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松岡正剛の読書術【入門】

多読術 中高生向けだが、セイゴオ・ワールドの入門書としてもうってつけ。

 タイトルに「多読術」とあるが、この「多」は本の量でも読書スピードでもない。本と向き合う姿勢が多種多様であるということ。巷に数多の多読・速読を誇る人とは完全に一線を画した松岡正剛(=セイゴオ)式読書術が明快に語られる。

 まず、読書はもっとカジュアルなものだと言い切る。別に崇高な営みでもなんでもなく、何かを着ることに似ているというのだ。「読書はファッション」という言い方もあるが、もっと日々の着るものに近いという。

 すると、面白い連想がうまれてくる。子供服、学生服、パンツもあれば、スーツもある。成長や好みに合わせて服を替えてきたし、身丈に合わないサイズに背伸びしたこともある。これを「着る=読む」に置き換えるのだ。さらに、服は必ず重ねて(組み合わせて)着ていることがポイント。同様に、本は一冊ずつ、一冊だけを読んでいるのではなく、合わせて/重ねて読めばいいという。

 そして、多様な読み方を提案している。読書中もギアチェンジするように、さまざまな読み方を試し、自分が読むときの「読中感」をイメージせよという。では、どれくらい多種多様なのか? 熟語的に言うならば、こんな感じになる。

    「感読」「耽読」「愛読」「敢読」
    「氾読」「食読」「録読」「味読」
    「雑読」「狭読」「乱読」「吟読」
    「攻読」「系読」「引読」「広読」
    「精読」「閑読」「蛮読」「散読」
    「粗読」「筋読」「熟読」「逆読」

――これらは、あくまで、とっかかりとしてのイメージ。ここから連想される「読み」を自分で感じ、その「感じ」に合うような読み方を探すのだという。「すごい読書」とはこういう読書のことを指すのだろうね。

 もっと具体的な「術」も紹介している。「千夜千冊虎の巻」と被るのだが、ここでも浚ってみよう。もっと詳しい解説は、「松岡正剛の読書術」をどうぞ。

  1. 目次読書法――必ずやるべき前戯。目次にはその本の最もよくできたアウトラインが示してある。目次をしっかり読んで、本の内容を想像する。そしてパラパラとめくり、想像と中身を照合する。
  2. マーキング読書法――本をノートとみなし、気づいたことや連想したことを書き込む。しかもそのノートは真っ白のままなのではなく、すでに(著者による)書き込みがしてあるノートなのだと考える。それを読みながら編集する、リデザインする。
  3. 読書は「自己編集」かつ「相互編集」――読書とは一種のコラボレーション。著者が書いたことを理解するためだけにあるのではなく、書いてあることと自分が感じることとが「まざる」ことが重要。
  4. 本は三冊読め――書物は書棚とワンセット。書物がメディアなら、書棚はメディアプレイヤー。本は三冊の並びでつながっている。書店で本を見るときも、めぼしい本が目に入ったら、その左右の一冊も見て計三冊にして、「三冊の並び」を感じてみる。
  5. 自己反映としての読書――免疫学によると、自己形成には一抹の「非自己」が関与していることから、ちょっとだけ「非自己」を入れてみる。つまり、「変な本」も混ぜた読書。これによって、「自己」という免疫システムを形成する。
  6. 読書の頂点「全集読書」――個人全集の場合、一人の著者がたくさんのさまざまな投球と球種を見せてくれる。どんな単行本を読むより、構造的な読書ができる。つまり、一人の著者ととことんつきあい、「密度」「集中力」「言語力」「思考力」がマッピングされる様子を連続的・立体的に見る。
 それでも、セイゴオ氏の新たな一面を知って愉快な気分になった。「読書は毒書、劇薬にもなる」という見方や、読書に効用や利便を追求する風潮にゲンナリしている様、さらには宵っぱりのヘヴィ・スモーカーであることも知った。
ぼくは活字中毒者で、かつ、断固たるタバコ中毒者です。いずれも一生、治らないビョーキでしょう。でも、これは治す気はまったくない。長年かけてせっかく身についた悪癖です(笑)。だいたい、本を読むときに一番タバコを喫ってますよ。
 深夜、独り、紫煙をくゆらせながらページに向かう… ううう、うらやましいぞ。わたしの場合、読書タイムは痛勤タイム。満員電車の天井に向かって読んでいる(唯一、混んでない空間だッ)。わたしが卒煙してずいぶんになるし、(周りを含めた)タバコの害悪はじゅうぶん承知いるつもり――だけど、それでも、「深夜・独り・紫煙」読書は、うらやましい。セイゴオ氏は、寝るのはAM3:00以降という生活を、30年間続けてきたのだという。ぜひ起床時刻を知りたいものだが、書いてなかった。

千夜千冊虎の巻 入門編とはいえ、松岡正剛の読書術、窓口広く、奥深し。応用編は「千夜千冊虎の巻」、こっちは本気モードだ。惹句の「この一冊で千冊が読める」はダテじゃないが、消化不良に気をつけて。

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結婚生活を成功させる361のアドバイス

 イギリス人の知恵に学べという二冊をご紹介。

 その前に、そもそも「成功する結婚」って何? 家庭をつくり、子どもを育てあげること? 安らかに満ち足りて、時には刺激しあい、互いに成長すること? あるいは反語的に「死が二人を分かつまで、離婚しないこと」なのか?

 ややもすると、「ゴールイン」という言葉に代表されるように、結婚の成功は恋愛や婚活の終着のように見られることがある(ホントは「スタート」なのにね)。その取り違えが、さまざまな「こんなはずじゃなかった」という嘆息を生みだしてきたのではないかと。

 キレイゴトはともかく、わたしの場合、嫁さん子どものおかげで死なずに生きていられる。独りのときは、非道かった。ルサンチマンを気取る奴がいるけれど、その1000倍くらいナイーヴで、恥知らずで、怖いもの知らずだった。過去のわたしを連れてきたら、穴掘って埋まっておきたいくらい恥ずかしくなる。

 そういや、結婚して十年になる。わたしがまともに生きていられたのは、この結婚のおかげ。独りのままだったら、誰かか何かに突撃して飛び散る人生だったろう。でも、「だからオマエも結婚しろ」なんて言えない。わたしの場合、縁(運?)にめぐまれたとしか言いようがないから。悪いことばかりじゃないけど、いいことばかりでもないから。

 そういう十年選手の視線で二冊を読み解くと、機知と示唆と後悔に満ち溢れていることが分かる。ニヤニヤ笑って読んでいると、グサリと刺さる箴言が待っている。ヒトゴトじゃぁ、ありませんぞ。

イギリス人の知恵に学ぶ妻がしてはいけない180のこと まず、「イギリス人の知恵に学ぶ妻がしてはいけない180のこと」から。著者は女性なので、「妻サイド」のアドバイスが的確かつ具体的でいい。たとえば、「夫」の定義は、なかなか辛らつだ。

