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かわいそうなおう「リチャード三世」

 死ぬときに後悔しないための読書。

 嫁さんはステキだし、子どもは愛おしい。忙しい毎日だけど、「このヤマを越えたら、みんなで遊園地にいくんだ」…どう見ても死亡フラグです、ありがとうございます。なので、いきなり余命宣告を受けてもいいように、「読んどきゃよかった」読書を実践中。今回はシェイクスピア、有名どころなので「おはなし」として知ってはいたけれど、戯曲そのまま接したことはなかったので、新訳にて読了。

リチャード三世 暴力と血と呪いにまみれたおぞましさを堪能する。主人公であるグロスター公リチャードを、世紀の極悪人とする評判を聞くが、おおいに疑問だ。醜く生まれついた自らを呪い、世を呪い、権謀術数を弄して、野心と復讐心の赴くまま殺しまくるリチャードは、たしかに「悪」を成している――が、そんなに悪人だろうか?

 妻を殺し、友を殺し、部下を殺し、幼い皇太子兄弟を殺し、ついには国王にまでのぼりつめる。その厚顔さや残忍さは非道だろう。だが、彼がやっていることは、冒頭で結着のついた権力闘争の「続き」であり、王位に就けるチャンスを最大限に生かそうとしただけのように見ることはできまいか。

 たとえば、強制的な廃嫡、血と暴力が入り混じった交渉術、裏切りの裏切りなんて、「ヘンリー四世」の舞台でいくらでも見出すことができる。権力闘争に膿み疲れ、和睦をしようとした両家の隙に付け入ったことは、まさにその闘争のスーパースターだったリチャードとして、ごく自然なこと。

 なので、むしろ主人公の墜落っぷりに同情しながら読んだ。嘘と裏切りを重ねた挙句に、ついに誰も――自分自身をも信じられなくなる瞬間が怖い。内に生まれた良心すらをも信じられなくなるシーンでは、こう独白している。

     とんでもない、ああ、俺はむしろ自分が憎い、
     自分がやったおぞましい所業のせいで!

     俺は悪党だ。嘘をつけ、悪党じゃない。
     馬鹿、自分のことはよく言え。馬鹿、へつらうな。

     俺の良心には千もの舌があって、
     それぞれの舌がそれぞれの話をし、
     そのどの話も俺を悪党だと非難する。

 巻末の解説を読むと、シェイクスピアのペンの向きがよく分かる。時の権力者へのサービス精神により、史実からフィクションへの書き換えがなされた可能性があるようだ。仕立て上げられた、「悪人リチャード対善人リッチモンドの構図からテューダー王朝が生まれたとする物語」を、「テューダー神話」と呼ぶそうな。

リチャード三世は悪人か 読んでわかったのだが、中島かずきの脚本「朧の森に棲む鬼」をリチャード三世に喩えたのは間違いですなw。三人の魔女が出てきたりするところから、むしろ「マクベス」を思い出さないと。あと、わたしと同じ疑問がタイトルの「リチャード三世は悪人か」(小谷野敦著)があるが、猛烈におもしろそう。ああ、こうして「後悔しないための読書」にまた一冊、増えるわけね。

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【PMP試験対策】 PMIイズムについて(その1)

 【PMP試験対策】は、PMBOK4版をベースに、PMP試験の傾向と対策をまとめるシリーズ。

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 一言、「プロジェクト」といっても多岐種々に渡る。

 もちろんPMBOKガイドには「プロジェクトの定義」だの「PMの役割(立場)」が挙げられているが、その大きさや距離感は人により・経験により、まるで違う。だから、自らの知識・経験でもって答えようとすると、必ずといっていいほど間違える。だからといって自身の経験が「誤り」というのではないのが痛くて痒いところ。

 そうならないための「考え方」というものがある。これはPMBOKガイドに明確に書かれているものから、ガイドから「類推して」推定できうるものまで、たくさんある。Rita本ではこの考え方のことを、「PMIイズム」と呼んでいる。

 これは、PMIの考える「あるべきPMの姿」や「(想定される)プロジェクト感覚」のことで、知ると知らぬとではかなりの差がつく。それなりに勉強したにもかかわらず、「Fail」の結果になった人は、このPMIイズムではなく、自分の経験に照らして答えていたからではないかと推察する。

  1. プロジェクトの「大きさ」について。PMBOKガイドで定義されるプロジェクトとは、「有期性、独自性、段階的詳細化」だろうが、その大きさは、「かなり」のもの。もともとPMBOKガイドの母体がNASAのプロジェクトマネジメントのため、それなりのデカさを誇る。途上国での灌漑プロジェクトや、化学プラントの建設プロジェクトといったものを想像してほしい。Rita本では、「200人程度が携わる多国籍プロジェクトで、最低でも一年、100万ドルの予算」だという
  2. 組織形態にもよるが、権限のないPMを経験していると、「プロマネとは、プロジェクトをサポートし、各担当に何をするべきかを告げてまわる人」という誤解を生じることがある。権限の強い弱いはあるけれど、PMは「プロジェクトをマネジメントすることに責任を負い、その権限を有する個人」のこと。プロジェクトをマネジメントすることとは、全プロセスの権能を有し、全プロセスを遂行することを指す。ただし、全部PMひとりで、というわけじゃないから、安心して
  3. PMはプロジェクト立ち上げ期に任命され、プロジェクトのどのプロセスをどの順番・タイミングで行うのか(さらに、なぜその順番なのか)熟知している(ものとみなされる)。さらに、PMの主要な仕事は、見積もりとプランニングとマネジメント、そして「スコープ/タイム/コスト/品質/リスク/リソース」のコントロール、および、顧客を満足させることである。それだけのリソース(権限)を任されているのが「あるべきPM」なのだが、現実はかなりかけ離れている場合が多い…が、現実に即して答えるとミスるので要注意
  4. 組織はPMO(プロジェクトマネジメントオフィス)を有しており、プロジェクトへの権威付けを行う。さらに、組織はプロジェクトマネジメントのポリシー、方法論、リスク管理や品質管理の手法、過去の教訓をアーカイブしており、PMはそれらを適用ことができる――はずなのだが、はずなのだが、実際はそうではないね。PMOはPMのフキダマリだったり、会社が用意するマネジメント手順書はゴミだったり――だけど、「あるべきPMO」はこれなんだ
  5. WBS(ワーク・ブレークダウン・ストラクチャー)は全てのプロジェクト計画の基礎となるものであり、どんなプロジェクトでも有用なものである。さらに、WBSは階層構造をもっており、単なる「ToDoリスト」ではない
  6. ステークホルダーはプロジェクトにより「損得が発生する人」であり、プロジェクト全体を通じてかかわってくる。ステークホルダーの要望は計画時とコミュニケーションマネジメント時に考慮・反映される。あるいは、ステークホルダーの意見は、リスクを洗い出す際にも用いられる

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PMBOK4日本語 【PMP試験対策】シリーズについて。

 ベースは、PMBOKガイド4版と、"PMP Exam Prep"、通称Rita本の2本立て。PMBOKガイドを傍らに一連のエントリを「読むだけで合格する」ようなシリーズにするつもりだ。過去の記事は、以下のリンク先が入り口となっている。PMBOKガイドの古い版が元となっているが、「PMIイズム」「PM的思考」は学べる。ぜひ参照してほしい。

