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レイプは適応か

 「人はなぜレイプするのか」について、意見をいただいた。真面目な話題であるにもかかわらず、猥談レベルだとか、不快なエセ科学だと判断した方がいるのは、全てわたしの責任。わたしの説明がつたないせいで、彼(女)らの思考停止を招いており、とても残念だ(わたしが、ね)。

 著者(ソーンヒル&パーマー)は「レイプに対し、適応から理由づけができる」と述べているが、だからといって、「レイプは"自然"である(即ち、肯定せざるをえない)」とは言わない。両者は別個の結論であるにもかかわらず、二つを直結してしまう人がいる。つまり、「もしレイプが"自然"淘汰によって選びとられたのなら、それは"自然"なものであり、したがって良いものであるか、少なくとも存在を許されるものになってしまう」(p.227)と思い込んでしまうのだ。

 わたし自身、そうした「思い込み」の中にいたからこそ、本書の主張を理解することにかなり抵抗があった。進化生物学から導かれる説明が、いわゆる「道徳」に当てはまらないという理由で、受け入れがたくなっている。むしろ、「レイプは適応などではない」という主張があるならば、そいつを信じるほうが精神衛生上ラクだ。まさにその趣旨の論文がある。ジェリー・.コインとアンドリュー・ベリーが書いた論文で、「人はなぜレイプするのか」に真っ向から反対している。

  Jerry A. Coyne and Andrew Berry
  Rape as an adaptation? [URL]

 その結論はこうだ。

 レイプは進化生物学上に起源を持つという理論があるが、これは決定的に間違っている

 そして、本書の説得力ある部分は、巧妙な修辞的レトリックに拠っているという。確かに本書では、二つの仮説「適応」「(偶然の)副産物」が展開されているが、実際の生物の行動を説明する段階では、「副産物」が全てではないかと指摘する。あらゆる人間のふるまいを副産物としてみなすのなら、ピアノを弾くのもレイプをするのも一緒で、即ち無意味だとしている。

 ソーンヒル&パーマーは「適応」と「副産物」を両論併記する形で述べており、「人間のふるまいを説明するための"適応"」という議論の余地を残していたはず。わたしの読みが不十分なのかもしれないが、上記の反論は違う次元から行われているように見える。

 コイン&ベリーの反論は続く。ソーンヒル&パーマーの適応から見たレイプの説明に対し、「レイプ被害者のトラウマは、相対的に生殖年齢層(12~44歳)に強い」ことに対し、疑いの目を向ける。生殖年齢以下である12歳未満の子どもの申告は、直接的なものよりも、その養育者からのものが多く、生殖年齢層の自己申告とそのまま比較するのは問題ありと指摘する。

 さらに、生殖年齢層のほうが、そうでない層(12歳未満、44歳超)よりも、強くレイプ犯に抵抗するという、コイン&ベリーの主張に対し、異議を唱える。生殖年齢層のほうが、レイプにより強い恐怖感を抱いているためだという根拠に対し、「幼女や老女は物理的に抵抗力が小さいから」と反論する。そして、自説に都合のいい説明に固執しており、馬脚をあらわしたと批判している。

 結局、「レイプは進化である」というのは主張であり科学ではないとし、根拠や再現性が薄い数字を並べただけの「ただそれだけの話(just-so stories)」だという。単なるお話だけというわけやね。人間のふるまいに対し、社会生物学的なアプローチは面白いかもしれないが、それは学問的な傲慢だという。

 コイン&ベリーの反論は、確かに説得力を持っている。わたし自身、「人はなぜレイプするのか」を読んだとき、「これはトンデモ」と判断したものもあるから。例えば、「男は女を性交の相手としてしか見ようとしない、売春婦やポルノグラフィがその証拠だ」(p.86)とか、昆虫や鳥類の雄の雌への攻撃的行動を「レイプ」という表現で包む(p.269)ところがある。研究成果や参考文献を大量に引用し、慎重にアプローチしようとする姿勢は、その分、勇み足・浮き足的な瑕疵もたくさん出てくることになる。

 しかし、そうした勇み足の一つを攻撃して、本書の全てを否定できたヤッホーと能天気に勝利宣言するほど、わたしはおめでたくない。あるいは、竹内久美子のエッセイのような「分かりやすさ」に飛びついてこと足れりとするほど、この分野の研究は進んでいない(はずだ)。だから、「進化・適応からレイプを説明する」可能性は残し、精進に励もう。

 最後に。steel_eel さんのブックマークコメントをきっかけとして、上記の「反論」にたどり着くことができた。steel_eel さん、ありがとうございます。邦訳のあとがきは長谷川真理子が解説しています。そこで展開される彼女の主張「女の発情期の隠蔽化」は面白いのですが、本書とは全然関係してないので、あしからず。以下のエントリでは、わたしのよりも、より深く正確な議論がなされていますね。

  訳書出現 人はなぜレイプするのか―進化生物学が解き明かす

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美女と宇宙

世界一の美女になるダイエット 「世界一の美女になるダイエット」のメッセージは、シンプルかつパワフルだ。

 曰く、「あなたは、あなたが食べたものでできている」。だから、美女になるためには、美女になるような食事をしなさいという。「ダイエット=減量」を信じ、修行僧のような禁欲的な食事をしている人には、まさに目ウロコだろう。「これを食べたら美しくなれるか?」と自問することで、栄養について学ぶのだ。

 「いま口にしたものが、10年後のあなたを決める」とか、「肌はあなたの内臓そのもの」といった、ドキっとさせられる(けど正論な)寸鉄と、ダークチョコレートやアーモンドを活用せよという具体的なアドバイスが詰まっている。世界一の美女をめざすならともかく、全部を実行するのはムリというもの。できそうなことだけを取り入れればよいかと。

 例えば、「白いもの」は避けなさいという。要するに精製されたものを指し、白砂糖だけでなく、白米や白いパンも含まれる。白いゴハンがどうして?と思っただが、血糖値が急激に上がるのはよくないそうな。だから玄米やライ麦パンといった「白くない」もので炭水化物を摂れという。

 食べ物を味方につけることで、美しくなれというメッセージは、そのまま、わたしは、わたしが食べたもので作られていることを強烈に思い起こさせる。リチャード・ウォーカー「人体」によると、人体細胞の寿命は以下の通り。