靴紐がきついといっては大騒ぎし、卵の賞味期限が切れているといってはヘソを曲げる。まともな女性が誰ひとり理解できない理由で、腹を立てたり、すねたり、はしゃいだりする、それが夫なのだ。
 そう、現実を見つめ、現実的になれと。些細なことにイラ立ってはケンカしても仕方ないじゃないかという。そうだね、どんなに惚れてても、一緒に暮らせばアラは見えてくるもの。古くは「婚前には両目を大きく開いて見よ、結婚してからは片目を閉じよ」という金言があるし、最近なら、「ちっちゃいことは気にしない、それ!わかちこわかちこ~」だね。

 おお、これは!と見開いたのは、次のアドバイス。単純かつ強力だ。

のどまで出かかっても、夫に「だから言ったでしょ」と言ってはいけない。言っても何の得にもならないが、言わないでおけば夫は感謝する。
 著者は夫に向かって、何度も言ったんだろうな、そして夫に「感謝されない」仕打ちを受けたんだろうな、とひとりごつ。あるいはこれ、「妻→夫」に限らず、その逆も然りかと。何かで失敗した嫁さんに向かって、「ほらね、オレの言ったとおりじゃん」なんてうそぶいて、いい結果になった覚えがない。

 笑ったのが、「やきもち禁止」。180のアドバイスのうち、10コも使って「やきもちダメ」という。著者は自分のやきもちで相当苦労したらしい。夫の女友達・男友達、夫の仕事、夫と娘、夫の趣味、夫が参加しているサークル活動に、「やきもちを焼くな!」と主張する。ヒートアップしていく様子は、単なる助言を超えている。さらに、「やきもちほど、女性を老け込ませ、みじめにさせるものはない」の裏側の悔恨が垣間見えて、気の毒になってくる。

イギリス人の知恵に学ぶ夫がしてはいけない181のこと 次は、「イギリス人の知恵に学ぶ夫がしてはいけない181のこと」。「妻」よりも一つ多いのがミソ。これも、ハッとさせられるものが多い。たとえばこうだ。

妻の心を細部まで理解することを望んではいけない。
女は複雑な道を経て答えを出すので、
女性があれこれ考えることに、
「なぜ?」と聞いてもあまり意味がない。
 ああ、確かにそうだ。わたしなんざ絶対に思いもよらない理由で行動することがある。そのいちいちに論理的な説明を求めても、ケンカになるだけ。ここは、「そうだね」と返し、積極的に共感するほうがいい結果を呼ぶ。言いえて妙なのは次の助言。
妻を操縦しようとしてはいけない。
導くほうがはるかに簡単なのだから。
 これも同意。嫁さんをコントロールしようにも、できるワケがない。意図がバレたら怒られるのは必至だし。むしろ、一緒になって取り組み、最終的には彼女の頭で「望ましい結果」にたどり着くように仕向けるのがベスト。決して強要してはいけない。愉快なのは、「妻サイド」の助言。「夫を操縦するのなら、バレないように注意してね」という。これは不同意。バレないように上手くやってるつもりなのかもしれないけれど、バレてるよ、おそらくね。

 オトコゴコロに刺さるのは、このアドバイス。浮気の事実よりもむしろ、妻の反応が冷ややかだ。

浮気をしてはいけない。
あなたの妻が嫉妬するかは別にして、
あなたを軽蔑することは確かだ。
 二次元キャラに恋するのは浮気になるのだろうか? 「うおぉぉー、いおりん、好・き・だー」と座布団を抱いてごろんごろんするのは浮気だろうか? 軽蔑されていることは確かだが、嫁さんはまこまこに2回もプロポーズしてるし… 奇妙な四角関係が成立している。まぁ、「共通の趣味をもて」というアドバイスは実践しているから、よしとするか。

 ときには、「妻」バージョン「夫」バージョン、どちらも時代を感じるところがある。

 妻子を放っておいて夜遅くまで遊び歩くな、とか、高圧的になって恐怖で支配するな、といった「莫れ」を見ていると、今どきそんな夫がいるかしらん、と思えてくる。頑固で暴君のような「ビクトリアン・ファーザー」が浮かび上がってくる。

 その一方で、「妻」とは、お金に疎く、世間知らずだという前提で語られている。「女の子は幼い頃は父親の召使いで、成長し、妻になったら夫の女中」などと揶揄されていたそうだが、今どきそんな女性がいるかしらん。

 それもそのはず、本書の出版は1913年(大正2年)のこと。訳者曰く、どんなに飲む打つ買うにハマっていても、家庭にお金を入れておけば、世間的には「よき夫」としてまかり通っていた時代だという。やたら古き良きイギリスをありがたがり、「これだから日本はダメだ」という人には、ちょっとしたカウンターになるかも。

 また、原題が"Don't's for Wives/Husbands"となっていることに注目してみよう。つまり、これは結婚生活における禁則事項なのだ。これはダメ、あれもダメというようで、いささか息苦しい。「何々する莫れ」に囲まれた禁欲的なイギリスを彷彿とさせられる。読み手は鵜呑みにするのではなく、「莫れ」を「願望」に裏返してみたり、いかにもイギリス的な開き直り(マズい飯)にプッとしながら味読するといいかも。

 あるいは、禁止事項に閉口するのではなく、「こうしよう(Let us...)」で始まるほうに着目すると、するりと入ってくるかも。これは「妻」へのアドバイスだが、夫婦両方に通ずる。幸せな結婚生活のためのゴールデンルール。

待ってさえいれば、夫が幸せにしてくれると思ってはいけない。
夫を幸せにしようと積極的になると、
妻自身が幸せであることに気づくはずだ。
 そうだね、幸せにさせようと努力しているときが、いちばん幸せなのかも。

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サイエンス・コミュニケーションの種本「一粒の柿の種」

一粒の柿の種 息子の教科書を読んでて、ちょっと不安になるのが、「理科」の内容。

 受験にも直結する「国語・算数」はみっちり詰まっているのだが、「せいかつ」――いわゆる「理科」が薄すぎやしないか?教科書の厚みだけではない。知識としての自然科学は教えられるものの、安全面への配慮からか、ほとんど実験・実習はしないようだ。

 そんなバカ親の心配に乗じてか、「サイエンス倶楽部」[URL]なるものがある。「科学実験から広げる体験型総合教育」を謳っているが、要するに習い事だ。学校という現場からして理系離れが進んでいる証左なのか。

 「一粒の柿の種」を読むと、ちょっと嬉しくなる。ポピュラーサイエンスが、一般社会に与えてきた影響を、具体例でもって検証している。予想通りといったものもあれば、まったく新しい知見も得られた。ともすると「文系」に偏りがちなわたしに、いい刺激をもらった。

