詩は別腹「終わりと始まり」
あたらしい本をめまぐるしく読み散らかして、「読んだ」という満腹感しか得られない。そんな貧しい読書から離れるために、毎晩一編ずつ、詩に浸る。立ちどまり、くりかえし、かんがえる。昔の誰かを思い出し、遠くのあの人を想像する(あるいは創造する)。
そんなきっかけとして、ヴィスワヴァ・シンボルスカの詩は、読むことがそのまま経験になる時間だった。特に、「終わりと始まり」は、メッセージ性よりも言葉そのものの強さを思い知った。出だしはこんな風になる。
戦争が終わるたびに
誰かが後片付けをしなければならない
何といっても、ひとりでに物事が
それなりに片づいてくれるわけではないのだから
誰かが瓦礫を道端に
押しやらなければならない
死体をいっぱい積んだ
荷車が通れるように
戦争や平和を詠った作品は沢山あるが、戦争が終わったあとの「後片付け」になっているのが珍しい。その日常/非日常をテーマにし、平明な言葉遣いで淡々と描く「戦後」の中の死体が生々しい。
それは、壊れたものを運んだり直したりする、あまり見栄えのいい仕事ではない。カメラは別の戦争に出払ってしまうが、シンボルスカの眼はそこが「始まり」とする。生き残った人たち、その次の世代の人たち、さらにその後の人たち…あっという間に時代を行き過ぎる。一行と一行が十年経っているものもあるので、油断ならない。流れるように書かれる文を彫るように読む。
シンボルスカはポーランドの詩人、1996年にノーベル文学賞を受賞している。彼女一流のユーモアは、「憎しみ」という感情に人格を与えてしまっているところによく表れている。萌え風に言うなら、「ヘイトたん」だろうか。「憎しみ」という作品において、こう表現されている。
ほかの感情とはちがう
どんな感情よりも年上なのに、同時に若い
それは自分を生み出す原因を
自分で生む
不条理に満ちた、「世界」という名の他者に、ただ言葉でもって向かい合う。それは普遍性を持ちつつも、イデオロギーやプロパガンダやマスコミの報道とは異なり、個から個へ語りかけてくる。翻訳されても壊れない、直接、そのままの伝言として。
この出会いは、ブック・コーディネーターの幅允孝さんのおかげ(ありがとうございます)。ホントークという、本にまつわる本気のトークで知った。11/12 のホントークvol.2 [URL]には参加するつもり。これを読んでいる誰かと会えたらいいですな。

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