   小腸細胞 … 36時間
   白血球   … 13日
   赤血球   … 120日
   肝細胞   … 500日
   神経細胞 … 最高100年

 人間のカラダは数ヶ月で入れ替わっていると言われるが、脳や神経細胞は文字どおり一生モノ。30日間マクドナルド生活を続けるドキュメンタリー「スーパーサイズミー」の場合、小腸と白血球は完全にマクドナルド製に入れ替わっているのかね。

エレンの宇宙 では、そうした「わたしのカラダ」の元となっている食べ物はどこからやってきたか、そして、食べ物となる前の動植物の元はどこからやってきたか、さらには、物質の元はどこからやってきたか――を辿っていったものが、「エレンの宇宙」。ある少女の体内に宿る電子を「エレン」と擬人化し、彼女が過去を思い出す形で物語が進められる。

 エレンはかつて、少女が食べたリンゴの一部であり、そのリンゴの木が生えていた土の一部であり、その土は地球の一部であり、地球最初の生物であり、銀河を通ってきたガスの一部であり、宇宙で最初の星の一部であり――と、ビックバンまで遡及する。無から有はできない。わたしのカラダは宇宙の一部なのだから、「わたしは、宇宙でできている」という、至極アタリマエなのだが気づきにくい結論に、腹から納得できる。全は一であり、一は全なのだ。

 本書がユニークなのは、物理学的観点から見た「宇宙」を、逆向きに描いているところ。宇宙の誕生から始まって現在に至る時間軸・スケールで語るのではなく、「いま・ここ・わたし」から遡上するように視点が移っていく。ミクロからマクロへと莫大な広がりはあるものの、わたしの延長上であるというつながりを絶やさないように進めている。

 さらに、メタファーが面白い。宇宙空間の「濃さ」をマグカップに入った気体分子で喩えたり、銀河の渦巻きを「星が渋滞しているところ」と表現したり、直感的にわかりやすくなっている。余談になるが、著者のブログの「三毛猫はどうしてできるか」シリーズのわかりやすさは超絶的。ぜひご賞味あれ。

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このロビンソンが面白い「フライデーあるいは太平洋の冥界」

フライデーあるいは太平洋の冥界 デフォー「ロビンソン・クルーソー」をご存知だろうか。遭難した主人公が、南海の孤島で自然を開拓し、従僕フライデーとともに文明生活を築く話だ。

 では、ヴェルヌ「二年間の休暇」はどうだろう?無人島に漂着した少年たちが、力を合わせて生きていく物語だ。「十五少年漂流記」の方が膾炙しているのかもしれない。あるいは、家族版ロビンソンともいえる、「ふしぎな島のフローネ」はご存知だろうか?どれも、ロビンソン漂流記をアレンジしている。

 どの話も共通点がある。大自然に投げ出され、それなりに苦労もするが、文明人らしい生活を作り上げていく。自然の驚異や野生との共存といったテーマが描かれ、野性(採集・狩猟)から、文明(開墾・収穫)への歩みがストーリーのベースラインとなる。もちろん、狂気ルートへ逸脱する「蝿の王」や、テクノロジーの暴走が科学文明を築いてしまう「ふしぎの海のナディア(島編)」が成り立つのは、こうしたベースラインのおかげともいえる。

 だから、「ロビンソン・クルーソー」を下地にした本作は、似たような共通点を持っており、読み手はそいつを追いかけていくものだと信じてた――が、ぜんぜん違ってた。もちろんベースは「ロビンソン」だし、遭難してから島を開拓するところまで同じような展開になる。

 ところが、フライデーが登場してから話がおかしくなってくる。この若者、ロビンソンの言うことをぜんぜん聞かないのだ。勤勉さや文明、労働の価値といったものをまるで受け付けない。どころか、そういった権威を笑いのめし、茶化そうとする。開墾地や貯蓄物を台無しにする一方で、超人的な力を発揮して野生動物を仕留めたり、ロビンソンには考えもつかないような"遊び"を実現する。

 さらに、これまでの擬似ロビンソンで注意深く避けられていたテーマ、セックスや狂気が強調されており、とても興味深い。自然に還るのだから野性化してもよさそうなのに、(デフォーの)ロビンソンも、フローネも、ブリアンも、まるで"観客"がいるかのようにふるまう。けれども「フライデー」では切実だ。もともと"観客"はおらず、性の相手もいないのだから。ロビンソンが島と交合するところは、読み手が"笑う"番だろう。いくら高尚に飾りたてても、一種の信仰をそこに見て、そこに欺瞞を抱いてしまう。そしてハタと気づくんだ、「いま・ここ・わたし」とたいして変わらないじゃないかってね。

 デフォーが「ロビンソン」を書いたのは18世紀、そしてトゥルニエが「フライデー」を書いたのは20世紀だ。かつては無邪気に信じられていた「進歩と文明」に、大きな疑問符がつくのに充分な時を経ている。

 島じゅうが灌漑、牧場、耕筰地だらけになり、麦は貯蔵庫から溢れんばかりになり、ヤギは飼いきれないほど殖えまくる。それでもなお、収穫し、簒奪し、貯蔵する。自らの努力のむなしさに気づきつつ、努力をやめようとしないロビンソンは、かなりこっけいに見える。

 そのこっけいさは、物語で最初に「笑い」が表現されるまで、読み手は気づかない仕掛けとなっている。つまり、ロビンソンはフライデーと出会って初めて、笑いを――島に漂着して初めての笑いを覚えるわけ。ひとは一人では笑うこともできない。誰か笑いかける(笑いのめす)他者がいてこそ、笑いが成立するんだ。

 フライデーの笑いにより、ロビンソンが大事に持っていた権威は破壊される。西洋文明の権威とは暴力であり、武器だ。それが文字どおり大爆発して粉微塵になるんだ。そしてロビンソンは完全に変わってしまう。わたしたちが知っている文明の代表者の面を捨ててしまう。もちろんラストはぜんぜん違う。「驚愕のラスト」といいたいところだが、そこまで読んだ人には薄々分かっているラストに仕上がっている。

