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システムはなぜダウンするのか

 システムダウン――悪夢のような現場を、幾度も味わったことがある。

 鳴りつづける電話、飛び交う怒号、性能劣化、DB汚染、運用規制、緊急リリース、システム再起動、復旧、パッチ当て、究明・対策・謝罪文、お詫び行脚、徹夜、徹夜そして徹夜。体は臭いし、もちろんおしっこに行くヒマはない。

 デスマーチとは違った修羅場で揉まれるうち、別の嗅覚が効くようになる。ソフトウェアの不具合に因るのか、性能や容量不足に起因するのか、設定や操作ミスなのか、ハード故障といった不慮の事故なのか、初動時に嗅ぎ分けられるようになる。

 さらに、「この時期この時間はヤバい、魔の刻だぞ」とか、「あのチームが手を入れた機能がリリースされるから、致命的なやつが起きるならここ」といった、先の先を見越して水面下で準備するようになる。どんなに手を尽くしても、起きるものは起きる。けれども、きっちり準備をしておけば、被害を最小限に食い止めることができる。

 そんな中での悩みは、後輩が育たないこと。わたし自身が修羅場で学んできたので、いざ誰かに伝えようにも、伝える「ブツ」がないのだ。トラブル発生時に教えていたら足手まといだし、任せようにも任せられるだけのハード・ソフト・業務知識が伴っていない。しかもシステムダウンなんてトラブルはそう頻繁に起こるものでもない(起こらないように予防するのが肝心)。

 わたしの場合、未経験者には「ホワイトボードキーパー」と密かに呼んでいる仕事を任せている。ホワイトボード前に陣取って、時系列に何でも記録する係だ。発生事象と対処、関連部署との連絡、解析状況、復旧状況、後処理、影響調査を、ただひたすらに書きまくる。

 そうすることで、発生箇所を切り分ける「判断」や、被害を最小限に食い止めるための「方法」、あるいは関連部署や主要なステークホルダーを把握することができる。ダウン対策は総力戦だ。ネットワークの性能劣化により、隠れていたソフトウェアの不具合が現れたり、何年も前のパラメータ設定ミスが、ある日突然、ソフトウェアの誤動作を招く。何よりもスピードと見極めが肝心な、経験がモノを言う現場。

 なんぞ良いレクチャー本がないかと探していたら、ピッタリなものに出会えた。大規模系がメインだが、大量の事例が紹介されており、(遭う遭わないはともかく)運用者は必読だろう。

 たとえば、34年早く起きた「2038年問題」。C言語で開発したシステムをUNIX環境で動かしている場合に、2038年1月19日3時14分8秒を過ぎると、システムが正しく時刻を認識できなくなる問題だ。これが2004年1月11日に発生している。23行の銀行でATMが利用できなくなったそうな。

 なぜ34年も早く顕在化したのか?それは、時刻の2倍に足し合わせる処理が入っていたため。1970年と2038年1月19日の半分を超えた、2004年1月11日から桁あふれしていたことになる。分かってしまえばなんでもないが、解析には手間取ったことだろう。

 あるいは、DASDのコンデンス(デフラグ)を実施したらダウンしたという事例。ぶっちゃけありえないのだが、あったのだ。過去に不具合が発生し、緊急で対応する必要があり、「本番環境で」修正してしまった経緯があったそうな。本来ならば開発環境で修正→本番環境へリリースという手続きを経るべきなのに、緊急ということで手順を飛ばしたわけ。その際、エイリアスの再設定が漏れ、同一名称のモジュールを新旧で2世代分格納したまま動かしていたそうな。

 で、年月を経てコンデンスを実施したところ、旧モジュールの格納位置が変わり、新旧モジュールのどちらもエイリアスとつながっていない不具合が顕在化したという。ずっと旧モジュールで動いていたというのも驚きだが、一見無関係の作業が思わぬ事態を引き起こす怖い例として覚えておきたい。

 プログラミングや運用時だけではない。検討段階で不具合が紛れ込むこともある。システムに要求される性能を見積もる時、「伝票枚数=トランザクション処理件数」としていた例。伝票を1枚作るために、システムを何度も操作しているはずだから、「伝票1枚あたり、何回システムを操作しているか」に着目するべき。誤った見積もりを机上で見つけられない場合、顕在化するのはかなり先、ひょっとすると本番環境という恐ろしいことになるかも。