 たとえば、「遺伝子」や「DNA」などの科学用語が、人口に膾炙していく様子を、「本のタイトル」という切り口を使って鮮やかに示す。「遺伝子」や「DNA」といったキーワードが書名に入っている出版点数の推移をWebcat Plusで調べあげ、ドーキンス「利己的な遺伝子」の出版や、クローン羊「ドリー」の公開といったイベントと重ねてみせる。「モーニング娘。のDNA」、「トヨタの遺伝子」といった書名や、テレビ番組の「カンブリア宮殿」などを見るにつけ、メタファーとしての科学用語が浸透していることが分かる。

 あるいは、グールドの「歴代ミッキーマウスの身体測定」について語りだす。ミッキーが世に出てから80余年、設定ではティーンエイジャーのはずなのだが、時代を経るにつれ、手足や顔つきのバランスが「幼児化」しているという。丸顔で、相対的に頭と目が大きく、手足は短い。そんなミッキーをカワイイと思い、思わず抱きしめたくなる。

 そう思うのも当然で、動物行動学者ローレンツによれば、本能的な育児行動を引き出すための適応的な反応だそうな。つまり、幼児化したミッキーマウスに愛らしさを感じる反応は、本能をくすぐられている結果だということになる。さらに著者は、「鉄腕アトムの身体測定」を行い、歴代アトムの幼児化が進んでいることを示している。「本能」といわれればミもフタもないが、「萌え」にも通ずるところがあって興味津々になる。

 また、「ロウソクの科学」ならぬ「シャンパンの科学」が面白い。ビールやシャンパンの「泡」といった身近なものにも科学の"発見"が潜んでいるという。グラス一杯分のシャンパンの泡の数は、約200万個といわれるが、ぴかぴかに磨き上げたグラスに、チリひとつない状態で注ぐと、泡は一切、立たなくなるそうな。

 これは、シャンパン液の粘性(ファン・デル・ワールス力)に抗して二酸化炭素の泡が立ち上がるためには、核となるエアポケットが必要だからだという。そして、それを提供しているのが微細なチリやセルロース繊維の空洞なんだって。あの細かな泡のきっかけがチリや繊維だっとは…今度シャンパンを飲むときは、じーっと見つめてしまいそうだ。

 こうした親しみやすいポピュラーサイエンスも、いわゆるバリバリ最前線の科学者から言わせると、「ていどひくい」になるそうな。一般向けの解説は陳腐化だとか、正確さの削ぎ落としだという決め付けに、著者は異を唱える。世間における人気度と、専門コミュニティ内での評価とが反比例しているとし、その理由はグールドの次の返答をもってくる。

   「ジェラシーのせいさ!」

 著者は、そんなやっかみを「セーガン現象(Sagan effect)」や「セーガン化(Saganization)」と呼ばれていると言うのだが、著者自身の視線が垣間見えて面白い。大ベストセラー「生物と無生物のあいだ」が長々と引用し、「まるでネオハードボイルド小説の書き出しか、村上春樹のエッセイの一節みたい」と賞する。

この本がベストセラーになった要因は、ちょっと気取った流麗な文体と、巧みなストーリーテリングの才によるところが大きい。さらには、分子生物学本流に対する著者なりのアンチテーゼが一般読者の共感を呼んだのだろう。
 そして、逆にこの要因こそ、同業仲間や科学系のジャーナリストたちから「絶賛の嵐」が巻き起こっていない所以だろうと、意地悪く想像するのだ。その分析はおそらく"正解"なんだろうが、書き口が鞘当っぽくて人間味あふれてて◎。ベストセラーというのは、「ふだん本なんか読まないような人たち」が争って求めているからベストセラーなのだから、そんなに目くじらたてなくても…と思うのだが。

 著者はまた、一般の人が持つ科学者へのイメージについて着目する。「手塚治虫の描いた科学者の死亡率」の調査結果(死亡率30.1%、心身喪失13.3%)を元に、「科学者=危険な職業」という思い込みを浮かび上がらせる。マッド・サイエンティストだけではない。最近では「カッコイイ理系」もいることを、福山雅治主演「ガリレオ」や、米ドラマ「CSI――科学捜査班」などをひきあいにして指摘する。イメージ戦略は、流行を知ることから始まる。最近の科学者は、どう表現されているのだろうか。息子が身近な科学者といえば――ドクター・ヒヤリか、一匹狼のガオンか…

 ちょっと「子供の科学」買ってくる。

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怪物側の事情「サルガッソーの広い海」

サルガッソーの広い海 化学変化させる性質をもつ。併読すると劇薬の触媒と化す。

 あるイギリス紳士と結婚したクレオールの女が「狂っていく」さまが緻密に描かれる。一読するとサイコ悲劇と写るが、この「狂った」女が自分の記憶とつながった瞬間、いいようのない戦慄に犯されるかもしれない。

 ネタバレ系ではないので、まずこの小説の正体を明かそう。女の名は、バーサ・ロチェスター。英文学の最高傑作として挙げられる「ジェイン・エア」では怪物として扱われる彼女こそが、この小説の主人公となっている。

 メロドラマを面白くするには悪役が必要だ。その対比のおかげで、ヒロインは気高く、賢明に映えることができる。代わりに悪役の方は、狂気と醜怪を一手に引き受け、ヒロインの幸福を破壊する存在となる。C.ブロンテは偏見の材料を西インド諸島に求めた。わかりやすい偏見の観念として、髪の毛や肌の色の「黒」が強調され、飲酒と狂気に陥ったとはいえ、人外として容赦なく扱われている。光文社古典新訳の「ジェイン・エア」では、こう描かれている。
ジェイン・エア

「ぞっとするような恐ろしい顔でした――ああ、あんな顔は見たこともありません!色変わりした、獰猛な顔でした。ぎょろりとむいた赤い目と黒ずんで膨れあがったものすごいあの顔を忘れられたら忘れたいのです!」(下巻p.182)

狂人は彼の喉につかみかかり容赦なく締めつけ、彼の頬にがぶりと噛みついた。二人は揉み合った。大柄な女性で、背丈は夫と同じくらい、その上ぶくぶく太っていた。(下巻p.186)

 では、なぜ、こんなモンスターとなったのか? やはり、「ジェイン・エア」で説明されているように、呪われた家系や血のつながりこそが原因なのだろうか。「サルガッソー」を読むと、そこにクレオールへの蔑視の視線が混じっているように見えてくる。イギリスの貴族社会を成り立たせている植民地の実体とともに、この欺瞞があばかれる。彼女、および彼女の家系の「狂気」が、形成されていくさまが分かるにつれて、イギリス社会が覆おうとしていた嘘が、ロチェスター卿――ジェインとつながろうとし、バーサとつながろうとしていた男――を通じで展開される。次の一文が象徴的だ。ロチェスター卿はカリブの島で一種の「魔術」をかけられるのだから。
なににもまして彼女が憎かった。なぜなら彼女はここの魔法と美しさに属していたからだ。彼女はぼくを渇いたままほうり出し、そのせいでぼくは見つける前に見失ってしまったものを求めて渇きつづける人生を送ることになるのだ。
 彼女の狂気は、本物だろうか? もちろん、あるところからホントの狂気に陥っていることは分かるのだが、そこに至らしめたものは何・あるいは誰なのか――これは、裏返された「ジェイン・エア」。古典的なメロドラマを欺瞞に満ちたミステリに化学変化させる。

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白痴化する老人、無教養のサラリーマン、そして、あつかましい若者たち

 どうやら、一億総「無脳」化の時代らしい。自己中心主義で、感情だけで脊髄反射する、老人、若者、サラリーマン――どこにも知性や教養が見えない。美しい日本語が失われ、このままでは日本はおかしくなってしまう。

 たとえば、老人は、1日にどれくらいテレビを見ているか?