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ドラゴンの飼いかた教えます

ドラゴン飼い方育て方 ドラゴンブリーダー指南書。

 タイトルは「ドラゴン ――飼い方 育て方」。読めば必ず、ドラゴン飼いたくなる。ドラゴンとは何か?から始まって、コカトリス、ピアサ、サラマンダー、ヒドラ、タラスク、水龍など、品種ごとの特徴や飼育の上での注意点がフルカラーイラストで丁寧に説明されている。備品や設備、えさから健康管理まで、最高のドラゴンにするための秘伝(?)が明かされている。上級者(?)向けに、卵や幼体からの孵化・生育のコツから、品評会での審査基準まで、まさに至れり尽くせり。

 小学生の息子に与えたら、大喜びで読み始める。いちおう児童書なのだが、ルビがないし文体も硬めの解説書となっている。「デルトラクエスト」「ビーストクエスト」で洗礼を受けているので、ドラゴン譚の素地はある。特に、「物語」の体裁をとっていないところがいたく気に入ったようだ。

 西洋からインド、果ては南アメリカまで、様々なドラゴンがいる。変種・珍種(?)に気をとられているようだ。剣と魔法のファンタジーに出てくる、翼があって炎を吐くといった、固定化されたイメージを揺さぶってやろう。マンガやゲームでおなじみの、キャラクター化されたシェンロンやチキは出てこないのが残念。

 装丁がまた凝っている。ソフト地のいかにもな表紙に、古文書のようにひも綴じが演出されている。さらに、ギザギザのページ断ちが雰囲気と所有欲を掻きたてる。これを傍らに、ドラゴンが出てくる物語を読むのも一興。

エラゴン ためしに「エラゴン」を読んでみる――が、いくらも経たないうちに気づく。これ、星球大戦やがな!息子はまだ観てないので、オマージュとリスペクトとインスパイアに満ちたこれを"オリジナル"として受け取るんだろうな… いやその前に、映画版「エラゴン」を見せるという手もあるな。

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科学とSFの界面活性剤となる三冊

 科学とSFの界面活性剤となる三冊を選んだ。

 楽観的に語られる未来予想図は生々しく、ときに禍々しいが、善悪を決めるのは科学じゃなくて人なんだといまさらながら気づかされる。

 まずは、「サイエンス・インポッシブル」。光学迷彩から恒星間飛行、念力やテレポーテーションといったSFネタを、最先端科学でもって検証してみせる。面白いのは、「何が不可能か?」に着眼しているところ。つまり、オーバーテクノロジーを技術上の課題に分解し、どうしたら可能になるかを検討するのだ。大質量の恒星を用いるガンマ線バースター砲の射程は数百光年といった極大から、自己複製する無人のインテリジェント・ナノシップを何百万と送るほうがコスト安といった極小まで、SFを超えたスケールに驚愕すべし。

 次は、「操作される脳」。

 インターネットやステルス技術で有名な、米国防総省の国防高等研究計画局(DARPA)の「人体」への研究成果が紹介されている。脳を改変し、恐怖や眠気を感じさせない改造人間や、自己治癒能力を高め、傷を急激に治すといった研究を見ていると、メタルギア・ソリッドは、もはや「近未来」でなくなっていることが分かる。

 最後は「宇宙旅行はエレベーターで」。

 アーサー・C・クラークが描いた軌道エレベーターは、SFでなくビジネスの話まで具体化されている。ケーブルの素材やエレベーターの動力といった技術的課題から、敷設場所や建造工法、さらには安全性、運用方法、宇宙ビジネスの収支まで、グローバルレベルの風呂敷が広げられている。いや、話は月や火星エレベーターまで広がっているから、太陽系レベルの超大風呂敷だ。わたしたちが生きているうちに、「そうだ、宇宙、いこう」という時代になるのだろうか。

 魔法と区別がつかないくらい発達したテクノロジーを見ているうちに、不可能とは、可能性の一つにすぎないことがわかる。

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人はなぜレイプするのか

1 レイプについて、進化生物学から答えている。

 挑発的なタイトルや表紙とは裏腹に、まじめに、科学的に解き明かす。そして、オブラートにも修辞学的にも包んでいない、ある種の人びとの逆鱗を掻きむしるような結論に達する。さらに、こんな本を出せば大騒ぎになることを織り込んで、ある種の人たちの「主張」のいちいちに反証をあげている。

 まず結論から。なぜ男はレイプし、女は苦痛を感じるのか?その理由は、養育の投資量に男女差があるからだという。

 つまりこうだ。女は妊娠、出産、授乳に多大な時間とエネルギーを費やさなければならない。だから男選びも慎重になる。レイプは父親を選べず、子育てを困難にするため、女に大きな苦痛をあたえることになる。いっぽう男は養育投資が少ないことから、繁殖のため、多数の相手に関心を向けることになる。そんな男のセクシュアリティの進化が、レイプの究極要因だという。要するに男は色を好み、女は選り好みするんだね。

 ただし、レイプそのものが適応なのかどうかについては、判断を保留している。レイプとは、男の性淘汰の中における、偶然の副産物だという考えと、ずばりレイプは適応であるという仮説の両論を併記している。性淘汰における繁殖に有利な形質として、レイプが選び取られていたなんて、考えるだにゾッとするのだが、それが生き物としての雄の姿なのだろうか。

 その一方で、社会科学+フェミニストのアプローチ「学習理論」も紹介する。レイプの動機は「男は支配的であれ」という教育によっており、家父長的な文化が「女をレイプしろ」と教えるのだという。男がレイプを"学習"しない限り、レイプは起こらないというのだ。すなわち、レイプとは"自然な"ものではなく、男性本位の歪んだ文化によってもたらされたというのだ。

 本書を手にするまで、わたしは後者の考えに立っていたことに気づく。性交は"できる"ことだが、レイプは(その存在を)"知る"ところから始まっていると考えていた。力・欲望・女というストーリーの中で育つことによって、「暴力で女を支配する」ことが可能だということを"知る"のだ。もちろん、そんなことは"してはいけない"。自分の中に抑止力が働くのを感じるとともに、そういう選択肢が確かに存在することを学ぶのだと思っていた。

