油断のならない語り手「庭、灰」
実験的な色彩が強く、読み流すと「破綻した物語」に見える――のだが…
ただの回想録と思いきや、語りの技巧にヤられる。最初は、少年時代の思い出を、時間の流れに沿って描いてゆく。死の恐怖、夢と死、母への思慕、父の紫煙、ユリアとの初恋…読み手は、自分の幼い頃と重ねながら甘酸っぱさを共有するかもしれない。
次にそれをベースにして、謎めいた存在だった「父」の探求を始める。いずれも「いま」「この場所」で「読み手に向かって」、「僕」が語る形式をとっているのだが、それぞれの要素がよじれてくる。ここから、まるで別物に見えてくる。
記憶よりも連想に寄りかかり、筋は論理矛盾を起こし、話者は「不確かな語り手」と化す。展開は絶えず断ち切られ、それらをつなぐ相関は、五感――視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚によって、身体的な表現へ触発される。モンタージュ、フラッシュバック、フェイドアウトなどの映画手法が応用され、視覚効果が強くなる。読んでいるよりも、語りを通して「見て」いるような読書。
あたりまえなのだが、「いま」追いかけているこの小説の読者は、「読んでいるいま」から未来へ向かって、時間が経過するという常識の上に立っている。しかし、語り手の「僕」が、ときとして妙に幼い口調になったり、インテリ青年風のしゃべり方になったりするため、ちゃんと読むと混乱する。語っている「僕」が、「いま」からスピンアウトして語られている当時まで入り込んでいるように見える。
つまり、記憶を掘り起こす曖昧な背景に、恐ろしいほど細密な描写が、あたかも現在起きているかのように語られるのだ。クロアチア語(?)は不案内なのだが、時制はきっと延々と現在形に違いない。この時間的な距離感が、読み手を惑わせるのだろう。
さらに、物語そのものの一貫性も、途中でねじれてくる。時系列的に明らかに前後した一節が紛れ込んでいたり、既に死んだ人物がエピソードに登場する――という「語り」を聞かされる。途中までは、首尾が通っていたので安心して筋書どおりに身を任せていたわたしは、そのねじれに当惑するというよりも、途方にくれる。解説で訳者はその部分を指摘して、「アウシュヴィッツで消えたという父の"悲話"を嘲笑するジョーク」というが、わたしはそれを信じない。あるいは、「僕」は、過去を語りなおすことを通じて、「あったかもしれない過去」を創造しているのだろうか?
あちこちにちりばめられた、メタファーや、隠喩を超えたイメージ喚起も油断がならない。ある若い女性が「僕」の前で発作を起こして倒れるのだが、その際、スカートの中の「絹のような身体の内側」が見えてしまったという。それを、「舞踏会用の長手袋」に喩えるのだ。もちろんこれは、おぱんつのメタファーなのだが、下着を飾るレース=長手袋のレースと想起させる。でもって、その日以降、あれほど甘えていた母から「僕」は距離をおくようになるのだ。下着を見せた女性の名前はエディット嬢という。もちろん、あのエディプスに引っ掛けている寸法だ。
こうしてつくりあげられた濃密な情景の一ピース一ピースが、すこしづつバラバラになり、朽ち、消えてゆく。ラストの喪失感はひとしお。思い出の数々がビジュアライズされた後、闇に消えていく。わたしの思い出ではないのに、大切なものがなくなったように思えてならない。
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誤り(?)を見つけたので、メモ。
つまり二日二晩、テラスに寝そべり、お墓にでもいるみたいに、泣きたいだけ泣き、吠えたいだけ吠え、それからある朝、僕たちの家の扉の前に引っ越してきた。(p.138)「泣きたいだけ泣」いているのは、犬のディンゴ。この犬が捨て犬として登場するシーンは、「僕」の夢の中で赤ん坊が泣いている声にかぶさるようにして描かれているため、「鳴く」→「泣く」と超訳したのかなぁ、と好意的にとらえる。子犬と子どもである「僕」との親近感も説明されているから――しかし、ちゃんと「鳴く」と表記している箇所もあるため、誤変換なんだろうか。「泣く」ことができるのは、人間だけですぞ。
その後で牝牛は悲しみのあまり病気になって、その牝牛らしいの悲しみのために子牛を産まなくなり、餌を受け付けず、乳も出なくなった。(p.155)「牝牛らしいの悲しみ」は明らかに誤植だろう。他にもちらほらあり、連想と幻想のリズムが崩れて残念…
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