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外道限定「魔王」

 わたしの変態妄想のナナメ上を逝く外道の話。

魔王1魔王2

 カワイイ女の子と目が合ったら、「俺に気があるのかしらん…ヤベ、妻も子もいるのにどうしよう、とりあえず新しいパンツ買おう」と妄想と股間をたくましくするのは普通だよね?あるいは、大金持ちになったらローションのプールに裸の女を敷き詰めて飛び込みたいといった願望を抱くのも、そんなに常軌を逸していない…と思いたい。そういう、ささやかな変態趣味を打ち砕く話だ。

 時代は1940年前後、舞台はパリからプロイセンの森まで。主人公ティフォージュは、パリではまっとうな変態だった。小さな子どもを眺めたり担いだりするのが大好きで、自分で暗室をこしらえては盗撮した写真を現像するくらい。学校帰りの子どもがわーっと駆け抜ける路地に突っ立って、若い肉体の奔流を遡行する鮭のようにもみくちゃにされるシーンでは、「翼ある幸福」と名づけており、微笑ましい限りだ。

 しかし、少女暴行の嫌疑をかけられ拘留されるところから、彼の人生は狂い始める。いや、彼の望むほう望むほうへと流されていくのだから、「狂う」という表現はヘンだね。人生お先真っ暗!というピンチになると、なにかのチカラが働いたかのように、チャンスに取って代わる。そこに超次元的なものなどないのだが、その「偶然」を、徴(しるし)だと思い込んでしまう。つまり自分は選ばれし者で、運命のなかからその啓示を受け取る使命があるのだと。

 で、小説内の描写のほとんどが、この徴のメタファーに満ち溢れている。ゲーテのバラード「魔王」、誘拐・誘惑者「青ひげ」、幼子イエズスを背負う「クリストフォルス」を示す象徴が、あちこちに散らばり、埋め込まれている。読み手は主人公とともにそんな徴(しるし)を探すことに精力を費やされる。これがまた難解なのよ。だが親切なことに、著者ミシェル・トゥルニエは、わざわざ注釈を入れてくるほどの徹底ぶりだ。

 子ども達を散髪し、山のようにできた髪を布団や枕に詰めた「特製ベッド」でのたうちまわるとか、シャワー室に寝そべり、熱い湯を浴びながら子どもたちに踏みしだかれて随喜するとか、なかなか斬新なプレイを提案してくる。対戦車地雷を誤爆させ、霧化した子どもの血潮を浴びるトコなんて、完全にイッてたんじゃぁないかと。

 その変態傾向にもかかわらず、奇妙なことにソドミーは出てこない。青ひげよろしく幼児誘拐したり、少女の裸の人いきれを胸いっぱい吸い込んだりする「おたのしみ」はあれど、セックスとしての相手にはならないのだ。性器が非常に小さいせいなのか?その代わりのメタファーとして、牡鹿の角と睾丸の関係が延々と語られたり、馬の尻から出てくる糞をこと細かに描写したりする。たとえばこんなカンジ…

ある夕方、水肥のあまい香りのただよう馬屋の黄金色の夕闇のなかで、輝く尻が仕切りごとに波打つのを眺めているうちに、青ひげの尻尾がその根元からやや斜めに突っ立ち、もぐもぐうごめく、小さい、突き出た、固い、きっちり閉じられた、まるで輪金で締めた袋のように中央に襞のよった肛門が現れた。そして、すぐに、その袋は高速度撮影の薔薇の蕾が開くような速さで外側へむき、ジギタリスのようにめくれると、薔薇色の湿った花冠を外に開いた。その中央から、感心するほど形のととのった、光沢のある、まったく新しい糞の塊りが現れ、一つずつ、壊れずにわらの上にころがった。
 「バラの蕾」っつったら普通女性器を指すのに、そうしたお約束を外す心意気。しかも「入れる」のではなく、「出す」ほうだから意味が反転してしまっている。主人公ティフォージュは、そんな排便行為のみごとさに打たれる。そして、馬のいっさいの本質はその尻にあると喝破し、尻は馬を排便の神だという本質に達するのだ。

 前作「フライデーあるいは太平洋の冥界」[レビュー]は、ロビンソン漂流記の見事な倒置だったとするならば、「魔王」は、ホロコーストの倒錯した寓話になる(反転部分ネタバレ注意)。人を選ぶ小説でしょ?なので、上述の描写が響くのであればオススメ。徴(メタファー)に押しつぶされる読書になることを、請け負う。

フライデーあるいは太平洋の冥界

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【告知】 「本が売れない」ホントの理由を知るための3冊を、週刊アスキーにてご紹介

「出版不況は、若者が本を読まないから」はウソ。でも「本が売れてない」はホント。では、本が売れないとはどういうことか?そもそも「出版」て紙の話だけなの?あるいは発想を変えて、「本というオブジェクト」を売るためには?

そんな疑問に答えるための3冊を、週刊アスキー11/10号にて紹介。巷に数多の「ベキ論」「理想論」「希望的観測」を廃し、ファクトベース・実績重視で論じているものばかりを選んだ。字数制限のおかげで削りまくっているけれど、それだけ高密度の仕上がりとなっている。どの3冊でどんな話かって?それは実際にお確かめくださいませ。珍しいことに2Dが表紙、ハニカムのりっちゃんが目印ですぞ。

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被曝治療83日「朽ちていった命」

 核爆発時の爆心地レベルで被爆した人は、どんな運命をたどるのか?

 1999年9の月に起きた、東海村の臨界事故。核燃料の加工作業中に、大量の放射線を浴びた男を救うため、日本最先端の医療チームが結成される。本書は、患者とその家族、医療スタッフという「人」に焦点を合わせ、壮絶な83日間をレポートする。

 運びこまれたときは"普通"に見えていた患者の染色体は、既に完全に破壊されていたため、症状が進行してゆくにつれ、臓器・組織・機能は深刻なダメージを受けていく。読み手は、放射線被爆の凄絶さとともに、前例のない治療を続ける医療スタッフの苦悩に向き合うことになる。

 もちろん患者の細胞は、ほとんど分裂しない。新しい細胞が生み出されることなく、古くなった皮膚が剥がれ落ちてゆくと、どうなるか?カラー写真で示された「右腕」が詳細に語る。入院当初の、ふつうに見える右腕と、被爆26日目の、ちょうどミディアム・レアに焼けた同じ腕の写真は、おもわずページから目を背けるほど。

 医療チームも闘いだ。これほどの放射線被曝をした患者の治療自体が初めてで、最高のスタッフとはいえ試行錯誤をしながらの治療だったという。再生をやめ、朽ちていく体。助かる見込みのない治療。病院を取り囲む報道陣(←この事実は、本書に書いてない)。現場のプレッシャーは相当なものだったろう。

 今なら取りざたされる終末医療だが、これは10年前。「おれはモルモットじゃない」と激昂したり「痛い痛い、家に帰してくれ」と泣き叫ぶ患者のQOL(Quality of Life)は存在しない(QOLの方針は立てられない)。最後は「とにかく"生きている状態"を少しでも長く保たせること」が目的化する。ぼろぼろになった臓器や皮膚を前に、「治療と称するもの」を続けていかなければならない。そして、自分がやっていることは医療行為なのか?――と疑問を押さえ込もうとする。ぎりぎりの状況での発言は、即、士気の低下につながるから。

 「朽ちていく」という上品な表現を使っているが、実質は、生きながら腐っていくカラダだったんじゃないかと。血液やリンパ液を注入しても、大半は流れ出し、包帯へしみこんでゆく。循環していない肉は腐る。本書から注意深く取り除かれていたけれど、治療室内の「臭い」はかなりのものだったと思う。

 当時を「がんばった」と評するスタッフは多い…というか、ほぼ全員そう述べる。歴史的な事故の犠牲者に対し、最先端の機器で最高のスタッフが不眠不休で「がんばった」。どんな状況でも「生きることをあきらめない」を至上とし、「がんばる」。171頁目は、1ページに6回も「がんばる」が出てきて噴いた。そのとき、患者は大量の麻薬物質を注入され、痛みも意識もない状態。

 そんな患者を「がんばった」とされると、ものすごい違和感にとらわれる。むりやり生かしたことに対する罪悪感を「がんばる」言葉でごまかしているように見える。いや、患者だけじゃなく、ケアは家族のためでもある、とも言える。そりゃそうだ。でも、「家族のためにがんばった」と思い込まないと、自分が許せなくなる看護師もいることも事実。NHK取材班が書いたのだから、「書いてないこと」に目を向けると、深くうなだれる読書になる。

 最後に : ゆりさん、いい本をオススメいただき、ありがとうございます。背筋をのばして、一気に、読みました。

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「プレゼンテーションZen」はスゴ本

 読むだけでプレゼンが上達する。いや、「見るだけ」で上手くなる。

 なぜなら、本書そのものが、優れたプレゼンテーションのお手本になっているから。

 わたしはデザイナーではない。しかし、同じテーマについて、「まずいデザイン」と「うまいデザイン」が並んでいるなら、見分けることができる。デザインの原則――「コントラスト」「反復」「整列」「近接」を使って、凡庸なシートが、ダイナミックで統一感をもったものに変わっていく過程は、"見た"瞬間に理解できる。

 世界プレゼンコンテストで第1位のジェフ・ブレンマン[URL]とか、「でかいプレゼン」で有名な高橋メソッド[URL]、マレーシア大学薬学部教授の講義スライドを読むというより、"見て"いるうちに、優れたプレゼンのキモに親しむことができる。もちろんビジュアルもテーマも全然ちがうが、どのような効果を狙っているか?そのためにどんなデザイン戦略でいるのか?が伝わってくる。

 いっぽうで、いわゆる「ハウツー本」に慣れている人はとまどうかもしれない。特定のフォーマットやプロセスを見開き一頁で解説するようなものではないから。著者は、「メソッドではなく、アプローチ」だという。進むべき道や方向、心構えを意味し、時には哲学まで示唆する。プレゼンの本なのに、(比喩的とはいえ)禅や武道まで言及しているのがユニークだ。

 もっと面白いことに、

    「まず、パソコンから離れろ」

と助言する。12ポイントの箇条書きとデータに埋め尽くされた、悪夢のようなPowerPointは、全てをPCで行おうとする過ちの結果なんだ。スピーチに必要なのは、ストーリーテリング(物語り)。それは資料の作成よりもむしろ、ドキュメンタリー映画の技法と共通するする部分が多いという。そして、スライドはあなたの言葉をそのままなぞるものではなく、言葉を効果的に「演出」するものでなければならない。そのためには、紙とエンピツだけをもって、一人になって、次のことを突き詰めろという。

    「何が言いたいのか、なぜそれが重要なのか」

 もしPowerPointを使うのなら、空白のシートをプリントアウトして、ラフスケッチを作れとアドバイスする。空白のシートは、ファイル→印刷で印刷プロパティを出し、以下の設定で印刷する。

  ・ 印刷対象を「配布資料」
  ・ 配布資料の「1ページあたりのスライド数」を2~3
  ・ チェックボックス「スライドに枠を付けて印刷する」にチェック

 すると、白い枠と、その横に罫線が並んだペーパーができあがる。これにエンピツで自由に書き込む。ビジュアルをイメージしたり、要点を出すのに使える。どんなシートに何のスピーチをするのか、スピーチ全体のレイアウトを決めるのだ。

 さらに、ホワイトボードの活用を提案する。これも大賛成。ホワイトボードのおかげでチームで課題を共有することができるし、文字どおり「一歩離れたところ」から問題を眺めることができる。全体的にまとまりのないプレゼンは、この「一歩離れたところ」からの視点がない。PowerPointよりもホワイトボードを用いることで、解消できる。「これで全部」が一目で見えるから、それ以外のユニークな視点や新たな要素を吟味することができる。そして、この段階で、リラックスした気分で次の疑問を自問せよという。

  1. 持ち時間はどれくらいか?
  2. 会場はどんなところか?
  3. 時間帯はいつか?
  4. 聴衆はどんな人か?
  5. 彼らはどういったバッグラウンドを持っているのか?
  6. 聴衆はわたしに何を期待しているのか?
  7. なぜわたしにプレゼンテーションの依頼がきたのか?
  8. 自分は聴衆にどうしてほしいのか?
  9. 今回のプレゼンテーションの根本的な目的は何か?
  10. 今回のプレゼンテーションの究極的なメッセージは何か?言い換えると、「もし、たった一つしか聴衆の記憶に残らないとしたら、それは何であって欲しいか?」

 そう、「誰に」「どんな」メッセージを伝えるかは、作りながらである場合が多い(経験談)。そのため、場当たり的で、データや主張を詰め込んでいるうちに、なんとなく「形」ができているような気がしてくる。そんな「まずいプレゼン」にしないために、上の質問はリマインダーとして残しておこう。これらの質問の順番を逆転させると、プレゼンの中に「物語」を与えることができる。パソコンから離れ、ストーリーボードを作るのが先決なのだ。

 こんな心構え的なものに限らず、もっと実践的なアドバイスもある。ハッと気づかされたものを二つ、紹介しよう。「詳細は配布資料で、スライドはシンプルに」と「余白の使い方」の二つだ。

 まず、配布資料について。準備段階で、きちんとした配布資料を作っておけという。配布資料のおかげで、スライドやプレゼンはのびのびとやれる。よく、スライドをそのまま配布資料として用いる人がいるが、絶対にやってはいけないと警告する。スライドはスライド、資料は資料で、同じものではないという。

 つまりこうだ。スクリーンに出すスライドは、できるだけ視覚的なものでなければならない。すばやく、効果的に、そして強力に論点を裏付ける必要がある。いっぽう、配布資料は、(スピーカーがいない場で)プレゼン自体よりもさらに突っ込んだ内容や範囲を持った情報を提供するものなのだ。

 スライドの本質は、スピーカーである「あなた」を支援するもので、スライド単体では成立しない。もし、スライド単体で成立するのであれば、「あなた」が前に立っている必要などないとまで言う。配布資料を用意するだけで、何もかもスライドに詰め込まなければならないという思いから解放できる、これは大きい。

 次は、余白の活用について。うまいプレゼンの例は確かに余白を多用しているが、なぜ重要なのか?その答えがちゃんと書いてある。空白部分があると、見る人の視線は自然に空白以外の方向へ導かれる。新しいスライドが表示されたとき、聴衆の目は真っ先に画像(大きく、カラフル)へと引き付けられ、その後すぐにテキストへと移っていく。

 つまり、画像を使って視線を誘導するためには、余白がどうしても必要なのだ。そして、余白を使うための定石「グリッドと三分割法」を紹介している。シートのタテヨコを三等分に区切り、テキストはその線分上に配置するのだ。そして、画像の位置はタテヨコの交点に合わせる。全体をこの形に統一するだけで、余白を戦略的に活用したシートになる。はデザイナーにとっては常識らしいが、わたしには初だったのでありがたい。

 プレゼンの達人は、精進を怠らない。著者は、TED(Technology, Entertainmane, Design)でスピーチのお手本を探している[URL]。そして、スティーブ・ジョブズとビル・ゲイツのプレゼンテーションを比較して、こう述べる。ジョブズのスピーチに占めるビジュアルは、ゲイツよりも大きい、ほとんど不可欠な構成要素となっているという。

ジョブスは物語を演出するためにスライドを使う。そして、めったに聴衆に背中を向けることなく、そうしたスライドをスムーズに操っている。それは物語を語る手段なのである

 いっぽうゲイツにとってのビジュアルは「お飾り」や「添え物」であり、スライドを背景にスピーチするというよりも、スツールに腰掛けて自分の考えを話し、聴衆との質疑応答形式の方が得策なのだという。

 わたしがプレゼンをする場合のほとんどは、怒り狂う顧客を前にしてトラブルの説明か、乗り気でない顧客候補に新しいソリューションの提案をするかだ。前者には使えないが、後者には間違いなく役立つ。あるいはいつか、ピンで呼ばれてスピーチする日のために…精進すべし、精進すべし。

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「虚航船団」はスゴ本

虚航船団 賛否まっぷたつの怪書。

 批判する人の気は"知れる"が、楽しんで読めた。ただし、これを最高傑作と持ち上げるほど筒井作品を知らないので、なんともいえん。むしろ「文学部唯野教授」の方が面白いんちゃう?と、つぶやきたくなる。500超ページをひとことでまとめると、「巨大な寓話」。自意識過剰な文房具キャラの非日常的日常、イタチに置き換えた人類史の早回し、黙示録的戦争から神話の三部構成となっている。

まずコンパスが登場する。彼は気がくるっていた。
 文房具はどこかしら精神に異常をきたしており、現代社会の――というか自分自身をそこに見出しては、黒い笑いに襲われる。

 著者・筒井康隆は、寓意を隠さない。イタチたちの歴史は「人間」の歴史であり、文房具たちは「人間」のメタファーであることは、折々の自己言及で「人間」という表現を持ち出しているから。さらに、イタチの歴史を嘲笑(わら)うことはニンゲンを虚仮にすることだから、笑うの禁止ね(!)と自分で禁則事項を作って読むといい。満員電車でクスクスをこらえるというプレイで、腹筋が鍛えられるデ。

 さらに著者は、フィクションであることも隠さない。地の文に書き手の日常や妄想や欲望や怒りや情けなさが滲み出し、ストーリーを犯すところなんて圧巻。「わたし(読者)が追いかけているのは何なんだろう」と悩むこと必至。キャラとストーリーと(筒井の)脳内をごった煮にするために、周到に句読点「、」を外し、執拗に段落分けを回避する。

 著者がしゃしゃり出てくるなんて、昔の「語り」みたいだなー、筒井脳内のときだけ句読点「、」があるなー、などと油断していると、あっという間に侵食される。筒井脳内と文房具たちの運命が直接つながっているのだから。わたしは、これを筒井思考ダダもれ小説なのか、あるいは物語が著者を内包してしまっているか、どちらでも好きに読めてしまう。

 いっぽうで、解釈と物語がいっしょくたに並んでいるため、読み手である「わたし」がいなくてもいいのかな?かな?という気になる。もちろんダメで、「いまここ」でわたしが読んでいるのは事実なのだから、それは否定しちゃさすがにまずいだろ…と思いきや、後半のここらあたりで打ちのめされる。

荒唐無稽な「できごと」自体がおかしいのではない奇想天外なできごとが日常の時間を空間を局所的に変革していく不連続の転位その変化していく「できごと」の力学的な現象がおかしいのだ衣装のように着込んだ物語性や思いつきの意外性といった一切のものが役立たず無意味なのになお作品の形成に向かわなければならないといった現代が強いてくる不可避性への感受性というべきものがここには欠けている立脚すべき現実そのものを胡散くさいものとして描くことができるのは当時はサイエンス・フィクション以外にはなかったのでありその事情は現在もたいして変わってはいないSFハチャメチャ派などいまや「型破り」というもののひとつの「型」に安住しているだけなのだから――
引用の誤りじゃないんだ、句点(。)すら省略して一気に畳み掛ける密度で軽く窒息する。つまりこれは、わたしが感じたこと。実際は筒井が「虚航」内で自分を評しているのだが、わたしが読みながら(上述の箇所に到る『前に』)思ったことが『そのまま』の形で先回りされている!

 わたしが「虚航」について語ろうとすると、思考ダダもれの著者について話すか、著者を巻き込んでしまっている物語について語るかしかない。あるいは、そいつを読んでる「わたし」をもメタ化して、「虚航」の一読者か、「虚航」の批判者となればいいか。ああそうか、だから「虚航船団の逆襲」なんて続編(?)があるのか。これをどういう風に面白く読んだ/腐した人がいるか、楽しみだー

 とまあ、メタ、メタメタ、メタメタメタ風に読んでもいいが、キャラのスラップスティックを追いかけても楽しめる。とっつきにくい方は、「萌え絵で読む虚航船団」を入り口にするといい。これは「文具というデフォルメをさらに萌えキャラでデフォルメ」する試みで、登場人物は全員女子。異常性欲の糊だとか、同性愛の消しゴムだとか、小説のナナメ上を行く出来ですぜ、ダンナ。

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リトマステスト的読書「アメリカの鳥」

アメリカの鳥 19歳の若者の「よちよち」具合が面白い、といったら失礼か。

 も少し言葉を選ぶなら、自分の若かりし頃と重ね合わせ、彼の未熟さが引き起こす失敗や悩みを、一緒になって悲しんだり心配する。ただし、その失敗や悩みのいちいちがみみっちく、くだらない。リベラル的な発言は叩かれなれていないせいか、あっちへヨロヨロこっちでボカスカされる。

 そこに普遍性を見出したのか、選者の池澤夏樹は「傑作」だとほめたたえる。彼とは趣味がかなり違うことも分かっているし、わたしなんざ足元にも及ばぬほどの読書経験を積んでいることも分かるが…ホント?面白がるポイント外してた、ボク?と自問したくなる。

 主人公はアメリカの若者。カントの黄金律「他人の利益が自分のふるまいの目的となるようになせ」をよりどころにしている。時はベトナム戦争当時、所はアメリカの片田舎、パリ、そしてローマ。フランスという異文化でセイシュンやってる男の子の前に、さまざまな問題が立ちはだかる――汚すぎる公衆トイレの掃除をすべきか?慈善行為は隠れてすべきか?ワリカンになっていないことを指摘すべきか?