 暴いてしまえば、なんてことのない不具合やミスも、現場で見つけるのは難しい。原因から結果をトレースするのは想像つくが、結果から原因を突き止めるのは極めて困難だから。本書では警察の捜査にたとえている。システムダウンは事件の現場で、その原因は犯人のようなもの。犯人の自供をもとにして犯罪の経緯を追いかけるのは後付けで済むが、事件現場に残された状況から犯人にたどり着くのは大変だろう。

 いわゆるプロファイリングのトレーニングとしても使えるし、「ありえないことがありえる」失敗事例の予行演習として読んでもいい。秒進分歩といわれるコンピュータ、10年後はまるで違ったテクノロジーかもしれないが、人の性は変わらない。同じエラー、同じミスをくりかえすだろう。

 だから、10年後も使える「現場の基本」を押さえておこう。

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この世でいちばん面白い小説

 筒井康隆が「ひとつだけ選ぶならコレ」とベタ誉めしてたので手を出す。ジュヴナイル向け「巌窟王」で読んだつもりになっていたが、今回、岩波赤版「モンテ・クリスト伯」でブッ飛んだ。

 ストーリーを一言であらわすなら、究極のメロドラマ。展開のうねりがスゴい、物語の解像度がスゴい、古典はまわりくどいという方はいらっしゃるかもしれないが、伏線の張りがスゴい。てかどれもこれも強烈な前フリだ。伏線の濃淡で物語の転び方がミエミエになるかもしれないが、凡百のミステリを蹴散らすぐらいの効きに唸れ。読み手のハートはがっちりつかまれて振り回されることを請合う。

 みなさん、スジはご存知だろうから省く。が、痛快な展開に喝采を送っているうちに、復讐の絶頂をまたぎ越えてしまったことに気づく。その向こう側に横たわる絶望の深淵を、主人公、モンテ・クリスト伯と一緒になって覗き込むの。そして、「生きるほうが辛い」というのは、どういう感情なのかを思い知るのだ。

 読まずに、死んだら、もったいない。このblog読んでる全員にオススメ。読むときは、イッキ読みで。

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小説家のバイブル「小説の技巧」

小説の技巧 小説は自由だ。何をどう読もうと勝手だ。

 けれども、小説から快楽を得ようとするなら、その技巧を知ることは有意義だ。前立腺やGスポットの場所を知らなくてもセックスは可能だが、より快楽に貪欲になるのなら、知っておいて損はないのと一緒(訳者の柴田元幸はもっと上品に、「ショートカットキー」に喩えてた)。「ヤってるうち自然と身につく」という奴には、「愚者は経験に学ぶ」という箴言を渡す。快は無限だが、生は有限。読める数は限られている。

 同時に、小説書きにとってはバイブル級。読者を快楽の絶頂へ導く手引きが解説されているのだから。プロットやキャラといったハウツーを超え、マジック・リアリズムや異化、多声性、メタフィクションといった本質的なレベルで語られる。しかもサリンジャーやナボコフ、ジョイスといった練達者のテクストが俎上乗っている。心してかかれ。

 ただし、いそいで付け加えなければならないのは、「知る」ことと「できる」ことは違うこと。おっぱいの場所は知っているけれど、そこから快楽を引き出すのにコツがいるように、本書を把握しさえすればすぐ書ける(読める)ワケではない。

 あるいは、本書をカタログとして読んでもいい。事例とともにスタックされているので、惹かれるテクニックを探し、そのワザの達人に出会うことも可能だ。たとえば寓話。表面的な写実を凝ることで、現実との対応関係を焙り出す手法は「ガリヴァ旅行記」のヤフー(Yahoo)や「動物農場」の立派なガチョウ(proper gander)で有名だ。しかし本書でサミュエル・バトラー「エレホン」を知った。nowhere(どこにもない)の逆つづりがErewhonなんだという。

