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ゲームで子育て「塊魂」

塊魂 やばい。

 やばいよこれ。

 「やばい」じゃなく、「やヴぁい」のレベルになっている。

 カタマリを転がして、モノをくっつけて大きくするゲーム。家族全員ヤミツキ状態にしたのは、Xbox360「ビューティフル塊魂」。Wiiピクミンを絶賛してたらオススメされたのが運の尽き、抜け出せない止まらない。

 小さなカタマリを転がして、周りのモノを巻き込んでいき、大きなカタマリにするシンプルなルール。でありながら、限られた時間内に課題を巻き込んでいく戦略性や、障害物をよけながらカタマリを操るレースゲーム感覚も必要。けど、そんなこと気にせず、気楽に転がしてもいい。箱庭世界を探索していくうち巨大化し、世界をまたに転がす開放感、ついには世界そのものを巻き込む快感。デカい雪だるまをつくる、そんな嬉しさがある。

 能書きさておき、子どももオトナも中毒している。

 いいな、と思うのは、息子の熱中度。あと少しでクリアというところで時間切れになると、悔しそうに「もう一回」という。何度も挑戦して、やっとクリアすると誇らしげに笑う。思い返すと、息子が自力でクリアまで行ったことがなかった。ポケモンしかり、ピクミンしかり、一緒にやって、ちょっと楽しんで、おしまい。あと少しで GameOver になってしまった、という「ちくしょう!」感が無かったのよ。

 どんなゲームでもそうだけど、「壁」がある。初プレイで易々とクリアできるなら、それはゲームじゃなくて紙芝居。かならず「壁」にぶつかって、ああでもないこうでもないと苦心してリトライして、上達したり発見したりするのがゲームなんだ。「壁」は、ちょっと難しいアクションだったり、推理やロジックを駆使して見つける手がかりだったり、覚えるべき攻撃パターンだったり、様々な形で現れるが、この「壁」のおかげで、達成感を味わえる。

 この、「やったぞ!」感覚こそが、ゲームを「面白く」しているもの。日常生活ではなかなか味わえない、このプチ・ブレイクスルーを手軽に楽しむには、ゲームが一番かと。たとえ小さくとも、フロー体験を積み重ねていくことが、彼の自信につながっていくんだ。ある子は駆けっこで、またある子は計算テストで、この快感を得るのかもしれない。もちろんそれらも大事だし、張り切ってもらおう。しかし、そうした「競争」から外れたところでも、達成感を楽しめるようになれたらなー、と思ってる。

 競争化社会に毒された親が、その轍を踏ませないよう、ゲームで子育て。

 スコアや勝敗を競うものもあるが、ゲームの基本の相手は、自分自身。かつての自分が「壁」と感じたものをクリアすることこそが、ゲームの醍醐味なのだから。ゆるいデザインとシンプルな面白さに巻き込まれながら、ゲーマーパパは思うのだよ。

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プロが選ぶ、究極の一冊

Pen Pen の最新号(2009/8/1号)で、面白い特集をやっている。各界のプロフェッショナルにとって、それぞれ「究極の一冊」を紹介してもらうというのだ。

 わたしの場合、「本」を媒介して「人を探す」ために好都合だった。自分にとってのスゴ本を評価している人は、どうしたって好意を持ってしまうもの。あるいは反対に、人を介したブックハンティングとしても有用だろう。「あの気になる人は、いったい、どんな本を読んでいるのだろう?」というやつだね。意外な人が意外な本を読んでたりするのがたまらない。

 では、「究極の一冊」として挙げられたうち、選りすぐりをいくつか。なるほど、かくやという「この一冊」が並んでいる。書名と、挙げた人のコメントを添えて紹介する。


   「ANDY WARHOL」(Andy Warhol)
   ひとつの本を読むことは、未知の街を歩くこと

   「恋愛と贅沢と資本主義」(ヴェルナー・ゾンハルト)
   恋愛と無駄遣いこそが、経済を成長させる

   「百年の孤独」(ガルシア=マルケス)
   時系列が入り乱れて、いろんな自分がいるような気がするんです

   「自由からの逃走」(エーリッヒ・フロム)
   本当の「自由」の意味が、いま問われている

   「六三四の剣」(村上もとか)
   人間の表も裏も、ぜんぶ描ききるのが漫画

   「壁」(安部公房)
   私の想像力を、ノンストップで誘導する

   「フォークの歯はなぜ四本になったか」(ヘンリー・ペトロスキー)
   無駄に見えることからこそ、発想は生まれる

   「柔道部物語」(小林まこと)
   柔道の強さは柔道の練習で身につけるべき

   「メディアはマッサージである」(マーシャル・マクルーハン)
   メディアの正体は、自分の頭の中の考えを伝えるもの

   「オーパ」(開高健)
   釣れたかどうかではなく、釣りに行くことが目的。結果で左右されるなら、
   もう"遊び"ではない


 次に、人リストをどうぞ。これは全員あげてみよう。


     横尾忠則(美術家)
     森山大道(写真家)
     桜庭一樹(作家)
     仲條正義(グラフィック・デザイナー)
     隈研吾(建築家)
     長谷川祐子(キュレーター)
     鳥居みゆき(芸人)
     祖父江慎(ブックデザイナー)
     嶋浩一郎(編集者)
     小島聖(女優)
     田島貴男(音楽家)
     村越正海(フィッシャーマン)
     安西水丸(イラストレーター)
     青山南(翻訳家)
     黒田龍之助(語学教師)
     岩田健太郎(神戸大教授)
     森永卓郎(経済評論家)
     渡辺喜美(衆議院議員)
     古賀稔彦(柔道家)
     三田紀房(漫画家)
     小林弘人(クリエイター)
     依田紀基(棋士)
     上田一生(ペンギン会議研究員)
     平山ユージ(クライマー)
     小島景(シェフ)
     平川武治(ジャーナリスト)
     藤原竜也(俳優)
     中江裕司(映画監督)


 さて、誰が何を「究極の一冊」としているだろう?「柔道部物語」を挙げた人は一発で分かるだろうし、桜庭一樹ファンなら、彼女が何を選んだかは即答できるはず…では、他は?

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異文化と異性と「マイトレイ」

マイトレイ 恋話はミステリに似てる。

 あの娘は何を思っているのだろうか?わたしのことだろうか?わたしとのあのことをイヤがってなかったのだろうか?それとも…好きなのだろうか?

 男性の一人称でつむがれる物語の中心に彼女(マイトレイ)という謎があり、読み手は、彼と一緒に悶々とさせられる。男性側の一方的な予断・妄想・思い違い、自分ひとりで極端なことを考えていることにぎょっとなり、自身の思考に中毒する。

 しかも男はイギリス白人で、相手の少女は16歳のベンガル人、舞台は植民地なのだ。文化のコードがぜんぜん違っているから、すれ違いがたくさん起きる。無防備なしぐさや振る舞いは、好意の表れなのか、そういう伝統だからなのか、分からない。

 異文化が接するところから起きている、すれ違いや衝突が面白い。さらに、異文化を通じて自分を再発見する過程が愉しい。異性に触れることで自分の性を発見し、異文化と交わることで自分のアイデンティティを発見するのだ。彼は、そうした当時の気持ち、情熱が育ってゆく様子を、日記体で綴っている。読み手はやきもきすることおびただしいだろう。そして、語っている現在から振り返った真相をカッコ書きの注釈で記す。