 次々と現れる些細な(すまん、本当にどうでもいい些細な)問題のそれぞれに、良心のレベルで思い悩む。好きな人なら食えるネタが、わたしにはひたすら青臭くてうっとおしい。その「若さ」を良しとするならば本作は良作だろうが、自らを偽善者だと名乗る弁明はウンザリさせられる。あこがれていた女子が処女か処女でないか気を揉んだり、そんな自分を激しく内省する姿なんぞ、読んでるこっちが痒ーくなる。

地下室の手記 もっと深掘りして、「偽善を名乗る偽善」(^を意識する偽善)で苦悩すれば面白くなるのだが、そんなメタ思考はアメリカ人の好むところではないらしい。ロシア人あたりが適当か。ドストエフスキー「地下室の手記」の強烈な自意識なんて、ヤケドするぐらいだぜ。過剰すぎてコミュニケーション不全を起こしているトコなんて、自分の(なかったはずの)黒歴史を強制的に見させられているような気分になるしw

 なんでこんな作品を選んだのだろうか?とGoogleると、小谷野敦がタネ明かしをしている。これには笑った。出典は「アメリカの鳥」書評 : 風刺消え「リベラル」肯定より引用。

なぜ『グループ』の新訳ではなくてこんな失敗作を選んだのか、といえば、この「全集」を1人で編纂(へんさん)している池澤夏樹が解説で、こちらの方が『グループ』より優れていると、驚くべきことを言っている。しかしそう思って読むと、主人公は池澤と同じ1945年生まれ、学者の父と演奏家の母の間に生まれ、両親は離婚し、少年自身は題名にもある通り鳥類好きのナチュラリスト、政治的にも池澤によく似ているのである
で、返す刀でこの文学全集シリーズ自体、「文学的価値よりも政治的意図で選ばれたものが多く、感心しない」と。いまどき文学全集を立ち上げている心意気を買ってやりたいが、本作については小谷野に一票いれたくなる。

 あと、「グループ」が読みたくなったではないか!池澤が価値なしと斬り捨て、小谷野が傑作だと持ち上げている。両者を測るリトマステスト的読書になりそう。待てよ、これは孔明の罠かもしれぬ、わたしの積読山を増大させるための。

 …ちょっと図書館いってくる。

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グルーヴィな教養「かたち三昧」

かたち三昧 知のマニエリスムが、オヤジギャグとともに全開する。

 「超人」高山宏の文業を見る。ほとんどこじつけとしか思えないアクロバティックな「読み」や、連想される「かたち」から横滑りしてくる発想、奇想・異端・博覧強記の弁舌に圧倒される。内容と形式を一貫するフィギュア、もしくはそういうアートとしてのフィギュアリズムの「研究」と「実践」と称し、漱石からエーコまで跳躍する。

 たとえば、マニエリスムお得意の蛇状曲線(serpentine line)から、漱石の遺作「明暗」を読み直す――すると、「蜿蜒」が多いという。「えんえん」と読ませるのではなく、「うねくる」というルビが、漱石らしさなんだと。それこそ蛇がうねうねと遡行する様を彷彿とさせる。

 そして「明暗」は、男女の自在な組み合わせで駆け引きがてら語を交わすうち、話がどんどんもつれていく「言語ゲーム」が楽しみどころなんだと(スピーチ・アクト小説というらしい)。今風なら、twitter小説になるのかね…そういう読み方で読んでみる。

 漱石の自由な読みは、「大人になれなかった先生」で紹介したが、漱石を金科玉条のごとく守る輩には、ガマンできないかもしれない。あるいは、「かたち三昧」の後半にある、漱石とキュビズムを連携させた論文「夢の幾何学」を読んだら卒倒するだろうな。

 著者は、漱石「彼岸過迄」のラストシーンを、ウンベルト・エーコ「薔薇の名前」の僧侶探偵が吐露するにふさわしいという。そして、探偵役に残される「蛇のステッキ」こそが、漱石のフィーグラへの執着なのだという。ホントかよw、とツッコみたくなる無理筋ギリギリの読みが楽しい。

 最近見たサーペントラインなら、「なでこスネイク」におけるスク水の千石撫子だろう。あらわな姿態も蛇状曲線(女が最も美しく見える姿勢)まんまだったし、肌に浮かぶ鱗模様も蛇のもの。マニエリスムをどこまで意識して(意識しなくて)作ったかは不明だが、"そういう目"で読みなおし/観なおしすると面白いだろう(高山氏に見せたら止まらなくなるかもー)。

 もうひとつ。ラブレーからAA(アスキーアート)への連想ゲームがユニークだ。酒賛歌を、酒瓶の形そっくりに歌ったのが、ラブレー「ガルガンチュワとパンタグリュエル」全体の幕切れにある。なるほどページ上部には"la Dive Bacbuc"(バッカスの酒瓶)の遊戯詩が並んでいる。古代ギリシアでは「テクノパイグニア」と呼ばれ、中世はカルメン・フィーグラートゥム(carmen figuratum/形の歌)と称して愛され、今ではパソコン画面のAA(アスキーアート)として復活しているという。

 しかし、AAはあくまで「形」をキャラクターで表現したもので、そのキャラクターの並びから意味をとれない。ちと無理があろうかと。フォトモザイク、もしくはモザイクアートが似ているかなぁと思った。遠目にはジョージ・W・ブッシュの顔写真なんだけど、拡大して見ると、種々雑多な肛門の画像を組み合わせでできているやつ。チト違うか。

 著者の柔軟さ(付会?)は伝染する。「こうも読める」「ああも見れる」というズレた目線は、そのまま、こっちの経験に火をつける。もちろん相手の方が十枚も二十枚も上手なので敵うわけがない…が、それでも喰らいつきたくなる。教養を積むというより、「いかに面白い読みができるか」というノリ(groove)の勝負。テーマがちょっとずつズレていく感覚はスウィングそのもの。凡百の端本とは違い、人名索引・文献索引が充実している。マニエリスムの毒気にあてられても、この索引があれば自分で弾けそう。

 版元は羽鳥書店、今年できた気鋭の(ただし中の人はベテランの)出版社ナリ。いわゆる大手取次とは一線を画した営業にキアイを感じる。頁のてざわりやフォント・装丁など、本の「つくり」が他とまるで違う。いわゆる量産型の安っぽい「使い捨てられる情報」じゃないんだよ!というメッセージが勝手に伝わってくる。

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【PMP試験対策】 PMIイズムについて(その2)

 【PMP試験対策】は、PMBOK4版をベースに、PMP試験の傾向と対策をまとめるシリーズ。

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 PMIイズムについての続き。PMIの考える「あるべきPMの姿」や「(想定される)プロジェクト感覚」のことで、PMBOKガイドからうかがい知ることができる。これらのことはズバリ書いておらず、ガイドを読んだり、PMの現場で身につけることができる(はず)。

 とはいうものの、その重要性は認識されず、プロジェクトの失敗でもって身にしみるもの。「言うは易し」と言うは易し。「どうやったら実践にもっていけるか?」を考えながら読むのが吉かと。そのアイディアはPMBOKガイドに詰まっているのだから。

  1. 計画最重要。PMBOKのあらゆるプロセスの中で、最も重視されるのは「計画」。適切な計画がなされれば、プロジェクトの成功は、より近くなる
  2. プロジェクト計画は、PMの中から生まれてくるものではない。PMの沈思黙考ではなく、チームやステークホルダーからのインプット情報により、プロジェクトは計画される
  3. 役割と責任の分担表は、明確に定義され、特定の個人単位にまでアサインされていなければならない。たとえば、責務の報告、リスクマネジメントのアサイン(誰が何のリスクを負うのか)、会議の種類と出席義務まで、プロジェクトで果たされる仕事の他に、このような役割と責任が明記されていること
  4. リスクの抽出、特定化と、リスクマネジメントのためにすべきことの洗い出しは、チームメンバーとステークホルダーで取り組まなければならない
  5. リスクマネジメントは、コストと時間のセーブの直結することを自覚すべし
  6. リスクマネジメントまでなされてはじめて、プロジェクトのコストとスケジュールが承認される
  7. PMはプロジェクトが期日に間に合うか、予想しなければならない。他のプロジェクトが制限となるのであれば、上級マネジメントと会って問題を解決しなければならない。これはプロジェクトがスタートする「前に」行うこと。非現実的なスケジュールは、PMの失敗と見なされるのだから
  8. あたりまえだが、プロジェクトは、プロジェクトマネジメント計画に沿って実行される。もし「つくっておしまい」であれば、プロジェクト計画そのものがダメだという証拠→計画からコケているデスマーチ真ッ逆さま
  9. プロジェクトの状態がどうなっているかを測定するためにも、プロジェクト計画は使える
  10. 「計画」や「見積もり」は最初に一回やって確定するものではない。プロジェクトはコストや納期、成果物が間に合うかを判断するために、再評価される。そのため、プロジェクトが予算の範囲内で納期に間に合わせられるか、PMは常に把握している(べき)
  11. プロジェクトの「遅れ」は、未来のタスクを調整することによってとりもどす(べき)。期間の延長は二の次。
  12. 等価交換の法則。何かを得るためには、他の何かを必要とするやつ。たとえばスコープを変更しようとするならば、時間、コスト、品質、リスク、リソース、顧客満足の全ての観点に照らし合わせて、再評価する必要がある。「スコープだけ拡張」は、ありえない
  13. PMが気を遣うべきものは、チームのパフォーマンス。PMの時間はチームビルディングに使うべし
  14. PMは「プロアクティブ」になるべき。つまり、問題の早期発見につとめ、プロジェクトの変化に気を配り、問題の予防に力を注げ。「そうは言っても…」という怨嗟に同意。「よくない兆候」は隠され、「進捗遅れ」は次週までに挽回しますと断言される(しかも繰り返し!)。ではどうするか?否定要素を受け入れるオープンな態度や、探偵ばりの聞き込み、進捗報告だけに留まらない打ち手の創出などを考えよ、ということやね
  15. 「問題の対処」よりも、「問題の予防」に時間を使え。予防の一オンスは治療の一ポンドに優る。
  16. ほとんどの問題は、予めリスクマネジメント計画で洗い出して対処策を検討できる。「○○になったら→△△する」は最初に必ずやっておくこと。先送り先延ばしにするから、トラブルが顕在化したときにあわてるのだ。で、ダメなPMはこういう「だから言ったでしょ!」ってね。「問題になる可能性がある」と指摘するのなら、対処も一緒に考えろ("対処しない"と決めるのもアリ)
  17. チームミーティングで、進捗状況を話すな。進捗具合は他の方法で情報共有すべし。チームミーティングで話し合うべきテーマは、ずばり「リスク」。ダメなミーティングとしては、「○○機能が2週間の遅れ」→「どうするんだ!」→「来週までに回復します」というパターン。このPMIイズムに従うなら、第一声が、「○○機能の進捗遅れによる影響範囲は?」から始まり、「是正措置は△△の資源を投入します」と進む。そんなに上手くいくもんかと思うのだが、せめて「○週遅れたこうしよう」までは考えておく
  18. プロジェクトマネジメント計画における変更は、必ず変更管理と統合変更管理プロセスを経る。その中で影響範囲の検証と周知がオーソライズされる
  19. PMは組織のポリシーや組織内標準に沿った形でプロジェクトが運営されているか、保証しなければならない
  20. プロジェクトの構成要素に変更が加わるとき、真っ先に検証されるべきは、「品質」
  21. PMはプロジェクトで交わされる契約に通じていなければならない。「知らない」では済まされない

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PMBOK4日本語 【PMP試験対策】シリーズについて。

 ベースは、PMBOKガイド4版と、"PMP Exam Prep"、通称Rita本の2本立て。PMBOKガイドを傍らに一連のエントリを「読むだけで合格する」ようなシリーズにするつもりだ。過去の記事は、以下のリンク先が入り口となっている。PMBOKガイドの古い版が元となっているが、「PMIイズム」「PM的思考」は学べる。ぜひ参照してほしい。

   【PMP試験対策】 PMBOK2000版
   【PMP試験対策】 PMBOK3版

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千野帽子さんに応答する

 「読まず嫌い」の著者・千野帽子さんからトラックバックを頂戴する。そして、[わたしのエントリ]に対する、[ご本人のコメント]を頂く。以下、それへの応答。

 千野帽子さん、恐れ入ります、恥ずかしくて顔中汗だくになっています。まず結論→トラックバックで頂いたご指摘の通りです。そして、よく知りもせず「オススメ」してしまってごめんなさい。疑問顔の他の読者にまとめると、こんな感じ…

  1. 千野氏「文庫本はほんとうに安かったのか?」
  2. 千野氏「集英社の全集本と、同じ小説を文庫で買ったときの値段を比較しよう」
  3. 千野氏「レーベルによって単価が違うね」
  4. わたし「そうか?発売時と今の価格を比較するなら、物価指数を使うんじゃね?」
  5. わたし「やってみる(※)と、やっぱり文庫のほうがお値打ちじゃね?」
  6. 千野氏「集英社の全集本の価格は現役だよ、当時の値段そのままで今でも買えるよ」
  7. 千野氏「この比較は、一個人のお財布の話だし、経済学とかという話じゃないよ」
  8. 千野氏「しかも(※)の計算の元が間違ってるし」
  9. 千野氏「結局、当時の値段で今買えるものを、わざわざ物価指数で価格付けする意味がよく分からない」
  10. わたし「…」 ←←← いまここ

 たしかにご指摘の通りです。今でも当時の値段で新本で買えるものを、わざわざ変換して比較する意味はなさそうです。わたし自身、よく理解していないまま「物価指数」を用いていました。ご不快になったことでしょう、申し訳ありません。

 もう一つ。千野帽子さんはプロフェッショナルであることを忘れていました。。既にレビューまでされた本を、「きっとこいつは知らないんだろう」と決めつけて、わざわざ「オススメ」してしまい、大変申し訳なく思っています。とても不愉快な思いをさせたことだと存じます。ごめんなさい。

 わたしのエントリを読み返すと、えらく馴れ馴れしく書いてあります。おそらく本書で、わたしと同じような考え方をみつけ、嬉しくなって浮かれていたのかもしれません。これからは、千野さんの本に言及する前に、「0007 文藝檸檬」をよく読んでからにします。それから、「魔王」は全力(≠全速力)で読ませていただきます。読む前からスゴ本(=凄い本)の予感がします、教えていただき、感謝しています。

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それなんて俺?「読まず嫌い」

読まず嫌い こんなところに俺ガイル。

 「本」に対する態度が、わたしと似て非なる。あるいは、自分に引きこもる読書の限界は、わたしが言ってきたことを代弁しており、まさに俺ガイル状態で楽しめた。と同時に、良さげな小説をいくつも見つけたので、週末に収穫にいくべ。

 本書はブックガイドというよりも、本を叩き台にしたエッセイだね。まず著者は、自らを「筋金入りの読まず嫌い」と宣言する。そして、読まず嫌いだった数々の名作を下敷きに、避けてきた理由、再会のきっかけ、正直な感想を白状している。本書は、そんな読まず嫌いの、さまざまな名作小説との和解の記録なんだ。

 著者・千野帽子は、まずミステリが嫌いだそうな。人殺しの過程は楽しいが、謎解きの部分は伏線を回収する消化試合みたいで退屈。SFはめんどうくさいので嫌い。伝奇小説のブームに食傷気味になって嫌い。ファンタジーなんか読むのは垢抜けない女だけだから嫌い。ライトノベル読むくらいならマンガ読む。純文学は押し付けがましくて嫌い――と、嫌い、嫌い、嫌いのオンパレード。

 きっと驚くに違いない。なぜなら、本と読書にまつわる本だから、これを手にする人はまちがいなく、「読書好き」だから。自分が好きなジャンルを「嫌い」だとバッサリ斬られ、気分を害する人もいるかもしれない。でも待てよ、これは…一種の「自分史」なんだ。「面白くない」というのではなく、より主観の強い「嫌い」というところがミソだね。

 そして、この「嫌い」が→「面白いじゃないか」に変わる瞬間が語られる。なるほど、と頷くこと幾度、そうかな、と傾げること数度。たとえば、ポー「モルグ街の殺人」。あれはミステリの元祖でありながらミステリの規格外になるという。なぜか?

 …これに答えることは、「モルグ街」のネタバレになる。みなさん読んでることと思うが、念のため反転表示にするね。ミステリの約束事である謎があってそれが解かれる…まではいいとして、犯人が人でなかった、事件を匂わせておいて事故だった、というのは(今の本格ミステリからすると)反則。そういう小説も確かにあるが、ミステリからすると傍流だ。で、いわゆる王道ミステリを読み込んだ目からすると、「モルグ街」が逆に新鮮に見えてくるのだ。

 というのも、こんなにも魅力的なのは、後続する「行儀の良い本格ミステリ」のおかげだという。いったん確立したジャンルは、その中での「縛り」に制限される。その結果、似たようなものばかりになり、そのうち飽きる。だからいったん(読まず嫌いで放置していた)名作に戻ってみると、ジャンル確立以前の野蛮さに魅力を感じるのだそうな。

 確かにその通りだと思う…が、お約束を破壊したり、お約束をメタ化しちゃうような作品もあることをお忘れなく、と付け加えたくなる。舞城王太郎「煙か土か食い物」、あるいは貫井徳郎「慟哭」をオススメしたくなる。帝国ができあがると、反逆者や破壊者が現れるのと一緒。

 あるいは、名作認定されながら、そのまま埋もれてしまった物件や、そもそも商品として生き抜いてこられなかった名作を「発掘」してはオススメしてくれる。特に、わたし好みの劇薬小説を教えてもらえたのが嬉しい。それは、ミシェル・トゥルニエ「魔王」ナリ。もう読まないうちから劇薬認定してtwitterでゆりぽさんにもオススメしたやつ。主人公は性倒錯者、オリジナルな変態性欲を持つ大男だそうな。

 どのくらいオリジナルかというと、子どもたちを丸刈りにして手に入れた大量の頭髪を蒲団や枕に詰め込んで、その「子どもの麝香臭」に包まって恍惚となって眠るとこ。あるいは、地雷の誤爆で粉微塵になった少年の血を爆風とともに浴びたとき、それを血の洗礼と解釈するとことか。「名作に上品な人生訓を求める人をドン引きさせること必至の病的悪趣味と不謹慎がてんこ盛り」なんだそうな。

 その著者のミシェル・トゥルニエは、「フライデーあるいは太平洋の冥界」を読んだことがある。裏ロビンソン・クルーソーというか、斜め上の展開にのけぞることを保証する。確かに洞窟や枯木とファ○クして蟻に刺されてのたうちまわる彼は、読み手の「ロビンソン」像を破壊してくれるだろう。わたしのレビューは、 このロビンソンが面白い「フライデーあるいは太平洋の冥界」 をどうぞ。

 興味深い考察もしている。「文庫本はほんとうに安かったのか?」というお題で、同じタイトルを単行本で買ったときと文庫本の場合とを、比較検証している。

 たとえば、集英社「ギャラリー世界の文学」を俎上に上げる。その第14巻は「罪と罰」とトルストイの「アンナ・カレーニナ」を無理やり一冊に収めて、税込み4,935円也。同じ作品を新潮文庫で揃えると、合計五冊で3,620円、ずいぶんお得だという。さらに岩波文庫だと少々お高くなって、六冊の合計が4,956円とほぼ同額。さらに光文社古典新訳文庫では合計七冊で6,340円になり、「文庫もレーベルによって単価が違うということだ」と結論づけている。

 えっ?

 20年くらい前と今では本の物価も違うぞ。だから、消費者物価指数で比較してみよう。品目別価格指数[参考]の単行本Bで比較する。これは2005年を100とした指数で、光文社古典新訳「アンナ・カレーニナ」が出のが2008年、集英社「ギャラリー世界の文学14巻」が出たのは、1990年だ。単行本の物価は以下の指数となっている。

物価指数
2008
102.2
1990
58.7

 当時と今とで、102.2/58.7=1.741... およそ1.7倍の違いがある。つまり、ほぼ20年前の文学全集を、いま出すとするならば、4935*1.7=8389.5 八千円超の価格となる。まとめると、こうなる。
物価指数価格
2008
102.2
6,340円
1990
58.7
8,389円

 つまり、物価を考慮すると、やっぱり文庫がお得、になりそうだ。子どものころの感覚からすると、今どきの1,000円を超える文庫は高価(たか)いと思ってしまうのだが…それよりも、世界の古典や名作が、手軽に本屋で買えてしまうほうがスゴいと思うぞ。

 わたしと似ているなー、と思ったのは、「本」に対する姿勢。いまの自分が気持ちいいものだけ読んでいると、パターンに慣れてきてマンネリズムに陥るという。自分で「壁」をつくり、その中に引きこもった読書になる。そのパターンの中での王様となり、その中にいないと「読書」ができなくなるんだ。

 著者は、そんな井の中の王を、「囚人というより、自分の作った読書のルールに奉仕しつづける、もうほとんど奴隷」と断ずる。いるよねー、そんなヤツ。「そんなヤツ」にならないように戒めているんだが、わたしもヒトのコトいえない。わたしの場合、このblogでビシバシ指摘してもらっているのだが、本書では、「アンソロジーを読め」という。

 自分好みばかり読んでいれば、やがてその楽しみも先細る。けれど、視線を別方向に転じれば、読むべき作品はまだまだあるのだという。それが、「名作」なんだそうな。そして、名作への苦手意識を和らげ、敷居を下げるためには、テーマ別アンソロジーがぴったりだという。以下は自分メモとして抜き出したもの。

  「ちくま文学の森」(筑摩書房)
  「澁澤竜彦文学館」(筑摩書房)
  「光る話の花束」(光文社)
  「日本文学における美と情念の流れ」(現代思潮社)
  「イメージの文学史」(北宋社)
  「現代文学の発見」(学芸書林)

 あとこれに、国書刊行会「文学の冒険」を足したい。これだけあれば、読むものに困ることはなさそうだ。

このエントリに対し、著者よりトラックバックを頂く。そして、[著者ご本人の指摘]の通りだと納得する。上記のわたしの考察は見当違いだが、自らの戒めのために、そのまま残しておく。この「まとめ」は[千野帽子さんに応答する]を参照のこと

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これからの本のつくりかた「デザインの現場」

デザインの現場 これからの「本」について、ユニークな視点が得られる。

 「本が売れない」といわれるいま、普通の流通とは別のところで広がっている試みがある。いわゆる、出版社や取次や書店を介したシステムにビルトインされた方法ではなく、個人が嗜好の延長上で実現させる形態なんだ――それは「本」というよりも、「パーソナルメディア」というべきかも。

 発想が面白いなー、と思ったのは、藤本やすし[Cap]

 「出版とは、新しいセルフブランディングのシステム」という視点は、これまでと逆転していていい。プレゼンスやブランドを高めるための出版活動なので、「本」を出すのは従になる。だから、「なにをブランドとするのか?」をまず考えるんだ。今までの、「本というパッケージに何を詰め込んで、世間サマにプレゼンテーションする?」という固定観念が溶けていくぞ。

 物理的な「本」なのだから、もっとフェティッシュに走ってもいいのかも、と感じたのは、尾原史和[plancton]

 出版とは、「さらにモノをつくりたいという衝動を駆り立てるための手段」だそうな。自分の感情に忠実なモノ――1000部限定の出版物からスタートしているが、いわゆる「本」に限定していない。それは家具や衣服であってもよく、「一生これだけを身につけ続けたい」と思えるような普遍的なものを作ることを目指している。

 普遍的な存在としての、たまたま一つの方向が「とある本」になるのか。それがわたしになるのか分からないが、誰かの人生を変えてしまうような一冊は、こうした人からリリースされるんだろうな…

 もっと泥臭い話もある。粗利の折半が基本という菊地敦己の話は、かなり過激だ。出版業界全体が淘汰され、本の内容に対応する数と価格の再構築が必要だという。「著者にきちんと還元されないようでは、良質なものなんて生まれるわけがない」と、非常にまっとうながら、印税数%の風潮に真っ向正面から立ち向かう。あるいは、竹熊健太郎なんてスゴいぞ。出版社は、「町のパン屋さん」のようになれという。