   【PMP試験対策】 PMBOK2000版
   【PMP試験対策】 PMBOK3版

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「新世紀メディア論」に触発される

新世紀メディア論 スゴ本ブログから、外に出てみるきっかけとなった一冊。

 著者は「ワイアード(日本語版)」や「月刊サイゾー」を創った小林弘人で、日経ビジネスオンライン「誰でもメディア宣言」をまとめたのが本書。連載中はちょくちょく覗いていたが、こうして一冊のボリュームになると、メディア人の熱が直接伝わってくる。

 しかしながら、blogやtwitterに入り浸っている人にとっては、至極アタリマエなことばかり書いてある。梅田望夫のいくつかの著作がウェブの「こちら側」向け入門書であるように、本書は、メディア業界の「あちら側」向けのウェブメディアの報告書なのだろう。ただし、言ってることはかなり過激で、丁寧な断定口調は、メディア業界への檄文に見える。

 そう、「中の人」にとっては切実だ。押し紙・残紙問題は新聞の凋落を物語っており、雑誌の売上激減は、「新聞・雑誌が死ぬ前に」という本書のサブタイトルが現実のものであることを伝える。しかし、旧来の新聞・出版社といった既存のメディア企業は、インフラや制度的な構造に縛られ、なにもできないのが現状だという。

 これに対し、紙とウェブを股にかけた著者のメディア戦歴を紹介する。成功プロジェクトだけでなく、上手くいかなかった事例も解説されており、これからウェブメディアを立ち上げたい人にとってはバイブル級になる。ただ、具体的な施策やセオリー・ノウハウは皆無で、「ご自身でググッてね」といなされる。本書で示される海外のナマモノ情報は腐ったり枯れたりするので、「そういう方向に【も】進んでいる」事例としてとらえたい。

 だが、さすが編集人、情報のスクリーニングと加工のセンスがすごく上手い。新聞・出版社の旧メディアと、ネット上のウェブメディアとを比較するにあたり、銀板写真とデジタルカメラに喩えるセンスが素晴らしい。あるいは、サンデー・ブロガーやパートタイム・パブリッシャーが、本業とは別にメディアを運営することになるという。しゃかりきに稼がなくても、副業として「趣味や嗜みの発表の場」としてのメディア。読み書きソロバンではなく、「読み書き出版」の時代だそうな。本業の人は涙目だろう。

本の現場 似たようなことは「本の現場」でも指摘されている。インターネットによって増えたアマチュアが、ライターの相場を押し下げているのだそうな。本業は別にあるので、原稿料にうるさくないのをいいことに、ライターの価格破壊が始まっているのだという。「誰でもメディア」になれるこの状況が、メディアのデフレーションを招いているのかもしれない。

 ただ、ウェブメディア万歳なところに大いに疑問が。紙メディアへの最終通牒みたいな言い方をされると、「紙」は死なない、と反発したくなる。紙は電源もドライバもプレイヤーも必要としないメディアで、それ自身がインタフェースであり情報「ブツ」であるのだから。

 さらに、書籍はなくならないと断言できる。わたしはいわゆる、「オールドタイプ」なのかもしれぬ。通して読むためには、あの質感とあの形態がどうしても必要なのだ。Amazon Kindleを触らせてもらったことがあるが、DSの日本文学全集と同様、進み具合や感触が得られない、味気ないものだった。断片的な情報をつまみ食いすることが「読書」だと本気で信じている方は、この違いは分からないかも。

 本は手で読むもの。ページをめくる行為を神聖化するつもりはないが、「本」という一定のパッケージされたまとまりを通して得られるものは、ディスプレイに映ったものをスクロールして得たものとは違う。なぜなら、彼の文章をウェブで読んだときと、この本を読んだときと、受けた熱が違う。浴びた挑発が違うのだから。

 彼の扇動に反応してみよう。このブログをメディアとみなし、わたし自身がプロデュース能力や編集力を磨こう。ネットに引きこもって語るのではなく、わたし自身がメディアとなって、このブログから出てみよう。たとえばtwitter、ラブプラス中継の合間に、「読んでいる本」をレポートしていこう。あるいはオフ会、出不精を解消しよう。「あなた」とリアルでお会いすることを、楽しみにしてますぞ。

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「ソングライン」はスゴ本

ソングライン どれにも比べられない読書。

 ソングラインとは、アボリジニの天地創造の神話をうたったもの。ただし、物語に限らず、地誌も織り交ざっているところがミソ。オーストラリア全土を楽譜と見なし、そこに広がるあらゆるもの――鳥や、獣や、植物や、岩や、泉――の名前と、織り込まれたストーリーを高らかにうたいあげることで、先祖が創造した世界を「再創造」していく。

 ではアンソロポロジーかというと、違う。アボリジニは主題の枕であり先達であり、チャトウィンの「物語り」を面白くするキャラクターなのだから。

 旅行記というものは、行った先で会った人や出来事をつづったもの――という先入観で読むとヤられる。もちろん実際にあったことも書いているだろうが、都合よく人物や会話を創造しているところもあるのだ。実話とおぼしき追想と、話を面白くするために創造された人物・会話が折り重なるようにしており、現実と虚構の区別はつかない。

 むしろこれは、でかけた場所をマクラにしたフィクションだと思ったほうがいい。旅先で起きたことをきっかけに、その土地や自分の記憶をまさぐり、掘り下げる。ある場所へ行って、そこの話を訊く。するとその人は名前を出し、そこに行け/会えという。人から人、場所から場所へとエピソードが前へ駆動するのに併走するかのように、その人に絡む著者の記憶や、その土地にまつわる地史が物語られる。あるいは、物騙られる。

 別に英雄的な活動やドラマティックな出会いがあるわけでない…のだけど、これを読むと旅に、荒野に出たくてウズウズしてくるから危ない。旅に誘惑される危険なやつとして沢木耕太郎「深夜特急」が有名だが、これで染まってバックパックかついで海外とび出しちゃった人は多かろう。「深夜特急」では、明確な目的地――ロンドンへ向かうのだが、かつてこれに感化されたバックパッカーたちは、それぞれ思い思いの聖地――タージ・マハルだったりカオサンロードを目指した。

 しかし、チャトウィンの旅は、何かの目的地に向かって、先へ先へと行くようなものでなかった(だいたい、ソングラインでいう聖地はオーストラリア全土で3000億もあるのだから!)。もちろんその時々で目的らしいものを持つことがあるが、主人公はもっと「開いた」状態にある。いわば、出来事に応じて自然体に立っているような感じ。○○せねばならぬ、なんてものは皆無。だから降りかかるトラブルにもヒトゴトのように相対する。期限からも目的からもフリーな旅。

 では、なぜ旅をするのか?

 語り部であり主人公であるチャトウィンが、決して言及しない疑問を、知らず知らずのうちに読者は抱くようになる。彼はなぜ移動しつづけるのだろうか?ソングラインに触れるため?いやいや、追いかけてはいるけれど、固執していない。ソングラインは、旅のスターター、語りのための呼び水であって、テーマそのものでない。その証拠に、後半は彼のモレスキンから厳選した言霊に満ち満ちている。二十余年にわたり世界中を旅してきた著者が、肌身離さず持ち歩き、探訪先での体験や、旅にまつわる散文や詩の一節を綴ったものだ。そのワンノブゼムとして、「ソングライン」があるにすぎない。

 では、本書のテーマは何か?