 ある調査によると、65歳以上の老人の実に8割が、1日に9時間ものあいだテレビを見ていることが分かった。1日9時間!これはあまりにも長すぎる。テレビばかり見ていると、想像力や思考力が低下してしまうという「一億総白痴化」によれば、老人の白痴化は粛々として進んでいるといえる。

 そして、社会を担うサラリーマンの教養はどうだろう?

 日本のサラリーマンが、1年間に自分で買って読む本の数は、単行本がたった3冊、週刊誌が12冊だそうな。これが1年間の読書量なのだ。あとはせいぜい会社から与えられた仕事の資料ぐらいしか読まない。これでは蓄積どころか、頭のほうはどんどん退化していく。国民がどんどん愚民化していくのは、まず本を読まないことから始まっているといっていい。

 では、若者たちは? これからの日本を担う若者たちはどうだろう?

 いわゆるいまどきの若いものは、一時的にキャアキャア騒ぐことにかけては名人だが、恵まれた時代に甘やかされて育っているので、箸にも棒にもかからないようなグウタラ人間もいる。暴走族といった、自分の不良性をテレビや雑誌でさらけだすあつかましい若者たちがいる。

気くばりのすすめ ――――――――というエッセイを読んだ。「気くばりのすすめ」というやつで、書いた人は鈴木健二。NHKのアナウンサーで、30代以上なら彼が司会の紅白歌合戦を見たことがあるだろう。初版は1982年で、400万部以上の大ベストセラーになったから、ご年配なら読んだ方も多いだろう。

 しかし、本書の魅力はここで尽きない。「ちかごろの若者はダメだ!」とか、「国民が幼稚化しているッ」といった憂国モノが流行っているが、本書はソコで留まらない。滑らかな言葉でバッサリ斬っていっちょうあがりの売文教授とは異なり、対策が具体的かつ自伝的に明かされている。

 では、どうすればよいか? タイトルにもなっているとおり、「気くばり」こそが国を救うそうな。

 気くばりや思いやりは、知識として頭にあっても、それが血肉化していない限り、何の意味もないそうな。最近の日本人には「やさしさ」が欠けていると言われているが、日本人の心が冷たくなったわけではない。社会的訓練や習慣に起因するのだという。つまり、気くばりや思いやりの気持ちを表すことに、単に慣れていないからなのだと。

 そして、気くばりや思いやりを表現することは、「技術」や「コツ」なのだという。子どもたちに知識を詰め込んでよしとするのではなく、思いやりを行動に移す訓練をつむことで、変えられると主張する。

 たとえば、会社で部下に声をかけるとき、「名前」をつけてみてはと提案する。部下というのは、上の人に名前を呼ばれている限り、「自分はこの人に信頼されているのだ」という実感を持つ。だから同じ呼ぶなら、「オイ!」や「そこの若いの!」といった代名詞ではなく、ちゃんと名前で呼んだほうが部下掌握の決め手になるのだという。

 また、教育は幸福になる決め手で、そのための安上がりで楽しい方法は、読書だという。NHKのアナウンサーという仕事上、週に最低30時間の読書をしているのだと豪語する。なかでも数学が最重要だとし、30時間の中で最低4~5時間は数学史の読書にあてているそうな。数学はもともと不得手だったが、物事を論理的・体系的に考え、まとめあげていくために、どうしても必要だという。

 そして、冒頭の白痴化する老人を作った原因は、「テレビ」だと断ずる。食事の時間、家族全員がそろうが、誰も口をきかない。行儀よく食べているからではなく、全員が顔をテレビの方へねじっているからだという。

 いまの家族はテレビという便利な道具を入れた反面、本来あるべき家族の団らんの時間を失ってしまったのだという。こうした家庭で育つ子どもに思いやりの芽が育つはずがなし、老人をいたわり愉しませる方法なんて、テレビ以外に誰も知らなくなったのだろうと想像する。

 御説ごもっともかもしれないが、テレビのアナウンサーにあるまじき発言なところがご愛嬌。とはいえ、言ってることは、かなりマトモ。あたりまえのことを、あたりまえのように言う態度は、時代を超えて共感できるところが多い。「人間は幸福になろうと努力している間が一番幸福なのである」なんて、ハッと胸を衝かれる警句に出会える。

 四半世紀前から老人は白痴で、リーマンは無教養で、若者は馬鹿者だった。今のいまこそ危機なら、まず彼我の差から説明してもらわないとピンとこない。なにをいまさら、というやつね。イマドキの、言いっぱなしでオシマイの警世放談とは偉い違う。上から目線を気にせずに、得られるモノはちゃんと吸収しよう。

 参考。近ごろの若者は意志薄弱で逃げてばかりいる件については、[ココ]。2000年前から若者は馬鹿者だったらしい。その証拠は、[ココ]をどうぞ。いつの世にも、自国を滅ぼしたがる警世気取りの連中はいたということで。おそらくこれは、トシとるとかかる、一種のビョーキのようなものなのだろう。

 わたしもトシをとってゆく。自戒を込めて。だから、「最近の○○はなっちょらん!」なんて言い出したら、遠慮なく罵倒してくださいませ。

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現代的な神話「カッサンドラ」

カッサンドラ もしも願いがかなうなら、透明人間になりたいと思ったことがある。

 吐息を白バラに変えるとか、ちゃちなやつはご免だね。誰にも見とがめられず、あの娘やこのコの××なところを覗きたい――と妄想をたくましくしていたのだが、透明人間はモノを見ることができないと知った。光を像として結ばせるため、目の裏側の「闇」が必要なのに、肉体が透明なので、そこに光が入ってくる→見えないというわけ。

 カッサンドラの場合は、予知能力を欲した。アポローン神の恋人になる代償として、予言の力を授かったのだが、ギリギリになって神を振ったのだ。袖にされた神は怒って、カッサンドラの予言をだれも信じないようにした。

 裸を見れない透明人間と、誰にも信じてもらえない予言者と、どちらが不幸か?