明治時代に還ればいいんですよ。夏目漱石の「吾輩は猫である」は初版2000部程度だったといいます。その分、装丁にも力を入れている。本は、知的な読者に向けた高級品だったんでしょうね。
 「本」を日用品のように扱っていたわたしにとって、少し怖いが面白い――本の値段を10倍にする。そこで残れない本は、もともとゴミだったんだ――そういう考え。一週間しか並べられないゴミみたいな本を(返本相殺のため)大量に刷るのではなく、1000部にして一年かけて売っていこうという考え。

 そこで重要となるのは、「売るということ」。

 編集やデザイン出身なら、企画して執筆・製作するところまでは、経験の延長上でこなせるだろう。しかし、できあがった本を売るためには宣伝活動が欠かせない。でないと、本の存在自体が伝われないまま朽ちることになる。上述で紹介した、藤本やすし、尾原史和ともに痛感していて興味深い。尾原の言を引く。

「商品を持つという責任は大きい」と感じています。在庫を抱えるには物理的な場所も必要ですし、それらを移動させるだけでも相当な費用がかかります。このあたりのことは、始めて実感したことです
 取次・流通に囲い込まれ、商品を右から左に移している人からは、絶対に生まれない発想だ。機械的に全国に本を振り分けてしまう取次に流通を任せていても、こうした本は売れないことは明らか。いまの流通システムでは、欲しい人には絶対に届かない。

 出版技術の向上により、物理的な「本」を作る敷居は格段に下がっている。流通も同様(だと思う)。個人で出版に手をそめる際、足りないのは、欲しい人に認知させる手段と、欲求を惹起させる方法――営業だ。

 広く宣伝を打ったり、リクエストに沿った本を示したり、逆に客層・傾向からオススメを提示する。そんなエージェント的な活動を全国規模でできるのであれば、この「売るということ」という問題を解決できる。三次元の書店や出版社がその役割を担っているが、わたしたちは、もっと身近にそれが「できる」存在を知っている――amazonをはじめとした、ネット上の書店だ。

 amazonは「在庫」と「流通」からスタートしたが、「企画」や「出版」といった、作る側から着眼している事例も紹介されている。BCCKS(ブックス)がそうだ。Web上で本をつくり、読むことができるシステムから、リアルに飛び出そうとしている。Web上で製作したウェブブックのデータをオンデマンド印刷のフローに乗せ、紙の本として小部数出版を行うものだ。「ブックス文庫」の版型を見ているとゾクゾクする。

 ネット本や2ちゃん本は沢山あるが、多くは出版取次流通にロックインされたもの。ブログサービスの自費出版も沢山あるが、「そのブログ」の射程範囲での流通に留まっている。ネットはネット、リアルはリアルの中からうまく出られない。相互を流通するチャネルが育ってないのだ。

 ネットは宣伝と割り切り、時間をかけて浸透させる仕掛けを作る。BCCKSから出た本を、オフ会や文学フリマで売り歩いたり、ヴィレッジヴァンガードに置いてもらったり(もちろん、お返しにフリマやVVの宣伝もネットで受け持つ)…考えるだけでニヤニヤしてくる。「売る」のは二次的であり、本はセルフブランディングの目的なのだから。

 そういうアイディアや妄想をたくましくさせてくれる一冊。

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スゴ本100

 いつのまにか1000エントリ超えてたので、ここらで100に絞ってみる。

 このblogで「スゴ本」認定されたもの、企画「この○○がスゴい」で挙げられたものを、100にまとめてご紹介。順序適当、偏見なし、ビジネス、サイエンス、エロマンガ。ブンガク、ビジュアル、なんでもアリ、啓蒙、アダルト、劇薬なんでもござれ。「ノンフィクション」、「フィクション」、そして「劇薬系・成人指定」の三本立てでご紹介。番号は便宜上つけたものなので、ランキングにあらず。

 こんなにスゴい本に出合えたのは、すべてあなたのおかげ。いい本はたくさんあるのだが、全部読んでるヒマもないし、探している時間も足りない。だからわたしは、スゴい本を読んでいる「あなた」を探す。あるいはこのblogにやってきた「あなた」の言を待つ。そうしたツッコミやアドバイスをいただき、とても感謝しています。

 この100リスト全て鉄板モノだが、「それをスゴ本というなら、コレは?」というものがあれば、ぜひオススメしてくださいませ。コメントでもtwitterでも年中夢中で受け付けてマス。

┏━―━―━―━―━―━―━―━―━―━―━―━―━―━―━―━┓
  ノンフィクション
┗━―━―━―━―━―━―━―━―━―━―━―━―━―━―━―━┛

■■■ 【001】 銃・病原菌・鉄

 「東大、京大、北大、広大の教師が新入生にオススメする100冊」の第一位。
 「この本がスゴい2008」の第一位。

 世界の富や権力は、なぜ現在あるような形で分配されてしまったのか? たとえば、なぜヨーロッパの人々がアフリカや南北アメリカ、オーストラリアを征服し、どうしてその逆ではないのか? この究極の問いをとことんまで追いかける。

 その謎解きがスゴい。単に仮説を積み重ねてストーリーをつむぎだす「物語作家」ではなく、科学者が見た人類史であるところがミソなんだ。必ず客観的データによって検証を行っている。仮説を裏付けるエビデンスのひとつひとつは、炭素年代測定法やDNA解析を用いた科学的手法に裏付けられており、強い説得力を持っている。

 数千~数万年単位の歴史を、猛スピードでさかのぼり、駆け下りる。大陸塊を横長・縦長で比較しようとする巨大視線を持つ一方で、たった16キロの海峡に経だれられた文化の断絶ポイントを示す。時間のスケールを自在にあやつり、Google Earth をグルグルまわす酩酊感と一緒。地球酔いしそうな人類史から明かされる「富の偏在」の謎――それは、驚くとともに納得できるだけの理由をもっているぞ。

■■■ 【002】 チベット旅行記

 面白スゴ本。

 著者は明治時代の坊さんで、鎖国中のチベットに入国した最初の日本人。ただ独りで、氷がゴロゴロする河を泳ぎ、ヒマラヤ超えをする様子は、「旅行記」ではなく「冒険記」だな。

 ではこの坊さん、どうしてチベットまで行かなければならなかったのか?

 サンスクリットの原典は一つなのに、漢訳の経文は幾つもある。意訳、誤訳、適当訳が沢山ある。翻訳をくりかえすうちに、本来の意義から隔たってしまっているのではないか? それなら原典にあたろうというわけ。インドは小乗だし支那はアテにならん。だから西へ行くんだ。

 まるで三蔵法師!住職を投げ打ち、資金をつくり、チベット語を学び始める。周囲はキチガイ扱いするが、本人はいたって真剣。しかも、普通に行ったら泥棒や強盗に遭うだろうから、乞食をしていくという。

 この実行力がスゴい。最初は唖然とし、次に憤然としているうちに、だんだんと慧海そのひとに引き込まれる。これはスゴい人だ、と気づく頃には夢中になっている。ヒマラヤの雪山でただ一人、「午後は食事をしない」戒律を守る。阿呆か、遭難しかかってるんだって!吹雪のまま夜を迎え、仕方がないから雪中座禅を組む。死ぬよ!

■■■ 【003】 読んでいない本について堂々と語る方法

 自分の「読むこと」への揺さぶりがかかる、かなり貴重な一冊。疑似餌ばりのタイトルと、ハウツー本のフリをした体裁に、二重三重の罠が張り巡らされている。

 有名作品をダシにして、読書論、読者論、書物論を次々と展開しているが、本書自身が「本」という体裁をとっている限り、どんな読み方をしても自己言及の罠に陥る。接近して読むと、「本当に読んだといえるのか?」というジレンマに囚われ、逆に読み飛ばして(あるいは読まないまま)テキトーに語ると、正鵠を射ていたりする(←これすらも本書に書いてあるという皮肉!)。

 もちろん、こうした深読み、裏読みをせずに、ただ漫然と流してもいい。あるいは、ざっと目を通すことで「読んだという記憶」を作り上げることも可能だ。ただ、うっかり誉めたりすると、その「誉めかげん」によって、いかに本書を読んでいなかったがバレる仕掛けとなっている。本書を深くするのは、書き手よりも、むしろ読み手。どこに「斉天大聖」と記すか、注意しながら読んでみよう。

■■■ 【004】 冷血

 ノンフィクション・ノヴェルの金字塔。

 アメリカの片田舎で、一家4人が射殺された。父、母、息子、娘はロープで縛られ、至近距離から散弾銃で顔や頭を破壊されていた。犯人は二人の若者で、彼らの運命も既にわかっている。著者カポーティは、感情や評価を極力廃し、徹底的に事実を積み重ねる。「what」や「how」を追求することで「why」をあぶりだしているのがスゴい。

 犯行状況を時系列の外に置き、調書を取る対話で生々しく表現したり、「なぜ若者が犯行に及んだか」はズバリ書かず、手記や調書から浮かび上がるようにしている。「書き手である自分」を、地の文から取り除くことに成功している。カポーティはノンフィクション・ノヴェルと呼んでいるが、レポートやドキュメントを読まされる感覚。読んだ「あなた」が判断せよ、というやつ。

■■■ 【005】 マンガの創り方

 現代の語り手のためのバイブル。

 ストーリーマンガ、特に短編を中心に解説しているが、マンガに限らない。小説やシナリオなど、あらゆるストーリーメーカーにとって有用だ。なぜなら、読者や観客といった「受け手」を楽しませるための秘訣があますところなく明かされているから。

 いわゆる、「マンガ入門」ではない。ネーム作ったら下書きしてペン入れして…といったイロハ本ではなく、「ストーリーの作り方」「ネームの作り方」に限定している。だから、本書の技術を習得することで、次のことが根源から分かる・使える。

面白いストーリーとは何か、どうすれば「面白く」なるのか
良い演出とは何か、どうやって身につければよいか
素晴らしいクライマックスにするために、どうすればよいか

 しかも、徹底的に具体的だ。高橋留美子「Pの悲劇」と山本おさむ「UFOを見た日」の全頁を収録し、32ページの作品に200ページかけて解説する。マンガをブロック単位に分解し、そこで作者がどのように考え、どのようなテクニックを用いてマンガを面白くしていったかを解き明かす。おそらく、かなりの人たちが手さぐりでやってきた作業が、実践的な形を与えられている。

 自分が楽しんでいるとき、「なぜ面白いのか」「どこが良いと感じるのか」という視点は持たない。読み終えて振り返ってみても、その「面白さ」はうまく言語化できないもの。その面白さを論理的に種明かししてくれている。できあがったアウトプット(完成稿)から、そこへいたるネーム、箱書き、構成、ネタ逆算している。紆余曲折の過程で、効果的なテクニックを紹介し、どうやってそのマンガが面白くなっていったかをリコンパイルしてくれている。

 ストーリーテラー必携の一冊。

■■■ 【006】 詩学

 古典というより教典。小説、シナリオなど、創作にかかわる人は必読。

 著者アリストテレスは、悲劇や叙事詩を念頭においているが、わたしはフィクション全般に読み替えた。フィクションを創造するにあたり、観客(読み手)に最も強力なインパクトを与え、感情を呼び起こすにはどうすればよいか?構成は?尺は?キャラクターは?描写は?本書には、「解」そのものがある。

 著者に言わせると、わたしたちヒトは、「再現」を好むのだという。この概念はミーメーシスといい、模倣とも再生とも翻訳される。現実そのものを見るのは不快で、その現実を模倣したもの――演劇だったり彫刻、絵画だったりする――を見るのを喜ぶのだという。彫刻や舞台を用いることで、これは「あの現実を模倣したのだ」とあれこれ考えたり語り合うことに、快楽をおぼえるのだ。

 創作のデザインパターンともいえる一冊。小説、シナリオなど、創作にかかわる人は、ぜひ読んでほしい。読み手に快楽を与える原則があるのだから。

■■■ 【007】 コンゴ・ジャーニー

 コンゴの奥地へ恐竜を探しにいく、とんでもない旅行記。臨場感たっぷりの破天荒さに、最初は小説だと思ってた…が、これが本物のノンフィクションだと知ってのけぞった。

 著者のレドモンド・オハンロンは、筋金入りの探検家。いわゆる、イカダで太平洋を渡ったり、犬ぞりで極北を目指すジャーナリスティックな冒険家ではない。「○○が見たい、だから行く、どんなことをしてでも」と、自分の好奇心を満足させるために全財産を投げ打つようなタイプだ。

 蚊、ノミ、ダニ、シラミ、ナンキンムシ、アブ、ブユ、ツェツェバエ――血と汗を吸い、皮膚の下にタマゴを生みつけようとするやつら。爪の間や性器に入り込もうとする線虫・回虫・寄生虫もあなどれない。そしてゴキブリ!ベッドマットを持ち上げたらゴキブリがざーっとあふれ出る場面は全身トリハダ立ちまくり。

 マラリア、眠り病、梅毒、イチゴ腫、エイズ、エボラ出血熱、コレラ―― 描写のいちいちが克明で、読んでるこっちが痒くなる。風土病や感染症だけではない、人を襲うヒョウやワニ、ニシキヘビといった猛獣について、いちいち挿話とウンチクを並べ立てる。その恐怖におののきながら、いそいそと出かけるところは笑うところなのか?

 狂気と笑いが伝染してくる一冊。

■■■ 【008】 揺れ動く世界

 ロイター写真集「The State of The World 揺れ動く世界」は、21世紀の最初の7年間を1冊にまとめ、次の世代が乗り越えるべき課題を示そうと企画された。世界中のフォトジャーナリストから集め、厳選した写真が9つのテーマでまとめられている。文字通り、「世界のありよう」が切り取られている。

 大問題、科学技術、信仰のかたち、パワーポリティクス、戦争と対立、世界経済、デジタル時代の文化、人々の暮らし、過去と未来を見つめて――それぞれのテーマで、歴史に残る写真も多い。なかでも、9.11の米同時多発テロで倒壊したWTCではためく星条旗の写真や、冒頭で紹介した、津波で親族を亡くした女性の写真はご覧になった方もいるかと。

 センセーショナルなものだけでなく、1枚の写真から考えさせるものもある。例えば、南アフリカの8歳の少女の「顔」だ。ケープタウンの黒人居住区の学校で初めてコンピュータに触れたときの「その顔」は、魔法そのものを見ているようだ。彼女の「驚き」に微笑むいっぽうで、裏を返せばそうした機会が奪われつづけていたんだよなとひとりごつ。

 残念ながら、21世紀の最初の7年を代表する写真は、血なまぐさいものばかりだ。この世界、この揺れ動く重い世界を、子どもにどうやって伝えようか。テレビや新聞の希釈された報道を「あたりまえ」だと思わないよう、ネットが全てだと信じないよう、いつ本書を見せようか。

■■■ 【009】 数学で犯罪を解決する

 天才数学者が犯罪者を追い詰める。アメリカのドラマ「NUMB3RS」の話だけれど、実際の事件をベースにしている。科学捜査官ならぬ数学捜査官。そのエピソードを糸口にして、元ネタとなっている様々な数学概念を解説するのが本書。サスペンスのドキドキ感と数学のエウレカ!を楽しみながら読む。

 しかも、ドラマの紹介と思いきや枕にすぎず、データマイニング、オペレーションズ・リサーチ、ベイズ確率、ゲーム理論、暗号、指紋とDNA鑑定の尤度など、「数学という武器」が縦横無尽に活躍している。ドラマとはいえ、ホントに「囚人のジレンマ」を使って数学による裏切りの説得をするトコなんて爆笑もの。理論的な下支えといった裏方的仕事ではなく、数学が直接現場に役立っているところがスゴい。

 もちろん、数学を武器として扱うため(捜査に役立たせるため)には、地道な裏取り調査や正規化された膨大なデータが必要だ。しかし、そうしたデータの大海から結果を出すためには、数学的にアタマを使う必要がある。

 つまり、重要な要素だけに集中して、他は無視すること。一見複雑な問題を、少数の主要変数に還元すること。変数の振る舞いから、問題の本質をつかまえ、表現すること。言うのはカンタンだが、やるのは難しい。パターン化って言い換えてもいいかも。

 文字どおり、数学を武器にする一冊。わが子が「数学なんて役に立たない」なんて言いだしたら渡そう。

■■■ 【010】 コンサルタントの危ない流儀

 「コンサルタントの危ない流儀」はスゴ本。身の毛もよだつ暴露ネタだけでなく、優れた(結果ドリブンの?)テクニックをもHackできる。コンサルタントも、そうでない人も、盗みどころ盛りだくさん

 最初にハッキリ言っておく、コンサルタントは、こんなに酷くない。

 顧客を財布、しかも巨大な財布だと見なし、知ったかぶりの業界通を気取り、難解な経営用語で煙に巻き、「お客さまと一体となって」嘘八百を並べ、プロジェクトが焦げ付く前にトンズラする―― こんなコンサルタントは、ほとんどいない。

 しかし、コンサルタントの手口は、著者の暴露するとおり。なぜ言えるかというと、わたし自身、コンサルタント・ファームとして中の人として働いたことあるから。面白おかしく脚色してるだけで、やってることはホント。

 なぜ、従業員の給料を削ってまでして、経営者はコンサルタントに莫大なカネをつぎ込むのか?なぜ、コンサルタントが提唱するITプロジェクトは失敗するのか?代表的な手法「解体屋の手法」とは何か?――門外不出のコンサルタントの詐術が学べる。

 そして、学ぶとともに、自らも使える技術なのだ。コンサルタントから盗もう。

■■■ 【011】 実践イラスト版スローセックス完全マニュアル

 セックスについての固定観念が破壊される?一冊。

 いままではセックスを「コミュニケーションのひとつ」として考えていた。「お互いの心身ともに満足」なんてうまく行くときもあれば、そそくさとした夜もあった。セックスとは、うまくいったりいかなかったりするもので、オトコは射精が一応の到達点だと決め付けていた。

 それが、本書で変わった。まったく別のチャネルに気づいていなかったのだ。ハウツーテクは大昔のワニブックスを彷彿とさせるが、目からウロコなのは、「もっとカラダとコトバ全部を使ってたっぷり時間をかける」、「トレーニング(≠経験)を積んで上達する」という点。

 それは、民放しか入らないと思っていたテレビのリモコンに通話口があることに気づいたようなもの。コミュニケーション・チャネルというよりも、新しいドアのようなもの(開けたら驚くぜ)。夜の生活を詳細にレポートしたいのはやまやまだが、恥ずかしいので勘弁な。

 男子諸君は読むだけで変わる。婦女子ならパートナーに読ませるべし!

■■■ 【012】 なぜ私だけが苦しむのか

 ひとサマに向かって命令口調で上から目線で、「ぜったい読め!」という本は、あまりない。なぜなら、シュミも考え方も違うあなたに、「ぜったい」なんてないのだから。

 けれども本書は例外だ。「たったいま、ぜったい読んでおけ」と言い切れる。なぜなら、あなたの人生は平凡で順風である保障はないから。トラブルも悲劇も無縁なままだとは限らないから。耐えられないほど辛いめにあったとき、心が壊れそうな気持ちにとらわれたとき、本書のことを思い出してほしい。ひょっとすると、そんなときはほぼ錯乱して書名すら覚えていないかもしれない。

 だから、いまのうちに読んでおいて欲しい。そう断言できる。本書はあなたの保険になるんだ。

 心に痛みを抱きながら、日々なんとかしのいでいる人がいる。あるいは、「なぜ私がこんな酷い目に遭うのか?」と悲嘆に暮れている人がいる。突然、わが身に降りかかった災厄──病や事故、わが子や配偶者の死──から立ち直れない人がいる。そんな人にとって、伝統的な宗教はあまり役に立っていない。「神がいるというのに、なぜ、善良な人に悪いことが起きるのか?」 この問いかけに答えたのが本書。

 そんな人びとにとって、いちばん重要なのは、ただ「あなたは一人じゃない」と伝えることだという。ただ、一緒にいて、黙って聞いてあげる。苦しむ人がなんの罪もなく、何のいわれもなく不幸に見舞われていることを認めてあげる。時には、そうした不条理そのものを共に苦しみ、共に怒りを燃やすこと。そして、「あなたは孤独ではない」と伝えること――そこに至るまでの思考が、著者自身の辛い経験を交えて語られる。

 「オススメ」ではなく、「読みなさい」と言える一冊。

■■■ 【013】 夜と霧

 これはホロコーストの記録。強制収容所に囚われ、奇蹟的に生還した著者の手記。限界状況における人間の姿が、淡々と生なましく描かれる。目を覆いたくなるのは、その残酷さだけではない。そんなことを合理的に効率的に推し進めていったのが、同じ人間だという事実―― このことが、どうしても信じられないのだ。

 ホロコーストの悲劇そのものよりも、そんな狂気の状況で著者がたどりついた結論のほうに目がいった。つまり、死や苦しみそのものの意義を問い、そこに無意味しか見出せないのであれば、収容所生活をサヴァイヴすることに意味などないのだ、と言い切る。もちろん、生きること、生きのびることを至上と考えるわたしには、とてもマネできない。ただ、そこへ至った著者の思考は非常に明晰で、いかなる狂いも歪みも見出せないことがわかる。

 「人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ」――なぜ生きるのかを知っているものは、どのように生きることにも耐えうる――ニーチェの箴言を実践した一冊。

■■■ 【014】 火事場プロジェクトの法則

 火事になる前に読んでおきたい一冊。

 問題プロジェクト・失敗プロジェクト・デスマプロジェクト ── 呼び名は沢山あれど、振り返ったとき、ああすればよかった、こうすればよかったという反省や後悔(?)は、これまた山ほどある。

 にもかかわらず、これから出くわしたとき、どうすればよいかは、分からない。なぜなら、どんな問題に遭遇するか分からないから。プロジェクトが特殊性、一時性をもつように、それにまつわる問題も同様に、特殊性をもつ。したがって、その解決策は、常にその問題専用の解法でしかない ──本当だろうか?

