それなんて俺?「読まず嫌い」
「本」に対する態度が、わたしと似て非なる。あるいは、自分に引きこもる読書の限界は、わたしが言ってきたことを代弁しており、まさに俺ガイル状態で楽しめた。と同時に、良さげな小説をいくつも見つけたので、週末に収穫にいくべ。
本書はブックガイドというよりも、本を叩き台にしたエッセイだね。まず著者は、自らを「筋金入りの読まず嫌い」と宣言する。そして、読まず嫌いだった数々の名作を下敷きに、避けてきた理由、再会のきっかけ、正直な感想を白状している。本書は、そんな読まず嫌いの、さまざまな名作小説との和解の記録なんだ。
著者・千野帽子は、まずミステリが嫌いだそうな。人殺しの過程は楽しいが、謎解きの部分は伏線を回収する消化試合みたいで退屈。SFはめんどうくさいので嫌い。伝奇小説のブームに食傷気味になって嫌い。ファンタジーなんか読むのは垢抜けない女だけだから嫌い。ライトノベル読むくらいならマンガ読む。純文学は押し付けがましくて嫌い――と、嫌い、嫌い、嫌いのオンパレード。
きっと驚くに違いない。なぜなら、本と読書にまつわる本だから、これを手にする人はまちがいなく、「読書好き」だから。自分が好きなジャンルを「嫌い」だとバッサリ斬られ、気分を害する人もいるかもしれない。でも待てよ、これは…一種の「自分史」なんだ。「面白くない」というのではなく、より主観の強い「嫌い」というところがミソだね。
そして、この「嫌い」が→「面白いじゃないか」に変わる瞬間が語られる。なるほど、と頷くこと幾度、そうかな、と傾げること数度。たとえば、ポー「モルグ街の殺人」。あれはミステリの元祖でありながらミステリの規格外になるという。なぜか?
…これに答えることは、「モルグ街」のネタバレになる。みなさん読んでることと思うが、念のため反転表示にするね。ミステリの約束事である謎があってそれが解かれる…まではいいとして、犯人が人でなかった、事件を匂わせておいて事故だった、というのは(今の本格ミステリからすると)反則。そういう小説も確かにあるが、ミステリからすると傍流だ。で、いわゆる王道ミステリを読み込んだ目からすると、「モルグ街」が逆に新鮮に見えてくるのだ。
というのも、こんなにも魅力的なのは、後続する「行儀の良い本格ミステリ」のおかげだという。いったん確立したジャンルは、その中での「縛り」に制限される。その結果、似たようなものばかりになり、そのうち飽きる。だからいったん(読まず嫌いで放置していた)名作に戻ってみると、ジャンル確立以前の野蛮さに魅力を感じるのだそうな。
確かにその通りだと思う…が、お約束を破壊したり、お約束をメタ化しちゃうような作品もあることをお忘れなく、と付け加えたくなる。舞城王太郎「煙か土か食い物」、あるいは貫井徳郎「慟哭」をオススメしたくなる。帝国ができあがると、反逆者や破壊者が現れるのと一緒。
あるいは、名作認定されながら、そのまま埋もれてしまった物件や、そもそも商品として生き抜いてこられなかった名作を「発掘」してはオススメしてくれる。特に、わたし好みの劇薬小説を教えてもらえたのが嬉しい。それは、ミシェル・トゥルニエ「魔王」ナリ。もう読まないうちから劇薬認定してtwitterでゆりぽさんにもオススメしたやつ。主人公は性倒錯者、オリジナルな変態性欲を持つ大男だそうな。
どのくらいオリジナルかというと、子どもたちを丸刈りにして手に入れた大量の頭髪を蒲団や枕に詰め込んで、その「子どもの麝香臭」に包まって恍惚となって眠るとこ。あるいは、地雷の誤爆で粉微塵になった少年の血を爆風とともに浴びたとき、それを血の洗礼と解釈するとことか。「名作に上品な人生訓を求める人をドン引きさせること必至の病的悪趣味と不謹慎がてんこ盛り」なんだそうな。
その著者のミシェル・トゥルニエは、「フライデーあるいは太平洋の冥界」を読んだことがある。裏ロビンソン・クルーソーというか、斜め上の展開にのけぞることを保証する。確かに洞窟や枯木とファ○クして蟻に刺されてのたうちまわる彼は、読み手の「ロビンソン」像を破壊してくれるだろう。わたしのレビューは、 このロビンソンが面白い「フライデーあるいは太平洋の冥界」 をどうぞ。
興味深い考察もしている。「文庫本はほんとうに安かったのか?」というお題で、同じタイトルを単行本で買ったときと文庫本の場合とを、比較検証している。
たとえば、集英社「ギャラリー世界の文学」を俎上に上げる。その第14巻は「罪と罰」とトルストイの「アンナ・カレーニナ」を無理やり一冊に収めて、税込み4,935円也。同じ作品を新潮文庫で揃えると、合計五冊で3,620円、ずいぶんお得だという。さらに岩波文庫だと少々お高くなって、六冊の合計が4,956円とほぼ同額。さらに光文社古典新訳文庫では合計七冊で6,340円になり、「文庫もレーベルによって単価が違うということだ」と結論づけている。
えっ?