 ここまでくると、鋭い読者は気づくだろう。この恋が、どんな結果を迎えたのかを。

 しかし、予想を裏切る「その後」の展開に、かなり驚くかもしれない。この恋は、あまりに犠牲が大きすぎる。悲恋の代表格として、「ロミオとジュリエット」があるが、そのナナメ上をいっている。解説まで含めると、すごいドンデン返しだね。ぜひ、マイトレイから見た小説「愛は死なず」を読んでみたい。

 この小説から一番おいしいところを抜いてみた。むせ返るような息苦しさを味わって(思い出して?)みてほしい。

こうした散策は今も鮮やかに、苦しいほど甘く記憶に残っている。肉の記憶は易々と過ぎ去り、体の結合は、どれほど完璧だったにしても、渇きや空腹と同様に忘れられるが、街の外での私たちのあの濃密な交感からは何一つ消え去らなかった。あのとき、目だけですべてが語り合われ、抱擁一つが愛の一夜の代わりをなしていた。そこでのみ、あの飽かず動かず眠りを誘う視線を取り戻すことができた。
 恋の中心にいるときは、目くばせひとつで想いが伝わり、触れたところから体がおののく。恋のチカラを全身に感じる。もうぜんぶ全部あげたくなる、あせりと苦しさと切なさが爆発する。異文化の異世界の異性に、そういう想いを思い出せるかも。

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【告知】 "おもしろい"をつくりだす技術を学べる3冊を、週刊アスキーにてご紹介

徹夜を覚悟する小説や、寝食そっちのけでハマるマンガには、ちゃんとワケがある。それは、「おもしろい」から。ではその「おもしろさ」はどこからきたのだろうか?

そんなテーマで読んできた中から、"おもしろさ"を作り出すためのテクニックや、そのセンスを習得する方法を紹介している本を3冊選んで、週刊アスキー8/4号で紹介している。このblogでご紹介したのとカブるが、紙媒体の方が字数制限もあって、「文をギュッとね」している。blogの良い/悪いところは、無制限なところ。長すぎると、読むほうも書くほうもダレるからね。

現時点でのベスト3ともいえる選りすぐりなので、これらを超えるような教則本があれば、ぜひ教えて欲しい。

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ゲームと犯罪と子どもたち

ゲームと犯罪と子どもたち まずアメリカの現実。次の選択肢のうち、正しいものが一つある、あててみて。

  1. ゲーム・プレイヤーの大半は子ども(18歳未満)で、50歳以上でTVゲームやPCゲームをする人は、ほとんどいない
  2. ベルトウェイ狙撃事件犯のマルボは、Xbox「ヘイロー」をしながら殺人の練習をした。「人間の姿をしたものを何度も撃って、感覚が麻痺していました」
  3. 2005年8月、アメリカ心理学会は、「テレビゲームの暴力シーンの73パーセントで犯人は罰を受けておらず、暴力は紛争解決の有効な手段であると教唆している」と発表した
  4. 米国医師会によると、2001年、もっとも暴力的ゲームの一つとして「星のカービィ64」が挙げられた。





































 答えは4。

 ゲームプレイヤーの平均年齢は35歳で、50歳以上は25%を占めている(*1)。"Halo"の敵は昆虫型だし、狙撃犯マルボは、本物の銃で練習した(*2)。「暴力を教唆している」と批判されたのは、ゲームではなくテレビ番組で、1998年の調査結果(*3)。「星のカービィ64」は、全体の72パーセントが暴力シーンで、もっとも暴力的だと判定された(*4)。

 本書は、ハーバード大学医学部の研究者たちが、ゲームで遊ぶ子どもたちを、犯罪との関連性から調査している。政府から150万ドルの予算を得、1257名の子ども、500名の保護者、数百名の業界関係者を科学的な手法で徹底的に調査した結果だ。犯罪の原因をゲームに求めることで見のがしてしまう、根源的な問題が何であるかが暴かれている。このレポートを読むと、「ゲームと子ども」の認識がいかに混乱しており、科学的データの誤用や似非科学、ひいては政治的駆け引きにまみれていることが分かる。

 本書は、ゲームに対する誤った認識を植え付け、保護者の恐怖を煽ったのは「報道」であると、はっきり述べている。暴力的なゲームが子どもたちを暴力的にしているとか、ゲームのせいで残虐な犯罪が増えているといった事実は、ないのだ。本書は、ゲームに限らず、テレビ、マンガ、映画、大衆小説といった新たなメディアが誕生した際、もっともらしくその弊害を主張し、規制しようとした歴史を振り返る。

 たとえば、テレビ。放送される暴力は犯罪を生みだすという確信のもとに、暴力的テレビ番組の視聴率の規模と地元の犯罪発生率を比較した研究がある。この研究により、顕著な関係が判明したが、予想とは反対の結果だった。暴力的番組の視聴率が高いほど、暴力犯罪の発生率が低かったのだ(*5)。もちろん、そこに因果をこじつけるつもりはないが、予想した正の相関の結果だったとしたら、他の検証プロセスをすっとばして、強い因果関係として「報道」していたことは想像に難くない。

 他にも、マンガや大衆小説(ダイム・ノベルと呼ばれた)の中での暴力描写や犯行の手口が、青少年への悪影響をあたえるといって糾弾された歴史を紹介する。魔女狩りよろしく調査を行うのだが、恣意性にまみれ、わずかな証拠と不正確な仮定、似非科学に基づいていることを、徹底的に暴いてみせる。そして、テレビやマンガをめぐる保護者の懸念、マスコミの批判、「研究者」の態度が、現在のゲームに関する状況と、驚くほど似ていることを指摘する。新しいメディアは、いつだって時代の非難の的なのだ。

 むしろ、M指定(17歳以上)のゲームをする子どもは、いじめの対象になりにくいと主張する(p.144)。なぜか?著者の仮説はこうだ。M指定のゲームをする子どもたちは、よく集団でプレイすることが確認されている。そのため、他の子どもよりも社交術を身に着けているため、いじめに遭いにくいという。また、見知らぬ子同士の最初の会話が「どんなゲームが好き?」をきっかけとしているのを指摘し、コミュニケートツールとしてゲームが有用だという。さらに、子どもたちはゲームのなかの仮想世界と現実世界を混同していない事例を挙げている。むしろ怒りを発散し、現実世界での争いを回避する手段としてゲームを活用しているというのだ。

 ゲームで社交性?ちょっとハナテと思うのだが、「イマドキのゲーム」を考えてみると理解しやすい。もちろん昔のゲームも2Pプレイはあったが、それはスコアを競い合ったり、闘いあったりするためのマルチプレイ。しかし、最近のゲームは、二人で戦うのではなく、二人(以上)で協力するものが数多くある。単独プレイしてても頭打ちとなり、多人数で、役割分担し、声を掛け合ってプレイするのが普通だ。"Biohazard5" や Monster Hunter" が象徴的だね。

 では、いいことばかりかというと、そうではない。「よくないゲーム」についても指摘している。"Postal2" のこと?あるいは、"Grand Theft Auto 4" なと思いきや、違うのだ。GTAがどんなゲームで、どんな「悪いこと」がなされているか、子どもも承知している。ゲームだと納得づくでプレイしているのだ。GTAの魅力について、ある子どものコメントが興味深い。

犯罪者を逮捕したり、運び屋になったり、火を消したり。警察のために働くこともできるし、気が向いたら人を撃ったりできる。このゲームは同時にいいヤツと悪いヤツになれるんだ!
 麻薬や銃を扱ったゲームを規制すれば、麻薬や銃が消えてなくなるわけではない。むしろゲームにでてきたのをきっかけに、親子で話し合えばよいという。社会になぜこのようなものがあり、どう扱われているのか。それらにどのように向き合うか(向き合うべきか)について、率直に意見を交わすよい機会を、ゲームは提供してくれているのだ。