 確かに、プロセス、方式、メンバー、リソース、ビジネス環境によって問題の原因は違って見えるかもしれない。しかし、実際にシステム開発プロジェクトが破綻するとき、どこかで見たような/聞いたような/読んだようなスメルを放つのはなぜだろうか? それは、プロジェクトで顕在化する問題は人に因るからだ。

 システムは人がつくるもの。だから、システム開発の問題は、人の問題であることに気づかされる。デスマ対策を謳った書籍は多かれど、開発現場の視点からここまで明快に解き明かした本はない。失敗プロジェクトから「脱出」したり、「間違いだらけ」と論評したりする本は、それなりに参考になるものの、「ボクのせいじゃないモン」という言い訳がこうばしい。その一方で、本書からは「人の問題」≒「それは自分の問題かもしれない」と謙虚に向き合おうとしている。

 「火事場プロジェクトの法則」は、やまざきさんの著したもの。心が折れそうなとき、勇気をもらいました。ありがとうございます。

■■■ 【015】 問題プロジェクトの火消し術

 究極のプロジェクト・コントロール。火事になる前に読んでおけ。

 火消屋として、落下傘部隊としての経験上、これは使えると断言できる。もちろん机上論もあるが、「来週から現場」になる『前』に押さえておきたい。本書の前に「MECE」「水平思考」「仮説思考」をおさらいしておくと吉。お手軽なHacks/Tipsは、無い。泥臭く熱く煩わしい。これが実践。

 デスマそのものを無くすためには、「火事場プロジェクトの法則」が素晴らしい…が、本書は、炎上したプロジェクトが前提。そこへレスキュー隊長として突入する際のバイブルになるだろう。

 「こうきたら→こう返せ」的な問答集や、「悪いニュースは、早めに小出しに」、あるいはフット・イン・ザ・ドアテクニックなど、実践的なアドバイス満載。心構えから仕える言い回しまで徹底的に教えてくれるのはいいが、できれば使わないに越したことは無いかと。

■■■ 【016】 アート・オブ・プロジェクトマネジメント

 プロジェクト・マネージャー必携の一冊。

 「ものごとを成し遂げるためには何を行う(あるいは行わない)べきか」という実用的な視点からプロジェクトを捉え、ものごとを成し遂げるための考え方やヒントを、様々な角度から考察している。どれも「根っこ」のところから筆者自身が考え抜いた『知恵』が詰まっている。読むたびに気づきとヒントがざくざく出てくる、宝の山のような本。13章「ものごとを成し遂げる方法」は必読。全読/再読し、納得したものや取り組みたい方法をこのblogにアウトプットしてある。「アート・オブ・プロジェクトマネジメント」読書感想文【まとめ】をどうぞ。

■■■ 【017】 アジャイルプラクティス

 「システム開発に関わる人はみんな読めー」といえるスゴ本。本書はmarsさんにつられて読む。marsさん、ありがとうございます。

 開発現場で培われた「成果を出す習慣」を、45のプラクティスとして紹介している。開発速度を大幅に上げたり、高速納期を目指すような、「アジャイル開発プロセス」という決まったやり方は、存在しない。アジャイルな開発とは、現場でのさまざまな活動をアジャイルにしていく――つまり、変化に適応することを継続させていく―― 「習慣」だということに気づく。協調性+フィードバックによるプラクティスは、あまりにもあたりまえすぎて見過ごされがちかと。その反面、意識して実践するならばこれほど心強い金棒はないだろう。

 忘れがちな基本中の基本「成果をあげるのが仕事」に気づかされる。あるいは、「特に違いはありません」で痛い目にあう事例にドキッとさせられる。バグが見つからない言い訳のNo.1は「ボクのマシンだと動くんだけど…」を思い出そう。さらに、「あとどれだけ」で管理する手法はPMBOKにも通ずる黄金則。現場で生まれたプラクティスは伊達じゃない。

 「あたりまえだけど、重要なこと」は、教えてもらえないもの。教わるというよりは、スゴい人から盗んだり、自分であがいてもがいて身に沁みさせたりするものなのかもしれない。ところが、嬉しいことに、本書にはそういった暗黙知(のような習慣)が並んでいる。「誰にでも役立つ弾丸」ではなく、「わたしに役立たせるために、身に付けるべき習慣」という目で、選びたい。

■■■ 【018】 目標を突破する実践プロジェクトマネジメント

 TOCが腹で分かる。あるいは、プロジェクトを成功させる魔法の言葉がある。

 ゴールドラットの制約理論は「ゴール」読んだだけで知ったかぶっていた。あるいはクリティカル・チェーンは、PMBOK3で分かった気分になっていた…が、TOCを実践でどう適用していいのか分かっていなかった。本書はそいつを、徹底的に、肌感覚で分からせてくれる。しかも、『読んだらそのまま』使える仕掛けが施されている。

 「山積み・山崩し」の肝や、「遅れは伝播するくせに、進みは伝わらないひみつ」、あるいは「サバ取りの極意」(←これは読んだ今日使った)といった、いま、わたしが必要とするネタばかり。納期に間に合わせるために無意識のうちにサバを読んでしまう(丸めてしまう/下駄履かせてしまう/バッファ入れてしまう)心理が、いかにプロジェクトを圧迫しているかがよく分かる。建築業のPM手法だが、SI屋にも使える。

 「チームで協力してつくること」の本質は、ここにある。

■■■ 【019】 プロジェクト・ブック

 建築デザイナー向けだが、システム屋のわたしにも効果大のスゴ本。

 本書は、建築タイポロジーの解説ではないし、建築デザイン・テクニック集でもない。仮に本書が建築デザインについての形式論・類型論だったなら、わたしにとって、何の役にも立たないだろう。

 しかし、デザイナーとしての才能やテクニックに関係なく、つくるキモチに焦点を当てている。たとえば、場のつくりかた、発意の仕方、他者との共有方法を理解することで、どういう瞬間にプロジェクトが「まわって」いるかを感じとれる。いちいち具体的で、かつ、そのままITプロジェクトにハマる。

 デザインプロジェクトに効く63のキーワードと、現場の会話ログを追いかけるうちに、プロジェクトを「まわす」のに建築もシステムも大差なく見えてくる。つくる「モノ」は違えども、つくる「コト」は同じなのだから。

■■■ 【020】 PMBOK(プロジェクトマネジメント知識体系ガイド)

 今年「も」最もくりかえし読んだ本。まとめはPMP試験対策【まとめ】をどうぞ。

 これをプロジェクトマネジメントのテンプレートとして使うと失敗する。あくまでも「標準的な知識体系」なんだから、各々の事例に適用するためにカスタマイズが必要。それでもスペースシャトル打ち上げから新薬開発まで、あらゆるプロジェクトのベースラインが抑えてあるので、"応用が利く"といえよう。

 たとえば、システム開発屋の人がこれを読むと、「アタリマエだけどできていないこと」だと痛切に感じるはずだ。一方で建設屋の人が読むと、「現場では別な名前で呼んでいるだけで、同じことが書いてある」と思うだろう。それだけ標準化されているわけ。

 また、本書は上手くいくやり方を集めて標準化したものでもあるため、そこで示されるやり方をマネすることで上手くいく「考え方」を身につけることは可能だ。特効薬ではないけれど、使えるツールとしてオススメしたい一冊。

■■■ 【021】 仕事を100倍楽しくするプロジェクト攻略本

 プロジェクトは冒険だ、そしてキミは勇者だ。王さまの話を聞き、仲間を集めてパーティーを編成し、レベルアップに勤しみ、最高のクリアを目指す ――なんのことはない、昔っからゲーム相手にしてきたことと一緒。あのときの「ワクワク感覚」そのままに、プロジェクトの現場を捉えなおしてくれる。この視点はありそでなかった。

 プロジェクトを「まわす」にあたり、本当に必要な内容だけを吟味してまとめてある。テクニック集と見ると、既知のものが多かったが、本書からもらった一番だいじなものは「勇気」やね。

 実際、PMのインセンティブは雀涙のくせに、文字通りサンドバッグ状態となるのはバカバカしい。誰かのうんこを舐め取らされる思いは二度としたくない、と思っていた――が、本書のおかげで、もう一度挑戦してもいい、と思えるようになった。本書の著者は、米光一成さん、「プロジェクトを攻略する」という視点をいただき、ありがとうございます。

■■■ 【022】 マネジメント

 ビジネス書というより鈍器だったドラッカーの主著が、新訳で4分冊のハンディタイプで出た。これはニュースといってもいい。

 マネジメントとは何か、生産性とは何か、企業とは、責任とは――マネジメントの原則がわかる、いわば原液のような本がこれ。

 「生産性とは何か」について、ドラッカーの答えはシンプルだ。「生産性は、貢献で測れ」という。そして、何がどう貢献したかについて、マネージャーが注意深く考え直すことで、生産性について正しく定義できると述べている。

 つまり、生産性を定義づけるものは、企業にとっての貢献であり、何を貢献と見做すかは、企業によって違うはず。ホントにコードを量産するだけで許されるような企業なら――もしあればだけど――単位あたりのコード量こそ生産性を測るモノサシとしていいだろう。

 そして、「貢献」という言葉を使うとき、必ず「○○に貢献した/する」と目的語が必要だ。その目的語こそが、目標になる。そして、目標を決める際、「自社の事業は何か、将来の事業は何か、何であるべきか」という問いを元にせよという。

 この問いは、幾度も読み手に突きつけられる。既存の製品、サービス、業務プロセス、市場、最終用途、流通チャネルなどを体系的に分析し、現在も有用性を備えているだろうか? 今後も顧客に価値を届けているだろうか? 人口構成、市場、技術、経済の見通しに、適合しているだろうか?

 その答えが「ノー」なら撤退せよという。あるいはそれ以上資源を使わずにすます方法を考えろという。この問いを真剣に、体系的に追求し、その答えを受けて経営層が動く必要がある。ビジネスの現場をちょっと便利にするような薄っぺらな本ではなく、本書が使えるようにふるまいなさい、そう後押しされる本。

■■■ 【023】 本の未来をつくる仕事・仕事の未来をつくる本

 一冊のうちの、どちらもスゴ本。

 「どちらも」という言い方をしたのには、ワケがある。

 なぜなら、本書は右開きにも左開きにもなる、両面仕立てなのだ。右開きのタテ書き側は、「本の未来をつくる仕事」というタイトルで、ブック・コーディネーターとして手がけたプロジェクトが紹介されている。左開きの横書きサイドでは、「仕事の未来をつくる本」という題名で、会社を辞めてから今に至るまでの仕事のノウハウを抽出し、同世代向けへのメッセージにしている。レコードならA面B面なのだろうが、本書はどちらも「A面」であるところがミソ。

      「本の未来をつくる仕事」 ≡ 「仕事の未来をつくる本」

という本書そのものが、昨今の書籍の流通・販売についての問題提起と解決事例となっているところがスゴい。「一冊で二度おいしい」というよりも、むしろ「一冊で二倍うまい」というべき。

 まずは、「本の未来をつくる仕事」。「本が売れない」とお悩みの出版・流通関係者の方は、頭ガツンとやられる一冊(の半分)となっている。いままでの"本"観からブッ飛んだアイディアをごろうじろ。

 次は、「仕事の未来をつくる本」。「自分の仕事」に自信が持てない人が読んだら、頭ガツンとやられる一冊(の半分)となっている。やりたいことを考えるにあたり、「お金をもらう仕事」と「お金をもらわない仕事」の違いを意識しながら、戦略的に仕掛ける「しかけ」そのものを解説する。

 もちろん出発点は「自分」なんだが、仕事を通じて、他の誰も肩代わりできない「自分の仕事」をすることになる。資本主義経済で生きていくことには変わりがないが、その外側からの発想を得るためのやり方(=お金をもらわない)がスゴい。これも「働き方」の具体的な一つだと思う。マネするというよりも、わたしの中で実現していこう。

 著者・内沼晋太郎の手にかかると、本が「本」っぽくないのだ。本そのものと、本が置かれる場所と、本に込められたメッセージを通じて「人」が見えてくる、そういうスゴ本。

■■■ 【024】 本の現場

 出版関係者は必読、本好きな方も。

 「本はどのように生み出されいているのか?」「本はどのように読まれているのか?」というテーマで連載していた記事をまとめ+補記したもの。たくさんの気づきと、手がかりと、新しいヒントが得られたスゴ本。ヒントは追々このblogで実験していこうかと。

  ホントに「本」は読まれなくなったのか?
  最近の若者は本を読まない?
  電車で「本」を読む人が減った?
  「本」はホントに売れなくなった?

 そして、「本が売れない」の正体──最近の出版事情にまつわる、すべての疑問に応えてくれる。

 たとえば、「本が売れない」とは何か?書籍販売金額は、30年で2倍程度だという。点数は4倍になったにも、販売金額は2倍にすぎないということは、つまり、1点あたりの販売金額は、この30年で半分になったといえる。これが、「本が売れない」の正体なのだ。ネットと出版について、抽象的な言辞を振り回す「さもありなん」本が溢れている中で、本書は、唯一、具体的に切り込んでいる。

 本はいままでのチャネルを超えて、別のカタチになろうとしていることが分かる。

■■■ 【025】 プロパガンダ

 「だまされた」と思わせずに大衆を騙すテクニックがわんさと紹介されている。

 広告・政治宣伝のからくりを見抜くスゴ本。コマーシャルで衝動買いしたり、連呼されるワンフレーズ・ポリティクスに洗脳されることはなくなるだろう。マスメディアの欺瞞を意識している方なら自明のことばかりかもしれないが、それでも、ここまで網羅され研究し尽くされているものはない。

 もちろん、チャルディーニの「影響力の武器」と激しくカブってる。その研究成果が幾度も引用されており、暗黙のお返しを求める返報性の罠や、小さなものから大きなコミットメントを求める一貫性の自縄自縛のテクニックなんて、そのまんまだ。

 しかし、破壊力が違う。「影響力の武器」を一言であらわすならば、「相手にYesといわせる」ことを目的としているが、本書はそれに加えて「相手を説得し、積極的に賛同させる」ことがテーマなのだ。さらに、一人ふたりではなく、大衆レベルで実現しようとしている。あたかも自分自身の考えであるかのように、自発的に受け入れるように仕向けるテクニックが「プロパガンダ」なのだ。

 誉め言葉としては最悪かもしれないが、ナチスやカルトを興すノウハウが沢山ある。広告や政治家に騙されないことを目的としている本だが、それに限らず、自分の営業活動に応用したり、モテるテクニックとして悪用(?)も可能だ。

■■■ 【026】 服従の心理

 他人を服従させるマジックワードは、「責任はとるから」。

 この一言で、善良な市民が信じられない残虐なことをする。良心の呵責に耐えきれなくなると、記憶の改変を行う。「自分はまちがってない、あいつが悪いからだ」と平気で人をおとしめる。信じられるか? わたしは信じられなかった … 最初は。

たとえば簡単なバイト。 実験室に入ると、いかにも研究者然とした人が指示してくる。あなたは先生の役で、一連のテストを行うんだ。で、生徒役の人がまちがえると、罰として、電気ショックをあたえるのがあなたの仕事だ。

 そして、何回もまちがえると、そのたびに電撃は強くなってゆき、最後には耐え難いほどの強いショックを与えることになる。生徒は叫び声をあげてやめてくれやめてくれと懇願する。あなたは心配そうに研究者を見やるが、彼は「あなたの仕事を続けてください、責任はわたしが取りますから」とキッパリ。

 実をいうと、この実験の被験者は先生役の「あなた」。生徒は役者で、電撃はウソ、叫び声は演技。実験のテーマは「権威 v.s. 個人」なんだ。つまり、良心に反するような行為を強いられたとき、権威に対して、どこまで服従し続けるのかを見るのが、この実験の真の目的なんだ。

 この結果は、あなたをかなり不愉快にさせるかもしれない。事実、この実験は、結果だけでなくプロセスの倫理的問題も含め、厳しい批判にさらされることとなった。

 なぜなら、著者スタンリー・ミルグラムは、この結果でもって、ナチスのアイヒマンがやったことは「悪の陳腐さ」にすぎないとみなしたから。ユダヤ人をせっせとガス室に送ったアイヒマンは、悪魔でもサディストでもなく、権威にからめとられたただの官僚にすぎないと主張する。単に彼は自分の役割を果たしていただけであって、民族や文化、人格に関係なく、「あなた」にも起こりうる――そうした「問題」を突きつけてくる。

■■■ 【027】 影響力の法則

 肩書、権威はないが、うまく周りを巻き込んだり上司を動かして、結果を出せる人がいる。いっぽう、呼び名は何であれ、その役職名に見合った影響力を発揮できない人がいる。いわゆる、「部下をちゃんと使えない上司」というやつ。両者の違いが戦略レベルで理解することができる。

 本書は、当人の肩書・権威とは別に、仕事をする上で充分な影響力を行使するための法則と方法がまとめてある。やり方を知っている人にはアタリマエというか、当然のコトばかりなんだけれど、ここまで徹底しているのは初。

 チャルディーニ「影響力の武器」という名著がある。いかにYESを言わせるかを徹底分析しており、人間が社会的証明、権威、希少性などひっかかりやすいことが、これでもかというほどあらわにしている。これは人間関係間の影響力について「開いて」書いてある本で、交渉や対話の場に応用できるテクニック本として有益だろう。

 いっぽう本書は、ビジネスの場に「閉じた」指南書で、より具体的で実践に即したものとなっている。個々の対話ではなく、より戦略的に相手に影響を与えるための方法論なのだ。「武器」が個対個を想定したナイフや銃器であるならば、本書は爆撃機やミサイルなど、より広範囲なパワーを行使する、さしずめ「影響力の兵器」といったところ。

 サブタイトルが「現代組織を生き抜くバイブル」とあるが、看板に偽りなし。

■■■ 【028】 世界を変えた100日

 歴史の瞬間に立ちあうスゴ本。

 写真技術が誕生してから現代にいたるまでの、「世界の特別な一日」を100日分まとめて見る。

 ページをめくるたびに、声がもれる。いつか見た決定的瞬間から、見たことのない歴史へ行き来する。花に埋もれたダイアナ妃の写真、ずぶぬれで「壁」を壊す人々、真っ二つに折れ落ちるビル、巨大な打ち上げ花火と化したスペースシャトル。

 あるいは、いわゆる歴史上の人物の年齢を追いこしてしまっている自分に気づく。もみくちゃな歓迎を受けるカストロは33歳だし、モール地区を埋め尽くす群集を背負っているキング牧師は34歳だ。伝説化される人物を取り巻いている時代の空気が一緒に写しこまれている。彼等の偉大さとともに、それを支える時代の熱がふりかかってくる。

 知ってるはずなのに、既視感のない写真がある。チェルノブイリをテーマにしたものがそれだ。「石棺」がどーんと写っているんだろうなぁと思いきや、災厄から20年後に撮影された、ある少女のポートレイトだった。同時代の一人として、チェルノブイリの映像を見てきたつもりだが、この9歳の少女ほど衝撃を受けたものはなかった。彼女にとって、チェルノブイリはリアルタイムそのものなんだ。

 武器としての写真、プロパガンダの道具としての写真もある。士気高揚を目的とした合成写真を使ったソビエト当局や、俳優を使った「やらせ」写真を撮ったパリ・コミューンのプロパガンダ事例が面白い。死屍累々のゲティスバーグを見たら、南北戦争の大義に疑問を感じていたかもしれない。

 昔と歴史のつながり感を、リアルに感じる一冊。

■■■ 【029】 百年の愚行

 読んで唸るなら、「百年の愚行」の写真を強力に推す。どの一枚を選んでもいい。

 人間がやってきた/やっている/やるだろう愚かな行動の結果が、ハッキリと見える。20世紀の人間が、地球環境と自分自身に対して及ぼした数々の愚行の「象徴」であり、と同時にひとつひとつがれっきとした「現実」である

 わたしの子どもが大きくなったら、必ず読ませる一冊、それぐらいのスゴ本。あるいは、すごい本探している方なら、黙って読め(見ろ)とキッパリ言い切れる一冊でもある。

 どの一枚も重すぎて、何万語使っても語れない。一枚の写真の威力に圧倒される。それが100枚、ただ、この凄まじい現実を目ぇ開いて、しっかりと見ろ、としか言えない。あるいは、知らなければよかったと激しく後悔するかもしれない現実を見てみろ(たとえ怖いもの見たさであっても)、「無知ほど完全な幸福はない」という言葉が沁みるはず。

 近々人類が滅びるとするならば、その原因が写っているのは、「百年の愚行」だろう。

■■■ 【030】 ベビービジネス

 「ベビービジネス 赤ちゃん売ります、そこに市場がある限り。

 「ベビービジネス」における著者の主張はこうだ ――「赤ちゃん市場はそこにある。まず第一に、その事実に目を向けろ。次に、市場であるにもかかわらず野放し状態となっていることを理解せよ。最後に、この市場は、市場として歪んだ状態であるからして、政府の規制が必要であることに気づけ」―― そいつを裏付けるための事実を徹底的に報告してくれる。

 遺伝的に劣位な胚を除外する生殖補助サービス、「あなたに似た人」をカタログ販売する、国際養子縁組業者、肌・目・髪の色や遺伝特質を予めセットアップされた、「デザイナーベビー」、不妊治療に失敗→養子縁組でゲット(不妊治療+養子縁組の相互補完)、難病の我が子の治療に必要な髄液のため、生物学的に同じ「子」をつくる──お金では買えない価値がある。

 健康なグアテマラの子   $25,000
 代理母との契約       $59,000
 一流の卵子          $50,000
 あなたの赤ちゃん      priceless

 お金で買えない価値が有る―― はずじゃなかったのか。

■■■ 【031】 パレスチナ

 アメリカ人のジャーナリストから見た「パレスチナ」が迫る。

 本書を稀有なものにしているのは、「マンガ」なところ。画き手はジョー・サッコというマンガ家。フォト・ジャーナリストではなくコミック・ジャーナリスト、つまりマンガでパレスチナ問題に斬りこんでいるのだ。著者は1991年にヨルダン川西岸地区とガザ地区を訪れ、専ら占領地区のパレスチナ人にインタビューをする。そのときの感情、状況、境遇をつつみ隠さず、あまさず描きつくす。下手な物語化なぞせず、自分自身が登場し、一人称で語る。

 ただし、いわゆる「マンガで分かる」ものではないことに注意。「分かりやすさ」なんぞ、これっぽっちも無い。入り組んだ主義・信条・身の上話をそのまま画き下す。「アラブ対ユダヤ」あるいは「イスラーム対イスラエル」といった対立構図を見ることも可能だが、さらに相対化され、「そうした構図で見ている人」として画かれている。

 この相対化というか、取材対象への距離のとり方が面白い。作者は、どのインタビューにも顔をだし、肉親を殺された話や、収容所の生活、インティファーダの様子をふむふむと聞く。そのふむふむ顔の裏で独白する「思い」はなかなか辛らつだ。

 だれかの「正義」に相対するものは、「悪」などではなく、また別の正義なのか。姦通した娘に対するイスラム法の家族版があり、投石をしたか・しなかったかもしれない子どもに対するイスラエル軍版の正義、占領軍が従うべきジュネーヴ条約の指針、占領軍の撤退を呼びかける国連決議――ガザでは正義を選ぶことができるようだ。