 わたしはこう思う、チャトウィンは、「生きるとは、移動すること」を証明したかったのではないか。アボリジニの"放浪の旅"(walkabout)、自らの軌跡、出合った人たちの半生、土地の記憶、定住と放浪、ソングラインと巡礼、砂漠、遊牧、歌、神話と英雄――ゆるやかな起伏をなす思考をたどっていくと、生きるとは旅そのものだ、という普遍性が見えてくる。人は何も持たずに生まれ、動きつづける。止まるときは死ぬときで、これまた何も持たずに死んでいく。あるがままの世界をあるがままに保持することを至上としたアボリジニの思考は、彼の中で結晶化している。あるいはもっと簡便に言うなら、インドのこのことわざになるだろう。

   人生は橋である。それは渡るものであって、家を建てるべきところではない。

パタゴニア・老いぼれグリンゴ このテーマは、「パタゴニア」にもつながっている。彼は、自分自身の軌跡でもって、このことを見つけたに違いない。そして、この普遍性をもっと「面白い話」に託して伝えたかったのだろう。

 最後に。「モレスキン」にまつわる一節があった(p.262)。チャトウィンはページに方眼の線がはいったタイプをこよなく愛し、一生もたせるために100冊いちどに注文しようとする。最初のページに自分の名前と住所を記し、拾ってくれた人には謝礼をする旨を書き添えていた。なぜなら、

   Losing my passport was the least of my worries;
   losing a notebook was a catastrophe.

   パスポートをなくしたところで、それほどうろたえることもない。
   だがノートをなくしたとなれば、それは一大事だった。


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セックスと噂とメルセデス・ベンツ「クーデタ」

クーデタ アフリカを舞台とした、アメリカの小説。

 池澤夏樹はたくさんのいい小説を書いているが、なかでも「マシアス・ギリの失脚」が傑作。太平洋に架空の島と共和国をしつらえて、日本と深いつながりをもつ主人公を中心に、亡霊と巫女と霊力を紡ぎだす。面白いのが、架空の南国の島のお話なのに、そこに日本の姿が影絵のように浮かんでいること。主人公は日本に留学し、日本と貿易し、のしあがった結果、大統領にまで出世するのだ。

 ところで、アップダイクのこの「クーデタ」も、いい小説だ。アフリカに架空の共和国をしつらえて、アメリカと深いつながりをもつ主人公を中心に、噂と幻影と信仰を紡ぎだす。面白いのが、架空のアフリカのお話なのに、そこにアメリカの姿が影絵のように浮かんでいること。主人公はアメリカに留学し、帰国後クーデタを起こし、大統領にまでのしあがる。翻訳は、池澤夏樹。

 開始数ページでこの事実に気づき、ニヤニヤしながらの読書となった。もちろん池澤は「クーデタ」から想を得たはずだが、「マシアス」のほうがずっと豊穣な物語に仕上がっている(しかもラストは鮮烈!)。フレームが共通しているだけで、中身は別物。ちがう食材を同じレシピでいただく感覚なのだ。では、本歌「クーデタ」は貧相かというと、そうでもない。作者が描きたかった「アメリカ臭」が鼻についただけ。

 著者アップダイクは、アメリカを「外から」見ようとしたのだろう。まずアフリカに架空の国を用意し、地勢や歴史、経済状況、風俗や国民性を捏造する。そして、そこへ援助の右手と搾取の左手をひっさげて、アメリカを登場させる。ただ、そうすると単純な対立項なので、わざわざ主人公をアメリカ育ちにして、いまではアメリカを憎む(同属嫌悪?)キャラに創りあげる。経済的に豊かだけれど精神的に貧しい留学時代の思い出と、その逆の現在を対照化させる手法が上手い。

 援助物資の山でプレゼンするアメリカ人外交官を、物資もろとも焼き殺したり、国王を斧で首チョンパしたり、グロテスクな見所がいくつかあるが、基本的にこの主人公、何がしたいのか分からない。まるで自分で自分を騙しているかのごとく行動しており、読み手は彼の運命に同情も同調もできない。まるで、アメリカという幻影から逃れるために、ムリヤリ自分で夢を見ているかのよう。

 「豊かな」アメリカを外から見るための装置――30年前は有効だったが、いまでは幻影は晴れ、生々しい痛々しいアメリカが現実だ。「ウサギ」シリーズは未読だが、「セックスとアメリカと信仰」のテーマの延長だとするならば読まなくてもいいのかな?

 「失脚」の主人公マシアス・ギリも、「クーデタ」のエレルーも、頂点までのぼりつめ、真っ逆さまに失速する。高みを目指せば目指すほど、落下エネルギーもすさまじい。その登りっぷりと堕ちっぷりは、あわせて読むと面白いかも。

マシアス・ギリの失脚

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【PMP試験対策】 試験の傾向

 【PMP試験対策】は、PMBOK4版をベースに、PMP試験の傾向と対策をまとめるシリーズ。

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 PMP試験は、知識だけでなく、PMとしての分析力や応用力を試されるもの。単なる定義の記憶と再生を問うものではないので、ご注意を。およそ150問は、ある状況が与えられて、「あなた(=PM)なら、どうする?」と訊かれる問題だ(situational questions)。これは、実際のPMの現場に携わっていないと、正答するのが難しい。いわゆる「常識的に考えて」が通用しない場合があるからだ。例えばこんな問題になる…

Q1 : プロジェクトに必要な調達物資の一部の納入が遅れることが分かった。次にすべきベストな打ち手は何か?

 A. 無視して進める
 B. 上司に報告する
 C. 顧客に連絡し、善後策を検討する
 D. チームを召集し、代替案を検討する

 答えは、D(反転表示)。この場合、現実の「あなた」がどんな風に対応しているかは、あまり問題ではない。ひょっとすると、「あなた」はPMではなく、メンバーの一人であるかもしれないからだ。「客や上司には言わなくてもいいの?」と反論したくなるだろうが、「次にすべき打ち手」ではない。

 とはいうものの、PMBOKガイドのインプット・アウトプットが「そのまま」出る問題もある。Rita本によると、およそ10-12問だそうな。これは覚えるしかないが、出やすいところというものはある(品質保証と品質管理といった"まぎらわしいもの")。

 さらに、8-10問は、計算問題(コミュニケーションチャンネル、機械コスト)が出題され、10-12問はアーンドバリュー(EV)関連の問題が出る。EVは確かに計算問題になりやすいが、必ずしも計算の形で問うとは限らない。また、事例や計算問題のデータが被る場合がある。つまり、同一の事例やデータが、複数の設問に流用されているというわけ。

 Rita本によると、ほとんどの解答者は、200問中40問は「あやふや」なまま回答しているそうな。また、多くの受験者は2時間30分でひととおり終わり、残りを見直しているという。わたしの場合、3時間かかって200問終えた。残り45分くらいで見直して、「もう大丈夫」と自信があったので、試験を終了したなぁ…(ENDボタンを押すと、いつでも試験終了→採点できるのだ)。