 本書が問題視しているのは、暴力ゲームではなく、「アドゲーム」になる。アドゲームとは、 advertising game で、メールアドレスなどを登録すると、無料でできるゲームのことを指す。スポンサーにとっての魅力は、見込み客である子どもたちの連絡先や個人情報を手に入れ、直接アプローチできることにある。子どもたちに個人情報を入力させようとするウェブサイトを、保護者は警戒すべきだという。

 さらに、特定の思想に染まったゲームについて、注意を喚起している。たとえば、アウシュビッツ強制収容所でユダヤ人の「ネズミ」を撃つ"Concentration Camp Rat Hunt"や、ネオナチ団体が製作販売している、民族浄化を意味するタイトルの"Ethnic Clensing"、あるいは、インティファーダに参加するティーンエイジャーを募集するために開発された"Under Ash"などが該当する。これらはゾーニングされているが、一定の思想へ誘導する意図をもって作られており、注意が必要だという。

 青少年の暴力的な犯罪を、「ゲームのせい」にすることは簡単だ。ゲームに限らず、新しいメディアを諸悪の根源のようにみなし、叩くことは、マスコミや親の性のようなものだ。しかし、それが事実ではないとしたら?ゲームを攻撃することで満足し、より重要な、暴力的な犯罪を防ぐ方法から目をそむけることになりはしないか?

 バージニア工科大学の銃乱射事件が象徴的だ。事件から数時間とたたないうちに、専門家たちは、テレビ、ラジオ、インターネットで、ゲームを非難しはじめた。これは、全く根拠がないことが明らかになった。警察が彼の部屋を捜索した際、ゲームやゲーム機、その他のゲーム関連機器は一切発見されなかった。この事件を受け、銃の購入者の犯罪歴や精神障害歴を厳しくチェックする法案が2008年に成立したが、ゲームとの因果関係を主張したお歴々は口をぬぐったままだ。

 本書ではそうしたデタラメを垂れ流す学者や政治家の実名をできうる限り洗い出しているが、同様のチェックは、日本においても必要だね。偽科学の根拠を牽強付会したがる人は、誰で、なぜそうするか、必ず理由があるはずだ。「子どもの味方」をアピールしたい政治家、「ゲーム脳」で世情を煽る学者、疑心暗鬼を捏造するマスコミ関係者に、特にオススメ。本書の角にアタマぶつけて死ぬがいい。

 そうそう、「ゲームと犯罪と子どもたち」の原題のタイトルがナイスなり、"Grand Theft Childhood" だってさ! "Grand Theft Auto" は車両窃盗罪だったよね?なら、子どもを人質にして、票や銭を稼いでいる奴は誰なんだろうね。

*1 Essential Facts About The Computer And Video Game Industry, 2008[pdf]
*2 Washington Times Malvo team cites role of violent media, S.A.Miller, 2003
*3 National Television Violence Study, Sage Publications, 1998
*4 Journal of the American Medical Association,Violence in E-rated video games, K.Tompson, K.Haninger, 2001
*5 Aggression and Violent Behavior : Does viewing violent media really cause criminal violence? A methodlogical review, J.Savage, 2004

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本を探すのでなく、人を探すために「魅せるひとの極意」

魅せるひとの極意 愛読書から垣間見る一流の哲学。

 どんなに速く読めたって、本の数が多すぎる。どんなに目利きになったって、一人で選ぶにゃ限りがある。だからわたしは、本を探すのではなく、人を探す。わたしが知らないスゴ本は、きっと誰かが読んでいるのだから。

 自分に閉じた読書だと、ジャンルも深度も限られる。周りに壁を築き、足元を掘り、エゴという井の中に閉じこもる。似たような本で囲い込んだ、自分の世界の王様にならないように、「誰か」を探すのだ。本を探しても無駄、自分色を見つけようとするから。既に読んだ本を手がかりに、「それを読んだ人がオススメする本」を探すんだ。

 「魅せるひとの極意」は、そうした「人」を探すのにうってつけの一冊。

 一流のひとたちの愛読書を紹介することで、その人となりや「気づき」に気づかされる。「あの人がこんな本を!」という驚きから、「この本をあの人がねぇ…」という呟きまで楽しめる。たとえば、こんな、ラインナップ。


  蜷川幸雄(演出家)

    リア王(シェイクスピア)
    OUT(桐野夏生)
    照柿(高村薫)
    メメント・モリ(藤原新也)
    もう一つの国(ジェームズ・ボールドウィン)


  森村泰昌(美術家)

    変身(カフカ)
    カフカの衣装(マーク・アンダーソン)
    金閣寺(三島由紀夫)
    性的人間(大江健三郎)
    レディ・ジョーカー(高村薫)


  米原万理(作家)

    石の花(坂口尚)
    ユーゴスラヴィア 衝突する歴史と抗争する文明(岩田昌征)
    バルカンをフィールドワークすることばを訪ねて(中島由美)
    ユーゴスラヴィア現代史(柴宜弘)
    民族はなぜ殺しあうのか(マイケル・イグナティエフ)


  萩尾望都(漫画家)

    アダルトチルドレン・マザー(橘由子)
    子どもたちの復讐(本多勝一)
    訪問者(萩尾望都)
    残酷な神が支配する(萩尾望都)


  ひびのこづえ

    世界大博物図鑑(荒俣宏)
    The Pan Garden Plants Series(Roger Phillips)


  畠山直哉(写真家)

    生きている(佐内正史)
    嘔吐(サルトル)


  安野モヨコ(漫画家)

    人魚の嘆き 魔術師(谷崎潤一郎)
    刺青・秘密(谷崎潤一郎)
    間抜けの実在に関する文献(内田百ケン)
    異妖の怪談集(岡本綺堂)


  石川直樹(写真家)

    幻のアフリカ(ミシェル・レリス)
    闇の奥(コンラッド)
    デルスウ・ウザーラ(アルセーニエフ)
    この地球を受け継ぐ者へ(石川直樹)


 たとえば、蜷川幸雄の「リア王」論に触れてみる。自分の解釈のもつ普遍性を信じ、反対に、自分を通さない表現などタカが知れているとうそぶく。これは傲慢だ。しかし、この傲慢さ、生きていく傲慢さを、リア王と自分とで錯綜させながら読んでいくという。「読みながら『私』と重ね合わせていき、私自身が実感を持てると、一般的なシェイクスピアではなくて、『私のシェイクスピア』になっていきます」

 非常に強い読書の仕方だ。ややもすると取り込まれてしまいそうな小説に入り浸っているわたしには、ものすごく魅力的に見える。そこで、ぜんぜん知らなかったボールドウィンの「もう一つの国」を読んでみようかな、という気になるのだ。ちなみにこの本、井上靖が蜷川にオススメしたそうな。

 あるいは、森村泰昌が「変身」で気づいたことに、ハッとさせられる。「この話は普通の変身譚とは逆で、主人公が虫に変わった部分だけは映像がないのに、それ以外の部分はリアルに書かれているという妙な仕立てになっています」。これには気がつかなかった。さらに、虫になる過程が描かれてないことを、わざわざ指摘する。その具体的に書いていないからこそ、読む人がそれぞれ自分の好きなものに置き換えることが可能になる、というのだ。置換可能は意識していたが、そのカラクリには気づかなかった… 次に「変身」を読むときが楽しみ。