 そりゃ透明人間だろうと思うかもしれないが、どんなに警告しても、だれも信じてくれないんだよ? 「その木馬を入れてはいけない、トロイアが滅ぶぞー」といくら叫んでも、だれも耳を貸さない。まさに一人「志村後ろ」状態。そして、予言どおり滅亡するのだ。トロイアの王女の一人としてこれを受け入れねばならないとは、いかほどの悲嘆を要しただろうか。

 戦争には陵辱がつきものだし、まして王女となれば「戦利品」として扱われる。神話の時代のトロイア戦争を陵辱される側――つまりカッサンドラの視点で独白する。全編これモノローグのオンパレード。すべて彼女の脳内再生となっており、「語り」の場所は動かない。だいたい、冒頭のページで、彼女があと数時間で死ぬ運命にあることが明かされる。「この物語を語りながら、わたしは死へと赴いてゆく」と、分かっていながら受け入れている。

 では、そういうヤられっぱなしの人生なのかというと、180度ちがう。まるで逆だ。アキレウスをだまし討ちするために、おっぱいを見せる妹とは偉い違う。運命は変えられない、それは分かっているのだが、その中で必死に抗おうとする。主張する女性、反抗する女性として描かれている。ここに、女性を「モノ」として扱ったヨーロッパ三千年史をひっくり返そうとする著者ヴォルフの意図を垣間見ることができる。神話を扱っているのに、極めて現代的な小説となっており、興味がつきない。

 あるいは、神様の役割がまるで違っていて、面白い。残虐行為に正統性をつけるために、ギリシャ神話では神々がふんだんに登場し、時には戦いの帰趨すら決めてしまう。人間の歴史にちょっかいを出してくるホメロスと異なり、ヴォルフの「カッサンドラ」ではほとんど神々が出てこない。予言能力を授けるアポローン神ですら、彼女の夢にでてくる「狼」の姿をとっている。神々に因らない彼女の姿を見ていると、最初からそんなものはいなかったのかとさえ思えてくる。そしてカッサンドラは、自らの運命を、自分で選び取ろうとあがくのだ――たとえそれが、いかに過酷なものになろうとも。

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はっきり言います、あなたのような生き方をしている限り、人生は千年あっても足りません。時間などいくらあったところで、間違った生き方をすればすぐに使い果たしてしまうものなのです

人生の短さについて 人生の原則本として扱ってもいいが、かなえられなかった人生へのレクイエムとして読むと、より魅力的な本になる。

 「人生の短さについて」を読むと、ある気づきがもたらされるが、これを読もうとするような人は、遅かれ早かれ、自ら気づくに違いない。そのエッセンスはこうだ。

人は自分の時間を無駄遣いしている。自分が永遠に生きつづけるものと思い、他人のために使っている、今日という一日が、最後の一日かもしれないことを、忘れてしまっている。

死を免れないものとして、何もかもを恐れながら、そのくせ不死の存在であるかのように、何もかもを手に入れようと望んでいる。追い立てられるように毎日を過ごし、病にかかったかのように、未来を切望し、現在に辟易としている。

未来に確実なものなど、何もない。今、ここを生きようとしなさい!

 セネカに言わせると、「人生は短い」とは大嘘だそうな。人生が短いと言うものは、与えられた時間の大半を無駄にしているにすぎないという。人の一生の短さを嘆くアリストテレスをひきあいに出して、「賢者にはとうてい似合わぬ」とバッサリ斬っている。

 では、どんな「無駄」をしているのかというと、これまた容赦ない。


  • 無意味な仕事にあくせくするもの
  • 酒や怠惰な生き方に溺れるもの
  • 上司にこびへつらって疲弊するもの
  • 誰かに評価されることに血道を上げるもの
  • 拝金主義に突き動かされ、儲けのために走り回るもの
  • 自分が傷つけたくないばかりに、戦いの衝動にとりつかれるもの
 だれもが、他人の富を奪うことか、自分の財産にケチつけることに大忙しで、結局、自分の一生を無駄遣いしてしまっているそうな。セネカは、さまざまな実例を挙げながら、人生を自ら短くしている人の生態を描き出し、痛烈に批判している。わたしたちが実際に「生きる」といえるのは、人生のほんの一部にすぎず、残りの部分は人生ではなく、単なる「時間」だという。

 いいや、違う、そんなことは「無駄」じゃない。富や権力を求め、才能を伸ばすことこそ、「人生を生きる」ことだと信じる人に対して、セネカは神皇アウグストゥスを持ってくる。この初代ローマ皇帝の一番の願い――国務から解放され、悠々自適の毎日を送りたい――を指摘し、激務の毎日や栄華への犠牲に注目する。「そんな人生、ホントにいいの?」と、大きな疑問符をつける。

 事業や仕事に打ち込む者を無駄だと断じ、芸術や趣味に生きるものを人生の浪費だとこきおろす。そのくせ、「悠々自適な人生」とは何か、なかなか示そうとしない。後に、「悠々自適=哲学」だと主張し、それ以外を無意味だと貶める。「自分の人生を自分のために使おう」というメッセージは共感できるが、そのためにあらゆる他者を批判するやりかたは、「最近の○○はなっとらん」と同じ臭いがするぞ。

 では、著者セネカ自身は、どんな人生だったのかというと、疾風怒濤がお似合いの人生だったそうな。

 セネカは裕福な騎士階級に生まれ、三十代で財務官の職を得、元老院議員になる(当時の出世コース)。トントン拍子もつかの間、宮廷内の陰謀に巻き込まれてコルシカ島へ追放される。八年間の流刑地生活後、ローマに戻り、法務官に選出され、公職の頂点である執政官まで上り詰める。

 さらに、暴君ネロのバックボーンとして活躍するが、横領の罪で告発され、皇帝暗殺未遂の咎で自殺を命ぜられる。最初は毒人参を飲んだが死に切れなかったため、風呂場で静脈を開いて死に至ったという。

 「人生の短さについて」は、政界から退いた晩年に書かれたものだが、そこでは、まさに彼が選んできた「生きかた」そのものが批判されている。「自らをもって経験してきたことだから、信用できる」と言えるかもしれない。しかし、そのワリには、自らの体験が述べられてない。批判する材料を他人に求め、「わたしの人生」は、本書を読む限り、一切述べられていない。まだ、「わたしは後悔している」と正直に告白するほうが反面教師になるのだが、最後まで「いいこ」でいようとしているのがあざとい。

 本書はいわゆる「古典・名著」の類なので、分かったような口をきくことはたやすい。しかし、せっかくだから、著者の背景から照射してみよう。わたしは、「ローマ人の物語 悪名高き皇帝たち」が参考になった。

ローマ人の物語17ローマ人の物語18ローマ人の物語19ローマ人の物語20
はっきり言います、あなたのような生き方をしている限り、人生は千年あっても足りません。時間などいくらあったところで、間違った生き方をすればすぐに使い果たしてしまうものなのです
 この言葉は、セネカが自らに投げかけた言葉だと読むと興味深い。裏返しに読むと、かなえられなかった人生への、強烈な嫉妬心に満ちていることがわかる。すでに手遅れとなった人生への呪詛を、社会批判にすり替えた鎮魂歌なのかもしれない。そんな彼には、いささか使い古されてはいるものの、この言葉を贈りたい。