 消去法で解くべき問題もある。一見したところ、設問とは関係なさそうに見えるのだが、「もっと関係のない」選択肢も並んでいる。一つ一つ消していくと、残ったものが正解となる。例えばこうだ。

Q2 : 熟練労働者により、扉の部品コストは10%減らすことができることが分かった。会社側は次期の製造コストとして、扉3,000あたり21,000ドルかかると見積もった。これが意味するところは

 A. 学習サイクル
 B. 収穫逓減の法則
 C. 80/20の法則
 D. 係数モデルコスト見積もり

 答えはD. (反転表示)。10%だの、21,000ドルだの、それっぽい数字が出てくるが、ダミーなんだ。上の状況において、関係なさそうなものを消していって、残った一つが正解、というカラクリ(いわゆる消去法)。

 出題文が不必要に長ったらしい場合もある。状況を説明し問題を解説する文章がだらだらと続く。文中に人員数や予算といった形で「数字」が出てくるため、心配になってくる。だが、こうした数字が問題の本質となっていることは、ほとんどない。すべきことは一つを選ぶだけ。だから、「結局何が問われているのか?」だけを考えて、状況説明文をナナメ読みしてしまうのも吉。

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PMBOK4日本語 【PMP試験対策】シリーズについて。

 ベースは、PMBOKガイド4版と、"PMP Exam Prep"、通称Rita本の2本立て。PMBOKガイドを傍らに一連のエントリを「読むだけで合格する」ようなシリーズにするつもりだ。過去の記事は、以下のリンク先が入り口となっている。PMBOKガイドの古い版が元となっているが、「PMIイズム」「PM的思考」は学べる。ぜひ参照してほしい。

   【PMP試験対策】 PMBOK2000版
   【PMP試験対策】 PMBOK3版

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新米パパのための3冊

 敬慕する切込隊長殿にジュニアが誕生したとのこと。おめでとうございます!

 わたしのblogから、とーちゃん一年生にお役に立ちそうなエントリをピックアップしてみる。刹那的な人生感覚から、生きることに貪欲になったのは、嫁さんと子どものおかげ。「親になって一人前」というセンシティブな言葉があるけれど、すくなくともわたしにとっては真だった。親をやらせてもらっているおかげで、わたしは「まとも」に生きていられるのだから。

 まずは、夜泣き対策。[入門編][応用編]がある。個人差があるので必ず、とは言えない。けれど、泣き続ける子どもに殺意を抱かないために、こういう対策がありますよと伝えたい。

赤ちゃんがピタリ泣きやむ魔法のスイッチ 世の中は便利になったもので、ズバリまんまのこういう本がある「赤ちゃんがピタリ泣きやむ魔法のスイッチ」。とりあえずいま泣いている赤ちゃんを静める方法(お包み+シーッ)は有効だった。「抱っこして限界まで歩き続ける」とか、「自動車で深夜ドライブ」といった忍耐と精神力を試すような方法よりも、まず本書をお試しあれ。

 それから、一部の育児書にあるけれど、「泣いてる赤子は、押入れなどに閉じ込めて、ずっと放っておけ」というアドバイスには不賛成。理由は、次の通り。

 どんなに泣き叫んでも誰もこないならば、赤子は泣き寝入りするだろう。「死にゃしない」と考えるのは勝手なのだが、そういう風に育てられた子どもは大きくなると、ある傾向が見受けられるという。

 それは人を信じる心が欠けていること。「泣く→めんどうを見てくれる」の繰り返しによって、赤ん坊は「泣いたら世話してくれる」ことを知る。さらに「泣いたら助けてくれる存在=親」を信じるようになる。

子どもへのまなざし どんなに泣き叫んでも誰もこなかった夜が繰り返されると、赤ん坊はついには絶対に泣かなくなる。「泣いても助けてくれない」ことに諦めてしまう心ができあがる。この子は長じて「人を信じる」という心が抜け落ちてしまっている――これは、「子どもへのまなざし」の受け売り。「育児書」のコーナーにいくと、山ほどこのテの本がそろっているが、パパ一年生にとって最も重要な一冊はこれ。

 子育てというと、「対子ども」に視線が移りがちだが、むしろ重要なのは嫁さんとの関係。恥ずかしながら、「嫁さんをいたわる」とは具体的にどういう行動かを、本書によって思い知った。

子どもの話にどんな返事をしてますか? 親マニュアル本としてなら、「子育てハッピーアドバイス」という鉄板を立ち読みすればよろしい。けどあたりまえのことがあたりまえに書いてあるので、隊長殿には物足りないかと。「子どもの話にどんな返事をしてますか?」がオススメ。親を自覚するようになると、ハッとすることを沢山見つけるに違いない。

 たとえば、正しい怒り方。感情を噴出させる方法があり、自覚しながら正しく怒る。子どもに激情をぶつけ、自分がスッキリするために怒るのではない。親にも堪忍袋の緒というのがあることを理解させ、すべきこと/してはいけないことをハッキリと思い知らせるために、怒るのだ。正しく怒るため、次の3つの準備をしておく必要がある。

  1. 子どもの相手をしていると、怒りを感じるという事実を受け入れる(わたしたちは聖人ではない)
  2. 罪の意識や恥を感じることなく、怒る権利を持ち、感じたことを表現する権利がある(怒りは悪徳ではない)。
  3. ただし、怒りを表現するとき、子どもの人格や性格を攻撃してはならない。怒りはコントロールできる。怒ることを止めるのではなく、正しく「怒る」
 いっぽう、最高にまちがった怒り方は「どうして…なの!」。それは質問ではなく、「おまえは…なんだ!」と強烈なメッセージを送っている(決め付けている)。決め付けられた子どもがそいつを改めると思うだろうか?自分に当てはめてみるとよく分かる。

 「親になったら読みたい○冊」シリーズでいくつか紹介してきたけれど、実用度と有用度のベスト3冊は、上述の通り。がんばって、新米パパ!

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嫁と「ラブプラス」

買った。ラブプラス

これは、巨大な力を秘めている、あの言葉ぐらいの。

どんな言葉だって?

