死とは、最後の苦痛にすぎない「老いぼれグリンゴ」
実はハナシはシンプルだ。老いた男と、若者と、女が出会って別れる話。老いた男は死に場所を求め、若者は革命を求め、女は最初メキシコを変えようとし、最後はメキシコに変わらされようとする物語。「女ってのは処女が売春婦かどちらかなんだ」とか、「世界の半分は透明、もう半分は不透明」といった警句が散りばめられており、ヒヤリとさせられる。
しかし、「語り」が断りなく多重化したり、「今」が反復ヨコ跳びしており、読みほぐすのに一苦労する。「ひとり彼女は坐り、思い返す」――この一句から始まり、要所要所で形を微妙に変えつつ挿入されている。読み手はこれにより、彼女視点から時系列に描かれるのかと思いきや、別の人物のモノローグや観察に移ったり、いきなり過去話に飛ばされる。ときには地の文に作者の意見がしゃしゃり出る。まごまごしていると、「ひとり彼女は坐り、思い返す」が繰り返され、彼女視点に戻っていることに気づかされる。読み手は、このポリフォニックな技巧に翻弄されるかもしれない。
そして、登場人物の告白をとおして、アメリカの影としてのメキシコがあぶりだされてくる。あるいは、アメリカのなれなかった未来としてメキシコが写し取られる。ちがう肌色と交じるとき、アメリカは殺し滅ぼし、メキシコは犯し孕ませたのだ。
圧倒的なチカラの格差があるとき、殺すほうがいいのだろうか、それとも、犯すほうが人間的なのだろうか。殺した方が後腐れなく、かつ速やかに土地を奪える。一方、犯すということは、(本人の感情さておき)結果、子孫の誕生につながってくる。混血の私生児たちは成長し、国のあり方そのものを変えてくる。
解説で池澤夏樹は、アメリカとスペインを対照化させている。つまり、アメリカ(合衆国)ではインディアンを殺したため容易に統一できたとし、一方メキシコが近代国家になるためには、長期にわたる革命を必要としたという。
「もう、目をしっかりと見開くんだ、ミス・ハリエット。そして、思いだすんだ。わたしたちがインディアンを殺したことを。インディアンの女とセックスをし、少なくとも混血の国を創る勇気を持たなかったことを。わたしたちは肌の色が違う人びとをいつまでも殺しつづけるという事業にとらわれている。メキシコはわたしたちがなりえたものの証拠なんだ。だから、目をしっかりと見開いているんだ。」これは、老いぼれグリンゴのセリフ。アメリカは殺し、メキシコは犯した。そして、この主張は書き手であるフエンテスのものでもあり、アメリカ合衆国批判へとつながっていく。たとえば、ラス・カサスのような直接的な糾弾の仕方もあっただろう。「インディアスの破壊についての簡潔な報告」を引いてくるという手もあったはずだ。だがフエンテスは、アメリカ合衆国からきた白人(グリンゴ)の口から言わせる。グリンゴは白人の蔑称なんだが、その正体に意味がある。もちろん文中にヒントは多々あるが、彼が何物であるかを知ると、このセリフがいきなり重たく感じられるはずだ。
ラス・カサスは未読なので、次は「インディアスの破壊についての簡潔な報告」かな。
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