  ∧_∧
 ( ´∀`) オマエモナー
 (    )
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 (__)_)

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机上から見える仕事ぶり・人となり「机」

机 人ん家の「机」がおもしろい。

 尖った仕事をする人となりは、その机に出てくるのだろうか。漫画家や建築家、プラネタリウムクリエイターやロボットデザイナーといった、クリエイティブの現場で活躍している13人の「机まわり」が紹介されている。

   浦沢直樹(漫画家)
   大平貴之(プラネタリウムクリエイター)
   松井龍哉(ロボットデザイナー)
   鈴木成一(ブックデザイナー)
   ひびのこづえ(コスチュームアーティスト)
   宮沢章夫(劇作家)
   箭内道彦(クリエイティブディレクター)
   寄藤文平(イラストレーター)
   中村好文(建築家)
   四谷シモン(人形作家)
   成沢匡史(ルアービルダー)
   長谷川弘(自転車店主)
   小林紀晴(写真家)

 タイトルは「机」であるけれど、ポイントは机に限定されないところ。もちろん机上の道具がクッキリ分かるように撮られているものの、むしろ、周囲の書架や袖机、作業台や資材を含めて写すことで、「たたずまい」・「雰囲気」が伝わってくる。

 椅子や小道具にこだわる人もいれば、「平らなスペースさえあれば、どこでもいい」という人もいる。共通しているのは、道具を使い尽くしているところ。特注のアルミ家具からコンビニで手に入る「ぺんてるHybrid」、使い込まれて変色したHappy Hacking Keybordまで、値段云々ではない道具に対する「敬意」のようなものが垣間見える。

 写真に挟まれたインタビューには、発想が詰まっている。

 たとえば、浦沢直樹の「マンガへのこだわり(のなさ)」は、逆説的に見えて、けっこう真理を衝いている。「パイナップルARMY」の泥臭さが好きで、最近の「見透かしやすい」作品がちょっと残念なわたしには、ちょっと衝撃だった。

漫画はやっぱりポップカルチャーなので、いかにお手軽にじゃんじゃん出すかですね。作ってるほうはお手軽じゃないんですけどね(笑)。三日かけた絵を三秒で見終わらせるっていうのが漫画の肝というか、その儚さがいいんですよ。いい絵を描けば描くほど、パラッとめくられていきますからね。
 消費財としてマンガを見てしまうのは一種の冒涜かもしれない。だが、確かにわたしは連載中の「BILLY BAT」を「パラッと」めくっている。極端な話、いちいちセリフを"読ま"なくても話が追えてしまう。これは問題なのか美点なのか分からないが、そういう「いい絵」なんだろう。

 あるいは、箭内道彦のシンプルさがすごい。「きっかけは、フジテレビ」 などで有名なクリエイティブディレクターなのだが、「シロウトは決してマネしないでください」級の思い切りのよさ。アイディアの扱い方は、こんなカンジになる。


  • メモするな、メモするとそこで止まる
  • 机がないほうが面白い、平らなところが机になる
  • 自席そのものが要らない
  • 手帳もつな。手帳にどんな文字でどんな大きさで書くかが気になってしまうから(脳がクリエイティブでなくなる)
  • 忘れるぐらいなら、そういうレベルのこと
  • アイディアは頭の中にぶら下げておけ
  • アイディアは頭の中に漂わせておけ
  • アイディアは頭の中に流しておけ

 未成形の段階でメモすることで、自分を「固定」させることを恐れる。むしろ、「もたない」こと、「ナマの状態」を受け入れることが強みになっているのかも。ちょっとマネできないが、「頭の中(だけ)にぶら下げておく」アイディアは、もっている。インタビューでは、「ぶら下がっているアイディア」をどうやって外へ出すのかは明らかにされていなかったが、そのうち公開されるだろう。

 他にも、ひびのこづえのノート術がユニーク。彼女はノートを「真ん中から使う」そうだ。両サイドに描き進めることができるからというのが理由だが、そうすることでアイディアは、一方向から二方向になる。また、小ネタながら「色付きレポート用紙」の意味を初めて知った。黄色やピンクのレポート用紙は、「下書き」という意味。白い紙に書く「清書」したものと区別するためで、アメリカ人の知恵なんだそうな。

本棚2 本書をつくったのは、ヒヨコ舎。なかなか面白い切り口を用意しており、知性のプロファイルともいうべき著名人の「本棚」の写真集を出している。わたしのレビューは、以下の通り。

  「本棚」を覗く快楽
  この本棚がスゴい「本棚2」「本棚三昧」

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カフカ「失踪者」でリアルな悪夢を

失踪者 理不尽とは、人の姿をしている。

 となりの職場に、こんな人がいる。自分の話しかしない。雑談ではなく、仕事の話でだ。一方的に、徹底的に、自分の立場を主張し、相手には耳を貸さない。命令と依頼が仕事の全て。

 もちろん論理的な説明などできず、エンドレステープのようにしゃべるだけ。自分の仕事にプラスになるときのみ反応し、後は一切、聞こえない・訊かない・反応しない。take-takeもしくは「ずっとオレのターン」な人。

 まるで、立場が服を着て立っているようで、不気味だ。論理がなく、ルールがない。だから、彼に渡った仕事はすべて止まる。誰にもどこにもバトンタッチされず、ひたすら仕事は腐っていく。間違った相手に誤った依頼を繰り返し、忌避されていることに気がつかない。周囲は「ああ、あの人か」と苦笑するだけで、関わらない。

 いや、もちろん狂っていないのだが、そういう人に相対するとき、どういう気分になるだろうか?話は最初からかみ合わないし、何を言っても相手の都合のいいように受け取られる。善悪の判断は常に相手が握っている。俺様論理が押し付けられ、自分の声は抹殺される。ああ、これぞ会社、社会、会社、社会、だ。

 カフカの小説は、いつもこんな気持ちにさせられる。

 いわれなき罪を追求されるのに、最後まで「いわれなき」だったり、なぜ虫になったのか一切の説明がなかったり。本書も一緒。「失踪者」の昔のタイトルは、「アメリカ」だったのだが、主人公に対して、「アメリカ」はとんでもなく理不尽に働きかける。彼は必死で応えようとするのだが、いかんせん歪んだ世界にはピント外れの結果しか生まない。世界はわたしが考えるほど、調和も取れていないし、筋が通っているわけでもないことを思い知らされる。

 たとえば、描かれる「女」が女らしくない。いわゆる女性らしさという意味ではなく、女という前にまずもって人間らしくない。普通なら濡場になるところが緊迫した格闘シーンとなる。とめどなく転がる展開に合理的な説明は一切なく、全て主人公の外側で決まる。