 さらに、既読の小説にあたるのも一興/一驚かと。自分の「読み」よりもはるかに多層的な角度からの批評が得られ、知的興奮が湧き起こる(そうだったのか!というやつ)。

1984年 例えば、オーウェルの「1984年」。全体主義国家による監視社会を描いたディストピア小説だが、主人公とヒロインをアダムとイヴに置き換えて解説している。すると、偉大なる指導者(ビッグ・ブラザー)の密やかな監視と処罰は、たちまち別の光沢を帯びてくる。ラヴ・ロマンスと二人がたどった運命が、違った色合いで見えてくる。陳腐な言い回しだが、宿命付けられた悲劇を、「近未来小説」で読むという皮肉に、自嘲したくなる。

 既に読んだ小説が、まるで違った話になってくるので不思議だ。読者の意識にかかわらず、既知のモチーフを未来の舞台で創造するのだ。読み手は、自分が知っている(はずの)過去を通じて、未来を理解するのだ。これは、SF小説の肝でもあるよね。

日の名残り まだある。カズオ・イシグロ「日の名残り」の説明にはびっくりした。原書・翻訳と読んだのだが、本書の解説を通じて、わたしはまるで読んでいなかったことに気づいた。これはネタバレ的な仕掛けではなく、むしろ「どのように読めるか?」の論評なので、ここに引用する。

カズオ・イシグロの作品の語り手にしても、決して悪人ではない。だが彼の人生は、自分と他人をめぐる真実を抑圧し回避することに基づいて進められてきたのだ。その語りは一種の告白だが、そこには、欺瞞に彩られた自己正当化や言い逃れがあふれている。最後の最後になって、自分についてのある種の理解に到達するものの、その時にはもう、そこから何かを得るには手遅れだ。
 つまり、「日の名残り」は、信用できない語り手の事例として挙げられている。人間がいかに現実を歪めたり隠したりする存在であるかを、ここで徹底的にあばく。語り手が物語る時間的・論理的矛盾を突き、そこに隠されていた嘘を明らかにする。格調高い美文に酔って読み流していたのが恥ずかしい。再読するべ、そしてこの「読み」を試してみよう。

 小説を創作するにあたって、強力なヒントも分析されている。小説家を目指す方なら頼れる道具箱になるだろう。

 ひとつの例として、「持続感」が挙げられる。小説のなかの時間の流れと、それについて読むに要する時間との比率を考慮せよという。小説の展開を遅いと感じるか、早いと感じるか、いわゆる物語のテンポはここで決まる。イベントが次から次へと続くことで、気持ちよく読み進められる一方、ここぞというタイミングで、わざと描写や独白を念入りに書き込んで、ひきのばしも可能だ(映画ならクローズアップやストップ・モーション)。

 この基本を底にして、人生のリズムそのものを模倣しようとした意欲作も紹介される。ドナルド・バーセルミ「教えてくれないか」で、普通の小説ならじっくり語るはずの感情的・性的関係の表面が、目まぐるしい速さで滑っていく感覚は、高揚感と酩酊感を伴う。ぜひ、ヤクロウにしたいものだ。

 もうひとつ。「手紙」の効用に気づかされる。小説で使われる文章は、全て再現に過ぎない。会話や描写、ナレーションは、もともとの現象や出来事を言葉を用いて再生させるという人工的な営みに過ぎない。会話文であっても、一緒で、小説で喋り言葉を使ったとしても、実際そのとおりにしゃべっているわけではない。つまり虚構なんだ。

 しかし、「手紙」は違う。虚構の手紙と本物の手紙は区別不可能で、それこそが小説にリアリティを持たせる強みとなるという。小説が書かれている状況について、テクストのなかで言及するとき、読み手は「どうしてそんなことをわざわざ言うのだろう」という作者の存在に目を向けてしまう。いっぽう、手紙なら別だ。手紙を書いた人の意図に視線が向けられることになるから。ここでは「手紙」という小道具だったが、電子メールで代用してもいいかも。

 小説作りの舞台裏を覗き見るのに、最適な一冊。

レトリックのすすめ 「何を書くか」よりもむしろ、「どう書くか」といった技巧に焦点が当たっている。さらに、語彙レベルのレトリックではなく、フォームやテーマといった一定の広がりをもった技術が紹介されている。レトリックの種類と本質が示される「レトリックのすすめ」と、読者は小説のどこに快楽を感じるかについての一つの回答「小説のストラテジー」、さらには小説の本質そのものを簡潔にまとめた「詩学」を読んできた。それに本書を加えると、蒙が開けてくる。「どう書くか」について、硬いものを掴み取れる。

