突然、具体的な色をあたえられ、時系列で叙述される。「紫」に喪服の意味があることを知って読むのと知らないで読むのとでは、ダメージが違ってくるかもしれない。それくらい意味があるようだ。
一方、ロード・ノヴェル編ともいうべき中盤は、見知らぬ地名や見慣れたモーテルの調度に散文的に目を投げかける「みだれぐあい」に気を配って読む。記憶が散漫になっている印象が、そのまま読み手の記憶と化す。ロリータとの過去と、本作に触れている読み手の今との往還が断ち切れる。自己正当化が見え隠れするペダンティックな書き口から、光景そのものが立ち上がってくる。このリズムと転調がきもちいい。
気持ちよさを意識して読むことで、何層も気持ちよくなれる。味蕾に集中した食事や、嗅覚を利かせた飲酒といった「たとえ」で示してもいいが、この快楽の追求方法は、セックスそのものに近い。
■ 「灯台へ」 ヴァージニア・ウルフ
中毒性のある文にハマる。
ヴァージニア・ウルフは初読だが、こんなに魅力的な文だったとは。既知の形式ながら、ここまで徹底しているのは初体験。文の妙味は分かってるつもりだったが、小説でここまでできるとは知らなかった。わたしの精進の足りなさを自覚するとともに、小説の拡張性を具体例でもって味わうことができた。
まず、地の文と会話文の混交がいい。ほぼ全て、登場人物の心情の吐露と会話に埋め尽くされているのだが、明確に区切らないのが面白い。つまり、対話をカギカッコでくくったり、地の文に埋めたりするのだ。普通の小説でもこれはやるのだが、この作品ではより徹底している。つぶやきに埋め尽くされた小説世界に没入することができる。
おかげで読み手は、人物の思考と発話を選り分けながら読む進めることを余儀なくされ、よりその人に「近い」視点でその場にいることができる。「人物~作者~読み手」の真ん中が完全に姿を消しているのだ。面倒がる方もいらっしゃるかもしれないが、わたしには濃密で心地いい。
直・間接話法の混在だけではない。「誰それが何と言った」のような説明が意図的に省略されおり、いきおい、読み手は話題そのものから語り手を見つけ出さなければならない。ともすると「その発言は誰なのか?」を追いかけるために行きつ戻りつを強いられることになる。ストーリーを追う形式なら、これは苦痛でしかないが、これはストーリーらしきものはない。十年間を挟んだ、二つの夏の日を描いたもの。
そこには回想があり、空想があり、願望があり、後悔がある。人の心の内と外、過去と現在と未来は継ぎ目なしにつながっていることが分かる。ストーリーに取り残される心配をせず、好きなだけ「つぶやき」に同調できる(大きく動くときには、専用の語り部を用意してくれている)。
わたしが読んだのは鴻巣友季子の新訳なのだが、よく考えられている。語りのリズムやスタイル、語彙を通じて、人物の思考をなぞらせようとするウルフの筆致を読み取って、その人物に応じた書き分けをしている。巻末の解説では「人物の声帯模写ばかりか、一種の思考模写」と評しているが、上手く伝わってくる。訳者は、いったんは作者の側に立って「声」の出所を考え、再び読者の側にもどって「声」の音量・音質の微調整に細心の注意を払っている。
そのおかげで、主体の多様性を何層にもわたって味わうことができた。キャラの数だけ現実がある、といったレベルに限定せず、人物を超えた「語り」の声も聞かされるのだ。三部構成の第二部「時はゆく」で巨きなうねりがあるのだが、映像でたとえるならハイスピード撮影をひと息に見るような感覚に陥るに違いない。
同時に、世界は「つぶやき」に満ちていることに気づくはずだ。
■ 「オデュッセイア」 ホメロス
究極の、「ものがたり」。
英雄オデュッセウスの冒険譚で、ご存知の方も多いかと。一つ目の巨人キュクロプス(サイクロプス)や、妖しい声で惑わすセイレーンといえば、ピンとくるだろう。トロイア戦争に出征し、活躍をしたのはいいのだが、帰還途中に部下を失い、船を失い、ただ一人で地中海世界を放浪し、十年かけて帰ってくるんだ。
このオデュッセウス、勇猛果敢なばかりか、知恵と弁舌がはたらく策士でもある。あわやというところで、(運もあるが)機転を利かせてくぐりぬける様は痛快だ。一つ目のキュクロプスの目を潰すとき、自分の名前を「ウーティス(誰でもない)」だと騙す話なんて、様々な物語に翻案されている。魔法で豚の姿に変えられたり、冥界に降りて予言を聞いたり、前半の奇譚集はどこかで聞いた覚えのあるネタの宝庫だろう。
オデュッセウスは、とにかく弁が立つ。物語るのが上手いんだ。相手の力量や真意をはかるため、自分の身分を騙るのが得意ときたもんだ。翻訳者の注釈のおかげで、読み手はそれが「嘘」だと分かるが、あまりの立て板に水っぷりに、地の文まで疑いたくなる。
つまり、十年におよぶ冒険話も、ぜんぶホラ話なのではないかと。トロイア戦争に出たのはホントだけど、土地の女といい仲になり、帰るに帰れなくなってしまったのではないかと。海の女神カリュプソーが彼を気に入って、帰そうとしなかったとあるが、オデュッセウスの口からでまかせだとしたら?