 マンガという手段は、画き手の「耳目」というフィルターを通した現実を、画き手の「手」を通じて表現したもの。バイアスとデフォルメが二重にかかっていることを承知の上で、その「ゆがみ」を徹底して描く。兵士の銃床が奇妙にクローズアップして描かれ、ふりあげられた棍棒がグロテスクなまでに巨大に見える。ねじまげられた「現実」へ当惑した感覚が、ゆがんだコマ割りと不均衡なパースにより、いっそう増幅される。

■■■ 【032】 中国臓器市場

 中国の臓器移植は、「早い・安い・うまい」という。

 まず、早さ。肝臓や腎臓移植であれば、早くて1週間、遅くとも1ヶ月以内、心臓や肺移植でも1ヶ月以内にドナーが決まる。主要都市まで飛行機で数時間、ドナーが出れば、その場で飛べる。

 次に、安さ。腎臓移植を日本人が米国で受けると、1,600-2,000万円だが、中国なら600-750万円。肝臓移植の場合、米国7,000万-1億円に比べ、中国なら1,300-1,800万円でいける。渡航費や滞在費も考慮すると、圧倒的に安い。

 そして、うまさ。腎臓移植の場合中国国内で年間5000例以上、米国に次ぐ世界第2位の移植大国。移植医療は数をこなしてなんぼの世界、一大市場を築く中国は、物量共に他を圧倒している。

 この移植先進国を支えているのは、毎年1万人執行される死刑囚だという。交通事故などによる「不慮の死」によって突発的にドナーがもたらされる某国とは、かなり違う。実際、中国のドナーの9割が死刑囚で、そのメリットは大きい。

 要するにこうだ。若くて健康な臓器が用意でき、事前検査を行うため、肝炎やエイズウィルスなどの感染リスクはないし、死刑執行の日時や場所が事前にわかるため、摘出直後の移植が可能だ。おまけに、死刑は毎年大量に執行されるため、ドナーが途切れることがない。

 まさにオイシイとこだらけなのが中国臓器市場。その光と闇が徹底的に描かれている。もちろんドナーを求める代表は日本人だ。眉をひそめる方もいるかもしれないが、いつ自分もどうなるかわからない。揺さぶりをかけるように、中国での移植サポートをしている日本人は、こう問うんだ。

  アメリカで移植を受けると美談として扱われ、
  フィリピンで移植すると臓器売買だと罵られ、
  中国だと倫理問題はどうなのだと問い詰められる

■■■ 【033】 17人のわたし

 虐待で多重人格障害となった女性が、精神科医の助けにより、人格を統合する。

 不謹慎な言い方だが、そこらの小説より遥かに面白い。多数の人格が生まれた理由、記憶の共有や人格の入替えメカニズム、人格を統合する方法など、物語形式で500頁みっちりと詰まっている。

 彼女は発狂するか、自殺しかねないような凄惨な体験を重ねている。辛すぎる現実に潰されないよう、「自分」を守るため、恐怖や痛みを引き受ける人格がどうしても必要になる。ほとんどの人格は年を取るのをやめ、成長を拒絶し、異なった時期で時間が止まっている。そして、その時点で起きていたこと―― たとえば、レイプされたこと、親が「死ねばいいのに」と言っていたこと――の中で、ずっと時をすごしている。

 著者は、そのひとりひとりと話し合う。同情し、励まし、慰めるが、時には強く出ることもある。おかしくなってしまった「人格」に対してセラピーをすることもある。その過程で明らかにされる「カレン」の人格システムがスゴい。人間の強さと心の柔軟さを痛感させられる。さらに、「カレン」の統合エピソードを通じて、人格とはすなわち記憶そのものではないかという気になってくる。

■■■ 【034】 アポロ13

 ドキュメンタリーとして夢中になって読めるだけでなく、プロジェクトが危機に陥ったときの「べき/ベからず集」しても、ものすごく有効な一冊なり。

 どうしようもない状況、限られた時間、非常に高いリスク、疑わしい解決策…プロジェクトがパニックに瀕したとき、優れたプロジェクトマネージャは何を考え、どう行動するかを知ることができる。本書を通じて学んだ危機管理マネジメントは、次のとおり。

  • プロジェクトが危機的状況のとき、あらゆる手段を使って、自分の感情をコントロールせよ。感情は事実をゆがめ、判断を誤らせ、解決への手段の一つ一つに邪魔をする
  • 「危機」は、すぐに数字にならない。必ずタイムラグが発生している。だから、危険な数値が今出ているということは、既に危機的状況に突入している、ということだ
  • 問題に対処するとき、絶対に忘れてはいけないのは、「いつメンバーを休ませるか」だ。不眠不休はミスにつながり、宇宙でのミスは、死につながる。たとえ宇宙にいかなくても、問題対処の時点で、メンバーは疲弊しているはず
  • 『訓練を通じて彼が身に付けた第一の経験則によれば、飛行機の墜落原因を推定するのに最もいい方法は、墜落機の残骸を直接に目で見ることである』

 一番刺さったのが、「なにかおかしなことが起きた」担当である、ミッション評価室。incident からcritical まで、プロジェクトの進行中には「何かおかしなこと」が発生する。それを解析し、原因を特定し、説明できるようにする専用の担当がいること。

 バグであれ、設計・仕様上のものであれ、重大な不具合が見つかると、「原因究明」「影響回避」、さらには顧客・上長への説明を、同一人物にまかせてはいないだろうか? 彼/彼女が「一番分かっているから」という理由で、その人に委ねては、いないだろうか? これは、わたし自身そーいう目に遭ってきたから分かる。上の3つは、互いに影響しあうため、一人にするにはムリがある。

 プロマネ必読のノンフィクション。「最悪」とは何かを覚悟できる。

■■■ 【035】 眼の冒険

 「眼の経験値」を上げるスゴ本。

いデザインを見ることで、眼が肥える。同時に素材に対し、「いいデザイン」であるとはどんな表現なのかを感じ取れるようになる。いままで「感性を磨く」という言葉で片付けられていた経験は、「本書を読む/視る」に置き換えてもいい。

 スーパーマンからマッドマックス、ピカソやエッシャー、ウォーホルといった実例がてんこ盛りで、絵画や写真、タイポグラフィやイラストから、デザインの手法・見方が紹介される。モノとカタチ、デザイナーはこれらをどのように見ているのかが、デザイナー自身の言葉で語られる。なじみ深い作品を入口として追いかけているうちに、いつしか自分の見方を変えてしまうぐらいの破壊力をもつ。

 たとえば、映画のストーリーを視覚化する試みがある。ストーリーを構成するキャラクターや出来事、関係性などが、アイコンや矢印、タイポグラフィや色で表現される。一種の逆転の発想だ。つまり、脚本を映像化したのが「映画」なのではなく、キャラやイベントはアイコンのようにドラッグ&ドロップ可能に思えてくる。

 その例として、「遊星からの物体X」のチャートがある。エイリアンが誰の人体を乗っ取っていくかがアイコン化されたグラフックで描かれるのだが、これを「アート」というよりも、動的ストーリーと呼びたい。ホラー映画が、アイコンの動きに応じて二転三転していく、いわば「ストーリー・シミュレーター」のように見えてくる。

 異なる回路がつながってゆき、自分の認識が開かれていく、デザイン・アイディアの思考展――そんな経験ができる。そう、「読む」というより「経験する」一冊。

 舌を肥やすように、眼を肥やすべし。

■■■ 【036】 自分の小さな「箱」から脱出する方法

 60分で人生を変えるスゴ本。人間関係のキモが理解できる。どんな場合でも、最初にコミュニケートする相手、すなわち自分が「見える」。読む順番は、

  最初、自分の小さな「箱」から脱出する方法[レビュー]   次に、2日で人生が変わる「箱」の法則[レビュー]

でどうぞ。あらゆる争いごとの根っこが「見える」。「あらゆる」なんて言っちゃうと、宗教や歴史といったセンシティブな話題まで振り幅が大きくなるが、無問題。夫婦喧嘩から中東問題まで、この原則で斬れる。

 えらく自信たっぷりに振りかぶっているけれど、ホント?

 ホント。なぜなら、わたしが変わったから。まさにここに出てくるオヤジのやり方で、人生と対決してきた。わたしの人生を取り返しのつかないものにする前に、本書と出会えてよかった。ただ、自分の腹で理解するために、幾度となく読み返し、実践する必要があった。百冊の自己啓発本を読むよりも、本書を繰り返し「実行する」ことをオススメする。

 本書は、まなめさんのおかげで知った。まなめさん、感謝しています。

■■■ 【037】 考える技術・書く技術

 書くこと=考えること

 ロジカルな文章とは、「理屈っぽい文章」ではない。むしろ「納得しやすい」「入りやすい」文章のことをいう。フレームワークはシンプルで、テーマの深度は抽象→具象の順番に進み、トピックの幅は「A and B and ...」あるいは「A or B or ...」でモレダブリは排除されている。

 つまり、一番いいたいことは冒頭で言い尽くされており、各トピックで具体化・詳細化される。それぞれのトピックの中も、「主張・結論」→「それを支える仮説・事実」の構成となっている。さらに、同階層のトピックは「部分-全体」を成している。

 読む方もラクだ。「要するに何?」はドキュメントの冒頭を読めば分かるし、論点はそれぞれパラグラフごとに柱を成している―― これも言うは易しというやつで、実際に書くとなると難しいもの…では、方法はないのかというと、ある。それが本書で示されている「ピラミッド原則」。何のことはない、MECEだ。それがライティングに適用されると、スゴいツールになる。

 書くことは考えることであり、適確に書けているということは、すなわち適確な思考ルートをたどって目的(ここでは主張・結論)に至っていると言える。「書く技術」「考える技術」「問題解決の技術」の三部構成となっているが、第一部が全てのエッセンスといってもいい。「考えて→書く」んじゃないの? とツッコミが入るかもしれないが、第二部の「考える技術」は、自分の思考を「ロジカルに、相手に分かるように」表出できるようになった次のレベルの話。「相手」と便宜上呼んだが、自分も含まれる。この方法で書いてみて、はじめて本当に言いたいことにたどり着いたことがあるから。

 本書をはじめ、「いきなりコンサルタントに抜擢されたSEが読むべき5冊」はオススメ。

■■■ 【038】 知的複眼思考法

 学生向けの、論理思考指南書なんだが、そこらのロジシン本を蹴散らす出来。

 読むべきは、第3章「問いの立てかたと展開のしかた」。ここでは、MECEとなるための思考方法を説明してくれる。実は、優れたツリーの裏側に何十枚もの「デッサン」がある。書いちゃ捨て、拾っては直しのスクラップ&ビルドが必要なんだが、フツーの指南本はそこを省く。本書には「デッサン」の線が沢山見えてくる。

 あるいは、アウトプットのための手法に限らず、インプットも批判的にできる。第1章「創造的読書で思考力を鍛える」が素晴らしく、ここを読むだけで、以降、目的を持った読書ができることを請合う。学生さんを想定しているため、噛み砕き具合がハンパじゃなく、まさに「読めば分かる」一冊として仕上がっている。

■■■ 【039】 アイディアの作り方

 自分への戒めとして書く。優れた方法は、マネして→習慣化→血肉化してこそ意味がある。付せん貼ってブックマークして終わりなら、読まなかったことと同義。「いま」「すぐ」動かなければ、タタミの水練以下。JUST DO IT

 「一時間で読めて一生役立つアイディアの作り方」という惹句どおり、確かにシンプルで強力な方法だ。しかし、こいつを愚直に実践していくことはかなりの努力を要する。そのエッセンスはこうだ――

  1. アイディアとは、既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない
  2. アイディアの作成は、車の製造工程と同じように、一定の流れ作業の過程であり、習得したり制御したりできる操作技術によってはたらく←「技術」なんだから鍛錬によって身につくことがポイント
  3. 既存の要素を新しい一つの組み合わせに導く才能は、事物の関連性を見つけ出す才能に依存するところが大きい
  4. アイディアの作成は、次の五つの段階を経る。どれも飛ばすことも省略することもできないし、必ずこの順番になる。 ①資料集め②第一段階で得た資料に手を加える③孵化段階。意識の外で何かが自分で組み合わせの仕事をやるのにまかせる④アイディアの実際上の誕生(ユーレカ!分かった!)⑤現実の有用性に合致させるために最終的にアイディアを具体化し、展開させる
  5. 「言葉」それ自体がアイディアであることを忘れがち。言葉は人事不省に陥っているアイディアであり、言葉(セマンティックス)をマスターすることでアイディアは息を吹き返す

 わたしにとって、耳に痛いのは②。情報を集めることは好きなんだが、それだけで満足してしまっている。集めた情報を吟味して、新たな組み合わせや関係を見出すための試行錯誤をやってない。あたかも、情報は集めておくだけで勝手に発酵するものだと思い込んでいるきらいがある。

 しかし、この蔑ろにされがちな②こそ、わたしにとって重要なタスクであり、筆者によると、心の触角とでもいうべきもので一つ一つ触ってみるのだという。そして、一つの事実を取り上げて、それをあっちに向けてみたりこっちに向けてみたり、違った光のもとで眺めたり、二つの事実を一緒に並べてみたりすることで、「関係」を探す。カードに書き出し、カードを並べる手法が紹介されているが、今ならマインドマップやね。

 一時間どころか30分で読めるにもかかわらず、今まで読んできた全てのIDEA HACK を思い出す。言い換えると、全ての発想法のネタ元であり、こいつをタネにわたしですら一冊モノにできそう── そんな気にもさせてくれる。

 人生を変える一冊、ただし、実行すれば。言うは易く、JUST DO IT

■■■ 【040】 図書館を使い倒す

 ネットはスゴいが、図書館のほうがもっとスゴい。「知の現場」はインターネットではなく、図書館にこそある―― まだ、今のところ。本書は小飼弾さんの紹介で知る(ありがとうございます、dankogaiさん)。

 クライアント側から図書館を徹底的にしゃぶりつくすための技が紹介されている。 知りたい情報は、「検索」するのではなく「探索」する。調べるステップは3段階ある。

 まずは「準備」。図書館に行く前段階として、調べたいトピックを質問の形にする。ネットにキーワードを放り込んで、バックグラウンドを読んだり、類語をかき集めておく。このときちゃんとした質問になっていなくてもOK

 次に「出向く」。図書館へ出かける。ネット越しで用を済ませることもできるが、開架書庫に出向いて目指す本の周りを眺める── ブラウジングすることが有用なり。どこの図書館も同じ分類法にのっとって並んでいるので、ひとつの図書館を極めれば、他でも使える。

 さらに「プロに調べてもらう」。いわゆる司書のレファレンスサービスを利用する。調べたいことに対して、どのようなレファレンス資料(書籍や雑誌・CD-ROM・データベース)を使えばよいのかを案内してくれるサービスなのだ。

 視点を切り替えることで行き詰まりを打開し、同時に複数の視点から網羅的に「問題」へあたり、これらのフィードバックを繰り返す。「調べたい何か」を調べるのではなく、「何を探すべきか」という問題設定まで立ち戻る。調査の基本として覚えておきたい。この段階になってくると、まさに「本が本を呼ぶ」状態となってくるだろう。本書はそのナビゲーターとして使い倒したい。

■■■ 【041】 洗脳力

 悪用厳禁のスゴ本。

 あらゆる成功本にトドメを刺す。3章まで読めば、ほとんどの自己啓発本は無用。さらに4章では、より高次の「夢」を実現する方法まで紹介されている。6章は悪用厳禁、他者を支配下におくやり方がある。要するに、自分(や他人)を洗脳する方法が書いてある。

  自分を洗脳 → (自分の)成功に向かって自分を注ぎ込み、実現させる
  他人を洗脳 → (高次の)夢に向かって他人を巻き込み、思い通りにする

 だから、自分だけの成功の実現のために、他人を利用することができてしまうため、前者は詳しく、後者はぼかして書いている。わたしオリジナルの遊び、「偽の体験を創り出し、そいつを"記憶"する」や、「自分を俯瞰する視点を持ち、スケールを拡大縮小する」[その方法]も、もっと普遍的なやり方で紹介されている。

 正直なところ、4章以降の高次な夢の実現が、わたしにできるかどうか分からない。かなり深いことを易しく書いているため、考えるのを止めてトンデモと断ずることはカンタンだ。だが、少なくとも3章までは実証済みなので、おそらくアタリなんだろう。6章は実地で試してみる。「大周天」、「Rの揺らぎ」、「フレーム中断」による空間コントロールは、わたし自身ヤられたことがあるので有効かと。

■■■ 【042】 打ちのめされるようなすごい本

 打ちのめされるようなスゴ本。米原万里が遺した書評集。濃くて厚い時間を過ごすことができた。びっしりと付せんが貼られた「あとで読む本」は、読んだらここでも紹介しよう。

 何がスゴいかというと、彼女の読みっぷり。平均7冊/日のペースを20年も続けている無類の本好き、読書好き。書評委員という立場もあり、出版社からの献本もあるだろうが、「面白い本」を見つけてくる嗅覚がスゴい。ハズレの無さは驚異的といってもいいほど。

 そうして見つけてきた「すごい本」たちの紹介っぷりも、またスゴい。時には辛辣に批評し、あるいは手放しで誉めちぎる。そのヒートアップダウンが面白い。熱くなってしつこく「読め読め」とぐいぐい迫られているような気分になる。

そんでもって、うまいんだ、殺し文句が。例えばこう、

スコリャーチン著の「きみの出番だ」── ご忠告申し上げるが、一度読み出したら読み終えるまで寝食などどうでもよくなる。本国で「詩人の悲劇を俗悪な推理小説にした」と非難されただけあって、謎がさらに謎を呼ぶ展開に巻き込まれたら最後、地震になったって震度五ぐらいまでなら読み続けることだろう

 本の紹介だけではない。時事ネタと書評をシンクロさせており、あわせて自論も展開するやり方は、谷沢永一「紙つぶて」をホーフツとさせられる。毒舌よりも、辛辣な表現のすき間に、著者への「思いやり」が見えている分、「すごい本」の方が、スゴ本だとしみじみ思う。

■■■ 【043】 ビジョナリーピープル

 偽装された「成功」を、ずっと追いかけていたことに気づかされた一冊。

 本書を「まとめ」るのは簡単だ。世間一般の「成功」を捨て、改めて「成功」を問い直す。自分自身で成功を定義し、最低20年以上その分野で永続的に影響を与えている人を「ビジョナリーな人」と名付け、直接インタビューをする(なんと202人!)。そして、彼/彼女らに共通しているエッセンスをまとめあげたものが、本書だ。

 もちろん成功本好きにとっておなじみのスティーヴン・コヴィーやロバート・キヨサキもいるし、ビルならゲイツもクリントンも、ネルソン・マンデラもコントリーザ・ライスもジャック・ウェルチもクインシー・ジョーンズもいる(全リストは[ここ])。分野は脈絡なし、ただ一つ共通しているのは、継続して影響力を与えつづけている人に絞っていることだ。一発屋の成金はおらず、本質的な成功のエッセンス・オブ・エッセンスとでもいおうか。

 もちろん、本書を「あたりまえのことばかりじゃねーか」と腐すのはたやすい。しかし、「あたりまえのこと」をここまで突き詰めて調べ上げたレポートは、ないぞ。そもそも、そんな風に腐す奴は知ってるだけで実行しないからな。どうして断定できるかって? そりゃわたしがそういう奴だから。だから、次の問いかけはグサリと刺さる。

   なぜ今の今、私は自分の生きがいに打ち込んでいないのだろうか?

 本書を読むことは、この質問を抱えながら自分にとっての「人生の意義」を注意深く検証する作業になる。お手軽にTips/Hacksをつまみ食いすることが「読書」だと思ってる人には、ちとツライ経験になるかも。さもなくば自己欺瞞でコーティングして読み干すのもアリ(一切消化されないだろうが、ね)。

■■■ 【044】 小説の技巧

 小説家のバイブル。

 小説は自由だ。何をどう読もうと勝手だ。けれども、小説から快楽を得ようとするなら、その技巧を知ることは有意義だ。前立腺やGスポットの場所を知らなくてもセックスは可能だが、より快楽に貪欲になるのなら、知っておいて損はないのと一緒(訳者の柴田元幸はもっと上品に、「ショートカットキー」に喩えてた)。「ヤってるうち自然と身につく」という奴には、「愚者は経験に学ぶ」という箴言を渡す。快は無限だが、生は有限。読める数は限られている。

 同時に、小説書きにとってはバイブル級。読者を快楽の絶頂へ導く手引きが解説されているのだから。プロットやキャラといったハウツーを超え、マジック・リアリズムや異化、多声性、メタフィクションといった本質的なレベルで語られる。しかもサリンジャーやナボコフ、ジョイスといった練達者のテクストが俎上乗っている。心してかかれ。

 ただし、いそいで付け加えなければならないのは、「知る」ことと「できる」ことは違うこと。おっぱいの場所は知っているけれど、そこから快楽を引き出すのにコツがいるように、本書を把握しさえすればすぐ書ける(読める)ワケではない。

 小説作りの舞台裏を覗き見るのに、最適な一冊。

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  フィクション
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■■■ 【045】 モンテ・クリスト伯

 この世で、もっとも面白い小説――と言われているが、ホントだ。

 ストーリーを一言であらわすなら、究極のメロドラマ。展開のうねりがスゴい、物語の解像度がスゴい、古典はまわりくどいという方はいらっしゃるかもしれないが、伏線の張りがスゴい。てかどれもこれも強烈な前フリだ。伏線の濃淡で物語の転び方がミエミエになるかもしれないが、凡百のミステリを蹴散らすぐらいの効きに唸れ。読み手のハートはがっちりつかまれて振り回されることを請合う。

 みなさん、スジはご存知だろうから省く。が、痛快な展開に喝采を送っているうちに、復讐の絶頂をまたぎ越えてしまったことに気づく。その向こう側に横たわる絶望の深淵を、主人公、モンテ・クリスト伯と一緒になって覗き込むの。そして、「生きるほうが辛い」というのは、どういう感情なのかを思い知るの。

■■■ 【046】 オデュッセイア

 究極の、「ものがたり」。

 英雄オデュッセウスの冒険譚で、ご存知の方も多いかと。一つ目の巨人キュクロプス(サイクロプス)や、妖しい声で惑わすセイレーンといえば、ピンとくるだろう。トロイア戦争に出征し、活躍をしたのはいいのだが、帰還途中に部下を失い、船を失い、ただ一人で地中海世界を放浪し、十年かけて帰ってくるんだ。

 このオデュッセウス、勇猛果敢なばかりか、知恵と弁舌がはたらく策士でもある。あわやというところで、(運もあるが)機転を利かせてくぐりぬける様は痛快だ。一つ目のキュクロプスの目を潰すとき、自分の名前を「ウーティス(誰でもない)」だと騙す話なんて、様々な物語に翻案されている。魔法で豚の姿に変えられたり、冥界に降りて予言を聞いたり、前半の奇譚集はどこかで聞いた覚えのあるネタの宝庫だろう。

 オデュッセウスは、とにかく弁が立つ。物語るのが上手いんだ。相手の力量や真意をはかるため、自分の身分を騙るのが得意ときたもんだ。翻訳者の注釈のおかげで、読み手はそれが「嘘」だと分かるが、あまりの立て板に水っぷりに、地の文まで疑いたくなる。

 つまり、十年におよぶ冒険話も、ぜんぶホラ話なのではないかと。トロイア戦争に出たのはホントだけど、土地の女といい仲になり、帰るに帰れなくなってしまったのではないかと。海の女神カリュプソーが彼を気に入って、帰そうとしなかったとあるが、オデュッセウスの口からでまかせだとしたら?