――落ちついてよく聞くんだ

あの言葉を思い出して

ぼくも いっしょに言う

ぼくの左手に手をのせて

おばさんたちの縄は切ったよ


                         時間だ! 答えを聞こう

続きを読む "嫁と「ラブプラス」"

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「線の冒険」はスゴ本

線の冒険 「線」にまつわる様々なイメージ・記憶・連想が次々と喚起させられる。

 著者は、グラフィックデザイナー松田行正。彼の「掻き立て」がすばらしく、知らず知らずわたしが抱えていた固定観念と化学反応を起こしまくる読書になった。実存ネタに触れずに、自らの視覚世界を疑うなんて芸当は、本書が初かも。

 「線」とは、ふだん見えないもの、気にも留めないもの。しかし、区別のための境界・輪郭や、点の軌跡、抽象化や透視によって現れてくる「線」を、あえて表現することで、はじめて意識に現れてくることが分かる。動きの結果としての「線」や、分ける役割としての「線」、あるいは骨組みとしての「線」という、線の機能が具体例をもって示される。

 たとえば、ヴェルヌ「海底二万里」を、一種のロードムーヴィだと見切る。そして、ノーチラス号の旅路のダイアグラムを作りあげる。まず、小説内の描写を手がかりに、ノーチラス号が移動した軌跡を直線状にして、どのくらいの深さのところを航行し、どの深度でどんな出来事に遭遇したかを描く。折れ線グラフのように表される海底深度は、そのまま読者の興奮度にシンクロするようで面白い。

 さらに、ノーチラス号の航路を、「80日間世界一周」のルートに重ね、世界地図にプロットする。当時の列強、イギリスとフランスの植民地図に色分けされており、とても興味深い。ルートに沿った塗られていない地域は、「間接的に植民地化の欲望を高めた」と著者の深読みを誘っている。しかしわたしは、文明から逃げ出そうとする方向(潜水艦)と、文明を利用しようとする方向(鉄道+蒸気船)に、引き裂かれているように見えた。二作品の軌跡は世界の断面図であり、傷口なのかもしれない。

 見慣れたルートでも、角度を変えると違った「線」に見えてくる場合もある。地下鉄路線図はおなじみでも、地下鉄「深度」地図なんて見たことないでしょ?東京の地下鉄が、どのくらいの深さを走っているのかを図にしたもので、「上から」見たネットワーク図とはまるで別世界が広がっている。上へ下へうねうねと走る丸の内線や銀座線は、まさにジェットコースターだ。いちばん深いのは半蔵門線永田町――って、やっぱり議員さんの地下シェルターが隠してあるから?と邪推する。あるいは、大深度地下といえば大江戸線じゃあなかったっけ?とツッコむが、本書では省略されてた。

 また、ヨコの線からタテの線といった、発想の切り替えがやわらかい。

 たとえば、太平洋戦争で日本本土を初空爆した、アメリカ爆撃機隊の軌跡を紹介している。全16機の進入ルート、空爆箇所、離脱ルートが、あざやかなラインで示される。おっかなびっくり落とし、あたふたと逃げ出す様子が航跡に顕れている。さらに、戦後から現在までの、無差別都市爆撃史が世界地図にプロットされる。これを見る限り、爆撃された歴史が最も長いものは、カシミールとベイルート(レバノン)であることが分かる。いっぽう、東京やゲルニカは歴史的には「瞬間」であることも。

 ヨコ方向の航路は、タテ方向の発想を生む。著者は、空爆をこう定義する。「爆撃を命令する側も爆弾を落とす兵士も、爆弾がもたらす惨禍を目にすることなく実行でき、心に痛みを感じずに殺戮できる、垂直降下を利用した究極の死刑執行システム」。

 そして、「垂直降下を利用した死刑執行システム」の"はしり"として、ギロチンの歴史をたどる。垂直方向の動線を利用した、貴族でも平民でも身分を問わず平等に死がすみやかに訪れる処刑方法だ。ただ、ギロチンの効率のよさは、一瞬で終わる処刑ショーとなり、「観客」を満足させられないことから、公開処刑がどんどん演劇化していったそうな。

眼の冒険 ヨコの線からタテの線、垂線、視線、放物線。動線・前線・骨組み線・旋回線、二分割線・線状人間と、「線」をめぐる鮮烈な体験(帯コピー)を通り抜けることになる。どのページにもネタがぎっしりと詰まっていて、著者の発散に追随するもよし、反発して独自の発想に乗るもよし、好きに「使える」。前著「眼の冒険」[レビュー]が眼の経験に拠っているように、本書は線の経験――方向だったり境界だったりする線の使い途――に有用かと。

 読むことが即、経験につながる。アイディア盗人ご用達の一冊。

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死にたくなったら図書館に行け

 自殺しようとしている男の下に、こう書いてある「自殺したくなったら、図書館へいらっしゃい」。つまりこうだ。図書館には様々な手引書や目録があり、司書は、あなたの調べもののお手伝いをいたしますよというのだ。あなたの「死にたい」という問題を解決に導くだけの自信があってこそ、このセリフを吐けるのだろう。

library


Library Instructions,by Ann F. Roberts. Littleton, CO., Libraries Unlimited, 1982,p.46

 死なんとする人の「問題」や「解決」がどこかの本に書いてあるからといって、その人の苦悩が減ずるわけはない。しかし、それでも、アプローチを見つけるために図書館へ向かうのは、良い選択肢の一つに違いない[逃げ場としての図書館]

 その悩みは、既に誰かが経験済みのものだし、うまくすると、自分では気づかなかった解決策も書いてあるかもしれない。あるいは、自分の絶望と同じ感情を爆発させている人を探し、そこに同志的な慰めを見出すかもしれない。さんざ探し回った挙句、「それは時のみが解決する」ことがわかっても、その時の気持ちが変わっているかもしれない。D.H.ローレンスが上手いこと言った。

将来のことを考えていると
憂鬱になったので
そんなことはやめて
マーマレードを作ることにした
オレンジを刻んだり
床を磨いたりするうちに
気分が明るくなっていくのには
全くびっくりする
 図書館という「外」へ探しにいくことは、このマーマレードを作ることに似ている。あるいは、そんな漠然としたものでなく、もっと具体的な苦悩には、具体的な本が似つかわしい。

なぜ私だけが苦しむのか
 たとえば、「われこそは現代のヨブ」と自負する方には、「なぜ私だけが苦しむのか」[レビュー]がオススメされるかもしれない。心に痛みを抱きながら、日々なんとかしのいでいる人がいる。突然、わが身に降りかかった災厄──病や事故、わが子や配偶者の死──から立ち直れないのだ。そんな人にとって、伝統的な宗教はあまり役に立っていない。不幸に見舞われた人が望んでいるのは、ただ黙って聞いてもらい、同情を寄せてもらうことなのに――そんな趣旨の一冊。

お金の味 あるいは、借金に苦しんでいる人には、「お金の味」[レビュー]が渡されるかもしれない。1億2千万円の借金を負ってしまったフリーターの転落~起死回生の記録だ。雇う側と雇われる側の論理、カネを活かす人とカネに殺される人の「差」が生々しく描かれている。かつてこうしたノウハウは、弁護士や取立人といった債務整理の関係者が独り占めするところだった。しかし、今ではメールやWebを用いて、「ヨコの」連携ができるようになったのだから、隔世の感がする。

 いやいや、積極的にかかわらなくてもいい。だいたい自死を選ぼうとする人が、「問題」を「解決」しようなんてポジティブになっているワケない。本なんて読んでられないだろうに。「これから図書館員のみなさんへ」(竹内 、図書館問題研究会、2001)で、図書館の役割の一つとして、「気持ちを休める場所を提供してくれるところ」が挙げられている。独りでひきこもっているより、近所の図書館でボーっとしてみるがいい、そう勧めるのだ。あるいは、雑誌「世界」2005年8月号「自殺したくなったら、図書館に行こう」に、こうある。

活字のない場所にも、言葉があります。その人を生かしめているものが言葉だからです。手押し車を押してきて、ただ座っているだけのひと、来ていただいてうれしいです。行き場のないひと、ケンカをしても隠れる場所がないひとを孤立させない、自殺させない、そう思います。
 けれども、図書館員がハウスマヌカン(死語)よろしく寄ってたかってカウンセリングしたがるのは勘弁。むしろ、心地よい居場所だけ提供してもらい、生温かく見守っておくのが正解かと。「本のかたち」フォーラムでの橋本大也氏の提言「万人を迎え入れてくれて、放っておいてくれる場所」のほうがしっくりする。

 本屋さんの「買え買えビーム」や「読まねば損々オーラ」が眩しく入り乱れており、落ち着かない。あたらしい本ばかりというのもアレだし。その点、図書館はいいカンジでアクが抜けてて安らげる。新人のコを物色するというなら新刊書店で、なじみの店でくつろぐというのが図書館という構図。図書館は現代のアジール、老若男女を問わない駆け込み寺なんだ。イヤなものは館外にうっちゃって、しばし避難しよう。

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東大の受験生に何を読んでもらうか?

