「眼の冒険」はスゴ本
のっけからのろけで恐縮だが、嫁さんは料理上手だ。料理学校に行ったこともないのに、なぜ? ――訊いたところ、「美味しいものを食べてきたから」とのこと。海の幸・山の幸に恵まれたところで育ったからだという。旬の素材に親しんでおり、いわば「舌の経験値」を積んでいるのだろう。
これは、眼の経験についても同じ。いいデザインを見ることで、眼が肥える。同時に素材に対し、「いいデザイン」であるとはどんな表現なのかを感じ取れるようになる。いままで「感性を磨く」という言葉で片付けられていた経験は、「本書を読む/視る」に置き換えてもいい。
スーパーマンからマッドマックス、ピカソやエッシャー、ウォーホルといった実例がてんこ盛りで、絵画や写真、タイポグラフィやイラストから、デザインの手法・見方が紹介される。モノとカタチ、デザイナーはこれらをどのように見ているのかが、デザイナー自身の言葉で語られる。なじみ深い作品を入口として追いかけているうちに、いつしか自分の見方を変えてしまうぐらいの破壊力をもつ。
たとえば、松本清張の「点と線」の発想。社会派ミステリの傑作なのだが、これを傑作たらしめているアリバイ工作が、「眼の冒険」において見事に視覚化されている。
つまりこうだ。アリバイ工作のポイントとして、「列車の発着が激しい東京駅で、一日に一回だけ、プラットフォームをまたがって見通せる数分間」がある。これは、列車ダイアグラムから得た着想であることは想像がつくだろう。しかし、「眼の冒険」ではもう一歩進め、「『点と線』の連載当時は、東京タワーが建設中だった」ことを指摘する。
そして、清張が通っていた有楽町と、東京タワーのある芝とは目と鼻の先であることを気づかせる。骨組みだらけの東京タワーから、列車ダイアグラムへ。このアナロジーを、エッフェル塔を下から見上げた写真と、実際の列車ダイアグラム図を並べることで、"つなげて"みせる。
あるいは、最後のページにガツンとやられるかもしれない。著者は、ほぼカクシンハン的に、この写真を並べてみせる。そこに類似を見つけるのは人の感性だし、その連想に危うさを感じるのも、人の業だ。
向かって右側、318ページは、1936年のナチスのニュルンベルク党大会のフィナーレを遠望したもの。夜空に向け垂直にサーチライトで投射した、縦ストライプ状の壮麗な光の列だ。ちらちらする縦ストライプは催眠効果をもたらすという説明がついている。
そして、左側、319ページいっぱいに広がっているのは、2002年に世界貿易センター(WTC)崩壊跡地で行われた追悼式の写真だ。ツインタワーを「光」で再現させた画像は、右ページの強烈なアナロジーとなっている。いや、逆か。WTCのアナロジーとしてニュンベルクを連想する「眼の経験」がスゴいのだ。
あるいは、映画のストーリーを視覚化する試みがある。ストーリーを構成するキャラクターや出来事、関係性などが、アイコンや矢印、タイポグラフィや色で表現される。一種の逆転の発想だ。つまり、脚本を映像化したのが「映画」なのではなく、キャラやイベントはアイコンのようにドラッグ&ドロップ可能に思えてくる。
例として、「遊星からの物体X」のチャートがある。エイリアンが誰の人体を乗っ取っていくかがアイコン化されたグラフックで描かれるのだが、これを「アート」というよりも、動的ストーリーと呼びたい。ホラー映画が、アイコンの動きに応じて二転三転していく、いわば「ストーリー・シミュレーター」のように見えてくる。
異なる回路がつながってゆき、自分の認識が開かれていく、デザイン・アイディアの思考展――そんな経験ができる。そう、「読む」というより「経験する」一冊。
舌を肥やすように、眼を肥やすべし。
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コメント
著者の「思考の散漫さ」に惚れ惚れしました。
「眼の冒険」は、自分自身が困り進まなくなったとき、この本を無造作にザッと開いて、パッと眼に飛び込んできた絵やキーワードで、気づき・ひらめきの刺激剤として活用しています。Dainさん、サンクスです。
投稿: シュークリーム | 2009.05.28 21:38
>>シュークリームさん
ああ、その通りです。どのページを開いても、何かの気づきは確かに得られますね。
投稿: Dain | 2009.05.28 23:44