 ひびのこづえは、いい目をしているなー、と思ったのが、このくだり。絵であらわした世界植物図鑑について、

どの絵もいいんですよ、同じ花でも、外国のものもあるし、日本や中国のものもある。それぞれ表現が違うところも、リアルでゾクゾクしちゃいます。こういう多様性は、写真でははっきり見えません。人間の目は写真よりも正しいというか、必要なところを正しく見て、不必要なところをちょっと削ってくれるから、描かれた絵の方が自分で消化して別のものを作りやすいんです。
 太字化はわたし。以前、表現について考えたとき、経験すべて表現することは不可能で、フィルター(=人)が不可欠だという結論になった。このとき考えた表現は、ことばだったが、絵についても当てはまるね。彼女の仕事場は、「机」という、いっぷう変わった本で拝見したことがあるが、シンプルで機能的な作業場だったなぁ…

 あの人がこんな作品にハマってたなんて…でいちばん面白かったのが、安野モヨコ。「谷崎は昔の恋人、百閒は八年目の旦那」という告白はガッときたよ!でもだいぶイメージが違うような… ともあれ、岡本綺堂「水鬼」を漫画化したいそうな。普通の少女が、何かの拍子におかしくなって、人生までが狂っていくその瞬間が素晴らしいという。いいねぇ、予め小説のほうを読んでおこうかな、という気にさせられる。

 そして、昔の写真と、昔のブログの共通点に気づきをくれたのが、石川直樹。冒険家であり、写真家なのだが、「写真と日記の共通点」について語ってくれる。わたしは、日記をブログに置き換えて読んだ。

 「写真が面白いのは、無意識が写り込んでいるから」だという。ファインダーをのぞいて恣意的な判断でシャッターを切っているのに、その瞬間は意識していなかった「何か」が入っていたりする。その「何か」とは、偶然写りこんだ、撮り手の心情だという。いっぽう、日記にも同じものがにじみ出るという。何気なく書いた文章に、書き手の心情が紛れ込むことがある。その例として、レリス「幻のアフリカ」をオススメする。うーん、読みたくなる。

 また、「何を撮るか」ではなく「なぜそれを撮るか」、「何を書くか」ではなく、「なぜそれを書くのか」が重要だという。これを目にしたとき、おもわず「そうそう!」とつぶやいていた。つまりこうだ。わたしにとって、読むことも書くことも大切な行動なのだが、「何を」読むのか、「何を」書くのかは、二次的なものにすぎないと考えている。本を手にするとき、キーボードを前にしたとき、「なぜそれを読もうとするのか」、「どうして書くのか」を大切にしている。この問いを推し進めていくことは、究極の問い「わたしとは何か」に応えよう(≠答えよう)とすることだから。

 この主張は、ひっくり返すこともできるから面白い。ほら、「人は好きなものでできている」というではないか。書架を見れば人となりが分かるし、「何が君のしあわせ?何を見てよろこぶ?」というし。Tumblr の My Dashboard に並んだ煩悩は、わたしそのものと言える。だから、「何を」読むか/書くか/reblogるかが、わたしになるんだ… でもね、撮った映像、書いた記事、likeしたお尻画像には、かならず意味がある。その意味を探すきっかけが、「どうしてこのお尻画像をreblogしたんだろう?」という問いなんだッ!

 ハァハァ、ハァハァ…脱線したので戻す。

 Tumblr ならお尻画像を経由してotsuneをFollowするように、リア王を契機にして蜷川幸雄をチェックする。この場合、「お尻画像」や「リア王」が媒体になるんだ。好きなメディアを通じて、人を知る。人を介して、メディアを集積する。好きなものを集積することで「わたし」に化けるし、「わたし」に化かすためのキーフレーズは、「なぜコレなんだろう?」なんだ。

 本を探すのではなく、人を探す。そのための一冊。

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公務員はおいしい

 小学生の息子に訊いてみる、大きくなったら、何になりたい?

 「カスガ!」

 …息子よ、こないだは「キタジマになる!」だったろ?その前は「宇宙飛行士!」だったし、「お笑いで天下奪る!」っておまえどんだけ死屍累々の山が… グチを垂れても仕方ないので、嫁さんに相談すると曰く、

 「公務員!」

 えー、安月給だし夢がないし、なによりも仕事つまんなくない?

 「安泰だし、夢はアフター5でかなえろ、仕事を面白くするのは本人次第」

 ごもっとも… ということで、「公務員」という立場を調べてみる。幸か不幸か、わたしの進路選択肢には「公務員」は無かったので、よく知らないんだ。世の人のイメージでいうなら、「公務員はおいしい」そうだが、本当だろうか――

 本当だった。公務員は、おいしい。「おいしい公務員生活マニュアル」によると、手厚い手当て、充実した福利厚生、なによりも一生安泰な生活が待っているそうな。その一方で、単調な仕事、世間の評判の表裏、妬みと嫉みと足のひっぱりあいが紹介されている。

 たとえば、特別昇給制度。「お手盛り退職金」のことやね。退職時のランク(号俸)に対し、勤続年数に応じた支給率を掛けて計算するため、「ランク」にゲタを履かせることで、退職金をかさ上げできる。勤続30年以上で、俸給額が56万と仮定すると、退職金は3,000万を超える…でもこれって、廃止されたんじゃなかったっけ?と思うのだが、あにはからんや、廃止されたのは国家公務員の話で、地方自治体はバラバラらしい。上手な抜け穴を見せ付けられると、「おいしい」ことがよく分かる。

 あるいは、20日間の有給休暇。時間に換算して、480時間の有給休暇があるという。裏技を使えば、勤務時間を短縮できるという。つまりこうだ、勤務日の265日は、母親の介護に必要だと強弁して、一日一時間ずつ年休を取り、一時間早く帰れるというのだ。介護というのはウソで、実は資格学校に通っていたという。そして、残り215時間は日数計算で9日間、これに認められた3日間の夏季休暇を加算して海外旅行に行くのだそうな。

 さらに、身内の家を借家にして、全額家賃を浮かして、さらに住宅手当をもらうワザが紹介されている。カラクリはこう、義弟の別宅を借りて、本来はタダなのだが、いったん家賃を6万円払うことに。形式的に払って、あとでバックしてもらう。で、県庁からは最高額の2万7千円を住宅手当でもらい、貯金にまわすのだ。チェックの甘さが「おいしさ」につながっているんだね…

 「おいしい」話ばかりではない。完全年功序列で努力する気が完全に潰えている現場とか、連帯責任で束縛される自由とか、あるいは、「税金ドロボウ」という罵倒に「オレだって税金とられてる!」と言いたくなる…等など、公務員の怨み辛みもかなりのもの。

 このテの話になると、必ずといっていいほど、激務をこなす公務員の話題が出てくる。もちろんウソではないだろうし、サービス残業が日常という部署もホントだろう。霞ヶ関不夜城は伝説ではない。

 しかし、だからといって、「おいしい公務員」の存在を否定することにはならない。これは、ピンキリの話。本書によると、全国の公務員の数は432万人で、毎年7万人が採用されているのだ。当然、キツいのもあるし、ラクなのもあるだろう。そして、「おいしい」のがデフォルトかと。旨みがあるからこそ、こんな本が出まわるのだから。詭弁のガイドライン「極端な反例」の良例だね。同時に、このテの話をするとき、聞き手には必ず公務員が混じっていることを忘れてはならない。

 だからこれ、リアル公務員が読んだら怒るんじゃないかと思うのだが、最初にこう断り書きがしてある→「この本は決して公務員の生活を揶揄するために書かれたものではない」。しかし、上記の裏技暴露とか、出世の三大原則「遅れず・休まず・仕事せず」を見るにつけ、本書は非公務員サイドからのからかいが現れている。

 「公務員生活はおいしい」ことは分かった。どうだ息子よ、おいしい公務員、やってみないか?