 ブックディレクターという仕事がある。

 人や場所に応じて、本を選ぶ「棚作り」をするのだ。本をたくさん読んでるだけではダメで、読み手(候補)とのコミュニケーションを通じ、「手にとってもらう/読んでもらう」工夫を創造しなければならない。

 さて、仮にアナタが「ブックディレクター」だとして、こんな注文が来たとしよう。「駿台予備校駿河台3号館の本棚をディレクションしてください。ここに通う受験生は、東京大学を第一志望としています」アナタなら、どんな本をどうやってレイアウトする?

 答えは最後のお楽しみ。これは、ブックディレクター幅允孝氏が、実際に手がけた仕事なんだ。先日、彼の話を直接聞ける機会があったので、反応のようなものを綴ってみる。

 その場は「ホントーク」、本にまつわる本気のトークという意味らしい[参照]。ゲストに本を5冊選んでもらい、それをサカナに幅氏と本気のトークをするという企画。今回のゲストは、candle JUNE氏で、争いや災害のあった地を巡り火を灯し続ける人だ。

 幅氏の面白さは、本との対峙の仕方に現れている。本をツールとして使うことこそが重要だという。曰く、本をたくさん読んでいるからといって、エラいわけではない。本をうまく「使えて」いる人こそ、エラいのだというのだ。「一日に本を○冊読んだ」と自慢するのは、本を読むこと自体を目的化してしまっている。それより、読む本を一冊にとどめておき、残りの時間は、いましがた読んだ本をマクラに、誰かと出あったり、語ったりすることに使うのだ。たとえ一冊しか読まない人でも、そこで得た気づきや情報を、縦横無尽に使いこなせる――それが、本読みの理想だという。

 もう一つ、わたしと違った良いところは、レンジの広く柔軟なところ。わたしの場合、「人生は短く、スゴ本は多い」にしたがって、読むべき本を選ばねばー、なんて堅苦しく考えてしまう。名作どころを順番に読もうとする姿勢がストイックだしwww。一方、彼の場合レンジがものすごく広い(というか、ない)。基本的にタイクツにできている世の中をかいくぐるうえで、もっとも重要なのは、自分の好奇心。だから、好奇心を奮い立たせるため、アンテナに本が入ってくる瞬間に気を配る。偶然に出会った一冊を大切に読もうとするのだ。この人の個人的な「本棚」はさぞ興味深い+カオスの極みだろうなぁと、想像するだけでニコニコしてくる。

 今回のトークで紹介された本のうち、一番響いたのは、 ヴィスワヴァ・シンボルスカ「終わりと始まり」。戦争「後」をテーマにした詩の朗読があったのだが、胸をつかまれた。ぜひ手に入れて、味読したい。

終わりと始まり

 おっと、「解答」を記さないと。

 だいたい、東大を受験するような輩は本なんて読みたくない。言い方に語弊があるなら、「受験に関係のない本」は読まない。そんな彼(女)らに、どうしたら本を手にとってもらえるのだろうか、読んでもらえるのだろうか?実際、選書は手ごわかったそうだ。予備校の本棚といったら、各大学の赤本がズラリ鎮座ましまするもの。わたしだったら、せいぜい「16歳の教科書」か「ドラゴン桜」、あるいは「アカデミックグルーヴ」を差し込むことぐらいしか思いつかない。

 しかし、幅氏の仕事は違っていた。

 インタビューの方向を変えて、「なんで、東大に行きたいの?」と問うたそうな。すると、ちょっと奇妙な答えが返ってきたという――それは、さまざまな形をとっていたけれど、要約すると、「東大という"アイコン"が欲しい」になる。とにかく東大に入りたい、入れるのなら、入れるのなら、学部はどこだっていい、というのだ。どの学部で誰が何を教えているか、知らないという人がほとんどだったそうな。

 そこで、幅氏が選んだのは、

    1. 東大の教授が書いた本を、学部別にズラリ
    2. 東大生がつくったフリーペーパーを、ゴッソリ
    3. 東大卒業生の本を、卒業年、学部別にズラリ

と揃えたのだ。特に3. が大切で、吉田茂からドクター中松、かこさとしと経歴のバラエティを広げることに気を配ったという。明確な言葉にしていないにせよ、「東大でても、やることは無数にあるよ」というメッセージが込められている。実際の棚の写真は[ここ]、いい仕事、してますな。

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リチャード三世+酒呑童子=「朧の森に棲む鬼」

朧の森に棲む鬼 これはシビれる!あこがれるゥ!

 ときは乱世。死人(しびと)の山から、一人の男が現れる。名はライ。野心と欲望あふれ、嘘をまことと言い包める"舌先"を武器に、王になろうとした男の物語――ッ!

 この「嘘」がいいんだ。だいたい名からしてライ(Lie)なんてイカしてる。そして、その名に違わず上手な嘘をつきまくる。彼を偽り、彼女を騙り、話術と詐術と策略でノシあがっていく。絶体絶命のピンチを舌先三寸で切り抜ける。オンナとカネが大好きで、ハッタリかますのもっと好き。無理を通して道理を蹴っ飛ばす。嘘がホントになり本当がウソに化ける変わる変化する。「オレを誰だと思ってやがるっ」すげぇぜアニキ!

 ん?

 どこかで訊いたこのセリフ――そう、この脚本は、「天元突破グレンラガン」の構成を担当した中島かずき。これは「嫁と天元突破グレンラガン」で、よしぼうさんに教えてもらったおかげ、感謝、感謝、大感謝です。
グレンラガン3
 性格はこのカミナ。だが、彼が紅蓮団を率いるのではなく、国を乗っ取ろうとする話だ。魑魅魍魎あふれる国盗り物語といったところか。しかも勧善懲悪の正反対のベクトルで。後半に出てくる偽カミナが邪悪の道を選んだら、いかにも吐きそうなセリフを大喝する。

「外道?冗談じゃねぇ
これが本道だよ
俺は俺の欲望の道をまっすぐに行く
誰にも邪魔はさせねぇ!」

とか、

「この剣は、俺の舌だ
俺がしゃべる速さで剣は動く
俺の真っ赤な嘘でこの剣も赤い血に染まる
誰も俺を黙らせられねぇ
誰も俺をとめられねぇ」

 「リチャード三世を換骨奪胎」と言われているが、瞼に浮かぶのは、リチャードIIIでもマクベスでもなく、蜘蛛巣城の三船敏郎。あの、悪鬼の形相がピッタリとくるのだ。最初はケレン味たっぷりの悪役に惚れているうちに――その回転が、舌の回りが速すぎて、追いつけなくなる。読んでるこっちがダマされるぅ。

 これは劇場で出会いたかったなぁ…

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「本の現場」はスゴ本

本の現場 出版関係者は必読、本好きな方も。

 「本はどのように生み出されいているのか?」「本はどのように読まれているのか?」というテーマで連載していた記事をまとめ+補記したもの。たくさんの気づきと、手がかりと、新しいヒントが得られたスゴ本。ヒントは追々このblogで実験していこうかと。

■ ホントに「本」は読まれなくなったのか?