 あるいは、主人公の叔父が経営している会社がおかしい。情報の仲介業者みたいなのだが、なにもしないのに全てが決められていく感じがする。あるいは、そこだけまっとうな世界のフリをしているような感覚――映像でたとえるなら、「未来世紀ブラジル」の情報局そのもの。

 監督のテリー・ギリアムはピッタリの言葉を残している。「ぶざまなほど統制された人間社会の狂気と、手段を選ばずそこから逃げ出したいという欲求」――そう、この欲求が、見事に小説になっているのが、「失踪者」なんだ。時代もストーリーも違うが、この居心地の悪さは共通している。「ブラジル」は狂気の世界を用意したが、「アメリカ」は狂うことすら許されない。

 リアルな悪夢を見ている、そんな毒書をどうぞ。

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人体売買の告発書「ボディショッピング」

もぎたてフレッシュ!角膜  $30,000
つみたてフレッシュ!肝臓  $130,000
とれたてフレッシュ!心臓  $150,000
あなたの生命          priceless

 人の臓器や細胞、組織が売買されている。

ボディショッピング 赤ん坊から遺骨まで、あらゆる人体組織が商業目的で用いられている。肉体の商品化とマーケットの実体を明らかにしたレポートをいくつか読んできたが、本書は類書と明確に一線を引いている。大勢が賛成もしくは条件付き容認している一方で、本書は明確に反対の立場をとっている。すなわち、遺伝子や体内組織を加工し、販売して利益を得ることについて、警告し、抵抗することを目的としている。

 たとえば、精子バンクと卵子バンク。別々に精子と卵子が選ばれてきたものを、まとめて選べるようになっただけだから、新たな倫理的問題が発生するわけではないという主張がある。これを、ワンストップショッピングだと断じ、赤ん坊を露骨にカネで買うことだとバッサリ。

 あるいは、卵子を売ることで生計を立てる女たちは、献血をするのと同じ感覚で、提供したあとは忘れてしまうと非難し、「単純に、預金や株式などの財産と同じように考えていいのだろうか?」と疑問を投げかける。

ビューティー・ジャンキー また、「ビューティージャンキー」[レビュー]を例に挙げ、美容整形手術の行き着く先は、「新しい顔を買う」行為だとする。「ほんとうの私」を取り戻すための自分探しはどこまで追及されるのかと疑問を呈し、フランスの顔面移植手術を非難する。化粧品を買うようにフェイスショッピングできるようになるのも時間の問題だという。

 提示される金額はどうであれ、人体組織の売買は搾取だと言い切る。それは、人間をモノとして扱い、人間の尊厳を傷つけることだと主張する。遺伝子が特許化され、卵子が「収穫され」、さい帯血が「バンクに保管され」ている昨今に、それらに対する違和感は見過ごされているそうな。

 しかし、「反対」という立場は分かるのだが、その理由が伝わってこない。あるいは、どこまで反対なのかも分からない。たとえば献血。売血は批判しているものの、自己犠牲を動機とした献血は否定しない。では献血の見返りに、ちょっとしたドリンクやお菓子が渡されたら?透析のリスクを免れるため、腎臓の提供を求めることは、「人間の尊厳を傷つける」ことになるのだろうか?子どもがほしい夫婦の不妊治療は「悪」なのか?――疑問点は出てくるが、本書では論点の対決を回避している。

 おそらく、議論のトリガーとして「こういう事例がありますよ」という立場なのだろう。リスクに注目させ、非人道的扱いを指摘し、違和感を掻きたてるだけで目的達成としており、読み手はフラストレーションに陥る。現実と(書き手の)理想のギャップは分かった、じゃぁどうする?がないのだ。高らかに告発する「No!」は聞こえても、前提や範囲が見えない。

 こうした議論に入る前に、わたしは「もし自分の身に降りかかったら…」と考えてしまう。人間の尊厳は守られるべきだが、それはわたしのいかなる部位にも宿っているのだろうか?といった観念論から、自分が透析に苦しむようになったら、光を失ったらといった仮定の話、さらには、自分ならまだしも、わが子の命ならどうする――といった極端な想像までしてみる。

闇の子供たち もちろんわたしが想像するぐらいだから、既に誰かが書いている。強烈なやつは「闇の子供たち」[レビュー]。類書では華麗にスルーされている臓器闇市場が、たとえフィクションの形でも、ありありと描かれているのが生々しい。

  日本人母「息子の心臓病のドナーを待ってられない」
  ↓
  ブローカー「4,000万でいかがっすかぁ」
  ↓
  NGO職員「生きた子から心臓を移植することになるッ」
  ↓
  日本人母「ウチの息子に死ねというのですかッ」

 ステレオタイプなキャラが青年の主張をする後半があざといが、上記のやりとりは、お話の中とはいえ、想像したくないもの。同じ境遇に立たされた場合、ためらうことなくわたしはこうした行動を取るだろうか。

中国臓器市場 より現実に即したルポルタージュなら、「中国臓器市場」[レビュー]が白眉。「早い・安い・上手い」のどこかの牛丼屋のようなキャッチコピーがぴったりなのは、いわゆる「死刑囚ドナー」のおかげだ。交通事故など不慮の死によって、突発的にもたらされるドナーに頼っている某国とかなり違う。「人道的」や「人間の尊厳」に目をつぶれば、こんなメリットが挙げられる。


  • 若くて健康な臓器が用意できる
  • 事前検査を行うため、肝炎やエイズウィルスなどの感染を防止できる
  • 死刑執行の日時や場所が事前にわかるため、摘出直後の移植が可能
  • 死刑は毎年大量に執行されるため、ドナーが途切れることがない

 「死刑囚ドナー」という仕組みそのものが大量供給を可能としており、その結果、新鮮な臓器を必要なタイミング(ジャスト・イン・タイム)で供することができる。死刑囚の家族には謝礼が渡され、病院は良い外貨稼ぎになり、(カネ持っている)患者は待たずに移植が受けられる。その是非は議論されていないが、こうした「市場」が存在することは事実。

ベビービジネス 赤ちゃん売買も盛んだ。「ベビービジネス」[レビュー]によると、金に糸目をつけず、子を切実に求める需要がある限り、そして、それを供給できる医療技術やサービスがある限り、市場は成立するという。肌・目・髪の色や遺伝特質を予めセットアップされた、「デザイナーベビー」 や、遺伝的に劣位な胚を除外する生殖補助サービスを見ていると、人間はどんなことまでもやれてしまうものなのだということを思い知らされる。

 既成事実は、わたしの想像の先を行っている。

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14冊の理系の名著

世界がわかる理系の名著 「世界がわかる理系の名著」ではなく、「世界がかわる理系の名著」だね。

 なぜなら、ここに挙げられた本は、人類の価値観を根底から覆し、世界を文字通り変えたものばかりだから。こうした本のおかげで、人類は「世界がわかる」ようになったのかもしれない。

 いわゆる文系の名著とされる戯曲や小説は、少なくとも生まれた時代に迎合する必要があったから。「時代を先取りした」形容詞は釣書きにすぎず、真に先進的ならば、ノイズに埋もれ後世に残らない。

