グルーヴィな教養「かたち三昧」
「超人」高山宏の文業を見る。ほとんどこじつけとしか思えないアクロバティックな「読み」や、連想される「かたち」から横滑りしてくる発想、奇想・異端・博覧強記の弁舌に圧倒される。内容と形式を一貫するフィギュア、もしくはそういうアートとしてのフィギュアリズムの「研究」と「実践」と称し、漱石からエーコまで跳躍する。
たとえば、マニエリスムお得意の蛇状曲線(serpentine line)から、漱石の遺作「明暗」を読み直す――すると、「蜿蜒」が多いという。「えんえん」と読ませるのではなく、「うねくる」というルビが、漱石らしさなんだと。それこそ蛇がうねうねと遡行する様を彷彿とさせる。
そして「明暗」は、男女の自在な組み合わせで駆け引きがてら語を交わすうち、話がどんどんもつれていく「言語ゲーム」が楽しみどころなんだと(スピーチ・アクト小説というらしい)。今風なら、twitter小説になるのかね…そういう読み方で読んでみる。
漱石の自由な読みは、「大人になれなかった先生」で紹介したが、漱石を金科玉条のごとく守る輩には、ガマンできないかもしれない。あるいは、「かたち三昧」の後半にある、漱石とキュビズムを連携させた論文「夢の幾何学」を読んだら卒倒するだろうな。
著者は、漱石「彼岸過迄」のラストシーンを、ウンベルト・エーコ「薔薇の名前」の僧侶探偵が吐露するにふさわしいという。そして、探偵役に残される「蛇のステッキ」こそが、漱石のフィーグラへの執着なのだという。ホントかよw、とツッコみたくなる無理筋ギリギリの読みが楽しい。
最近見たサーペントラインなら、「なでこスネイク」におけるスク水の千石撫子だろう。あらわな姿態も蛇状曲線(女が最も美しく見える姿勢)まんまだったし、肌に浮かぶ鱗模様も蛇のもの。マニエリスムをどこまで意識して(意識しなくて)作ったかは不明だが、"そういう目"で読みなおし/観なおしすると面白いだろう(高山氏に見せたら止まらなくなるかもー)。
もうひとつ。ラブレーからAA(アスキーアート)への連想ゲームがユニークだ。酒賛歌を、酒瓶の形そっくりに歌ったのが、ラブレー「ガルガンチュワとパンタグリュエル」全体の幕切れにある。なるほどページ上部には"la Dive Bacbuc"(バッカスの酒瓶)の遊戯詩が並んでいる。古代ギリシアでは「テクノパイグニア」と呼ばれ、中世はカルメン・フィーグラートゥム(carmen figuratum/形の歌)と称して愛され、今ではパソコン画面のAA(アスキーアート)として復活しているという。
しかし、AAはあくまで「形」をキャラクターで表現したもので、そのキャラクターの並びから意味をとれない。ちと無理があろうかと。フォトモザイク、もしくはモザイクアートが似ているかなぁと思った。遠目にはジョージ・W・ブッシュの顔写真なんだけど、拡大して見ると、種々雑多な肛門の画像を組み合わせでできているやつ。チト違うか。
著者の柔軟さ(付会?)は伝染する。「こうも読める」「ああも見れる」というズレた目線は、そのまま、こっちの経験に火をつける。もちろん相手の方が十枚も二十枚も上手なので敵うわけがない…が、それでも喰らいつきたくなる。教養を積むというより、「いかに面白い読みができるか」というノリ(groove)の勝負。テーマがちょっとずつズレていく感覚はスウィングそのもの。凡百の端本とは違い、人名索引・文献索引が充実している。マニエリスムの毒気にあてられても、この索引があれば自分で弾けそう。
版元は羽鳥書店、今年できた気鋭の(ただし中の人はベテランの)出版社ナリ。いわゆる大手取次とは一線を画した営業にキアイを感じる。頁のてざわりやフォント・装丁など、本の「つくり」が他とまるで違う。いわゆる量産型の安っぽい「使い捨てられる情報」じゃないんだよ!というメッセージが勝手に伝わってくる。
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