 そんな疑問を、ずっと抱いている。たしかに通痛電車でケータイ(端末・ゲーム)を弄っている人は増えたけど、文庫を広げている人もいるわけで、それだけでケータイが本を駆逐している!と煽られてもなぁ。図書館も盛況だし、子どもが通う学校も「朝の読書」にえらくチカラこぶ入れているようだ。

 そして、「本が売れない」というのも実感がわかない。いきつけの書店はいつもごったがえしており、レジに並ぶのがイヤでついAmazonを利用してしまう。村上某の新刊山に「お1人さま2冊限り」のタレ幕が下がってたときは噴いた。自分の周囲だけで判断するのは危険きわまりないが、「出版クライシス」と騒がれるほどなのだろうか?

■ 最近の若者は本を読まない?

 以前、「最近の若者は本を読まない」という神話を調べたことがある。結論から言うと、「それはウソ」だ。どの年代の「若者」も読書率は高い。要するに、若い頃はたくさん本を読むのが普通。若者(20-30代)が「オレ今ほとんど読んでいない」というのであれば、おめでとう、そこがピークです。

 ネタ元は、毎日新聞社の読書世論調査(2005)で、書籍読書率とは、「あなたは書籍を読みますか?」に「はい」と答えた割合のこと。調査上、「本」とはマンガや雑誌以外の書籍を指す。

 次に、世代別に書籍読書率を見てみよう。書籍を「読む」と答えた人、「読まない」と答えた人を積棒にしてみた(無回答があるので計100になってない)。いちいち指摘するまでもなく、本をいちばん読んでいるのは、20代の若者で、トシとればとるほど本を読まなくなる

 くりかえすが、若者は本を読まないというのはウソ。ここ40年間、どの時代の「若者」も本を読んできている。その反面、1950-60年代に「若者」だった人が本を読んでいない、というのは本当だ。いまだと60-70代の方々が、生涯を通じて、最も読書から離れている。

 上記のまとめは、以下のエントリを参照してほしい。

     「最近の若者は本を読まない」本当の理由
     じゃぁ最近のオヤヂは、若いとき本読んでたのか?

 そして、「本の現場」ではわたしと同じような調査をしていたことを知って嬉しくなった。さらに、わたしよりも多角的に捉えており、「家の光協会による全国農村読書調査」とあわせて分析している。

■ 電車で「本」を読む人が減った?

 これも調査結果があることを、本書で知った。「通勤電車の読書事情」と称し、通勤電車内の過ごし方を調べたものだ。トーハンの「しゅっぱんフォーラム」(現在は"書店経営"に統合)の2007年12月号の記事にある。社内で書籍を読む人の割合は以下の通り。

     1986年 9.7%
     2004年 12%
     2007年 16.3%

 定点的な調査といいながら、年を追うごとに増えている。「電車で本を読む人が減った」というのは、ひょっとすると、わたしの思い込みかもしれない。本書ではもっと手厳しく、「青少年の犯罪が増えた」というのと同じだという。統計を見ると激減しているのに、犯罪が増えていると思わされてるだけだと主張する。判断する前に、ちゃんと調べないと。

 そして、まぎらわしいことに、ケータイ端末というものがある。2007年調査でも「携帯電話を見ている人→15.8%」と顕著だが、そのケータイで青空文庫見てたり、ゲームっぽくても「文学全集DS」だったり、"Kindle for iPhone"になってくるとワケわからん。「紙の出版物」という定義にとらわれていると、このテの調査は成り立たなくなるね。

 ややもすると、「出版不況の原因は、読書ばなれやケータイ依存だ」と停止がちになる思考に、「本の現場」の著者・永江朗は、データを使って反論する。「読書ばなれ」が起きている/起きていないによって、対処法はまったく違うのだから、前提をハッキリさせよという。

 つまり、読書ばなれが現実に起きているのであれば、出版不況の原因を「読者」に押し付けることができる。しかし、読書ばなれが起きていないのに、「売れない」のであれば、原因は、出版社の内部にあることになるというのだ。

■ 「本」は売れなくなった?

 老舗の雑誌や出版社がつぶれたというニュースを聞くと、さもありなんと思ってしまうのだが、「本が売れない」はどこまでホントだろうか?経済産業省の「出版産業の現状と課題」(2003.7)の、2ページ目「出版販売額の推移」にはこうある[pdf]

 Y軸の原点がゼロでないのが「作為」を感じるが、もともと「意図」を持った資料なのでご愛嬌。これを見る限り、2000億エンの販売額が数年で失われているように見える。これは大変だ…大変なんだが、も少し広い視野で見てみる。出典は、2009出版指標年報(社団法人全国出版協会)で、推定販売部数を本体価格で換算した金額を算出している。つまり、「取次出荷額-小売店から取次への返品額=販売額」とした年別推移。

 たしかに、1996年を境にして下がっている。特に、雑誌の凋落は激しい。最初は、「失われた10年」不況のアオリで売れなくなったのかと考えたのだが、バブル崩壊(1991)からのタイムラグがずいぶん(5年)ある。いろんなものが右肩下がりになっている中で、むしろ健闘しているというべきか。その原因として、「読書ばなれ」をもってくるのは見当違いだろう。上に示したとおり、本は実際に読まれているのだから。紙媒体の「本」や「書籍」が売れなくなったというのは、事実だろう。

 本書によると、「若者の時代が終わったから」という。80年代は若者の時代、特に雑誌文化や文庫は若者のものだったそうな。若者の数そのものが減り始めたことが、真の原因らしい。団塊と団塊ジュニアが「若者」の時代でなくなったときから、本が売れなくなっていったと述べる。

 この見方は妥当だろう。ただ、この「若者の時代」なるものの根拠が見出せない。ノスタルジックにあの時代を語ってもいいが、もっと単純に、買う人の総数が減ったからではないか。20-50代を読書人口と仮定して、国勢調査結果[参照]から抽出すると、こうなる。

 1995年をピークとして漸減している。これが決定打とは考えにくいが、購買人口の減少が「売れなくなっている」ことにつながっている。「若者=20代」と捉えると80年代はむしろ少なくなってしまう。

 人はトシをとる。「本を買っていた」人が買わなくなったことにより、書籍や雑誌は売れなくなったのでは。特に、団塊サラリーマンが定年退職すると、通勤電車でヒマつぶしに読んでいた週刊誌や書籍を買わなくなる。もちろんケータイ(電話・端末・ゲーム)に流れた向きもあるだろうが、紙媒体としての書籍・雑誌の売上への直接的なダメージは、団塊にあるとニラんでいる。

