「ソングライン」はスゴ本
ソングラインとは、アボリジニの天地創造の神話をうたったもの。ただし、物語に限らず、地誌も織り交ざっているところがミソ。オーストラリア全土を楽譜と見なし、そこに広がるあらゆるもの――鳥や、獣や、植物や、岩や、泉――の名前と、織り込まれたストーリーを高らかにうたいあげることで、先祖が創造した世界を「再創造」していく。
ではアンソロポロジーかというと、違う。アボリジニは主題の枕であり先達であり、チャトウィンの「物語り」を面白くするキャラクターなのだから。
旅行記というものは、行った先で会った人や出来事をつづったもの――という先入観で読むとヤられる。もちろん実際にあったことも書いているだろうが、都合よく人物や会話を創造しているところもあるのだ。実話とおぼしき追想と、話を面白くするために創造された人物・会話が折り重なるようにしており、現実と虚構の区別はつかない。
むしろこれは、でかけた場所をマクラにしたフィクションだと思ったほうがいい。旅先で起きたことをきっかけに、その土地や自分の記憶をまさぐり、掘り下げる。ある場所へ行って、そこの話を訊く。するとその人は名前を出し、そこに行け/会えという。人から人、場所から場所へとエピソードが前へ駆動するのに併走するかのように、その人に絡む著者の記憶や、その土地にまつわる地史が物語られる。あるいは、物騙られる。
別に英雄的な活動やドラマティックな出会いがあるわけでない…のだけど、これを読むと旅に、荒野に出たくてウズウズしてくるから危ない。旅に誘惑される危険なやつとして沢木耕太郎「深夜特急」が有名だが、これで染まってバックパックかついで海外とび出しちゃった人は多かろう。「深夜特急」では、明確な目的地――ロンドンへ向かうのだが、かつてこれに感化されたバックパッカーたちは、それぞれ思い思いの聖地――タージ・マハルだったりカオサンロードを目指した。
しかし、チャトウィンの旅は、何かの目的地に向かって、先へ先へと行くようなものでなかった(だいたい、ソングラインでいう聖地はオーストラリア全土で3000億もあるのだから!)。もちろんその時々で目的らしいものを持つことがあるが、主人公はもっと「開いた」状態にある。いわば、出来事に応じて自然体に立っているような感じ。○○せねばならぬ、なんてものは皆無。だから降りかかるトラブルにもヒトゴトのように相対する。期限からも目的からもフリーな旅。
では、なぜ旅をするのか?
語り部であり主人公であるチャトウィンが、決して言及しない疑問を、知らず知らずのうちに読者は抱くようになる。彼はなぜ移動しつづけるのだろうか?ソングラインに触れるため?いやいや、追いかけてはいるけれど、固執していない。ソングラインは、旅のスターター、語りのための呼び水であって、テーマそのものでない。その証拠に、後半は彼のモレスキンから厳選した言霊に満ち満ちている。二十余年にわたり世界中を旅してきた著者が、肌身離さず持ち歩き、探訪先での体験や、旅にまつわる散文や詩の一節を綴ったものだ。そのワンノブゼムとして、「ソングライン」があるにすぎない。
では、本書のテーマは何か?
わたしはこう思う、チャトウィンは、「生きるとは、移動すること」を証明したかったのではないか。アボリジニの"放浪の旅"(walkabout)、自らの軌跡、出合った人たちの半生、土地の記憶、定住と放浪、ソングラインと巡礼、砂漠、遊牧、歌、神話と英雄――ゆるやかな起伏をなす思考をたどっていくと、生きるとは旅そのものだ、という普遍性が見えてくる。人は何も持たずに生まれ、動きつづける。止まるときは死ぬときで、これまた何も持たずに死んでいく。あるがままの世界をあるがままに保持することを至上としたアボリジニの思考は、彼の中で結晶化している。あるいはもっと簡便に言うなら、インドのこのことわざになるだろう。
人生は橋である。それは渡るものであって、家を建てるべきところではない。
このテーマは、「パタゴニア」にもつながっている。彼は、自分自身の軌跡でもって、このことを見つけたに違いない。そして、この普遍性をもっと「面白い話」に託して伝えたかったのだろう。
最後に。「モレスキン」にまつわる一節があった(p.262)。チャトウィンはページに方眼の線がはいったタイプをこよなく愛し、一生もたせるために100冊いちどに注文しようとする。最初のページに自分の名前と住所を記し、拾ってくれた人には謝礼をする旨を書き添えていた。なぜなら、
Losing my passport was the least of my worries;
losing a notebook was a catastrophe.
パスポートをなくしたところで、それほどうろたえることもない。
だがノートをなくしたとなれば、それは一大事だった。

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