 小説を書く人にとってはバイブル、読む人にとっては快楽の手引書となる一冊。


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ボリウッド的おとぎ話「ぼくと1ルピーの神様」

ぼくと1ルピーの神様 ご都合主義がいっぱい。ただしハリウッドではなくボリウッド色。

 流行りものにでも手を出してみるかと選んだのがこれ。アカデミー賞をはじめ、世界の映画賞を総なめした「スラムドッグ$ミリオネア」の原作。現代のおとぎ話として読めばたのしい。

 映画なら、ラジニカーント「踊るマハラジャ」とシュワルツェネッガー「バトルランナー」を交配させたようなもの。あるいは、加藤伸吉「国民クイズ」にコエーリョ「アルケミスト」を混ぜるとこうなる。滅茶苦茶だって?うん、マサラムービーそのものやね。ロマンスあり、コメディアリ、アクションやスリラーといった、娯楽要素を詰め込めるだけ詰め込んでいる。

 「ああ面白かった」でポイできるような一冊だが、せっかくだから、本書がなぜ、世界16ヶ国語に翻訳されるほどのベストセラーとなっているか、分析してみよう。

 まず、ひとつのミステリとなっていることがページをめくらせる動機となっている。巨額の賞金が賭けられたクイズ番組に出場した主人公は、全ての問題に正解する。スラム出身で、教育を受けたこともないのに、なぜ?それぞれの問題の「答え」をめぐる回想が物語の主軸となっており、読み手は謎を解くためにも強烈に先を知りたくなる仕掛け。

 次に、驚きの要素が必ず入っている。一章読んだ分の「ごほうび」として、ちょっとしたサプライズエンドが待っている。そして一冊のラストには、ちゃんとドンデン返しも準備されている。窮地に陥れば陥るほどドキドキハラハラなのだが、だいじょうぶ。語り手=主人公なのだから、ちゃんと生き抜いている証左。しかも極貧から始まり、一歩一歩じぶんの才覚と運を使いこなしながら生き抜いていく姿に共感を得て、安心して読み手を投影できる。

 さらに、構成がいい。面白い物語の基本「途中からいきなり」が効いており、主人公が逮捕されるところから始まっている。読み手は否応なしに取り込まれ、「なぜ?なぜ?」の疑問にいちいち答えるようにお話が転がっていく。また、回想が時系列でないので、「あのときのあの人はどうなった?」や「結局その事件の顛末は?」といった謎が伏線の形で残っていく。でも大丈夫、ミエミエだけど回収しているよ。

 そしてラスト、多くの人が受け入れやすいエンディングとなっている。ダークでハードなラストが大好きなわたしは、リチャード・バックマンの「バトルランナー」のような9.11的エンドを求めるのだが、いかんせん訴求層が違う。ベストセラーは、ふだん本なんか読まないような人が買うのだから、「ベストセラー」になるんだね。

 わたしの読書傾向なのか、それとも世界・世代レベルでの変動なのか分からないが、主人公の有色率が上がっているのかも。十年単位で調査すると、いわゆるWASPなキャラクターが影を潜めている――ような気がする。「ベストセラーにおける人種の変遷について」なんて、どこかの学者さんが研究してそうだ。この仮説が裏付けられるのなら、読者層の推移も考慮されているに違いない。

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水瀬伊織がやって来たよ ヤァ!ヤァ!ヤァ!

アイドルマスター こんにちはこんにちは、新米プロデューサーのDainです!