 この部分とあわせて読みたいのが、著者・永江朗の以下のコラム。最新の調査結果を元に、「出版不況」の本質をズバリ言い当てている。

  「読書離れ」のウソ 
    1. 出版不況の本質とは [参照]
    2. 「読書離れ」のウソ 本を読むようになった若者たち

■ 「本が売れない」の正体

 販売金額だけからでは見えてこないカラクリを、本書はあばく。著者は日本の書籍の出版点数を調べ上げ、ここ30年(1974-2004)でおよそ4倍になったという。「最近の書店員は本を知らない、すぐ検索端末に頼る」というツッコミはおかしいという。書店員の能力が低下したのではなくて、4倍に増えれば把握できなくてあたりまえなのだ。

戦後ベビーブーマーを中心にした本好きの人びとは、自分が若かった30年前の出版産業の「常識」にとらわれて、現状を批判しているのではないか

と手厳しい。その一方で、書籍販売金額は、30年で2倍程度だという。点数は4倍になったにも、販売金額は2倍にすぎないということは、つまり、1点あたりの販売金額は、この30年で半分になったといえる。これが、「本が売れない」の正体なのだ――

 これを知ったときはガツンとやられた。中身のない、クソみたいな本が多すぎる理由に思い当たったのだ。もちろん30年前もクソみたいな本があったはず。けれどもその数は(率は)今の比ではない。既に本が多すぎるのに、これほど新刊書が出すぎることで、本1冊あたりへの投資が回収できていないのが現状なのだろう。

 そして、新刊洪水の根本的な原因は、委託制度と一体化した再販制度にあると著者は主張する。どの業界でも「製作元→卸→小売」の順で商品が流通するが、本の場合は返品がある。「出版社→取次→書店」と流通した本が売れ残った場合、逆ルートで返品される。再販制度によって本は定価販売されるため、売れ残っても値崩れしない。書店にとっては、客に売るのも返品するのも、本がお金に化けることにはかわりない。

 さらにこれは、出版社にとっても同様だという。出版社は取次に新刊を納品すれば、書店で売れるかどうかに関係なく、とりあえずお金を得られるそうな。出版社にとっても書店にとっても、本は貨幣と同じ。著者はこれを、「本のニセ金化」と呼んでいる。あるいは、「本は出版界の地域通貨だ」という人もいる。

 返品された本は、結局出版社に返ってくるから、その代金を取次に払わなければならないって?大丈夫、返品の代金と納品の代金は相殺されるのだ。だから、返品を上回る納品を作ればいい。そうすることで、納品は雪だるま式に増えてゆき、返品率も右肩上がりに上がっていくという仕掛けだ。もちろん出版業界全部がそうだとはいえないだろうが、これが新刊点数増大のメカニズムだという。そんな潮流に一石を投じているのか、本書には実は「定価」がない。代わりに奥付をみると、「希望小売価格1800円」とある。さらに裏表紙には、「非再販」とビシりと書いてある。その心意気買った!

■ 書き手のアマチュア化

 本をめぐる状況の悪化は、ひとえに再販制度といった仕組み上のものだけだろうか?いや、著者は返すカタナを書き手(ライター)側に突きつける。フリーライターの経済状況が悪化する原因のひとつは、インターネットによって増えたアマチュアの書き手ではないかというのだ。

 たとえば大学教員や会社員がブログを書いて、編集者の目にとまり、雑誌の寄稿や出版化を打診される。本業ではないので、印税についてうるさいこと言わないことをいいことに、ライターの価格破壊が始まっているという。Webの原稿料は安くてあたりまえだとか、メルマガの原稿料はタダといった情報が、ネットの影響で蔓延しているそうな。

 しかもそれは、「1枚5000円だった原稿料が、来月から3000円になる」といった、分かりやすい価格破壊ではないという。Aさんが1枚5000エンで受けていた仕事を、Bさんが3000円で受けるという形で事態は進む。Aさんにとってはいままでの仕事が終わっただけで、「価格破壊」という実感はないというのだ。

 これは痛い、耳に痛い。わたし自身、このblogが縁で原稿書きもしているから。五千エンとか一万エンの小遣い仕事をこなしているが、いわゆる「相場」を知らないため、そんなものかと文句も言わずに受けている。わたしみたいな奴が、ライターの相場を押し下げているのかと思うと、申し訳なく思う。そのいっぽうで著者は、「原稿料や印税は商品の対価というよりもお布施のようなものだ」と言ってくれるのでありがたい。スキルと名を挙げるのがメインで、原稿料は自然とついてくるものなのだろうか。

■ 本屋に人がこないなら、人がいる場所に本が出て行くしかない

 ネガティブなネタばかりではなく、あたらしい動きも拾うことができた。「書店をディレクションする」幅允孝へのインタビューが新鮮だった。いわゆる「棚づくり」というよりも、特定のコンセプトにしたがって、書店そのものを作るという仕事だ。「本屋さんに人が来てくれないから人がいる場所に本が出て行くしかない」の一言に腑に落ちた。

 「人を集める装置としての本屋」と見なすと、「本屋に集まってくる人」だけを向いた本ばかり考えるようになる。でもそれだけではダメだ。「売れる本」あるいは、誤解を恐れずに言うならば「よい本」とは、ふだん本なんか読まない人が買って読み、「いい本だ」と満足できるような本なのだろう。

 だから、向きを逆にするんだ。人が集まる場所に本屋(というか、棚)が出ていくのだ。そして、集まる人向けの「棚」を作ることが、あらたな人と本との出合いに結びついていくのだろう。そんな書店を、本書ではアパレル業界に倣って、「セレクトショップ型書店」と呼んでいる。

     六本木ヒルズのTSUTAYA TOKYO ROPPONGI
     青山一丁目のBOOK246
     銀座松坂屋地下ファインリファイン書籍コーナー

など、彼がプロデュースした書店が紹介されている。わたしが見たことがある「棚」でいうなら、東京ミッドタウンのd-laboのライブラリー[参考]がそれにあたる。古今・和洋の混交が面白く、いわゆる定番モノは一冊もないにもかかわらず、ソソられる本ばかり。(選書のみならず並べ方も含め)たいへん知的好奇心を刺激させられる棚で、似たような棚をあげるなら、松岡正剛の書架が相当する。もちろんボリュームは比較しようがないが、彼がディレクションすると、似て非なる"化学反応"が得られるかもしれない。本は決して一冊単品で存在せず、その並びとか、グルーピングによって、反応が違ってくる。この「棚づくり」は、わたしの今後の課題だな。

 ――長々と紹介してきたが、まだ足りない。「朝の読書」の実態や、編プロの置かれている状況(と課題)、フリーライターへの実践アドバイス、大学生協の「本を100冊読もう」キャンペーン、自費出版社のカラクリなど、「本の現場」を徹底的に取材・レポートされている。ネットと出版について、抽象的な言辞を振り回す「さもありなん」本が溢れている中で、本書は、唯一、具体的に切り込んでいる。

 出版関係者は必読。本好きな方も刺激されまくる一冊。

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