 「ゴチになります!の岡ちゃんになりたい」

 息子よ、「おいしい」を履き違えているぞ。

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屍体愛好者の憂鬱「ネクロフィリア」・「蟲」 【劇薬注意】

 久しぶりに、黒い文学シリーズ。

 清く正しくエロティックな、いわゆる「表」ばかり読んでると、バランスとるために、黒くて臭くておぞましいものに触れたくなる。世の中、良心と道徳が清潔に行き渡っていると無邪気に信じる馬鹿にならないように読むのだが、「程度」の見当がつかなくなる。狂気と正気のあいだには、遮るものなどなにもない。例えば過去のエントリだと、こうなる。

「ジェローム神父」 マルキ・ド・サド×澁澤龍彦×会田誠

「ブラッドハーレーの馬車」 沙村広明

「城の中のイギリス人」 マンディアルグ

 つまり、道徳も反道徳も、単なる程度問題じゃね?善なんて量的に見て外野が判定するものじゃないか――といった、陳腐な結論に至る。だからといって書いてあることを実行しようなんて気は起きないけれど、それでも自分のリミッターカットができて満足しちゃう読書に相成る。

 ここで描かれるのは、「愛」。ただし屍を愛する男の話。彼は屍体にしか性的興奮を覚えず、葬儀に列席しては墓地に通い、屍体を掘り出してきては愛するのだ、その形が分からなくなるまで。日記体で淡々と描かれる"非"日常は、すべて屍体の話題ばかり。どうやって愛して、どんな匂いを放ちつつ、どのように崩れていくかが、観察日記のように綴られている。描写のひとつひとつは強い喚起力に満ちており、慣れない読み手に吐き気を催させるかもしれない。

 いいや、違う。「そんなの『愛』じゃない」ということは簡単だ。なぜならわたし自身、読みながらひたすら、頁に向かってそう吐き続けたから。彼が半ば自慢げに、過去の「恋人」のことを話すたびに、いっしょうけんめい否定する自分がいる。「恋人」のたたずまいや出自を語り、あたかも生きた恋人を紹介するかのごとく説明する様に、憐憫を抱くことで必死で防衛する自分がいる。

 異常なのは主人公で、読み手は「正常」であると安心しているとあぶない。屍体愛好者は心の断絶を選び取ってしまっており、その情欲は説明できないところへ超越している。いきおい読み手は、日記――彼の独壇場だ――に寄り添いながら進めていくほかない。性別、年齢を問わず屍体を相手にする彼は、見返りを求めたりしないし、求めようもない。相手が抵抗力を持たないオブジェであるだけで、サディズムや暴力主義とは離れた、ただ対象へのひたむきな姿がそこにある。

 モノや思い出が「愛せる」以上、対象が死んでいるからといってそれは「愛でない」などと言い切ることができようか――そんな気になってくる。もちろん、そんな不用意な読者には、強烈な描写を平手打ちのように食わせる。あきらかに腐っている少年の体とともに熱い湯船で戯れる様子を読まされることになる。

少年の身体は刻一刻とやわらかくなり、腹は緑色になって崩れ、匂いのきつい腸内ガスでパンパンに膨れ、そのガスが湯船の中で巨大な泡となって弾ける。なお悪いことに、顔が崩れ、元々の少年とは似て似つかぬ風貌になってしまった。私のかわいいアンリとは、もうとても思えない。

 ポイントは、どんなに耐え難い臭気を発していても、必ず「匂い」としているところ。翻訳者か主人公の心意気を感じるね。描写のコントラストも素敵。主人公は死者だけでなく、生者とも性交しそうになるシーンがある。(生きている)中年女の股ぐらからしたたり落ちる白濁液と、死姦しようとした少女がゴボゴボと吐き出す黒い液体は、フラッシュバックのように記憶に残るに違いない。

 死体を相手に想いを果たすといえば、江戸川乱歩の「蟲」を思い出す(乱歩全集5巻所収)。

ひきこもりの片恋慕が高じて狂気に変化する瞬間を目の当たりにできる。歪んだ愛情を極彩色の地獄絵図で描ききっている。死体に対してやったこと、死体が変化していく様子が、要所要所で削除されている。自粛なのか検閲なのか、おぞましい場面のうち、もっとも肝心なところが「○○○○○○(X文字削除)」と伏字になっているのが怖い。狂気を狂気そのままに表現したのが「蟲」なら、狂気を正気で書いたものが、「ネクロフィリア」になる。

 映画「ネクロマンティック」好きなら、狂喜乱舞する一冊。知らない方は、検索しないことをオススメする。

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分かりやすさという罠「利己的な遺伝子」

利己的な遺伝子 かなり誤解を招きやすい教養書。

 わたしの場合、タイトルと評判だけで読んだフリをしてきたが、その理解ですら間違っていることが分かった。ああ恥ずかしい。このエントリでは、わたしがどんな「誤読」をしてきたかを中心に、本書を紹介してみよう。

 まず、「遺伝子が運命を決定する」という誤解。「利己的な遺伝子」なる遺伝子がいて、わたしの行動をコントロールしていると考えていた。遺伝子は、わたしの表面上の特徴のみならず、わたしが取りうる行動や反応を支配しており、そこから逃れることはできない――などと思っていた。わたしが利己的なのは遺伝子のせいなんだ、というリクツ。

 次に、「われわれは遺伝子の乗り物(vehicle)にすぎない」ことから、虚無的な悲観論に染まりきったこと。「ニワトリは、卵がもう一つの卵を作るための手段」なのだから、われわれは生殖さえすればよろしい。極端に言うならば、生殖しないのであれば、その人生は意味がない、ということになってしまう。これはひどい。

 これらは、ドーキンスが「利己的な遺伝子」で主張していると考えていた。すべてわたしの「読んだフリ」のせい。著者は似たようなことを書いているが、意図は激しく違う。注釈やまえがきなどで誤解を解こうとしているものの、誤読を招きそうな「演出」をあちこちでしているのも事実だ。

 ドーキンスの主張をまとめると、「生物のあり方や行動様式を説明するとき、遺伝子の自己複製というレベルからだと整合的に理解できるよ」となる。どうしてそんな特徴をもつ生物がいるのかという疑問に対し、「そんな特徴をもっている奴が生き残ったからだ」と説明できる。この「そんな特徴を持っている" 奴 "」がクセモノで、論者によって異なる。

 自然淘汰の単位を「種」に求めたり、種内の「個体群、集団」と考えたり、あるいは、「個体」を単位とする人もいる。本書で一番おもしろいのは、この単位を「遺伝子」としたところで、あたかもこの「遺伝子」が意志を持ち、自分の遺伝子を最大化するように個体を操っているかのように演出している。1976年版のまえがきが、本質を端的に物語っている。

この本はほぼサイエンス・フィクションのように読んでもらいたい。イマジネーションに訴えるように書かれているからである。けれどもこの本は、サイエンス・フィクションではない。それは科学である。われわれは生存機械――遺伝子という名の利己的な分子を保持すべく盲目的にプログラムされたロボット機械なのだ。
 怖いのはここ、太字はわたし。遺伝子に操作されたロボットとして、遺伝的決定を最終的なものと見なした瞬間、誤りに陥るのだという(p.417)。実際は逆で、後付けで行動を説明するために遺伝子が持ち出されているのだ。あたかもその行動が「決定」されたかのような書き方がなされているが、それ以外の行動をしたものが消えているだけ。統計的な「結果」にすぎないのを、予め「決定」しているかのように表現しているのだ。他にも、「遺伝子が組み込んだ」とか「遺伝子がプログラムした」という表現があちこちにあり、あたかも遺伝子が戦略的に計算をしているかのような印象を受ける。比喩として遺伝子を擬人化するのは、演出として上手いが、誤解を招くおそれも充分にある、両刃の剣なのだ。

