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屍体愛好者の憂鬱「ネクロフィリア」・「蟲」 【劇薬注意】

 久しぶりに、黒い文学シリーズ。

 清く正しくエロティックな、いわゆる「表」ばかり読んでると、バランスとるために、黒くて臭くておぞましいものに触れたくなる。世の中、良心と道徳が清潔に行き渡っていると無邪気に信じる馬鹿にならないように読むのだが、「程度」の見当がつかなくなる。狂気と正気のあいだには、遮るものなどなにもない。例えば過去のエントリだと、こうなる。

「ジェローム神父」 マルキ・ド・サド×澁澤龍彦×会田誠

「ブラッドハーレーの馬車」 沙村広明

「城の中のイギリス人」 マンディアルグ

 つまり、道徳も反道徳も、単なる程度問題じゃね?善なんて量的に見て外野が判定するものじゃないか――といった、陳腐な結論に至る。だからといって書いてあることを実行しようなんて気は起きないけれど、それでも自分のリミッターカットができて満足しちゃう読書に相成る。

 ここで描かれるのは、「愛」。ただし屍を愛する男の話。彼は屍体にしか性的興奮を覚えず、葬儀に列席しては墓地に通い、屍体を掘り出してきては愛するのだ、その形が分からなくなるまで。日記体で淡々と描かれる"非"日常は、すべて屍体の話題ばかり。どうやって愛して、どんな匂いを放ちつつ、どのように崩れていくかが、観察日記のように綴られている。描写のひとつひとつは強い喚起力に満ちており、慣れない読み手に吐き気を催させるかもしれない。

 いいや、違う。「そんなの『愛』じゃない」ということは簡単だ。なぜならわたし自身、読みながらひたすら、頁に向かってそう吐き続けたから。彼が半ば自慢げに、過去の「恋人」のことを話すたびに、いっしょうけんめい否定する自分がいる。「恋人」のたたずまいや出自を語り、あたかも生きた恋人を紹介するかのごとく説明する様に、憐憫を抱くことで必死で防衛する自分がいる。

 異常なのは主人公で、読み手は「正常」であると安心しているとあぶない。屍体愛好者は心の断絶を選び取ってしまっており、その情欲は説明できないところへ超越している。いきおい読み手は、日記――彼の独壇場だ――に寄り添いながら進めていくほかない。性別、年齢を問わず屍体を相手にする彼は、見返りを求めたりしないし、求めようもない。相手が抵抗力を持たないオブジェであるだけで、サディズムや暴力主義とは離れた、ただ対象へのひたむきな姿がそこにある。

 モノや思い出が「愛せる」以上、対象が死んでいるからといってそれは「愛でない」などと言い切ることができようか――そんな気になってくる。もちろん、そんな不用意な読者には、強烈な描写を平手打ちのように食わせる。あきらかに腐っている少年の体とともに熱い湯船で戯れる様子を読まされることになる。

少年の身体は刻一刻とやわらかくなり、腹は緑色になって崩れ、匂いのきつい腸内ガスでパンパンに膨れ、そのガスが湯船の中で巨大な泡となって弾ける。なお悪いことに、顔が崩れ、元々の少年とは似て似つかぬ風貌になってしまった。私のかわいいアンリとは、もうとても思えない。

 ポイントは、どんなに耐え難い臭気を発していても、必ず「匂い」としているところ。翻訳者か主人公の心意気を感じるね。描写のコントラストも素敵。主人公は死者だけでなく、生者とも性交しそうになるシーンがある。(生きている)中年女の股ぐらからしたたり落ちる白濁液と、死姦しようとした少女がゴボゴボと吐き出す黒い液体は、フラッシュバックのように記憶に残るに違いない。

 死体を相手に想いを果たすといえば、江戸川乱歩の「蟲」を思い出す(乱歩全集5巻所収)。

ひきこもりの片恋慕が高じて狂気に変化する瞬間を目の当たりにできる。歪んだ愛情を極彩色の地獄絵図で描ききっている。死体に対してやったこと、死体が変化していく様子が、要所要所で削除されている。自粛なのか検閲なのか、おぞましい場面のうち、もっとも肝心なところが「○○○○○○(X文字削除)」と伏字になっているのが怖い。狂気を狂気そのままに表現したのが「蟲」なら、狂気を正気で書いたものが、「ネクロフィリア」になる。

 映画「ネクロマンティック」好きなら、狂喜乱舞する一冊。知らない方は、検索しないことをオススメする。

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