 ところが本書は、そんなわたしの考えを粉砕する。遺伝とは、遺伝子が表面上に現れたものだと理解していたのだが、著者に言わせるともっと広く、わたしたちが文化と呼んでいるものも含まれている。遺伝とは、遺伝子上の要因と環境要因がともに働くことで表面に現れたものだという。わたしの勉強不足かもしれないが、本当なのだろうか。文化的な行動の遺伝メカニズムと、生理学上や形態学上の遺伝メカニズムの間に「違いはない」と断定されると、かなり戸惑う。著者の言うとおり、「文化⊂遺伝」であるのなら、「レイプは遺伝である」という極論(?)が成り立つのだから。

 たたみかけるように著者は続ける。レイプは人に限ったことではないという。人間以外の種におけるレイプについての研究は、あまりに数が増え、無視できないそうな。昆虫、鳥類、魚類、爬虫類や両生類、海生哺乳類、人間以外の霊長類についての研究論文を引き、レイプが文化ではなく、遺伝であることを説明する。

 そして、進化生物学的な見地からレイプを根絶するための方法を提案している。最も効果的な懲罰は、レイプ犯の繁殖成功度を著しく損なうようなことだという。例えば、繁殖競争に参加できなくするような「監禁隔離」あるいは、「化学的去勢」になる。後者は耳慣れない言葉だが、男性ホルモンであるアンドロゲンを抑制する薬品を投与することだそうな。

 世界がどうあるべきかということよりも、現実がどうあるのかを理解するべきだ、という姿勢は共感できる。その反面、かなり言葉を選ばない直截な書きくちにタジタジとなる。科学的に、知的に真摯であろうという態度が伝わる分だけ、自らの感情的な反応がよく見えてくる。進化生物学からの提案はとてもロジカルなのだが、受け入れる感情は複雑。

 賛否が割れる一冊。読んだら、ただじゃすまなくなる。

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この記事の反応へのフィードバックと、議論の展開→「レイプは適応か」

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「マンガの創り方」はスゴ本

マンガの創り方

 『マンガの創り方』は、語り手のためのバイブル。

 ストーリーマンガ、特に短編を中心に解説しているが、マンガに限らない。小説やシナリオなど、あらゆるストーリーメーカーにとって有用だ。なぜなら、読者や観客といった「受け手」を楽しませるための秘訣があますところなく明かされているから。

 いわゆる、「マンガ入門」ではない。ネーム作ったら下書きしてペン入れして…といったイロハ本ではなく、「ストーリーの作り方」「ネームの作り方」に限定している。だから、本書の技術を習得することで、次のことが根源から分かる・使える。

  • 面白いストーリーとは何か、どうすれば「面白く」なるのか
  • 良い演出とは何か、どうやって身につければよいか
  • 素晴らしいクライマックスにするために、どうすればよいか

 何を面白い/良いと感じるかなんて、人それぞれ。だからそんなテクニックなんて無い――そんな意見もある。あるいは、先天的なセンスの問題だからと断定する方もいるかも。しかし、それは違うんだ。60点のストーリーを90点まで面白くする方法はあるし、「良い」演出をもたらすセンスを磨くトレーニングも紹介されている。

Pの悲劇

 しかも、徹底的に具体的だ。高橋留美子「Pの悲劇」と山本おさむ「UFOを見た日」の全頁を収録し、32ページの作品に200ページかけて解説する。マンガをブロック単位に分解し、そこで作者がどのように考え、どのようなテクニックを用いてマンガを面白くしていったかを解き明かす。おそらく、かなりの人たちが手さぐりでやってきた作業が、実践的な形を与えられている。

 自分が楽しんでいるとき、「なぜ面白いのか」「どこが良いと感じるのか」という視点は持たない。読み終えて振り返ってみても、その「面白さ」はうまく言語化できないもの。その面白さを論理的に種明かししてくれている。できあがったアウトプット(完成稿)から、そこへいたるネーム、箱書き、構成、ネタ逆算している。紆余曲折の過程で、効果的なテクニックを紹介し、どうやってそのマンガが面白くなっていったかをリコンパイルしてくれるのだ。

 するりと流しそうなコマにも、いちいち目を留め、伏線や繰り返しの効果を紹介する。目に留まっていなかったが、意識のどこかに潜り込んでいたイメージが想起されて、「ああっ」とうならされる。

 一番うならされたのは、3の法則。受け手に印象づけるために、同じパターンを3回くりかえせというのだ。小津安二郎監督「東京物語」を持ってきて、忘れもののシーンが3回あるという。観た方は「空気枕」や「日傘」というキーワードで出てくるだろう。それだけ印象づけに成功しているということ。で、同じテクニックが「Pの法則」でも展開されていることを指摘する。敵役が現れる直前は、バタバタしている主人公に「ピンポーン」というチャイムがおっかぶさるように鳴り響くというのだ。ええっと見直すと、確かにある。印象づいているというより、一種のパターンとして染み込んでいるのかも。

 演出とは何かについても、ズバリ答えている。演出とは、文字に書いたものを画にするときに出てくるもので、シナリオのないところに演出はありえないと断言する。簡単なやつなら「怒っている人の背に火を燃やす」が思いつくが、本書はプロ向け。複数のカットを組み合わせて意味を作る「モンタージュ」や、感情移入やメリハリを誘う「視点操作」、省略のための「カッティング」といった基本から、「音消し」「スローモーション」といった映画技術を拝借したものまで揃っている。

 では、どうやって身につけていけばいいのか。道具だけあっても、使い方や応用が利かなければ意味がない。マンガや映画をたくさん見れば、そんなセンスやワザが身につくのか。ここで目ウロコの学び方を教わった。ここが本書のスゴいところになる。

 つまりこうだ。「画が描いていないものを、最初に見ろ」というのだ。できあがった映画やマンガを見るだけでは、演出は分からない。だから、映画やマンガを見る前に、まずシナリオなりネームを読むことを強く勧めている。そして、画のない状態で自分がどれだけ考えつくか、やってみる。カメラはロングなのかバストアップなのか、キャラの配置や位置関係をどうするのか、どう動かし、どこでしゃべらせるのかを考え抜く。

 その後に、できあがった作品を見るのだ。自分が考えついたものと、実際に映画監督やマンガ家がやっていることを比べてみる。それが演出を見るということだという。比較すると、思いもよらなかったような画が必ずあるという。そこが「盗む」ところなんだろうね。反対に、映像が思い浮かべられないようなら、シナリオが弱い・悪いことになる。