 そもそも、「利己的」であるという「己」とは、一体何だろうか。"selfish"というからには"self"(自己・自我)がある。にもかかわらず、適用先は「個体」ではなく、「遺伝子」なのだ。自意識のない「遺伝子」を「利己的」だと形容し、「遺伝子の特定の部位」としたり、「遺伝子そのもの」としたり、「個体」としたり、範囲を伸び縮みさせる書き方が危うい。読み手は、自分に都合のいいように解釈するハメになる。

 案の定というか、利己主義の宣伝として本書を受け取る輩が出てくる。最初に述べたわたしの曲解「わたしが利己的なのは遺伝子のせい」がそれにあたる。ドーキンスは、そうした連中を「タイトルと最初の二頁以上は読まなかった」と批判しているが、タイトルからして誤解の招きやすい論を展開した著者も、釣師として自覚的であるべき。

 まだある。遺伝子には遺伝子、個体には個体でそれぞれの目的や戦略があるというのが、本書の主張の一つだ。一見「利他的」ともいえる個体行動も、「遺伝子を数多く残す」という観点から見るとつじつまがあう。個体としては不利で、命を危険にさらすような行動であっても、その個体の遺伝子を数多く残すという目的には合致しているのだ(個体の直接の子孫がいなくても、近親者はその個体の遺伝子と同じ部分を一部持っている)。

 しかし、遺伝子の「戦略」を説明するため、本来個体につけられるべき形容詞を多用しており、結果、遺伝子があたかも個体であるかのように受け取られかねないのだ。利己的、利他的、寛容、妬み深い、ジレンマ――戦略という言葉もそうだ。遺伝子を擬人化するあまり、遺伝子による説明を、個体に対する「原理」と読み違えてしまう。

 その結果、遺伝子の戦略――「淘汰を生き残ること」が、「産めよ殖やせよ」にすりかわる。裏返すと、二番目のわたしのカン違い「子孫を残さないのなら人生に意味はない」になる。どこかで「ドーキンス曰く…」と大嘘をタレ流していないかヒヤ汗ものだ。遺伝子の戦略は、わたしという個人にとって知ったこっちゃないの。

 例えば、「子殺し」「子捨て」という事例がある。前夫の子(継子)を殺したり、我が子を放り出して去っていく行動を、ドーキンスは、「遺伝子を最大化するため」という視点で読み解く。現夫の遺伝子は継子にない。継子を育てるためのコスト(時間・労力)をなくし、現夫の遺伝子を優先させるための「子殺し」というのだ。あるいは、子育てコストを配偶者に押し付けて、新たな(自分の)遺伝子を残す機会を最大化させるための「子捨て」という選択肢があるという(もちろん、夫婦のどちらが"捨てる"かにより、互いに搾取しあう構図も見えてくる)。

 こうした遺伝子の戦略を、「冷酷」だの「無責任」といった個体、もっというなら人を形容する言葉で表現するのは、おかしい。さらに、「ケダモノだもの」とか「虐待は動物世界にもある」といった論理にすりかえるのは、もっとおかしい。にもかかわらず、遺伝子の擬人化というメタファーに捕えられ、つい人間みたいに捉えてしまうのだ。かくいうわたしも、このエントリで、遺伝子をあたかも意志を持った存在であるかのごとく書いている。自分で「誤解を招く」といっておきながら矛盾しているんだけどね。

 つまり、ある行動を、遺伝子の立場からだと上手く説明できるからといって、その行動が正当化されたわけではないのだ。そして、遺伝子淘汰で説明できるからといって、遺伝子の「目的」がわたしの人生の「目的」に成り代わるわけでもない。これに気づかせてもらえただけで、本書を読む価値は充分に報われた。

 そして、この方法はかなり有効なことも分かった。「なんでもかんでも遺伝子」にする危険をわきまえながら、ある行動を遺伝子淘汰の観点で検証することは可能で、かつ、有効なことも分かった。自分の「道徳」「正義」に合わないからといって、遺伝子淘汰説を疎外することこそ、愚の骨頂なのだ。

 ただ、気になるのは、こうした議論が全て後付けであること。「そうした特徴を持っているのは、そうした特徴を備えた遺伝子が生き残ったからだ」とし、残ったものだけで説明を試みようとする。もちろん淘汰は再現できないし、過去は残された手がかりから想像するほかないのだが、強い恣意性を感じる。主張を裏付ける実験や、反証となる事例があまりにも貧弱なのだ。賛成側も反対側も、特別な行動をとる魚やコウモリを持ち出しては、自説の傍証としている。

 生物の多様性からすると、特殊な行動をとる魚と、特別な場所で生活すコウモリが、全く逆の行動をとったからといって驚くにはあたらない。さらに、そうした事例を反証する別の事例が(探せば)あるだろう。しかし、そいつを証拠として持ち出してくるほど特殊な話をしているんだっけ?という疑問に囚われる。賛成・反対、なんとでも取れてしまうほどの論旨なのだろうか、とツッコみたくなる。分かりやすさは大切だが、鵜呑みにすると危険。

 「分かりやすさ」を警戒しつつ、自分が試される読書だった。進化と倫理とジェンダーについて、気になる文献は以下の通り。ゆるり消化していこう。

  乱交の生物学(ティム バークヘッド)
  クジャクの雄はなぜ美しい?(長谷川眞理子)
  人が人を殺すとき(マーティン デイリー、マーゴ ウィルソン)
  男とは何か(バダンテール)
  進化論と倫理(内井惣七)

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「続・影響力の法則」は「影響力の法則」と合わせてスゴ本

 「正しい」根回しのやり方が分かる。

 「論理的に正しい」からといって、自分の提案が通るとは限らない。社内ルールに則っているからといって、その部門の協力を得られるとは限らない。社畜も長いことやっていると、「根回し」や「政治力」の勘所が分かってくる。仕事をまわす、ティッピングポイント。本書は、こうした暗黙知をノウハウのレベルまで噛み砕いている。

 米国はそんなの無用だろうと思ってたが、勝手な思い込みだったようだ。本書がバイブル扱いされているのは、必要性を痛感しているからだろう。動かないプロジェクト、死蔵される情報、コミュニケーション不全――ビジネス上の課題はどこも一緒ということか。

 そして、その対策も共通している。権力を使わずに人を動かす原則を一言で表すならば、「お返し」になる。何かイイことしてもらったら、お返しに何かを返したくなる気持ちこそが、肩書きや立場を離れて人を動かす動機となる。

 本書では、も少し難しい言葉で、「レシプロシティの原則」と呼んでいる。レシプロシティ(reciprocity)とは、互恵性、返報性と呼ばれる社会的通念のことで、人間社会に見られる「もらったら返さなければならない」というルールの源だそうな。さらに著者は、相手を動かし協力を引き出す戦略を、「カレンシーの交換」を定義づけ、カレンシー(currency)、すなわち通貨の交換になぞらえている。こちらが求める価値(カレンシー)を得るために、それに相当するカレンシーを用意して渡すのだ。

影響力の法則 なにをいまさら、と思うかもしれない。「困ったときはお互いさま」という間柄になるためには、日ごろから便宜してあげることが原則なのは自明だろう。あるいは、立場や肩書きを超えて協力しようとするときは、「アイツなら多少の無理を聞いてくれる」とか、「以前にお世話になったからなぁ」という気持ちになっている。日本では「もちつもたれつ」という言葉に代表される互恵関係が、非常に戦略的に、システマティックに語られる。