 しかし、この14冊の本は違う。世に出たとき、まともに取り合ってもらえなかった。むしろ、当時の大勢の「空気読め」攻撃にさらされ、無視・弾圧・発禁扱いされてきたものもある。

 たとえばファーブル。「ファーブルの昆虫記」なら日本人の誰でも知ってそうだが、本国フランスではほとんど受け入れられなかったという。犬よりも小さな生物は目に入らないお国柄で、さらに、発売当時の十九世紀では、昆虫とは悪魔がつくったものであると信じられていたからだ。

 あるいは、ガリレイ。地動説を主張した「星界の報告」が教会の反発を買い、宗教裁判にかけられたことは有名だが、時の権力者・メディチ家を後ろ盾とするため、木星の衛星に「メディチ星」という名前を贈っている。保身のための「保険」だね。

 当時の圧力に負けず、真理をうたったものであれば、後の世にその正しさが示される。ファーブルはユクスキュルへ。ガリレイはニュートンへ。ただし、これは「真理」に限らない。単に正しいからといって、必ず再評価されるとは限らない。

 それは、真理のみならず、情熱があったから。後の時代に残った本に共通して、世間が何と言おうと、わたしはコレを信じる、という強い想いが伝わってくる。「世の人は我を何とも言わば言え我がなすことは我のみぞ知る」というやつだね。

 14冊の名著は、以下の通り。本書では、書いた人のエピソードや、本が世界に与えた影響、さらに本のさわりがピックアップされており、「読んだフリ」ができる親切設計となっている。「昆虫記」と「沈黙の春」しか読んでいないわたしは、「生物から見た世界」「相対性理論」に手を出してみるつもり。

  生命の世界

    1. ダーウィン「種の起源」
    2. ファーブル「昆虫記」
    3. メンデル「雑種植物の研究」
    4. ワトソン「二重らせん」

  環境と人間の世界

    5. ユクスキュル「生物から見た世界」
    6. バヴロフ「大脳半球の働きについて――条件反射学」
    7. カーソン「沈黙の春」

  物理の世界

    8. ガリレイ「星界の報告」
    9. ニュートン「プリンキピア」
    10. アインシュタイン「相対性理論」
    11. ハッブル「銀河の世界」

  地球の世界

    12. プリニウス「博物誌」
    13. ライエル「地質学原理」
    14. ウェゲナー「大陸と海洋の起源」

重力のデザイン さらに、本書では、名著からつながる、現代の名著まで紹介されているところがユニークだ。バヴロフの条件反射は、「アンビエント・ファインダビリティ」につながっており、ユクスキュルの「生物から見た世界」からは、ローレンツの「ソロモンの指環」が導出される。ガリレイつながりで紹介された「重力のデザイン―本から写真へ」が抜群に面白そうなので、これも手を出してみよう。

 名著は、単体で歴史に浮かんでいるだけではない。原理を通じて、たった今にも連綿と伝えられていることが、よくわかる。

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世界はつぶやきに満ちている「灯台へ」

灯台へ 中毒性のある文にハマる。

 ヴァージニア・ウルフは初読だが、こんなに魅力的な文だったとは。既知の形式ながら、ここまで徹底しているのは初体験。文の妙味は分かってるつもりだったが、小説でここまでできるとは知らなかった。わたしの精進の足りなさを自覚するとともに、小説の拡張性を具体例でもって味わうことができた。

 まず、地の文と会話文の混交がいい。ほぼ全て、登場人物の心情の吐露と会話に埋め尽くされているのだが、明確に区切らないのが面白い。つまり、対話をカギカッコでくくったり、地の文に埋めたりするのだ。普通の小説でもこれはやるのだが、この作品ではより徹底している。つぶやきに埋め尽くされた小説世界に没入することができる。

 おかげで読み手は、人物の思考と発話を選り分けながら読む進めることを余儀なくされ、よりその人に「近い」視点でその場にいることができる。「人物~作者~読み手」の真ん中が完全に姿を消しているのだ。面倒がる方もいらっしゃるかもしれないが、わたしには濃密で心地いい。

 直・間接話法の混在だけではない。「誰それが何と言った」のような説明が意図的に省略されおり、いきおい、読み手は話題そのものから語り手を見つけ出さなければならない。ともすると「その発言は誰なのか?」を追いかけるために行きつ戻りつを強いられることになる。ストーリーを追う形式なら、これは苦痛でしかないが、これはストーリーらしきものはない。十年間を挟んだ、二つの夏の日を描いたもの。

 そこには回想があり、空想があり、願望があり、後悔がある。人の心の内と外、過去と現在と未来は継ぎ目なしにつながっていることが分かる。ストーリーに取り残される心配をせず、好きなだけ「つぶやき」に同調できる(大きく動くときには、専用の語り部を用意してくれている)。

 わたしが読んだのは鴻巣友季子の新訳なのだが、よく考えられている。語りのリズムやスタイル、語彙を通じて、人物の思考をなぞらせようとするウルフの筆致を読み取って、その人物に応じた書き分けをしている。巻末の解説では「人物の声帯模写ばかりか、一種の思考模写」と評しているが、上手く伝わってくる。訳者は、いったんは作者の側に立って「声」の出所を考え、再び読者の側にもどって「声」の音量・音質の微調整に細心の注意を払っている。

 そのおかげで、主体の多様性を何層にもわたって味わうことができた。キャラの数だけ現実がある、といったレベルに限定せず、人物を超えた「語り」の声も聞かされるのだ。三部構成の第二部「時はゆく」で巨きなうねりがあるのだが、映像でたとえるならハイスピード撮影をひと息に見るような感覚に陥るに違いない。

 この技巧のおかげで、作者はきれいに作品中から見えなくなっている。わずかに残る痕跡を追うのも面白かったが、これは書き手・訳者の意図に沿って「見ないフリ」をするのがお約束というもの。ひらりひらりと思考が飛びうつる動きにシンクロしているうちに、この作品のテーマが見えてくる。

 それは、「幸せ」について。幸福を語るために、普通の小説なら「不幸→幸福」もしくは「幸福→不幸」という「流れ」をつくり、予定調和的になぞろうとするだろう。けれども、この「灯台へ」は違う。生活の中での幸福というものについて、具体的なエピソードや思考のひらめきを通じて伝わってくる。「伝えてくれる」「教えてくれる」のではない、人物に同期をとっているうちに、浸透圧がゼロになるんだ。一緒になって笑ったり怒ったり、心配したり喜んだりできる、そういう場に「いる」ことができる。

 ほとんどの読み手は、人物の性格や容貌、言動などから「自分との関わり・距離感」を測ろうとする。そのうえで、同情したり反発したりするのだが、これは違う。こうした距離感覚を排するため、巧妙に文を創っている。その結果、その人そのものでいられ、それでいて「読んで」いるという、不思議な経験をするのだ。

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