 しかし、ネーム「だけ」原稿なんて、そうそう見当たらない。映画シナリオなら書店で売っているが、アシスタントでもない限り、目にすることもないだろう。それが、本書にあるのだ。著者が描いた「天上の弦」のネーム「だけ」があり、次ページには解答である完成原稿が続いている。読み手は最低限の状況説明とネームにいきなり対峙し、自分で画を考えてみる。その後、完成原稿と比べてみることができるのだ。ネームと完成作は微妙に違っているが、その差がどうして生じているかが、著者の思考をトレースしながら明かされている。そのキャラにそうしゃべらせる「理由」や、なぜそこがカットされたかが、リクツで分かるのだ。これはスゴい。

 これは画がともなっていなくても使える。マンガというフォーマットでなくても、応用できるのだ。つまり、キャラの会話の必然性や、状況描写の密度・粘度、話の運び方、省略の仕方、ダレさせない工夫がそのまま、小説なり脚本にあてはめることができる。

 もっとさかのぼって、プロットの転がし方や、アイディアの見つけ方も分かる。状況設定と登場人物が決まったら、それを自由に動かしていくことを「プロットを転がす」というそうな。プロットというのはどこからか「持ってくる」ものではなく、作ったり、発見していくものだという指摘には目ウロコ。何かを見ても、つい過去の何かと照らし合わせながら見て・読んでしまう自分が情けないね。


 プロットを転がすポイントは「動き」だそうな。登場人物を動かし、事件を起こし、「動き」を作ることが面白さにつながる。そのための技法として、対立を起こしたり、主人公を危機的状況に陥れたりしろという。テーゼとアンチテーゼ、主人公と敵役、因果や伏線などの技術が惜しみなく紹介されている。

 ここでの題材は、幸村誠のプラネテス「ささやかなる一服を星あかりのもとで」。読んだ方ならご存知だろうが、まさにこの「プロットが転がっていく」のを楽しむお話だ。加速する欲求とサスペンス&ドタバタが、ラストの解放感に直接つながっている。アイディアを出し、プロットに組み込む、逆にプロットからアイディアをひねり出す、その行き来の過程が詳説されている。未読の方は、本書と併せて読んでおくべし、傑作ですぞ。

 

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言語にとって美とはなにか

 「読んだ」というより「見た」というべき。理解できなかったところありすぎ。レベル違いすぎ。著者に挑発されながら読むというのは、かなりユニークな体験だね。

 古今集から戦後文学まで、詩・文学・劇・謡の表現を俎上にあつらえて、吉本隆明オリジナルの言語の文学論を創出する。言語の本質・韻律・表現・構成という見出しはあるものの、包括的に論じており、再読を強制している。タイトル「言語にとって美とは何か」に惹かれて読むのだが、激しく肩すかしを喰らう。

 もともとの動機は、わたしの中にあった。「ものを読んで美や快を得るのはなぜか?」という疑問を、ずっと追いかけてきた。そして、タイトルに限って言う限り、わたしの「気づき」と同じ結論だった。安心したような残念なような気持ちやね。わたしの気づきは古今の文人からヒントをもらっているものだから、彼の影響が第三者を経、わたしに届いていたのかもしれない。

 では結論から。「言語にとって美とは何か」というと、「うつりかわり」になる。

 言語によって記された(語られた)主体、描写対象、そして読み手(受け手)のあいだを意識がうつりかわるとき、人はそこに美を見出す。動き方もさまざまある。一人称が作者と描写主体との間を転換したり、描写が心象をたりするとき、「転換元→転換先」や「喩え元→喩え先」の間で流れが発生する。その流れが「美」なのだ。

 上はわたしの咀嚼を経ている。なので、本書の焼き直しで説明すると、こうなる。

 たとえば、短歌を通じて「美」の秘密を明かす。情景描写と、描写している主体と、その詠み人、それぞれの主体は、必ずしも同一となっていない。音韻で切り詰められた描写のなかで、それぞれの関係の転換が、「言語の美にふみこむ道」(I巻p.111)だという。

 この短歌の解説が好例だ。

    人間の類を逐はれて今日を見る狙山が猿のむげなる清さ(明石海人)

 詠み人である明石海人は、ハンセン病患者だという。だから、人間の類を逐(お)われる主体は、詠み人自身だと解釈していたのだが…吉本の説明を聞くまで、「歌を詠む人=作中の主体(わたしという一人称)」だと考えていた…が、どうやら違うらしい。詠み人と、「人間の類を逐はれ」る人は別々の主体で、それぞれが猿を見ているそうな。作者と作中の「わたし」が異なり、読み進むにつれて移り変わっていた主体が二重になることが普遍的な感覚をあたえるのだそうな。短歌で省略されている「わたし」とは詠み人である、という固定観念が、ここで砕かれてしまった。

 たしかにそうかも。小説ではありがちな、作者と「わたし」の関係は、好きな作家ほどよく見えてくる。私小説どっぷりの読者なら、「作者=わたし」を自明とするか、あるいは作者の影を主人公に探そうとするだろう。簡単な方法は、「その描写は誰による?」「その地の文は誰のもの?」という自問だ。すると作中から、「作中の一人称」「作者」「両者の間の存在(神とか)」が出てくる。最初は作者だと思っていた描写が、作中の「わたし」であることに気づき、さらに第三者のものに切り替わっていく。その転換の軌跡に美を見出す――

――と、読み解いたのだが、実はこれ、ほんのさわりにすぎない。タイトルに惹かれて読んでしまったのだが、吉本が目指したものは、「美とはなにか」ではない。解説によると、「文学史上の諸作品を豊富に引用し具体的に分析しながら、言語の文学論そのものを統一主題としてとりだし、範例を創出する」のだそうな。

 そして、そのために「指示表出語」と「自己表出語」という独創的な言語論を駆使して、言語以前の時代から現代文学(大江あたり)までを一貫した方法論で説明しようとする。「指示表出語」とは「何のことなのか」を示し、「自己表出語」とは「何を伝えたいのか」を指す。「描写」と「吐露」やね。で、「指示表出語」をx軸、「自己表出語」をy軸としたxy座標を編み出し、あらゆる言語が表出するものは、このxy座標内で示せると言う。
Gengo
 で、この座標を用いて、古今のテクストを引きながら、文学における喩や転換、構成や形式を説明する。残念ながら、分からないところが多い。言わんとしていることはこうなんだろな、という感覚でしか理解できない。字は読んだが、理解にはほど遠いというやつ。