 その基本編が、「影響力の法則」になる。類書に「影響力の武器」があるが、これは人間関係の心理を基とした知見で、ひとり対ひとりの一般的なやつ。本書はビジネスに特化しており、グループ、部門といった一対多にあたる「影響力の兵器」というべきもの。わたしのレビューは「影響力の法則」はスゴ本を参照してほしい。

続影響力の法則 そして、応用編が「続・影響力の法則」だ。成功例・失敗例ともども使って、「カレンシーの交換」がどのように影響力を発揮しているか、生々しく紹介している。インターンで平社員の仕事を任された大学生が、周りを巻き込んでいった方法や、優秀な社員ゆえのプロジェクトクラッシャーの苦悩は、読み手がまさにその立場であれば福音のように見えるかもしれない。さらに、部門横断的チーム、変革の推進、間接的に影響を与える方法、組織に影響をおよぼす方法、強硬手段のとり方など、より応用的な方法もある。

 最後に文句をひとつ。「続編」と銘打っているが、実はコレ、"Influence without Authority"一冊の本の「基本編」「応用編」を二つに割って出しているのだ。何か都合があったのだろうが、あこぎな商売をしておる。

 プロジェクト・リーダーなら、「あたりまえ」の原則を明かした二冊。

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お尻を理解するための四冊 【紳士限定】

 女は尻だ。

 何度でも言う、女は尻が肝心だ。もちろん、おっぱい山頂への関心は否定しないが、お尻のあわい目への興味と比べるまでもない。なおかつ、男はおっぱい星人であるとともにオシリストにもなれる。お尻を賛美することは、おっぱいを否定することにならないのだ(逆もまた然り)。

 女の尻のすばらしさについては、室生犀星が「蜜のあわれ」で力説している。人間でも金魚でも果物でも、円いところが一等美しいのだという。そして、人間でいちばん美しいのは、お尻だと一気呵成にヒートアップする。太字化はわたし。

人間では一等お尻というものが美しいんだよ、お尻に夕映えがあたってそれがだんだんに消えてゆく景色なんて、とても世界中をさがして見ても、そんな温和しい不滅の景色はないな、人はそのために人も殺すし自殺もするんだが、全くお尻のうえには、いつだって生き物は一匹もいないし、草一本だって生えていない穏やかさだからね、僕の友達がね、あのお尻の上で首を縊りたいというやつがいたが、全く死場所ではああいういつるつるてんの、ゴクラクみたいな処はないね。」

 激しく同意、つるんとしたお尻に顔を乗せてまったりすることは、人生の至福の一つだ。この作品は美尻礼賛として称えるべきなのだが、世間サマではちょっと違っており、ロリ小説として有名だ。金魚が少女に変身する話なので、ロリだと考えがちなのだが、相方の「おじさま」がいい具合に脂が抜けており、あくまで形而上のロリ談義。むしろ上で引用したお尻問答を推したい。

 まてよ、お尻問答といえば、稲垣足穂を外すわけにいかない。「A感覚とV感覚」では、お尻をこのように定義している。「そもそも臀部とは人体にあって最も愛嬌のある、福々しい、いついつまでも齢を重ねないような部分」――そう、愛嬌と福福しさをそなえた、みんなの大好きポイントなんだ。

 そして稲垣は、お尻中心主義ともいえる、人間疎外をお尻から解消する視点を示してくれる。普段は気にも留めないような「その場所」が主張しはじめるとき、われわれは便所へ向かう。外部から隔離された空間で、人間が本来の自己を取り戻すことができる。全室が使用中だったときの、あのせっぱ詰まった感覚や、ようやく確保して間髪をいれず射出する瞬間の、えも言われぬような戦慄を経験した方であれば、あれは自己解放そのものだということに同意するだろう。あるいはウォシュレット初体験の「ア゛ッー!」という感覚を思い出してもいい。稲垣はそれを、A感覚と名づけた。そしてV感覚(膣感覚)との違いを、こう説明する。

膣感覚は、腸管における排出時の快楽の変形だ、フロイトがこのように説明するところは僕も賛成します。で、加えて次のように云えるでしょう。そもそもV感覚が成立するのは、それより先にA感覚が存在していたからだ。けれどもいったんV感覚として派生し、独立すると、たちまちそこに安住し、対象化され、自身を覗く機能を喪失してしまう――

 自分を再発見するため、A感覚を研ぎ澄ませるのだ。V感覚は子宮によって限界づけられているが、A感覚は無底、オフリミッツだというのだ。たしかにそうだね、弁や門があるものの、われわれの消化器官は一本の長大な管にすぎないのだから。

 A感覚への動機付けは、「お尻とその穴の文化史」で加速することができる。本書は、偏見と差別を受けてきたお尻について、医学的・歴史的観点から考察している。アヌスの機能にはじまり、浣腸やスパンキング、ソドミーの歴史が、豊富な図表とともに概説されている。同時に、お尻やアヌスに魅せられた人びとの芸術的成果が、古今東西関係なく紹介されている。肉体の最も秘められた部位に関する知見をもとに、古代からある命題「アヌスは性器か排泄器か?」について、あらためて考えると興味深い。著者の定義によると、こうなる。

アヌスとお尻は、想像力のあまりない人間にとってすら魅力的な場所であり、すこし大胆な人間にとっては、あたらしい喜びを与えてくれる謎めいた穴であり、さらに大胆な人間にとっては、タブーを破ることでなおさら刺激的になる性の香辛料なのである。

 好奇心の入り口であり、美の象徴であり、時には地獄の門としても扱われるお尻、そしてアヌス。液・固・気体を自動判別し、外界とのエアロック役を果たすアヌス。巧妙精緻なインタフェースであるアヌス。そんなアヌスに、親しみを感じられるようになるに違いない。

 A感覚への親近感を理解へと進めてみよう。「アナル全書」は、うってつけの一冊であり、類書が存在しない唯一のスゴ本でもある。本書は、アナル・エリアとその機能についての自覚を深め、アヌスへの否定的な感情や、苦痛・緊張を緩和する、もしくは取り除くことを目的としている。

 そして本書は、たんに読まれるだけではなく、経験されるように書かれている。受け身で消費するためではなく、能動的な利用のために書かれている。各章を読み進めるごとに、読者は、自らのアナルを用いて、探求のプロセスをたどることになるのだ。

 そう、アヌスとは自分の体の一部であるにもかかわらず、「ないこと」「意識させないこと」として扱われている。意識に上るときは切羽詰った事態か、何らかのトラブルが発生したときである。日常会話からは注意深く取り除かれ、口に上るときはたいてい罵倒句(**s hole!、ケ○を舐めやがれ!)になる。

 著者はまず、自分のアヌスに注意を払い、観察することを提案する。そして、アナル部位を健康に保つため、食習慣、排泄習慣、メンタルトレーニング、一定のケアが必要だと説く。興味深いことに、アヌスの状態は、われわれの抑圧された感情を表しているのだという。自分ではケンカしていないつもりでも、自分のアヌスが硬く締まっていることに気づいた娘の例が面白い。この娘は著者のセミナーを受けて、自分のアヌスに気を配ることにより、抑え込んでいた緊張や怒りに気づいたという。

 つまり、自分のアヌスに注意することは、自分の感情に注意を払うこと一緒なのだ。さらに、自分のアヌスを健康に保つことは、そのまま即ち、自身の体を健康にすることになるのだ。