そうすると、俄然おもしろくなる。巨人退治や大渦潮の化け物の話は、旅先の土地にまつわる伝説をネタにでっちあげ、お土産の金銀財宝は海賊行為で集めたとしたら?十年も家をほったらかしていた理由を、この壮大な物語で言いわけしようとしたら?と仮定すると、「智謀に富むオデュッセウス」が「ずるく悪賢いオデュッセウス」に見えてくる。
これは、究極の、「もの騙り」になのかもしれない。
┌―――――――――――――――――――――――――――――――
│□□□
│□□□ この本がスゴい!2009
│□□□
└―――――――――――――――――――――――――――――――
■ 「モンテ・クリスト伯」 アレクサンドル・デュマ
この世で、いちばん、面白い小説と呼ばれているが、本当だ。
筒井康隆が「ひとつだけ選ぶならコレ」とベタ誉めしてたので手を出す。ジュヴナイル向け「巌窟王」で読んだつもりになっていたが、今回、岩波赤版「モンテ・クリスト伯」でブッ飛んだ。
ストーリーを一言であらわすなら、究極のメロドラマ。展開のうねりがスゴい、物語の解像度がスゴい、古典はまわりくどいという方はいらっしゃるかもしれないが、伏線の張りがスゴい。てかどれもこれも強烈な前フリだ。伏線の濃淡で物語の転び方がミエミエになるかもしれないが、凡百のミステリを蹴散らすぐらいの効きに唸れ。読み手のハートはがっちりつかまれて振り回されることを請合う。
みなさん、スジはご存知だろうから省く。が、痛快な展開に喝采を送っているうちに、復讐の絶頂をまたぎ越えてしまったことに気づく。その向こう側に横たわる絶望の深淵を、主人公、モンテ・クリスト伯と一緒になって覗き込むの。そして、「生きるほうが辛い」というのは、どういう感情なのかを思い知る。読まずに、死んだら、もったいない。このblog読んでる全員にオススメ。読むときは、イッキ読みで。
殿堂入りするようなスゴいやつは、やっぱりワールドワイドな古典だったり超弩級にメジャーな作品だったりする。それはそれで仕方ないとはいえ、その古典にアクセスできるのも、わたし独りの努力や才覚ではない。「○○が面白いなら△△なんて、どう?」というつながりを手繰っていって、たどり着く。きょうび、古典も沢山あるからね。
―― + ―― + ―― + ―― + ―― + ―― + ―― + ―― + ―― + ―― + ――
いわゆる文学全集だけ読んで、「めぼしいやつは読んだ」と、うそぶく度胸は無い。あるいは、小説ばっかり読んでるくせに「食わず嫌いはしてません」なんて言うほど顔面厚くない。あるいは、古典だけ大深度まで掘り読んで、他はカスだと放言する肝もない。ジャンルや垣根は、読み手が自分の内側に作り上げてしまうもの。自分で区切ってしまうのは、もったいないし、かなしい。
わたし自身、そうした「読み」をしてきた。井の中の天狗になって、狭い世界で喜んで満足していた。そこが世界全部だと、本気で信じていた(痛たたたた、痛すぎる)。そんなわたしにとって、ときには優しく、あるいは嘲笑しながらオススメを知らせてくれる「あなた」は、たいへん貴重だ。親切にもコメント欄で教えてくれる方から、(本人は陰口のつもりで)某掲示板で叩いている人まで、参考になった。わたしがいかに読んでいないか、読むべきスゴ本がたくさんあるか、思い知らせてくれた「あなた」には、どんなに感謝してもし足りないくらい。
自分がハマっていた場所が「狭い世界」だと気づくためには、居場所の「外側」に出なければならない。そのために、ここでレビューを書く。このblogは「外側」への扉であり、「あなた」を探すポータルになっているのだから。わたし一人が探せる本なんて、タカが知れてる。だから、あなたを探す。偏っていようとも、煽られようとも、「それがスゴいなら、コレなんてどう?」とオススメしてくれる、結節点ともなる「あなた」を。
なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。
―― + ―― + ―― + ―― + ―― + ―― + ―― + ―― + ―― + ―― + ――
さて、ここからはオトナ向け、数寄屋のための「スゴ本2009」になる。明らかに成人限定のアダルトなヤツから、ノンケ無用のもの、電車の中では開けられないような作品を選りすぐってみた。ここから先は、18禁かつ覚悟完了の上で、どうぞ。
最近のコメント