 そうすると、俄然おもしろくなる。巨人退治や大渦潮の化け物の話は、旅先の土地にまつわる伝説をネタにでっちあげ、お土産の金銀財宝は海賊行為で集めたとしたら?十年も家をほったらかしていた理由を、この壮大な物語で言いわけしようとしたら?と仮定すると、「智謀に富むオデュッセウス」が「ずるく悪賢いオデュッセウス」に見えてくる。

 これは、究極の、「もの騙り」になのかもしれない。

■■■ 【047】 幼年期の終わり

幼年期の終わり SF史上不朽の名作。

 地球上空に、突如として現れた巨大な宇宙船――というベタな話と思いきや、SFとしてだけでなく、ミステリとしても超一級のおもしろさをお約束。あるいは、感傷を超越して、自分ではどうしようもない、取り返しのつかないものを眺めている―― そんな気分を味わうこともできる(わたしの場合、ラストの件で思わず涙してしまった)。

 ハヤカワ文庫で読んだのだが、光文社から新訳が出ている。第一部が改稿されており、amazon評を見る限り、新訳のほうが良い出来とのこと。このblogを読むような方なら既読だろうが、万が一、未読なら、是非読むべし。

■■■ 【048】 ゴーレム100

ゴーレム100 超スゴ本。読みながらのたうちまわった。よじれたのは脳と腹。もだえたのは尻と口。

 この、みょうちきりんな体験は、ええと、ジョイスやバロウズ、ギブスンや尾崎翠やツツイヤスタカと比較したくなるけれど、そういう 無★粋★な★こ★と はしない。お高くとまりやがって批評する奴ぁ漬物石くくりつけて日本海に沈めちまえ。

 読者は考えること禁止な。ひたすら没入・挿入・チン入を強要させられる。身もココロもヘトヘトにさせられる。本とファックする感覚。うん、本書の紹介に「実験小説」とあるが、実験台にされているのは読者だな(断言)。

 ストーリーなんてページをめくらせるための方便。食べられるように読まされる。typoではない。本が襲いかかってきて、食べられる感覚。冷静に読ませてくれない。下品、汚猥、造語、駄洒落、鏡言葉(Ind'dni)、Double Meaning、アメコミ、抽象画像?崩壊した言語感覚のタレ流しなら、クダラナイの4文字で済むが1文字足りない。イが足りない言い足りない。やヴァい、脳がヤられるるるるるるるるるるる。

 完全にぶっこわれた小説。脳がねじくれるような感覚を味わうならオススメ。わたしみたく一緒になって壊れないように。読み手を選ぶ、しかも激しく。赤い表紙だ。本屋で試してみろ!

■■■ 【049】 わたしを離さないで

わたしを離さないで これは徹夜小説ではない…というか、一気に読んだらもったいない。ある女性を語りべとした独白に潜む大いなる秘密が、抑制された筆致で描かれている。重要なのは『秘密』そのものではない(秘密でもなんでもない)。

 しかし、物語の途中で分かる(分かってしまう)、彼女の人生を知ることで、読み手は、いままで感じたことの無い感情に包まれ、突き動かされるだろう。本書だけは、一切の予備知識を排して、手にして欲しい。「ごちゃごちゃ言わずに、まぁ読め。まちがいないから」とオススメできる一冊。

■■■ 【050】 マルドゥック・ヴェロシティ

マルドゥック・ヴェロシティ1 マルドゥック・ヴェロシティ2 マルドゥック・ヴェロシティ3

 「ターミネーター」観たことある?最初の奴だ、シュワちゃんが悪玉の奴。あのターミネーターの『視界』を覚えてる?赤外線カメラの映像をベースに、重要物はロックオンされ、ナレーションが文字列で表示される。あのシュワちゃんビジョンを『読む』ような錯覚にとらわれた ── そんな独特な文体。

 前作の「マルドゥック・スクランブル」よりも楽しめた。ギブスンを意識したサイバーパンクアニメを『読む』ようなカンジ。人によると、「攻殻機動隊」や「マトリックス」を思い出すかも。わたしの場合、洗練されていない主人公の泥臭い動き方と、表紙絵がどう見てもシュワちゃんなので、「ターミネーター」(T1のやつ)のイメージがついてまわってしょうがない。

 主人公ボイルドは、自分で「下」を決められる。つまり、重力を自在に操ることができる。ジョジョのスタンド使いのようなキャラがてんこ盛りなんだが、奴らの特殊能力がスゴいのではない。それをストーリーに組み込もうとする仕掛けが面白い。本来、軍事技術を流用した特殊技能は、社会にとって危険なもの。その管理・運用を法律的にバックアップする"マルドゥック-09"(オーナイン、と読む。 009を意識?)をめぐる確執が面白い。エアカーが普通の未来社会でありながら労働組合でゴト師が跋扈する階級社会が、とてもユニークだ。

 異能バトルSFなのかというと、ちゃんとミステリにもなっているところが面白い。次から次へのバトルシーンを夢中になって読んでいると、後半のどんでん返しにあっと驚くだろう。いや、主人公が前作でどういう運命をたどるかは、読んだ方は知ってるから、余計に興味深い(前作では最強の敵役として出てくる)。「ヴェロシティ」を最後まで読んだあとは、あらためて「マルドゥック・スクランブル」を再読したくなる仕掛けもほどこしてある。

 そこ至るまでに彼が見た虚無は、あまりにも深い。

■■■ 【051】 虎よ、虎よ!

虎よ、虎よ! 「スペース・ファンタジー」というべきSF。あるいは、「この未来はもう見ているぞ!」と叫びそうになる。

 1956年に発表されているので、その影響を受けた作品から間接的に知っている世界に既視感覚ありまくり。石ノ森章太郎の「加速装置」や、スティーヴン・キングの「ジョウント」の本家はこれだったんだーと狂喜乱舞する。他にも説明抜きでじゃんじゃん投入されるアイディアは、ぜんぜん古さを感じない。

 物語自体が強烈な迫力と磁力と理力を帯びたハリケーンみたいで、ぼんやり読んでると跳ばされる。男の情念の炎にゃ、読み手の「手」も焼かれること間違いなし。冒頭で突きつけられた、主人公を燃え狂わせる「動機」は物語全体を横切り、結末にぶつかって粉々になる。その軌跡がスゴい。

 ブッ飛んだSFに、振り落とされないように読むべし。

■■■ 【052】 血と暴力の国

血と暴力の国 極上のクライムノベル。ものすごくピュアな悪(大文字のEVIL)が形を取るとき、それは天変地異と呼ばれたり、単に「運命だった」と片づけられる。じゃぁ、それが人の形を取ったならば? ―― それがシュガー、主人公を徹底的に追いかける絶対悪。

 ストーリーは極シンプルかつ濃厚。描写も展開もムダが一切ない。キャラの扱い容赦なし。地の文と会話と内省が区別なく進み、描写の接写/俯瞰の切替は唐突で、動作は結果だけの、最適化された文章。

 ただし、読者が単純化するのは危険。「追うものと、追われるもの」という物語らしい構図を引いて読むのは読者の勝手だが、ガツンと犯られちまえ。どんな「運命」が待っていようと、物語を構造化したのはアナタなんだから。

■■■ 【053】 アラビアの夜の種族

アラビアの夜の種族1 アラビアの夜の種族2 アラビアの夜の種族3

 おもしろい物語を読みたいか? ならこれを読め!【完徹保障】だッ!

 と、自信をもって断言できる身も心もトリコになる極上ミステリ。物語好きであればあるほど、本好きであればあるほど、ハマれる。抜群の構成力、絶妙な語り口、そして二重底、三重底の物語…このトシになって小説で徹夜するなんて、実に久しぶりだ。

 これは、陰謀と冒険と魔術と戦争と恋と情交と迷宮と血潮と邪教と食通と書痴と閉鎖空間とスタンド使いの話で、千夜一夜とハムナプトラとウィザードリィとネバーエンティングストーリーを足して2乗したぐらいの面白さ。そして、最後の、ホントに最後のページを読み終わって――――――驚け!

 それまで、検索厳禁な(amazonレビューも見てはいけない)。それから、明日の予定がない夜に読むべし、でないと目ぇ真っ赤にして、その予定をキャンセルすることになるから、もちろん続きを読むために、ね。

■■■ 【054】 薔薇の名前

薔薇の名前1 薔薇の名前2

 絵に描いたようなスゴ本(実際は文字だが)。

 舞台は中世ヨーロッパの修道院。連続変死事件ミステリを縦軸、キリスト教神学をベースとした知の探求の成果物を横軸にして、薀蓄の仕掛けに巻き込まれること請け合い。

 人類の知の体系を小説仕立てで再構築しようとする試みなのか、読んでいてクラクラする。徹夜を覚悟した小説だけれど、あえなくダウン。メインの連続変死事件の話よりも、キリスト教神学体系(とそこから派生する有象無象の芸術・文化群)に振り回される。結局読み終えるのに1週間(プラス知恵熱)かかった。

 そうそう、山川の倫理用語集があると便利かも。

■■■ 【055】 大聖堂

大聖堂(上) 大聖堂(中) 大聖堂(下)

 徹夜小説:あなたの健康を損なうおそれがありますので読みすぎに注意しましょう。

 これはすごい。わたしが小説を読む最大の理由は、そこに人間の欲望が書かれているから。人間の欲望を知りたいから。amazon評の『十二世紀のイングランドを舞台に、幾多の人々の波瀾万丈の物語』―― なんてまとめで抑えきれないぐらい、人間の欲望がこれでもかというぐらい出てくる。だから、これはすごい。

 人間の欲望―― 権力欲、支配欲、愛欲、性欲、意欲、我欲、禁欲、強欲、財欲、色欲、食欲、邪欲、情欲、大欲、知識欲、貪欲、肉欲…ありとあらゆる「欲望」を具現化したものが大聖堂だ。神の場と「欲望」… 一見矛盾した取り合わせだが、読めば納得する。究極の大聖堂を描く、しかも「大聖堂をなぜ建てるのか?」という疑問に応える形で書こうとすると、とてつもない人間劇場になる。だから、これはすごい。

■■■ 【056】 リア王

リア王 シェイクスピアは「リア王」が一番ドラマティックで面白い。新訳で読めるぞ。

 かの松岡正剛は「シェイクスピアの最高傑作である」と断言しているぞ。人間の弱さ・醜さ・おぞましさが、スラスラ読めるおそろしさを噛みしめるべし。

 親子の確執と愛情(陰謀も!)と、物語へのからまり具合が絶妙―― と、覚めて読んだ自分がかわいそう。これは夢中になって読むもの。以前は愛憎劇と斬っていたが、親子だけでなく、男女のもドロドロに混ざっていることに、ようやっと気づいた。不倫と駆引き、姉妹丼、さらに嵐の一夜のリアと○○○の掛け合いは、老人と若者の同性愛のように読める。

 コアを担うキャラクターが幾幕ごとに「ストーリー」を渡していく様が見事だ。ストーリーという道があって、サブストーリーが脇を走ってて… ではない。もつれた人間関係を話者が光を当てるように行き来していき、だんだん浮かび上がらせていくような感覚。でも全員が乗っている「場」がある運命に向かって船のようにずんずん進んでいく。小説の延長として読むよりも、演劇の下読みとして接すると面白いかも(そう、気に入った役になりきるわけだ)。

■■■ 【057】 カラマーゾフの兄弟

カラマーゾフの兄弟1 「カラマーゾフ」は、わたしが読んできた中で最高最強のスゴ本… なんだけど、いかんせん、岩波・新潮文庫のは、字がびっしり&敷居が高い&読みにくいので、誰にでもオススメ、というわけにはいかなかった… んが、新訳のこいつなら自信を持って勧められる。面白く、切なく、悲しく、恐ろしく、強く、激しく、抉り出す、毟り取る、徹夜、夢中、最強の小説だと。

 繰り返しになるが、わたしが小説を読む最大の理由は、そこに人間の欲望が書かれているから。人間の欲望を知りたいから。本書には、神聖から汚辱まで、ありとあらゆる人間の欲望が描かれている。人生について知るべきことは、すべて「カラマーゾフの兄弟」の中にあるという所以。もし読むなら、しっかりと目を見開いて、読んで、欲しい。

 最強の小説。これぞ小説のラスボス。読むなら、今だ。

■■■ 【058】 アブサロム、アブサロム

アブサロム、アブサロム 「文学」なのにもかかわらず、どろり濃厚なミステリとして読んだ。物語そのものが語りだす声を訊くことができるぞ。

 舞台はアメリカ南北戦争の時代。「ある出来事」を要に、独白・告白・伝聞を用いて、語り手のさまざまな立場で述べられる。同じ描写、同じシーンが、微妙に異なる視点でくりかえし述べられている。ジグソーパズルを外側から埋めていくように、行きつ戻りつ「繰言」がくりかえされる。

 複雑に張られた伏線と設定を読み解き、「出来事」そのものに到達するのも喜びながら、その出来事が「なぜ」引き起こされたのかを推し量るのも本書の醍醐味だろう。

 ただし、最近のエンターテインメントに甘やかされた読者には、ちと辛いかも。物語は複数の語り手の視線によってさらされ、吟味されているのだから。ストーリー消化率を高める「何でも知ってる説明役」は出てこない。だから、たとえ三人称であってもだまされるなかれ。聞き手の内省であったり対話(!)だったりするのだから。

 物語そのものが語りだす声を訊くべし。

■■■ 【059】 妖女サイベルの呼び声

妖女サイベルの呼び声 極上のファンタジー。

 キャラとイベントで物語を転がす濫製ファンタジーの対極にある。「ファンタジー」なんて、しょせん剣と魔法、光と闇の活劇でしょ? ――なんて、ファンタジーを見くびってた。誤ってた。

 予めお約束のコードがあって、そいつをどんなパラメーターでなぞるかでヴァリエーションを増やす。そんな固定化した観念がまるっきり見当違いだったことを思い知らされる。この物語はファンタジーでしか書けないし、テーマはファンタジーを、(少なくともわたしが勝手にファンタジーだと思いこんでた範囲を) 完全に超えている。

 かといって、テーマが深遠だとかフクザツだとかいうわけではない。魔法使いサイベルが、人の心と愛を知り、そしてそれゆえに苦悩し、破滅へ向かおうとする話。お約束の台本どおりに進まない心理劇を眺めている気分になる。

 粗製乱用ファンタジーに慣れきった人が読むと、アタマガツンとやられる。ピンとこない人には、ハヤカワFT(ファンタジー)文庫の第一作だったことや、世界幻想文学大賞が創設された1975年、最初に受賞したのが本作だったことを指摘しておく。そうそう、「コーリング」という名前でマンガ化されているが、こいつも極上だったぞ。

■■■ 【060】 鷲は舞い降りた

Wasihamaiorita_ 「冒険小説の傑作」とのうたい文句で読む→噂に違わずスゴ本。ただ、最近のジェットコースター型エンターテイメントに慣れた舌には、懐かしい味付け。なんというか、「ジャッカルの日」のような… もうこれらも「古典」なのだろうか…

 ヒトラーの密命を帯びて、ドイツ落下傘部隊の精鋭たちがチャーチル首相を誘拐する計画なんだが、もちろん読者は結末を知っている。この計画は失敗に終わる。これは「ジャッカルの日」がド・ゴール暗殺を描いたものであるのと一緒。オチは分かっている。ド・ゴールは殺害されなかったし、チャーチルは誘拐されなかった。

 しかし、それでも滅法に面白い。いや、「むしろ」というべきか。歴史上「なかった」ことへ向かって緻密な計画を立て、最も優秀な人員を配置し、確実に実行していく―― 破綻しようのない計画の進行に、読み手はいぶかるだろう…「このままで、どうやって歴史のレールに乗せられるのだろう?」ってね。

 歴史の軌道がフィクション→ノンフィクションに切り替わった後のが滅法面白い。つまり、計画が失敗してからのほうが手に汗握る。ハラハラドキドキの追跡劇になり、戻るも死・進むも死の絶体絶命のセリフの応酬になる。「信頼」や「約束」といった見慣れた言葉が急にずっしり重たく感じられる場面になる。

 そして、ラストで熱い涙を誘うアツい小説でもある。

■■■ 【061】 北壁の死闘

北壁の死闘

 今回は「北壁の死闘」。徹夜保証、面白い小説の見本のようなもの。

 ミステリと冒険が混交した山岳冒険小説の傑作。折にふれて映画のワンシーンが強烈にビジュアライズされる。極秘任務の特訓や、逆転につぐ逆転、ラストの死闘シーンは、あなたが観てきた映画のどこかを彷彿とさせるに違いない。臨場感ありまくり、心拍数あがりまくり、危ないッて思わず目を閉じてしまう(もちろん読めなくなるw)

 未読の方こそ幸せよ、次の週末にハマるがいい。

■■■ 【062】 女王陛下のユリシーズ号

女王陛下のユリシーズ号 狂喜セヨ、いや「狂気セヨ」なのかもしれない。それこそ狂気のように読んだ、もちろん徹夜。ただし、翌朝目が真っ赤になったのは、震えて泣きながら読んだから。

 第二次大戦の北極海。連合軍輸送船団の護送にあたる英国巡洋艦ユリシーズ号そのものが、本作の主人公だ。病をおして艦橋に立つヴァレリー艦長、疲労困憊の乗組員七百数十名に対し、極寒の海は仮借ない猛威をふるう。前途に待ち受けるのは、空前の大暴風雨、そしてUボート群と爆撃機…鋼鉄の意志をもつ男たちの姿を、克明な自然描写で描破した海洋冒険小説の不朽の名作。

 注意していただきたいのは、カタルシスのための描写なんて無いこと。安易な感情移入を完璧なまでに拒んでいる。訳者はこう言う、「アメリカ人はこんな小説を書けもしないし、書きもしないだろう」――激しく同意!エンターテイメントに飢えている人は、ソコんところ気をつけて。

■■■ 【063】 セールスマンの死

セールスマンの死 毒物指定、ただし社畜限定。

 読書は毒書。とはいうものの、読者によって毒にもクスリにもなる。ローン背負って痛勤するわたしには、狂気たっぷりの毒書になった。やり直せない年齢になって、自分の人生が実はカラッポだったことを思い知らされて、嫌な気になるかもしれない。全てを捨て、人生をリセットしたくなるかもしれない。

 かつては敏腕セールスマンだったが、今では落ち目の男が主人公。家のローン、保険、車の修理費、定職につかない息子、夢に破れ、すべてに行き詰まった男が選んだ道は――という話。だれもが自由に競争に参加できる一方で、競争に敗れたものはみじめな敗者の境涯に陥るアメリカ社会を容赦なく描き出している。ハンパな社畜だと、主人公の狂気の浸透圧に負けるぞ。

 人生には、リセットボタンなどない。あるのは電源ボタンだけなんだ。

■■■ 【064】 火車

火車 徹夜小説ベスト。「このミステリーがスゴい!ベスト・オブ・ベスト20」を作ったんだが、頂点はコレ。宮部作品のマイベストもこれ。

 いきなり話中に投げ込まれ、わけもわからず追いかけているうちに、物語が立ってくる。切れそうな糸をたぐりながら見えてくる凄惨な過去にゾクゾクする。緻密なプロットに浮き彫られる女の生きざまを哀しむ。

 学校で保健体育の授業はするのに、借金のやり方とその返し方を教えないのはおかしい。借金地獄は自動車事故と同じくらい身近かつ深刻な話なのに。「正しいお金の借り方・返し方」は、中高校の必須科目にするべきだろう。特に「お金が返せなくなったときの対処」なんて、現実にそんな状況に陥ってあわてて求める。耳障りのいい「金融リテラシー」よりも、中高生は本書と「ナニワ金融道」を読んでおけと。

 サラ金の中の人のお仕事は、お金を貸すことではなくて、お金を返してもらうこと。アイフルねーちゃんに見とれていると、忘れてしまうのかね。

■■■ 【065】 夜の来訪者

夜の来訪者 戯曲。緊迫した展開と、最後のどんでん返しがスゴい。

舞台は裕福な家庭、娘の婚約を祝う一家団らんの夜。そこに、警部と名乗る男が訪れて、ある貧しい若い女性が自殺したことを告げる。そして、その自殺に全員が深くかかわっていくのを暴いていくが…

 ステージはリビングだけ。登場人物は金持ち一家と、「警部」のみ。派手なアクションも、大仰なセリフ回しも、一切なし。それでいて、「人間というもの」をえぐり出してくる、恐ろしい、おそろしい。セリフを追っているだけなのに、表情が見える。ラスト、驚きのあまりクチがO(オー)になっているのが見える。なぜって? わたしのクチも、同じ形になっているからさ!