 25年かけて得られた知識と経験の裏づけはダテじゃない。ホモフォビア、性役割、病気、そしてタブーへの葛藤――著者は、薄皮を一枚また一枚とはぐように取り除いてゆく。アナルの健康を維持し、精神的な抑圧を取り除くことで、アナルを自己の認められた一部として再獲得できるというのだ。そして、自律的にコントロールできるようになれば、エロティックな目的にも応用できるという。本書を読むことは、疎外された身体未開地の探求、即ち究極のラスト・リゾートの旅となるに違いない

 女の尻から自分の尻へ。お尻を理解することは、自分を理解することなのだ。

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自分の狭さを思い知る「若き日本人の肖像」

若き日本人の肖像 集合写真というのが苦手だ。

 撮られたわたしは、いつもヘンな顔をしている。シャッターのタイミングで必ず誰かが目を閉じて、幾度も撮りなおしているうちに、ダレてくる、疲れてくる。ウンザリしはじめた頃に撮ったショットが「ハイ、OK」となる。結果、不機嫌でボンヤリしたわたしが記念写真となる。撮られる側の空気が読めないから、みんなが勝負顔なのに自分だけ笑ってたり、その反対に、自分だけポーズ決めてたり。

 しかし、集合写真を見るのは好きだ。

 懐かしい人を好きなだけ見つめることもできるし、わたしみたいに"浮いた"誰かを探すのも愉しい。日付や背景からそのときのことを思い出す。たいてい痛テテな気分になる。過ぎてしまえばいい思い出なんて嘘、過去はいつも痛いもの。穴掘って埋まっておきたくなる。

 では、自分が写ってない写真はどうかというと、これまた見入る魅入る。

  ・劇団
  ・子供会
  ・青年団
  ・祇園祭
  ・お花見

 撮影者・吉永マサユキが10年かけて撮りためた、総勢3600人を超える集合写真集。さまざまなグループの、それぞれの記念写真・集合写真が並んでいる。ごくフツーの人たちの「ハレ姿」。よく目を凝らすと、そこに見知った誰かの顔を見出すかもしれない。あるいは、撮られた覚えのない自分の姿を見つけるかも。

 さらに、それほど身近でない同好会の集合写真も大量にある。世の中には、実にいろいろなグループがあるものだ。自分の世界の狭さに、あらためて驚く。メンバーそれぞれ、自分の生活があり、人生があるのだろうが、集合写真のフレームに収まるとき、見事なまでに同じ顔つきになる。この傾向はいわゆる「族」というカテゴリに属する人に顕著で、グループとしての「顔」があるようだ。

  ・拳法同好会
  ・ちんどん屋
  ・ボクシングジム
  ・闘犬会
  ・右翼
  ・レーシングチーム
  ・黒服会
  ・浅草ロック座
  ・矢沢永吉応援団
  ・ヤクルトスワローズ私設応援団
  ・ゴスロリ
  ・暴走族
   etc...

 グループの「顔」は、それぞれのチームカラーのように揃っている。例えば、青森ねぶた祭のカラスハネトの集合写真がある。カラスハネトとは、傍若無人の振る舞いをする連中を指すのだが、そのトレードマークは黒装束(=カラス)ではなくなっている。おそらく警察などのカラス族対策で、黒を避けたのだろうが、写っている顔は示し合わせたかのように一緒だ。夫婦の顔が似てくるように、族の顔つきも似るのだろうか。

 あるいは、ヤン坊たちのメンチの切り方が驚くほど似ている。上目遣い、顔をしかめる、手指のポーズ、(本人は独創的のつもりなのか)背中を向ける、ふりかえる…時代や地域を越えて、全くといっていいほど、変わっていない。これは、歌舞伎の大見得の亜流みたいなもんだと納得する。

 被写体のグループだけで通用する旗印や、内輪向けの惜しみない笑顔にとまどう。まるで、電車で隣り合わせた女の子のプリクラ手帳を見てしまったようだ。その一方で、いくらめくっても好奇心が尽きないのは、ファインダー越しにグループの連帯感が強烈に写りこんでいるから。

 自分の"狭さ"を思い知る一冊。

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体験を追走する「黄金探索者」

黄金探索者 喚起力がすばらしい。その場にいないとわからない感覚を、あたかも自身の肉体を通しているかのような読書にハマる。

 たとえば、台風が近づいてくるとき、じっとりと息苦しくなる。からだ全体が押し付けられたようになり、声がうまく出ない。物音の伝わり方がこもった感じになり、世界がまるで変わってしまう──そんな感覚に襲われたことがないだろうか。空や、風といった景色ではなく、もっと身体的な変化に驚かされることがある。

 これを、ル・クレジオは次のように書く。大型サイクロンが襲ってくる場面だ。

ぼくたちの体の一番奥深くに入ってくるあの静寂、悪い兆しと死を思わせるあの静寂こそ、忘れられないものだ。木々に鳥の姿はなく、虫もなく、モクマオウの枝を吹く風の音さえしない。静寂は物音よりも強く、物音を呑み込んでしまう。すべてが空ろになり消えてなくなる。ぼくたちはベランダでじっとしている。濡れた服のままでぼくはぶるぶる震えている。口を開くと、声は遠くのほうでふしぎな響きを立て、言葉はたちまち消えてしまう。
 終始こんな感じ。「静寂は物音よりも強く、物音を呑み込んでしまう」なんて、読んで初めて「あの感覚」だと気づかされる。西インド洋のちいさな島が舞台なのに、熱帯と戦場をさまよう黄金探索者の話なのに、なんだろうこの懐かしさ。

 「海賊の黄金を探す」という荒唐無稽な夢をリアルに生きる主人公に、共感よりも運命じみたものを感じる。モデルは著者の祖父だという。生涯を宝探しに費やした航跡をたどり、ル・クレジオは祖父と一緒に見た夢を小説の形で外化させる。ものすごくリアルな夢につき合わされているような感覚なのだが、主人公は必死だ。

 もうひとつ。黄金を探す主人公をよそに、読み手にとって美しい対称性がプレゼントされる。編者の池澤夏樹も、訳者の中地義和も言及していないので、わたしの妄想(?)と思ったのだが、せっかくだからこのblogで明かしてみよう。

 それはこうだ。物語の前半をなす主人公の生い立ちは、モーリシャス島が舞台。一方、海賊が宝を隠したとされているのは、ロドリゲス島になる。彼は、二つの島を行き来するため、ゼータ号で旅をするのだが、その航路がきれいにシンメトリーを成している。そして、物語の中盤で戦場に赴き、そこで地獄を見るのだが、その航路もまた対称的だ。さらに、最後の旅でふたたび訪れるルートも同様。

 お手元に本書があるなら、p.206の地図を開いてほしい。二つの島のそれぞれに重心があり、戦争をはさんだ線対称の軌跡を見出すだろう。それぞれの重心は、二つの島にいる女たちが抱いている。モーリシャス島の姉ローラであり、ロドリゲス島にはウーマがいる。「宝探し」や「召集」の名目で移動しつづけようとする主人公をひっぱる力が働く。表立って感情を出さない彼女たちが追い詰められ、吐露する瞬間に、この物語の対称性が浮かび上がってくる――これが、読者にとっての「宝」だ。

 では、主人公アレクシの目的は?黄金を見つけることができるのか?――もちろん物語は、彼にとっての宝を用意しているのだが、それは読んでのお楽しみ。ちなみに、(ネタバレ反転表示)池澤夏樹が不用意にウーマだとの出会いだと明かしているが、わたしはそれだけに限らないと考える。湾の形状と宝の目印、それに呼応する星座の対称性に気づき、宝の地図を完全に理解する瞬間がある。主人公とともに探索の旅を続けてきた読者は、その美しさにめまいを覚えるだろう。ここにも、シンメトリーが隠されていたのだ。

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