 本書は「難解」とされているが、難しいというよりも「分かりにくい」と形容する方がピッタリくる。難しい用語や表現を使っているのではなく、むしろ身近な言葉を援用して伝えようとする。そこは感覚的につかみやすい。だが、論理的に読み解こうとすると、彼が持ち出してくる用語が壁となってくる。

 日常語を新語として使うのはかまわないが、ズバリ定義しないので困る。つまり、「○○とは」で説明する文章がないのだ。反対に、「△△でないもの」といった表現を重ねたり、「△△が理解できるのであれば、自ずと了解できる」という、ネスカフェ・ゴールドブレンド方式で事足れりとする。「違いが分かるオトコ」というやつで、分かる人には分かるよね、というメソッドだ。そして、「○○とは」で始まる文章は、「□□のようなもの」と比喩で済ます。

 例えば、「像」という用語がある。本書では、一般的な「姿かたち」といった意味で使っていない。比喩的に「指示表出と自己表出の縫目・焦点」と表現するのだ。じゃぁその「縫目」「焦点」は何ぞやと問うても書いていない。その代わり、I巻p.102にこうある。

とはなにかが、本質的にわからないとしても、それが対象となった概念とも対象となった知覚ともちがっているという理解さえあれば、言語の指示表出と自己表出の交錯した縫目にうみだされることは、了解できるはずだ。

 分からん。分かる人にはわかるのだろうか?どこにも説明されていないが、先のxy軸に描かれる線上の一点を、便宜上「像」と呼んでいるのかと勝手に了解しておく。

 反対に、自説を強化するために引用してある、カントの「判断力批判」の方が分かりやすい。カントを「古ぼけた美の哲学」と斬っているから余計笑える。吉本のいう「像」を古典的に説明するものとして、カントの「想像力」を、こう援用する(I巻p.103)。

(想像力とは)形像を形像の上に重ね合わせて、数多くの同種類の形像の合致からして、共通の尺度たるべき平均的なるものを作り出すこともできるのである。

 カントは提案する、「1000人の男性」を考えてみようってね。一人一人、背格好は違えども、それぞれの姿を重ね合わせていくと、平均的な身長、肩幅、体つきといったものが浮かんでくる。そいつをカントは「想像力」といい、吉本は「像」と呼んでいるのだ。カントの喩えの方が分かりやすいなんてどんだけーとうなだれる。

 まだある。I巻の64ページから始まって、吉本が独自で再定義した「意味」「価値」「像」の説明が延々となされるのだが、40ページをすぎてようやく、なんのためにそんな説明をしているのかが明かされる。I巻p.108にこうある。

ここでいまはじめてぶつかっているのは、これらの文章を言語の表現としてよむとは、どういうことを意味するのかということだ。それをやりたいために、言語の意味価値の概念を取り上げてきた。

そう、読者は延々"無"定義の新語に悩まされた挙句、いったい何のためにこんな話につきあっているのだろうか分からなくなってくる。そこでようやく、議論の目的が示されるのだ。たまらん、相当サドな読み手でないとつきあいきれん。

 ツッコミどころもある。II巻第VII章で、「自己表出としての像的な喩をならべておいて作品の総体がつくりあげられる例を作者じしんがあかしたもの」として、清岡卓行を引用する(II巻p.284)。

ぼくの頭の中では、次第に、次のような方程式が育って来ました。もちろん、この方程式というのは、今、便宜的な比喩として書いているわけで、とにかく、そのような図式が生じて来たということです。

   ax + bx + cs + dx + … = 0

この場合、xとはある生きた衝動ですから、それはゼロではありません。従って、a+b+c+d+…=0となるように、具体的なa,b,c,d,…を発見することが、ぼくの頭脳の中で、長い間、しかし断続的に、繰り返されていた仕事です(清岡卓行「デッサンから感性まで」)。

そして吉本は「これらの喩の意味は、a=b=c=d=…であるようなひとつの実体だといっていい」と断言する。xはゼロではなく、従って、a+b+c+d+…=0であるならば、a=b=c=d=…はありえない。ただし、a,b,c,d,…が全てゼロであれば、吉本の主張は成立する――はずなのだが、ホントに「a,b,c,d,…が全てゼロ」なの?と言いたくなる。もちろんそんなはずはなく、a,b,c,d はそれぞれ作者が見た・イメージした具体的な体験なり設定を描いており、ゼロではない。ゼロはゼロだというトートロジーに捻じ込むつもりもなさそうだし、比喩にツッコむのは無粋かもしれないが、論理が破綻しているぞ。

 もちろんわたしの「読み」が貧弱なため、重大な読み落とし・読み違いをしている可能性はある、おおいにある――のだが、それでも、愚者の謗りを喰らうことを承知で述べてみた。

 ただし、戦闘的文章としてとても参考になる。折々で当時の論者を罵倒するのだが、これは著者のクセなのだろうか。誰かの評論を引いてきては、幼稚だとか無理解だと断ずる。ブンガクの甲論乙駁には興味が無いが、むやみに噛みついている。この「噛みつき」も一種のパフォーマンスだとしたら、彼は一流の芸人だろう。批判の根拠が提示されないので、彼を「信じる」ほか進める手立てがない(疑うと立ち止まってしまうから)。

 文で挑発するならば、見習うべきところは沢山ある。そして、吉本がこれをできたのは、膨大な「読み」に支えられた知見を備えていたからだろう。下地が無い奴がこれをやると、ただの「偉大なる厨二病」で終わってしまうからね。例えば、こんなケンカ腰。

現在でも、一連の無能な理念は、文学作品をまえにして価値に感染せずに、商品性や政策に感染する。そしてこの次元でわたしたちが主張できるただひとつのことは、きみたちの好む作品の存在を存在するものとして認めるから、わたしたちの好む作品の存在も、きみたちは存在として認めねばならぬ、ということだけだ。

 そして、注意しなければならないのは、その影響力。彼にカブれると、ネスカフェ・ゴールドブレンド方式で相手を「分かってない」「読めてない」と馬鹿呼ばわりするようになる。原稿用紙やキーボードの上でだけの夜郎自大はネットにいるし、わたしもそんな気がある。反面教師とするべ。

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このキスシーンがスゴい!