■■■ 【066】 魔女

魔女1 魔女2

 いまでも繰り返し読む理由はただ一つ、深いから。世界設定であれ、1コマの描写であれ、ストーリーであれ、何度も味わうための深度と密度があるから。昔、「童夢」を読んだときに、「スゴい、これは小説よりも面白いぞ」と狂喜したものが、これも同じ興奮を味わった。生半可な小説・映画・アニメを軽く蹴散らす面白さ。

 「魔女」と聞いて何をイマジネーションする? いま浮かんだ像を凌駕するスゴい世界を体感できる。保証する。

■■■ 【067】 おもいでエマノン

Emanon_8 彼女とのわずかなひとときと、その「おもいで」を大切にして生きること。

 すんなり伸びた肢体、長い髪、おおきな瞳、そばかす――ちょっとエキセントリックな彼女には、くわえ煙草が似合う。鶴田謙二氏が「SFオールタイムヒロイン」というのもむべなるかな。

 傷心をかかえた「ぼく」と怖いくらい共鳴しながら読む。物語を消費するのではなく一体化する感覚。思い入れが強すぎて、レビューよりも、思い出話をしたくなる。マンガ読んでこんなに切ない気持ちになったのは久しぶり。「ぼく」の年齢からずいぶんトシをとったけれど、これを読んだ記憶は大切にしていきたい。

 マンガも、小説も、両方好きになれる「エマノン」。

■■■ 【068】 春琴抄

春琴抄 ツンデレ小説ベストワン。日本文学史上最強のツンデレは、春琴だね。

 さすが谷崎潤一郎はタダモンじゃない!「陰影礼賛」は高校生まで、オトナは「春琴抄」で萌えよ。こいつをエロスや嗜虐といった枠で語るのは国文科のエラい人に任せて、春琴のあらゆる言動をツンデレとして読んでみよう。

 すると、最近の使い古されたストーリー「ツンデレに振り回される主人公」から、「ツンデレにわが身を捧げる」という新展開を見出すことができる。好いたあの人のために××を△△なんて、絶対できねぇ…が、気持ちは「痛い」ほど伝わる。

 「恋は盲目」なんて軽々しく口にできなくなる一冊。

■■■ 【069】 とらドラ!

ソングライン 読むと幸せになれるラノベ。

 目つきは凶悪だが心優しい竜児と、見かけは美少女なのに凶暴な大河が織りなす熱血最強ラブコメディ。どこかにいそうなキャラクターの、ぶっちゃけありえない展開に手に汗にぎる!にやにやする!泣いて笑って顔赤らめて、あの頃の「どきどき」を思い出す。

 学園モノが好きなのは、なかった過去を懐かしむため(?)

 登場人物にメモリアルを仮託して、予想通りの恋愛模様にニヤニヤする、スピンアウトする展開にドキドキする。うれしはずかしラブコメディ。エエトシこいたオッサンなのに、自分を抱きしめてゴロゴロ転がりたくなる悶えたくなる。このトシになると、「高校生活」はファンタジーと一緒なんだぁ。

 スゴいのは、巻を追うごとに濃度と体温と回転数がヒートアップするところ。そして、二人の関係はだんだん変わっていくところがいい。気がつかない(気づきたくない)自分の気持ちと向き合うことのまぶしさを、彼・彼女と同じように感じる。

 青春が「すがすがしい」なんてウソ。あつくるしく、重苦しく、痛痒い自分自身。ここに描かれてる「高校生」とはまるっきり違った過去なのに、もてあまし気味だったあの頃のじぶん感覚がハッキリと思い出されてくるから、ふしぎだね。

■■■ 【070】 ロリータ

ロリータ ロリータという幻肢。

 かつて読んだはずなのだが、「見た」だけだった。ストーリーをなぞり、会話を拾い、あらすじと結末が言えるようになることを、「読む」と信じていたことが、痛いくらいわかった。

 今回の読書で発見したもの――それは、濃度と速度。

 「文章を味わう」といった自分でも説明できない言い方ではなく、物語や描写の濃度と速度そのものから快感を得る。アクセルを踏んでスピードがぐっとあがるときに感じる高揚感に近い。あるいは高速から下りた直後、視界が広くなると同時に、周囲が密集していることを感じるときにも似ている(スピード出していると、運転に関係しない情報は棄却される。逆に緩めると、世界が情報に満ち溢れていることに気づかされる)。

 ロリータを含めた過去を総括する形の記述上、描写の濃淡が記憶の密度と比例している。だから、物語的だった描写が一転し、ひとつひとつの事物を綿密にしだすとき、わたしは身構える。S.キングやJ.アーヴィングでおなじみだったが、ナボコフは転調の兆しとして、「色」を与えているところが一枚上手だ。

 喜劇を悲劇に転回するポイントで、突然、具体的な色をあたえられ、時系列で叙述される。「紫」に喪服の意味があることを知って読むのと知らないで読むのとでは、ダメージが違ってくるかもしれない。それくらい意味があるようだ。

 一方、ロード・ノヴェル編ともいうべき中盤は、見知らぬ地名や見慣れたモーテルの調度に散文的に目を投げかける「みだれぐあい」に気を配って読む。記憶が散漫になっている印象が、そのまま読み手の記憶と化す。ロリータとの過去と、本作に触れている読み手の今との往還が断ち切れる。自己正当化が見え隠れするペダンティックな書き口から、光景そのものが立ち上がってくる。このリズムと転調がきもちいい。

 気持ちよさを意識して読むことで、何層も気持ちよくなれる。味蕾に集中した食事や、嗅覚を利かせた飲酒といった「たとえ」で示してもいいが、この快楽の追求方法は、セックスそのものに近い。

■■■ 【071】 ソングライン

ソングライン どれにも比べられない読書。

 ソングラインとは、アボリジニの天地創造の神話をうたったもの。ただし、物語に限らず、地誌も織り交ざっているところがミソ。オーストラリア全土を楽譜と見なし、そこに広がるあらゆるもの――鳥や、獣や、植物や、岩や、泉――の名前と、織り込まれたストーリーを高らかにうたいあげることで、先祖が創造した世界を「再創造」していく

 チャトウィンは、「生きるとは、移動すること」を証明したかったのではないか。アボリジニの"放浪の旅"(walkabout)、自らの軌跡、出合った人たちの半生、土地の記憶、定住と放浪、ソングラインと巡礼、砂漠、遊牧、歌、神話と英雄――ゆるやかな起伏をなす思考をたどっていくと、生きるとは旅そのものだ、という普遍性が見えてくる。人は何も持たずに生まれ、動きつづける。止まるときは死ぬときで、これまた何も持たずに死んでいく。あるがままの世界をあるがままに保持することを至上としたアボリジニの思考は、彼の中で結晶化している。あるいはもっと簡便に言うなら、インドのこのことわざになる。

  人生は橋である。それは渡るものであって、家を建てるべきところではない。

■■■ 【072】 ザ・ロード

ザロード ピューリッツァー賞を受賞した傑作…だけど、昨年のスゴ本2007に入れた「血と暴力の国」とは手触りがちがう。運命なんてクソの役にもたたないものだと思い知らされたわたしにしては、このラストは衝撃を受けた。マッカーシー「らしくない」ってね。

 終末世界で人として生きるのは、かなり難しい。カタストロフ後の世界を旅する、父と子の物語。強奪と喰人が日常化した生き残りを避けて、南へ南へ――食べ物を求めて? 食べられないように? 残った弾丸の数を数えながら、こんな地獄ならいっそ―― わたしと同じことを、この「父」も考える。

 文体はかなりクセがある。地の文から句読点を外し、会話をくくるかっこ「 」を廃した、全編独白のような文体は、慣れるのに苦労するかも。来年あたり、マッカーシーのNo.1と誉れ高い"Blood Meridian"の邦訳が出てくるだろうか――ここ数年はマッカーシー祭りになりそうだね。

■■■ 【073】 氷の海のガレオン

氷の海のガレオン/オルタ 大人になるために、子どもを生きのびなければならない。

 うまく生きのびたものだと思う。死ぬこともなく、壊れもせず、子どもを終わらせることができた。ほとんど運みたいなものだ。だから、いま、生きにくさを感じている子どもには、何のアドバイスもできない、何の役にも立たない。

ここにいたら、あぶない。

ここにいたら、じぶんをとられる。

そんな警報があたまの中で鳴り響いているのに、それ以上、どうすることもできない。

 その「気持ち」を追体験/想像できる。ただし、この「どうすれば」は、わたし限定。この短編小説には、何の解決も書いていない。何かを求めてページを開くなら、ラストにいたっても何も得られないことに気づく。それでも、同じ気持ちを(もういちど)通り抜けることは、できる。うまく言葉にできなかった口惜しい思いを、今の自分で追体験できる(ここがスゴい)。

■■■ 【074】 アルケミスト

アルケミスト スゴ本。ただし、読了後「もっと早く出会っておけば…」と後悔した一冊でもある。

 箴言の詰まった寓話としても読んでいいし、自己啓発本としてもいける。その証拠に、amazonレビューの方向がなんとバラバラなことか。前者として読んだ方には、サン=テグジュペリ「星の王子さま」を、後者とみなす方は、オグ・マンディーノ「地上最強の商人」をオススメする。それぞれのベクトルの最高峰だから。

 つまり、この薄い一冊に、両者のエッセンスが蒸留されているんだ。

 BGMは岡村孝子「夢をあきらめないで」が最適――というか、読んでる間ずーっとこの曲が頭ン中をエンドレス。テーマも曲調も歌詞も、本書がそのまま歌になっている錯覚に陥る。主人公の少年に対し、アルケミスト(錬金術師)が放った次の一句なんてぴったり。

     傷つくのを恐れることは、
     実際に傷つくよりもつらいものだと、
     おまえの心に言ってやるがよい

 お話を一言でネタバラシすると、夢買い長者だ。知りたい方はマウス反転でどうぞ。あるいは北条政子の夢買い(曾我物語)か。似たような民話は世界のあちこちにあるそうな。これは一種のマインドコントロールなんだが、「自分の心に素直に」や「兆しに従え」といったメッセージまで含めると、セルフ・マインドコントロールになる。ほら、「書くと叶う」ってやつ、聞いたことあるでしょ。ただ、この仕掛けを上手に隠し、あたかも地中海沿岸の伝説のような体をなしているのは作者の手腕だろう。そんなタネをぜんぶ分かってても、しっかり腹に落ちてくる。これは物語そのものが持つちからなんだ。

 「アルケミスト」はyuripopさんのオススメ。ゆりさん、ありがとうございます。

■■■ 【075】 ローマ人の物語 ハンニバル戦記

ローマ人の物語3 ローマ人の物語4 ローマ人の物語5

 「ローマ人の物語」は非常に長い「物語」だが、めちゃくちゃに面白い巻と、本当に同一人物が書いたのだろうかと疑いたくなるような巻が入り混じっている。無理して全読するよりは、美味しいところだけをつまみ食いするのをオススメする。

 シリーズ中で最も面白いのは、「ハンニバル戦記」の3巻(文庫3、4、5巻)なので、まずここから召し上がれ。

 本書は「ローマvsカルタゴ」という国家対国家の話よりもむしろ、ローマ相手に10年間暴れまわったハンニバルの物語というべきだろう。地形・気候・民族を考慮するだけでなく、地政学を知悉した戦争処理や、ローマの防衛システムそのものを切り崩していくやり方に唸るべし。この名将が考える奇想天外(だが後知恵では合理的)な打ち手は、読んでいるこっちが応援したくなる。

 特筆すべきは戦場の描写、見てきたように書いている。両陣がどのように激突→混戦→決戦してきたのか、将は何を見、どう判断したのか(←そして、その判断の根拠はどんなフレームワークに則っている/逸脱しているのか)が、これでもかこれでもかというぐらいある。カンネーの戦いのくだりで、あまりのスゴさにトリハダ全開になった。

 ローマ人シリーズのまとめは「ローマ人の物語」の読みどころ【まとめ】に置いてある。つまみ喰いにどうぞ。

■■■ 【076】 君のためなら千回でも(カイト・ランナー)

君のためなら千回でも(上) 君のためなら千回でも(下)

 2007年最高の一冊はこれ。ただし、人前で読まないほうが吉。激しくココロが動くから。

 アフガニスタンの激動の歴史を縦軸、父と子、友情、秘密と裏切りのドラマを横軸として、主人公の告白体で読む。描写のいちいちが美しく、いわゆる「カメラがあたっているディテールで心情を表す」ことに成功している。amazon紹介文はこんなカンジ。

小さい頃、わたしは召使いであるハッサンとよく遊んだ。追いかけっこ、かくれんぼ、泥棒ごっこ、そして凧あげ。わたしはちゃんとした学校へ通っていて、読み書きもできる。しかし、ハッサンは世の中の「真理」をすべてわかっているようだった。真理とは、愛や慈悲、そして罪、というものについてだ。12歳の冬の凧合戦の日。ついにそれが起こる。
記憶の底に決して沈めてしまうことのできない罪…。他人を救うことの困難さ、友情、愛、畏れについて深く考えさせる、アフガニスタン出身作家の鮮烈なデビュー作。

 この紹介は◎、なぜなら、言いたいことを伝えつつ、うまーく隠していることにも成功しているから。読み終わったあと、もういちどこの紹介文に戻ってみると分かる幾重にも読み解けるから(このへんはミステリ仕立て)。

 本書は、ニューヨークタイムスのベストセラーに64週ランクインし、300万部の売上に達したという。アフガニスタンが舞台の物語としては異例だ。おそらく、「父と子」、「友情と裏切り」、「良心と贖罪」といったテーマの普遍性が、読者層を厚くしているのだろう。あるいは、移民のアイデンティティを意識したテーマは、出身国や文化圏を超えているからかも。

 本作品は、渡辺千賀さんの紹介で知った。千賀さん、ありがとうございます。

■■■ 【077】 ルーツ

ルーツ1 ルーツ2 ルーツ3

 親子七代、200年に渡る壮大な物語から描かれた米国の黒人奴隷の歴史に圧倒される。あらゆるものを奪いつくされ、失いつくしたとしても、それでも一歩一歩、自分の生活を築いていく系譜が、ここにある。合衆国の黒歴史ともいえる黒人奴隷の問題を描いた本書は、1977年のピューリッツァー賞を受賞し、世界的ベストセラーとなり、TVドラマ化され、一大センセーションを巻き起こした。「クンタ・キンテ」といえば、ご存知の方もいらっしゃるかと。

 白人社会の黒人への仕打ちは、かなりショッキングだ。どうかフィクションであってくれと祈りたくなるような強烈さだ(なかでも奴隷船の描写はかなりキツい。ここだけ劇薬指定)。肉体的な暴力もさることながら、精神的文化的なダメージも大きい。しかも、問題は「色」だけではないのだ。裕福な白人と貧乏白人、奴隷と自由黒人、先住インディアンと混血、メソジストとバプチスト、開拓民と新興移民――「色」に限定されない差別問題がわんさとでてくる。合衆国の問題の根っこがドラマティックに見えてくる。

■■■ 【078】 石の花

石の花1 石の花2 石の花3

 「アドルフに告ぐ」級の傑作。読め(命令形)。

 1941年、ナチスによって寸断されたユーゴスラビアを舞台に、戦乱に巻き込まれてゆく少年を軸にした群像劇。アウシュビッツ収容所で、レジスタンスの戦場で、二重三重スパイの現場で、極限状況にありながら理想を求める生き様が生々しく描かれる。

 最初に釘刺しておく。読者がいちばん不満に思うのは、何らかのカタルシスが得られないだろう。というのも、善悪正邪の構図に片付かないからだ。悲痛な叫びもドス黒い血潮も、何も贖うことなく話は進む。

 もしも、単純に「ナチス=悪」を討つといったハリウッド的展開であれば、もっと分かりやすかったかもしれない。「『地獄の黙示録』を凌駕する山岳戦」といった惹句があるが、そういう見所はたっぷりあるからね。大義名分は決まっているので、戦争活劇のフレームに押し込んでしまうこともできる。

 しかし、7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つのユーゴスラビアを描くには、そんなにカンタンな構図で収まるはずもない。それぞれの側で苦悩があり、希望と絶望がないまぜになっている。それぞれの立場で自己欺瞞にもだえながら、終わらない地獄絵図を歩み続ける。

 圧倒的な物語を、読むべし、読むべし、読むべし。

■■■ 【079】 存在の耐えられない軽さ

存在の耐えられない軽さ 物語の体裁をした長い長いクンデラの独白。「プラハの春」を歴史背景に、愛し合う男と女を鮮烈にエロチックに描いている。新訳で 10年ぶりに再読できた。物語を読んでいるのに、「人生の一回性について」という哲学の問題を考えさせられる。未来からの重みを感じれば、一回きりしかない人生はとてつもなく重要に思えてくるだろう。しかし、わたしたちはそれを確かめるすべを持たないのではないか? 著者クンデラは物語の合間合間に、そんな疑問をナマで問い合わせてくる。

人生が一度きりなら、そして予め確かめるどんな可能性もないのなら、人は、みずからの感情に従うのが正しいのか、間違いなのかけっして知ることがない。それでも彼・彼女はよく考えたり感情的になったりして、かなり重要な決定を下す(あるいは下さない)。結果が偶然なのか必然なのかは、わからない(著者は指し示すだけ)。

 肝心なのは、その「決定」だ。結果によって「決定」が運命になったり偶然に扱われたりするのなら、未来によって選択の軽重が決まってくる。結果は重いかもしれないが、決定は(決断すら思い及ばず偶然の連鎖も含めて)下されるそのとき分からない

 読み手はぐるぐる回りながらも、この問い合わせに応えることができない。そんな読者をよそに物語は転んでゆく。塞翁が馬と片付けられればいいのだが、それはそれ、男と女の物語なのだからそうはいかない。

■■■ 【080】 黒い時計の旅

黒い時計の旅 これは、もうひとつの二十世紀の物語。ヒトラーが死なず、1970年代になってもドイツとアメリカが戦争を続けている二十世紀。わたしたちの知る二十世紀と、もうひとつの二十世紀の間を、物語が振り子のように行き来する。

 本に飲み込まれる。物語に引きずり込まれ、その世界に放り出され、彷徨い歩く。driveされているのは「わたし」だ。現実は幻想に侵犯され、幻想も現実が浸透していく感覚。物語のイメージは夜、しかも真黒なやつ。読み始めるとすぐに、手で触れられる闇がねっとりと皮膚にからみついてくる。

 翌日を無視してもいい深夜から、どうぞ。

■■■ 【081】 コレラの時代の愛

コレラの時代の愛 51年9カ月と4日、女を待ち続けた男の話。2008年の正月に読んだ中でピカイチ。

 女は男を捨て、別の男(医者)と結婚し、子をつくり、孫までいる年齢になる。普通なら絶望して破滅するか、あきらめて別の人生を選ぶかだろうが、この男は待ち続ける。ヘタレ鳴海孝之の対極となる漢だ。

 現実ばなれした片恋をリアルに描くために、ガルシア・マルケスは周到に準備する。あ、だいじょうぶ、心配ご無用。「百年の孤独」のクラインの壷のような入り組んだ構成になっていないし、登場人物が多すぎてノートをとることもなく読めるから。

 1860~1930年代のコロンビアの地方都市が舞台。戦略的かつ長い長い恋物語を縦糸に、内戦や疫病におびえつつしたたかに生きる様々な階級のエピソードを横糸にして、ありえない物語を現実の中に据える手の込んだ技法を成功させている。

 時間処理の仕方が上手い。キャラクターを中心に背景をぐるりと回すカメラワーク(何ていったっけ?)を見るようだ。ひとまわりの背景にいた人物が次の中心となって、その周囲が回りだす。遊園地のコーヒーカップを次々と乗り移っているような感覚。

 象徴的なのは「コレラ = 死にいたる病」だな。もちろん、当時猛威を振るった伝染病としてのコレラと、そっくりの症状を見せる「恋の病」が掛けられている。片思いをする男のコレラのような恋患いだけでなく、恋のあまり死を選ぶ人々の生き様も伝染病そっくりなのが深い。

■■■ 【082】 巨匠とマルガリータ

巨匠とマルガリータ 現実と幻想が濃厚に融合している怪作。ケタケタ笑って読んでもいいし、いくら深読みしても耐えられる、軽薄かつ堅牢なつくり。小説としてしっかりしていれば、その容器(うつわ)に何を入れても許される好例。

 単なるファンタスティックに走り出さない。リアリズムからつかず離れず、一定の間隔をおいている。この距離感が絶妙なので、ナザレ人のイエスが蝿まみれになって死んでゆく様が異常なほど克明に見える。さらに、モスクワじゅうを大混乱に陥れる荒唐無稽さをたぐり寄せてゆくと、 スターリン時代の恐怖がズルズル剥けだしてくる。裸エプロンのメイドや全裸のメイドが豚に乗って飛び回るシーンが圧巻。非常に映像的で、疾走感覚あふれまくりで、アドレナリンだかドーパミンだか脳汁があふれ出すこと請合う。

 不遇をかこち、ついに日の目を見なかった著者ブルガーコフの強烈なカウンターとして読んでもいいし、「夢に出るリアル」を味わってもいい、傑作認定。

■■■ 【083】 ミノタウロス

ミノタウロス 徹底的に感情を排した文が並ぶ。

 感情移入をさせないためか、あるいは語り手が読み手を拒絶しているのか。カッコ 「 」で括られた会話が出てこないのが異様だ。読み手を含む他人を寄せ付けない淡々とした語り口が恐ろしい。こいつに感情とやらがあるのか? アゴタ・クリストフ「悪童日記」を思い出す。

 絶対悪というテーマで「血と暴力の国」と比べるとオモシロイ。「ミノタウロス」の悪行には歴史の激動や血族の確執といった動機の裏づけがある。いっぽうで、「血と暴力の国」に出てくる悪の化身は、理由がない。サイクロンが理由なしに吹き荒れるのと一緒。

■■■ 【084】 シャドー81

シャドー81 スリルとスケールたっぷりのスゴ本。

 プロットはシンプル。最新鋭の戦闘機が、ジャンボ旅客機をハイジャックする。犯人はジャンボ機の死角にぴったり入り込み、決して姿を見せない。姿なき犯人は、二百余名の人命と引き換えに、莫大な金塊を要求する。

 シンプルであればあるほど、読者は気になる、「じゃぁ、どうやって?」ってね。完全武装の戦闘機なんて、どっから調達するんだ? 誰が乗るんだ? 身代金の受け渡し方法は? だいたい戦闘機ってそんなに長いこと飛んでられないよ!――なんてね。

 本書の面白さの半分は、この表紙を「完成」させるまでの極めて周到な計画にある。一見無関係のエピソードが巧妙に配置され、意外な人物がそれぞれの立場から表紙の一点に収束していく布石はお見事としかいいようがない。

 そして、もう半分は、表紙が「完成」された後だ。ハイジャッカーと旅客機のパイロット、航空管制官の緊張感あふれるやりとりや、大迫力のスペクタクルシーンなど、見所たっぷりだが、時代がアレなだけに映画化不能だね。

┏━―━―━―━―━―━―━―━―━―━―━―━―━―━―━―━┓
 劇薬系・成人指定──紳士淑女限定
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■■■ 【085】 ジェローム神父

ジェローム神父 澁澤龍彦の「ホラー・ドラコニア少女小説」の5冊をイッキ読みしたんだが、なかでも最もエロティックかつ残虐・極悪・非道なのがコレ。エロスって幻想的で具体的だな、と実感できる。あるいは、「まっとうな狂気」に出会える。