20年くらい前と今では本の物価も違うぞ。だから、消費者物価指数で比較してみよう。品目別価格指数[参考]の単行本Bで比較する。これは2005年を100とした指数で、光文社古典新訳「アンナ・カレーニナ」が出のが2008年、集英社「ギャラリー世界の文学14巻」が出たのは、1990年だ。単行本の物価は以下の指数となっている。
年 | 物価指数 |
2008 | 102.2 |
1990 | 58.7 |
当時と今とで、102.2/58.7=1.741... およそ1.7倍の違いがある。つまり、ほぼ20年前の文学全集を、いま出すとするならば、4935*1.7=8389.5 八千円超の価格となる。まとめると、こうなる。
年 | 物価指数 | 価格 |
2008 | 102.2 | 6,340円 |
1990 | 58.7 | 8,389円 |
つまり、物価を考慮すると、やっぱり文庫がお得、になりそうだ。子どものころの感覚からすると、今どきの1,000円を超える文庫は高価(たか)いと思ってしまうのだが…それよりも、世界の古典や名作が、手軽に本屋で買えてしまうほうがスゴいと思うぞ。
わたしと似ているなー、と思ったのは、「本」に対する姿勢。いまの自分が気持ちいいものだけ読んでいると、パターンに慣れてきてマンネリズムに陥るという。自分で「壁」をつくり、その中に引きこもった読書になる。そのパターンの中での王様となり、その中にいないと「読書」ができなくなるんだ。
著者は、そんな井の中の王を、「囚人というより、自分の作った読書のルールに奉仕しつづける、もうほとんど奴隷」と断ずる。いるよねー、そんなヤツ。「そんなヤツ」にならないように戒めているんだが、わたしもヒトのコトいえない。わたしの場合、このblogでビシバシ指摘してもらっているのだが、本書では、「アンソロジーを読め」という。
自分好みばかり読んでいれば、やがてその楽しみも先細る。けれど、視線を別方向に転じれば、読むべき作品はまだまだあるのだという。それが、「名作」なんだそうな。そして、名作への苦手意識を和らげ、敷居を下げるためには、テーマ別アンソロジーがぴったりだという。以下は自分メモとして抜き出したもの。
「ちくま文学の森」(筑摩書房)
「澁澤竜彦文学館」(筑摩書房)
「光る話の花束」(光文社)
「日本文学における美と情念の流れ」(現代思潮社)
「イメージの文学史」(北宋社)
「現代文学の発見」(学芸書林)
あとこれに、国書刊行会「文学の冒険」を足したい。これだけあれば、読むものに困ることはなさそうだ。
このエントリに対し、著者よりトラックバックを頂く。そして、[著者ご本人の指摘]の通りだと納得する。上記のわたしの考察は見当違いだが、自らの戒めのために、そのまま残しておく。この「まとめ」は[千野帽子さんに応答する]を参照のこと
| 固定リンク
コメント