とらドラ10 ええ、もちろん正座して観ましたぞ、アニメ「とらドラ!」の最終回。手馴れた様子からして、キミたち枕で練習してたね?と深夜のテレビにツッコミ入れて悶えたことは秘密だ。今回のテーマはキスシーン。キスひとつと侮るなかれ。二人の気持ちの集大成だったり、人生を変えてしまうようなキスだ。キス初心者から有段者まで参考になればと思う。

 まず、「とらドラ!」。目つきは凶悪だが心優しい竜児と、見かけは美少女なのに凶暴な大河が織りなす熱血ラブコメディ。予定「不」調和な展開と、お約束の着地点は、ヤケドするよな真っ直ぐで熱いキス。泣いて笑って顔赤らめて、存在しなかった「過去」を懐かしむべし。もはや、高校生活はファンタジーなのかも。

肉体の悪魔 次は、「肉体の悪魔」。第一次大戦下のフランス、十五歳の「僕」と、十九歳の人妻。夫が戦地にいるあいだにふたりは出会い、年齢の差を超えて愛し合うようになるのだが――ありきたりな食材が、完璧な一品に仕上がっている。この二人が一線を越えてしまうのが、炎と戯れるようなキス。眠ったふりをする彼女の顔に、いけないと知りつつ顔を近づけてしまうのだが、その描写が秀逸だ。

彼女の両手が僕の首に絡みついていた。遭難者の手だってこれほど激しく絡みつくことはないだろう。彼女は僕に救助してもらいたいのか、それとも一緒に溺れてほしいのか、僕には分からなかった
主人公のバクバクする心臓がシンクロしてくる。一緒になって溺れるべし。

痴人の愛 最後は、初心者お断りの「痴人の愛」。少女を育てて自分好みの妻にしようとした男が、逆に彼女の美貌にとり憑かれ、破滅するさまを描いた耽美モノ。彼女の正体を知り、いったんは別れようとする男を屈服させたのが、エア接吻だ。唇と唇を触れさせず、男は吸入器に向かうようにぽかんと口を開けておき、そこへ彼女がはッと息を吹き込む。男はすうッと深く、目をつぶって、おいしそうに飲み下すのだ。人生を狂わせるキスとは、こういうのじゃないかと。

 「このキスシーンがスゴい」三冊を選んだが、これを上回るのがあったら、ぜひ知らせて欲しい。キスは実践が命。小説を読んでもキス上手にはなれないが、バリエーションが増えることは必至。

 人生は、精進だ。キスは、実践だ。

 健闘を祈る。

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ゲームで子育て「ピクミン2」

ピクミン2 園児も三十路もハマれる、Wiiユーザーならやっとけ。

 「ゲーム脳の恐怖」を喧伝する「専門家」がいる。親の恐怖心を煽っては著作を売りつける商法はいかがなものか。GTAやネトゲといったオトナゲーならいざ知らず、選んで時間決めて遊べば無問題かと。

 むしろ、テレビとゲームとケータイは通過儀礼、腹をくくって向き合うべき。「子どものために」と遮断したまま月日が経ち、免疫がないまま独り立ちするほうが怖いぞ。だから、一緒に楽しんでしまえ。なあに、かえって免疫力がつく。それを実証するためのシリーズが「ゲームで子育て」。

 今回は「ピクミン2」、家族全員でハマっている。100匹のピクミンをあやつって、敵を倒したり「お宝」を集めるゲームなのだが、簡単に入れて奥が深い。短時間で遊べる(1プレイ15分くらい)反面、やりこみ度も高い。その魅力は松本人志にゆずるとして、このエントリでは、「子育て」にまつわるところを紹介しよう。

 ピクミンには色がついていて、それぞれの色ごとに得意・不得意がある。その特性を使い分けながら、力を合わせて敵を倒し、ギミックをクリアし、お宝を運ぶわけだ。

   赤ピクミンは、火に強い
   青ピクミンは、溺れない
   黄ピクミンは、高く飛ぶ
   紫ピクミンは、力持ち
   白ピクミンには、毒がある

 単純なアクションゲームではなく、マネジメントゲームともいえる。能力に応じた役割分担と、タイムラインに従った連携プレイが重要なのだ。敵を弱体化したり、殲滅する部隊と、死体やお宝の運び屋部隊、そして、ギミックを突破したり探索する部隊とチームに分けて、連携して仕事をしてもらう。上手く割り当てたピクミンが整然と仕事するのを見ているのも楽しい。

 オトナのプレイをしばらく見ているうちに、子どもらはすぐに操作法をマスターしたぞ。Wiiリモコンで指示を出すのが直感的に分かりやすかったようだ。

 下の園児は、ピクミンたちを従えて探索するだけで満足しているが、上の小学生の方は、「敵」をやっつけることに専念しだす。さらに、敵や状況に応じて、攻撃パターンやピクミンを使い分けるようになってくる。わたしのプレイとは別のスタイルを編み出し、実践しているのが頼もしい。

 彼のスタイルは、「白ピクミンで敵を弱らせ」→「弱ったところを一斉攻撃」というパターン。白ピクミンは猛毒を持っており、これを食べた敵はダメージになる。白は貴重じゃない?と訊くと、「他のピクミンの犠牲が一番すくない」そうな。やたら白を大事にする嫁さんやわたしと違い、子どもはトータルで見ている。ゲームを子どもにやらせたい一番の目的「パターンを認識し、因果律を制する」ことが達成できている。

 あるいは、箱庭をまるごと与えられ、その中で試行錯誤していき、世界を広げていく喜びがある。地図を見ながら次のルートを決める。知らない場所へ放り込まれたとき、何に注意し、どうやって探索していくのかがシミュレートできる。これは小学校の授業でいう、「学校たんけん」や「町のたんけん」と一緒やね。

 うかうかしてたら、子どもに先を越されてしまった。面目ない。だが、クリア後も探索は終わらないし、2Pバトル、2P協力プレイまである。効率的なピクミン配分や、寡をもって衆を制する戦法なら任せておけ、ゲーマーパパの面目躍如はこれからだ。