 まず表紙。ポニーテールの少女(全裸)が、アッケラカンとした笑顔で見上げている。ただし両手足は切断されており、ぐるぐる包帯からにじむ血肉(腐肉?)と蝿が生々しい。あるいは挿絵。少女の腹を指で押すと、股間の割れ目からイクラがぽろぽろと出てくる「とれたてイクラ丼」は目を見張る。

 んで、中身。恋人どうしの若い男女を連れ出し、まず男を射殺。そして女を姦するのだが、ただじゃすまないのがサド節。小枝やトゲのある蔓で女の柔らかい場所を刺したり痛めつける。男の死体を切り裂いて、そこから心臓を抜き取り、娘の顔を汚す。あまつさえ心臓の幾片かを無理やり娘の口のなかに押し込んで、噛んでみろと命令する。

 ただ処女をレイプするだけじゃもの足りなくて、自分がイク瞬間に女をメッタ刺しにする。悶死する肉体がケイレンし、収縮するさまが、えもいわれぬ恍惚感をひきおこすそうな。シロウトはドンビキする話なので、読・ん・で・は・い・け・な・い・。

■■■ 【086】 アナル全書

アナル全書 紳士限定。「お尻を理解するための四冊」のうちの一冊。

 アヌスとは自分の体の一部であるにもかかわらず、「ないこと」「意識させないこと」として扱われている。これほど無視され、蔑ろにされる器官はすくないだろう。

 著者はまず、自分のアヌスに注意を払い、観察することを提案する。そして、アナル部位を健康に保つため、食習慣、排泄習慣、メンタルトレーニング、一定のケアが必要だと説く。興味深いことに、アヌスの状態は、われわれの抑圧された感情を表しているのだという。自分ではケンカしていないつもりでも、自分のアヌスが硬く締まっていることに気づいた娘の例が面白い。この娘は著者のセミナーを受けて、自分のアヌスに気を配ることにより、抑え込んでいた緊張や怒りに気づいたという。

 つまり、自分のアヌスに注意することは、自分の感情に注意を払うこと一緒なのだ。さらに、自分のアヌスを健康に保つことは、そのまま即ち、自身の体を健康にすることになるのだ。

 25年かけて得られた知識と経験の裏づけはダテじゃない。ホモフォビア、性役割、病気、そしてタブーへの葛藤――著者は、薄皮を一枚また一枚とはぐように取り除いてゆく。アナルの健康を維持し、精神的な抑圧を取り除くことで、アナルを自己の認められた一部として再獲得できるというのだ。そして、自律的にコントロールできるようになれば、エロティックな目的にも応用できるという。本書を読むことは、疎外された身体未開地の探求、即ち究極のラスト・リゾートの旅となるに違いない。

 本書は、たんに読まれるだけではなく、経験されるように書かれている。受け身で消費するためではなく、能動的な利用のために書かれている。各章を読み進めるごとに、読者は、自らのアナルを用いて、探求のプロセスをたどることになるのだ。

■■■ 【087】 ザ・ワールド・イズ・マイン

 「デビルマン」級、これ以上の評を持たない。  読め(命令形)、ただし猛毒。

ザ・ワールド・イズ・マイン1 ザ・ワールド・イズ・マイン2 ザ・ワールド・イズ・マイン3
ザ・ワールド・イズ・マイン4 ザ・ワールド・イズ・マイン5

■■■ 【088】 隣の家の少女

隣の家の少女 劇薬指定。この作品を一言で表すなら「読むレイプ」。

 「隣の家の少女」は本当に酷い。読書が登場人物との体験を共有する行為なら、その「追体験」は原体験レベルまで沁み渡った。地下室のシーンでは読みながら嘔吐した。その一方で激しく勃起していた。

 陰惨な現場を目の当たりにしながら、見ること以外何もできない"少年"と、まさにその描写を読みながらも、読むこと以外何もできない"わたし"がシンクロする。見る(読む)ことが暴力で、見る(読む)ことそのものがレイプだと実感できる。見ることにより取り返しのつかない自分になってしまう。文字通り「もうあの日に戻れない」。

 しかし既に読んで(見て)しまった。それどころか、出会いそのものを忌むべき記憶として留めておかなければならない。わたしたちは、読むことでしか物語を追えない。作者はそれを承知の上で、読むことを強要し、読む行為により取り返しのつかない体験を味わわせるんだ。読むなら、覚悟して。

■■■ 【089】 目玉の話

目玉の話 紳士ご用達の一冊。目を引くのが「玉」の語感。原文にある、"oeuf","oeil","couille"(ウフ、ウエ、クエ)の音感を、「目玉」、「玉子」、「金玉」と「玉」でつなげて訳しているのは素晴らしい。また、性器一帯を「尻」で統一しているのも良い感じ。

 エロスの極限に神性をもってきているのが鼻に付くが、冒涜行為は「神」相手でないとできないから仕方ないか。より強いショックを受けるには、キリスト教に入信するか、ヘーゲルを読んでおくといいらしい。わたしの脳に、「セックスと排尿」をバインドした張本人がバタイユ。愛し合う男女はセックスの際、尿をかけあうという誤った刷りこみのおかげで、変態あつかいされますた。

 日常を愛する紳士こそ、堪能すべし。

■■■ 【090】 ブラッドハーレーの馬車

ブラッドハーレーの馬車 「赤毛のアン」を陵辱する、読み手の心を引き裂く話。Wikipediaによると、「赤毛のアンのような作品を描きたい」という作者の希望により連載が開始されたそうだが…

 はじまりは、孤児院。身寄りのない少女たちの憧れは、ブラッドハーレー歌劇団。1年に1度、容姿に恵まれたものが選ばれ、資産家・ブラッドハーレー家の養女として迎えられる。貴族としての生活や、歌劇団で華々しく活躍することを夢見る少女たち。

 本気で読む気なら、予備知識はこのくらいで。ただし、「劇薬注意」とだけ添えておく。帯の説明は地雷なので、外しておこう。沙村広明版「キャンディ・キャンディ」のつもりで扉を開いた。おかげで、こうかはばつぐんだ。

 第一章を読んだだけで、みるみる顔色が変わっていくのが自分でわかる。血の気が引いて、戻ってこない。体が冷たくなってくる。どうやったって「おもしろがって」読めないし、フィクションだよね、ネタなんだよねとつぶやきながら見る・観る・視る――目が張り付いて離れない。陵辱の陰惨さだけでなく、よくぞこんな話をつくりおったとため息がとまらない。

 不慣れな人は手を出さない方が吉。劇薬好きは――もう読んでるね。これは、たまごまごさんの紹介で知った。たまごまごさん、ありがとうございます。

■■■ 【091】 真・現代猟奇伝

真・現代猟奇伝 劇薬マンガベスト、読・む・な。

 まさしく毒書となることを約束する。マンガだから「どくいりマンガ」。まず、読んだことがある、というだけで性格を疑う。ましてや「大好きだー」なんていうやつぁ、イカれているよ、わたしは好きだけど。

 氏賀Y太のおかげで、内臓ファックやら顔面崩壊といったワザを知ることになった。腹を裂いてヤるなんて、おかしいよ。吊り・焼鏝・股裂・食糞・腹腔ファック・串刺・正中切開・脳姦・解体刑…あらゆるキチガイが詰まっている逸品。

 女子高生コンクリート詰め殺人事件は、ページをめくるのが恐くてたまらなくなった。描写や展開が恐いのではなく、ページをめくろうとする自分の壊れっぷりにおののいたのだ。「おかしい」自分を充分に意識して、読んだ。食人社会ネタはブラックユーモアだと誤解して、ゲタゲタ笑った自分が恐ろしい。壊れやすいのは人体ではない、わたしだ。

■■■ 【092】 狂鬼降臨(「獣儀式」所収)

獣儀式 「これはひどい」がピッタリの逸品。

 「鬼たちが冥土から溢れてこの世界に出現して以来、はや一ヶ月になる」から始まる、読む地獄。人間なんて、糞袋。まさに劇物。まさに毒書。バカバカしさを暴力エロスでねじ伏せる、奇書というより狂書。

 こんなにエロくてグロくて血みどろで、腐肉とウジ虫たっぷりの、酸っぱい胃液と激しい勃起に悩まされたやつは、初めて。いろいろ読んできたつもりだけれど、これほど鬼畜劣情な小説は、ない。スプラッター小説なら、クライヴ・バーカー「血の本」シリーズや、綾辻行人「殺人鬼」でおなかいっぱいだよー、と思っていたが、本書はゆうゆうとK点を超えて臓腑に刺さる。

 じゃぁどんな話なのかというと―― かいつまむより「劇薬小説No.1『獣儀式』よい子は読んじゃダメ、ゼッタイ」を読んでくれ。そっち系がダメな人は避けるが勝ち。

■■■ 【093】 骨餓身峠死人葛

野坂昭如コレクション 久しぶりに猛毒にあたった!「これはひどい」と「これはすごい」の両方の賛辞を贈る。それから、この短編のせいで女陰を直視できなくなった。この強迫観念は、既視感覚を伴いながらトラウマ化しつつある。おそろしい、おそろしい。

 お題は「ほねがみとうげほとけかずら」と読む。屍体に寄生して養分を吸い取る葛(かずら)の話だ。わずか30分で読めてしまう短い小説にもかかわらず、これは、一生涯忘れることができない。忘れたい、記憶から消し去りたい ―― めずらしく読んだことを激しく後悔する毒書になった。

 なまぐさい臭いが漂ってくる。文体と描写と(脳にうかぶ)ビジュアル映像が濃密に絡み合っていて、呼吸を忘れて読みふける。血しぶくシーンや、兄妹の近親相姦だけがなまぐさいのではない。男を求めて濡れて白くひかっている女陰の臭いがハッキリと嗅ぎ取れるんだ。そして、黒々とした茂みの中に鼻を近づけると、びっしりと詰まって蠢いている蛆虫が見えてくる寸法だ。

 「どくいり きけん」な一冊。

■■■ 【094】 城の中のイギリス人

Sirononakano 性の饗宴ではなく、性の狂宴。

 女性器をバラや口唇にたとえる人がいるが、これを読むと、できたての裂傷に見えるようになる。あれは、傷痕でもあるのだ。

 圧巻なのはタコ地獄。タコが蠢く水槽へ少女(13歳処女)を投げ込む→タコとスミまみれの彼女(顔にもタコべったり)を犯す→鮮血とスミと白い肌のコントラストがまぶしい。その後、ブルドック2匹に獣姦させる。終わったらカニの餌。

 あと、マジ吐けるのはラストの「実験」。鋭利なカミソリで皮脂まで切られ、果物のようにクルリと皮を剥かれた顔を眺めながらヤるところ。嘔吐と勃起の両方が味わえるからふしぎー、体の上下でつながっているのかね。フツーの人には弱いけど、食糞・飲尿、なんでもこい、なんでもこーい、残虐・陵辱、ぴきぴきドカーン!たちまちお城が大噴火するお話。

 まともな人は、読んではいけない

■■■ 【095】 汐の声(「わたしの人形は良い人形」所収)

Watashino_1 こ れ は 怖 い 。夜読むとオシッコにいけなくなると注意され、「まさかぁ、三十路のオッサンに言うことかよ」などとブツブツ言いながら読んだ ―― で、結論:夜読むと、一人でオシッコにいけなくなるので、注意。

 人並み以上にホラー耐性はあるつもり。角川よりもハヤカワ、ハヤカワよりも創元の方が、「より怖い」と言えるぐらいは読んできた。小説だけでなく、マンガ、映画、グロから霊まで悪食な分、いろいろ楽しめる体質となっている。

 そんなわたしが、ここまで怖い思いをさせられるとは… !

 グロなし、血なし、残虐なし、絵がリアルというわけでもなし。それでも心臓が冷たくなる恐怖にワシ掴みにされる。暖房の効いた部屋でぬくぬくと読んでいるにもかかわらず、自分の吐く息が真っ白になっていくような感覚。

 ジワジワ、ジワジワと首をしめられ、さあッってときにはズバーンと「出る」。この感覚は、「墓地を見おろす家」(小池真理子)や、「たたり」(シャーリイ・ジャクソン)に近い。ホラーは女性の作品のほうが怖いという法則に気づく。

 救いようの無い展開、巧妙な伏線(全て読者に恐怖を与えることを目的としている)、ページをめくりたくなくなる瞬間。半泣きになりながら、嫁さんが同じ部屋にいてよかったと激しく密かに感謝する。

 いちばん怖かったのが「汐の声」。最大級の怖い賛辞を贈ろう、「決して一人では読まないでください」とね。

■■■ 【096】 児童性愛者

児童性愛者 怒り、恐れ、憎しみ、悲しみ…負の感情を与える小説を探してきた。特に読後感がサイアクの気分を味わえるような、そういう小説を探してきた。読むだけで嫌悪感、嘔吐感、恐怖感を掻き立てる、イヤ~な気分にさせる小説。「感動した!」「お涙ちょうだい」なんて糞喰らえ。読んだ記憶ごと抹消したくなる"劇薬"をよこせ。

 …という企画「劇薬小説を探せ!」で、皆さまのオススメを片端から読んできた。一口に"劇薬"といってもカゼ薬からシアン化ナトリウムまでいろいろ。

 その中で、長らく一位を誇ってきた、ケッチャム「隣の家の少女」を超える劇薬小説、といえば分かるだろうか。 

 著者自らが児童性愛者になりすまし、デンマークの児童性愛協会に潜入取材をはじめる。ジャーナリストである身分を隠しながら、「児童性愛を隠す一般人」を装う必要がある。二重の意味でバレないように細心の注意を払う。その甲斐もありグループにとけ込み、ペドフィリアたちと親しく交際するようになる。

 そこで明らかにされる実態は、極めて普通で異常。

 エログロ無し。残虐シーンも無し。巷に数多の「読むスプラッタ」は楽しく読めたのに、本書は気分が悪くなった。特に、ある写真の真相が暴かれる場面は、予想どおりの展開であるにもかかわらず、読みながら嘔吐…で、ラストは絶望感でいっぱいにさせられた。

 これが物語ならどんなによかっただろうに――

■■■ 【097】 死体のある光景

Deathscenes カリフォルニアの殺人捜査刑事が個人鑑賞用に収集した膨大な「死体のある風景」のスクラップ。モノクロとはいえ、モロ出し死体画像をこれでもかというくらい堪能できる。

 ポートレイトというものは、「見られる」ことを意識している。たとえ無断で隠し撮ったものであれ、人の顔が外側についている限り、他者の視線が載っている(だから無自覚な喜怒哀楽の瞬間を撮った写真が"良い"とされるんだ)。

 しかし、ここに写る「人」もしくは「人塊」は、そうした意識がない。だから、人の形をしていながら、モノのように眺めることができる。いちばん切実な「自分の死」を想像しても抽象的にしか考えられないが、ここでの死はとても具体的。たとえば、

圧死、焼死、爆死、轢死、縊死、壊死、煙死、横死、怪死、餓死、狂死、刑死、惨死、自死、焼死、情死、水死、衰死、即死、致死、墜死、溺死、凍死、毒死、爆死、斃死、変死、悶死、夭死、轢死、老死、転落死、激突死、ショック死、窒息死、失血死、安楽死、中毒死、傷害致死

 メッタ刺しにされた売春婦のスカートがまくりあげられ、下着が奪われ、局部がむきだしになっている。もう死んだ体なのに、モノクロ写真のせいで「魅力的」に見えないはずなのに、すげぇ興奮する。

 なぜか?

 それは、もう「見られる」ことを意識しなくなったから。わたしの視線を好きなだけ塗りつけることができるから。

 ほら、あれだ。グラビアのヌード写真に興奮する男の子といっしょ。裸の女の子は、カメラを向いていても「あなた」を見ているわけではない(←そして「あなた」はそれを知っている!)。絶対安全な位置から、すきなだけ「見る」ことができる悦び。しかもこれは死体だから、「見られる」ことなんて知ったこっちゃない。こっちを向いていてもカメラすら見ていないんだから。こうして、死体の女を二重に支配することができる。

■■■ 【098】 となりのお姉さん

 2005年のエロマンガ第一位は、文句なく「となりのお姉さん」(リンク先エロ画像注意!ってか良い子はきちゃダメー)。よりぬき玉置勉強とでも言えばいいのか。エロ度MAXな作品をセレクトしており、とってもお買い得。足りないお姉さんやツンデレ妹×女装弟や、これでもかというエロシーンが堪能できる。線がエロい、表情がエロい、消しが甘い。昨今のニンゲン離れした巨乳や解剖図的な絵とは一線を画し、紙の上でここまでイヤらしさを追求しているのがスゴい。

 リビドーとかパッションって、形而上のものだとばかり思い込んでいたが、このマンガにちゃんと描いてある。余談だが、玉置勉強といえば「東京赤ずきん」が凄まじく面白かった。しかし、ょぅι゛ょ やフリークスはエロスコープ外なので選外。極悪鬼畜非道すぎでオススメしない。

■■■ 【099】 アッチェレランド

アッチェレランド 2007年No.1のエロマンガ。画、ストーリー、実用度ズバ抜けてこれが良かった。

 2006年「ガールズ・シャワー」(関谷あさみ)、2005年「となりのお姉さん」(玉置勉強)と、実用度の高いエロマンガを紹介してきた。メガストアに代表される人外としか見えない超巨乳に心底ウンザリさせられている昨今、あえてフツーサイズで勝負をしてくるのがリアル。

 特に本書では、「どうみてもベルダンディーです、ありがとうござました」と呻くしかないような女の子が出てくる。違いといえば額のキチェがないぐらいだから、ベルダンディーにハァハァしたい人あつまれ!

 喫茶店のカウンター、列車内のデッキ、校庭裏、試着室と非ノーマルなのがいい。全裸ではなく、一部露出しているのが非日常でいい。若草が萌え出るぐらいがいい。美少女というより、きれいなお姉さんぐらいの年齢がいい。明るく楽しくいたす話もいいし、ツンデレかと思いきや病んでたという話もいい。女性リードがいい。

■■■ 【100】 キャノン先生トばしすぎ

キャノン先生トばしすぎ このエロマンガがスゴい2008の第一位。

 12歳幼女、無毛、微乳、ハードエロは、わたしの趣味を外しているんだが、これを「エロマンガ」として読んではならない。エロマンガをこよなく愛し、エロマンガに青春を捧げ、周囲の冷視線に屈折せず、熱く語り、描き、イタす。ペン先に渾身の力を込め、コマからもページからもあふれ出さんばかりのエロスとタナトスとリビドーはどう見ても「燃えよペン」ですありがとうございます。

 そして、エロマンガで泣いたのは初めて。熱くたぎるもの(≠semen)が胸をこみ上げてくること請合う。おもわず「そうだ!そうなんだよ、フオオォォォッ」と深夜にもかかわらずラストで絶叫して裸足で飛び出し近所迷惑になること必至。

 読むと元気になるエロマンガ、読むとみなぎってくるエロマンガ、それが「キャノン先生」。エッチなことは、とても大事なのです。エッチばんざい!

 泣く泣く削ったものが大量にありすぎ。次はスゴ本1000を目指す!

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終わらない終わり/終われない終わり「城」

城 死ぬときに後悔しないための読書。

 余名宣告を受けて「あれ読んでおけばよかった…!」と後悔しないために、昔からの課題図書をシラミつぶしに読んでいる。もっと早いうちに読んどけばよかった…と思う一方で、このトシまで積んできたからこそ「読める」読み方があったり。

 今回は、カフカ「城」。

 測量士として「城」に招かれたKが、なぜか「城」に入れなくて悪戦苦闘する不条理を描いており、職業が唯一の存在形式となった現代人の疎外を抉り出す――70文字で紹介するとこんな風になる。この「城」とは何かについて、さまざまな解釈がなされてきたが、残念ながら、わたしには文字どおりにしか読めなかった。

 エラい小説家が誉めているから、ありがたがって寓意を見つけようと頑張ったのだが、「意味」なんて無かった、というのがわたしの結論。そこに意義を見つけるから、その定義に縛られるという見方をしてもよいのなら、「掟の門」になぞらえてもいい。しかし、掟の門は個人の話で、「城」は村全体を覆うように存在している。物理的にだけでなく、村人を唆して、ある家族を八分にするほどの影響力を持っている。

 いや、これはちがう。アマーリアの家族が村八分にされたのは、彼女を口説こうとした「城の役人」を手ひどく拒絶したから。いやいや、これも誤りだ。アマーリアは拒絶したのは、「城の役人」というよりもむしろ、「城の役人の使者」であり、拒絶したというよりもむしろ、役人の誘いの手紙をバラバラに破いて投げつけたことなのだから。

 …うーん、それも間違っている。「役人の誘惑の手紙」なんて言いまわしは、よっぽどオブラートに包んだ言葉で、中身は卑猥な言葉を並べた半分脅し文句のようなメモだったという――これを、「信頼できない話し手」がKに告白するのだ。Aだといい、次にAでないといい、さらにAでないのは嘘だという。話が進むたびに、以前の発言、性質、事象の解釈が変えられ、曲げられ、訂正されていく。

 そのため、「城」を読み手の何かに照応させた次の章で否定されることになる。わたし自身、最初は「城」を官僚機構の象徴だと思ったが、次にはフラットさや柔軟な(ほとんど気まぐれな)一面を見せる。

 ストーリーをほどいても、一緒だ。つまりこうだ。主人公であるKが出会う人びとに順に焦点があたっていくのだが、前の人の印象が、「いまKと相対する人物」で上書きされてしまう。天使の素直さと献身は計算尽くめの表れだったり、悪意のカタマリだった発言は、過去の悔改からくる叡智のように、感じられる。これは、Kがどう思うかが問題ではなく、読み手にどういう効果を及ぼすかが重要。だから、「城とは――だ」といった瞬間、それはウソになってしまう(言うのは勝手だが)。

 その人の「存在感」が次の人によって否定され、別モノに作り変えられていくことで、「あの人は一体、何だったんだろう」という印象を読み手に持たせる。濃密な時間を過ごしたのに、淡白な反応しか見せないK自身に対しても、読者は不満感を募らせていくに違いない――ここからはわたしの妄想だが――そしてついに、Kそのものも別人が描写しだすことにより、K(だと読み手が思っていたキャラクター)が上書きされていく。まるで、ほうきを持って後ろ向きに歩きながら、自分の足跡を消して廻っているような読後感になるだろう。そして、最初から、「城」なんてものはなかったことに気づくのだ。

 あるいは、この後退を無限に続けるために、この物語の出口は最初から破壊されていなければならない。物語が「はじまりとおわり」という構造を持つことを否定するために、カフカの書いたものは未完を運命づけられているのかもしれぬ。

 「城」は唐突に終わってしまっているため、どういう結末になったのかは、推して知るべし。ただ、「終わりのない終わり」もしくは「終わらない終わり」こそ、ふさわしい。

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