 余談だが、集める「お宝」は、ビー玉とか牛乳瓶のフタとか、ナショナルの単三電池(Hi-Top)などの旧いものばかり。舞台は明らかに日本のどこかなのに、「人間」は一人も出てこない。おかしくね?どこ行ったんだろ、ヒトは?そもそもピクミンって何だろね?と話し合っていたら、「これは人類が滅亡した後の世界なんだよ、そんで、ピクミンはヒトが変化したものなんだよ」などと言い出す。その想像力には恐れ入った。

「ゲームで子育て」シリーズ
  ゲームで子育て
  ゲームで子育て「ポケモン」
  ゲームで子育て「どうぶつの森」
  ゲームで子育て「まちがい探し」
  ゲームで子育て「ハッピーダンスコレクション」


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恐竜の飼いかた教えます

恐竜の飼いかた教えます 家庭用から軍関係まで、ニーズに合った恐竜を紹介し、入手方法や飼い方を解説する。

 ヴィクトリア女王がいいことを言っている。「恐竜に飽きた人は、すでに人生に飽きている。なぜなら、恐竜には人生がもたらす全てが備わっているのだから」。"恐竜"と一口でくくっても、賢いもの、速いもの、芸達者なものと沢山ある。そんな中から、価値観や趣味・用途に応じて、最適なパートナーとなる種類を教えてくれる。

 たとえば、初心者がマンションで飼うなら。コンピー(コンプソグナトゥス)が一番だという。ニワトリぐらいの小ささながら、順応性や耐寒性が高く、飼い主に従順だからだ。排泄のしつけも覚えられる知能もあり、キャットフードや残飯で育つ。なによりも子ども好きなところがいいそうな。

 あるいは、収益性の高い牧場経営に向いているのが、リオハサウルスだという。パンパスに放し飼いにし、新興ハンバーガーチェーンに提供するわけだ。同時に、ステーキ肉としても有望だ。イグアノドン中心の食肉市場に、低脂肪のステーキで殴りこみしよう、と経営者をそそのかす。

 本書のユニークなところは、恐竜たちのグラフィック。CGで精密に再現されているだけでなく、人々の生活と溶け込んでいる姿が面白い。先のコンピーは、室内トイレで排泄した直後で、側らのCAT LITTER(猫砂)がご愛嬌。そして、リオハサウルスのステーキは、ガーデンパーティ真っ最中の一家とともに紹介されている。一緒に描かれている人たちもリアルなので、いちいち目を疑いながらページをめくる。

 有名どころもいるぞ。ティランノサウルスは「動物園の最終兵器」と称される。一頭いるだけで、行列のできる動物園となるからね。ただし、(あたりまえだが)非常に危険な恐竜なので、著者は「飼育を考えること自体が無謀の域を超えている」と最大級の警告をする。普段はゆったりと内股で歩くのだが、とっさの動きは極めて素早いそうな。

 ハラ抱えて笑ったのが、「子どもが大好き」ネタ。恐竜の特徴を示すアイコンがあるんだが、「子どもが大好き」には二種類あるんだ。よーく見ると、「子どもと遊ぶのが大好き」という意味と、「子どもを食べるのが大好き」と、まるっきり反対の意味があるんだ。ご注意あれ。

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魂をつかみとられる読書「精霊たちの家」

精霊たちの家 物語のチカラを、もういちど信じる。

 小説の技巧に着目するようになってから、心底から楽しめなくなっていた。いや、面白いことは面白いよ――けれど、構成や人称や配置を目配りしながら『鑑賞』するようになって、ワクワク度が半減してた。時代背景や著者の生い立ちから近似を解釈するかのようなテクスト読みなのだ。美味しんぼ的なら、「ウム、このダシは利尻昆布を使っておる」なんてスカした野郎だな。

 ヒョーロンカならいざ知らず、もったいない読み方をしていた。物語に一定の距離をおいて、自分を少しずつ曝しながら反応を確かめつつ、進める。過去の作品や現代の時評に連動させるところを拾ってはネタにする。まさに読書感想文のための読書、鼻もちならん。

 それが、このラテンアメリカ文学の傑作のおかげで、気づかされた。驚異と幻想に満ちた物語に没入し、読む、読む。小説とは解剖される被験体ではないし、解体畜殺する誰かの過去物語でもない。身も心も入っていって、しばらく中を過ごし、それから出て行く世界そのもの。

 物語は、母娘三代に伝わるサーガとして読んでもいいし、語り部の一部を成す男の波乱万丈の物語と捉えてもいい。千里眼や予知能力、死者や精霊がウヨウヨしていることで、ガルシア=マルケス「百年の孤独」の女版だと考える人もいる。あるいは、池澤夏樹「マシアス・ギリの失脚」を思い出すかもしれない。

 たしかにマジック・リアリズム的なトコはあるのだが、それは前半まで。百年分の歴史が「いま」に向かって語られるに従い、「マジック」は次第に影を潜め、「リアリズム」が表出する。「百年の孤独」が追い立てられるように加速していくのとは対照的だ。ことに恐怖政治の跋扈のあたりになると、同じ小説かと驚かされるほど、濃密に血と暴力を塗り重ねる。拷問シーンでは酸欠にならないように気をつけて。

 さらに、語りの構成が絶妙だ。「私」、「わし」、それから三人称は、誰がストーリーテラーなのか推察しながら読むと二倍おいしい。「わし」はすぐに分かるのだが、あとが分からない。タイトルに「精霊」があるし、一族が住む屋敷のあちこちに精霊がウロウロしているので、最初は精霊が語り部なのかなぁと思いきや――見事に外れた。さらに、「私」が誰か分かるのは最後の最後で、物語の扉が再帰的に開いてゆく悦びを味わったぞ。

 物語がわたしを圧倒する。わたしを蹴飛ばし、喰らいつき、飲み込む。咀嚼されるのは、もちろん、わたし。これほどのエネルギーを放っているのは、著者イサベル・アジェンデ自身が言葉の持つ力に絶大なる信頼を置いているから。言葉に対する信頼が失われつつある昨今だからこそ、彼女のこのセリフが光っている。解説より著者の言葉を引用する。

私は大変原始的な方法で言葉に力を、つまり、死者をよみがえらせ、行方知れずになった人たちを呼び集め、失われた世界を再構築する力を言葉に与えようとしたのです
 世界を再構築する物語のチカラに、我を忘れて読むべし。

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