 不思議なもので、「罵ってけ!へんたいたーれん」を1000回聴いて、CDじゃなくて箱○を買ったのでござる。もちろん偽装はカンペキで、嫁さんには「バイオハザード5のため」と拝みこんで許可を得たよ。

 だから起動できるのは子どもが寝付いた後で、嫁さんが起きているときはバイオ5。一緒に、「わー」とか「ひええ」と叫びながら、チェーンソーで喰らったり、ワニに喰われたりしているが、殺られても殺られても何ともないない。

 で、金曜日の丑三つ時。嫁さんは寝入っている。ハードな一週間だった。丸太のように眠りたい気分。でもプロデューサーに、俺はなる!目立つにはどうしたらいいの?友情よりも愛情?性格よければいいなんて、嘘だと思わないか?――古いリフレインが叫んでる。

 ついに起動。ネット界隈では、ゆきぽや美希の義兄が多いようだが、わたしにとって伊織以外に考えられない。「ど変態!」キミの言葉がまだ離れない。凍りついた時間が、逢えないままどれくらい経ったのだろうか。釘宮病の自覚症状はあるが、Ti型ではなく、I型なんだということを、いまさらながら思い知る。

 初仕事で緊張する伊織、パイタッチなんてできないよ!初オーディション合格のときは一緒になって踊ったよ!恋のチカラここにある。もうぜんぶ全部あげるからと、誰にも見せなかった「とっておきのボク」をさらけだす。

 で――だ。なじみの読者サマならお察しのとおり、もちろん嫁バレしたよ。そのへんの経緯はつまらないから省略ー、「リコンかな?かな?」と訊いたら、「慣れた、というかあきらめた」との御返事。開き直るその態度が気に入らないのだって。両手をついて謝ったって許してもらえそうもない。

 嫁さんは真で始めた。真かわいいよ真。嫁さん曰く、「子どもの前でやったら刺すからね。これ(iM@S)は、バイオ5よりも有害なんだから、いろんな意味で」。そしてボクは途方に暮れる。

 夫婦でiM@S、人生へのささやかな凱歌を、心の中であげる。ただ泣いて笑って過ごす日々に隣に立っていられることで、ボクが生きる意味になる。嫁さんに捧ぐこのアイドルマスター。

 

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ヒト臭くない知性「雷神帖」

雷神帖

 本についての本は、池澤夏樹がいい。

 いい本を探してくるし、紹介のしかたが上手い。古典と新しい本とのバランス感覚にすぐれ、私見や体験をおりまぜて「この本が好き」な理由を語りだす。その語りが好き。じっさい、珠玉のブックガイド「読書癖」はお世話になった。生々しい人間臭い読書から距離をおきたいとき、重宝する。

 で、今回は「雷神帖」。「風神帖」と対を成しているが、立ち読みでこっちに決めた。いつものように気の利いたメタファーが並んでいて安心して読める。

よく書かれた小説はもっとも高密度の、人間的な、具体から抽象までの幅広いスペクトルを持つ、叡智のパッケージである。この本についてならぼくはまだいくらでも、かぎりなく、読む人がうんざりするまで、考えを展開することができる。ぼくはこういう読書の記憶を何百冊分か持っている。

 プリズムを通した分光スペクトルのイメージが浮かぶが、よく分からない。スペクトルの語源「像」を想定して使っているのだろうか。小説一般ではじめながら、具体的な目の前の一冊でも示してみせる(ここではトニ・モリスン「パラダイス」)。あたりまえのことを上手い表現で再解釈させる。そこに「気づき」をもたらし、思わず手にとってしまう仕掛けだ。

 あるいは、ジョイスについて。「ユリシーズ」はすごいすごいと聞くけれど、ちょっと手が出せない(理由はお手にとっていただければお分かりだろう)。これを、ジョイスからの問いかけだという。「読むとは何か?」という問いを、実作を提出することで読者に突きつけているのだというのだ。そしてジョイスになり代わってこう述べる。

読みはじめて、登場人物の運命に一喜一憂し、やがて最後のページに至る。それが読むということだと信じているナイーヴな通俗小説のファンに対して、「読む」という知的行為はどこまでも拡張することができる

 このように、時には読み手を挑発しながらも、読書の世界へいざなう。幾度か挑戦しては挫折してきたが、もういちどやってみようかという気にさせられるから不思議だ。

 いっぽうで、ハテナと思わせる主張もある。トシとって色が出てきたか、もともとついている色にわたしが気づくようになったのか。たとえば、ケヴィン・カーターが撮影した「ハゲワシと少女」[google画像]について。餓死寸前の少女をハゲワシが狙っている構図で、ピューリッツァーを受賞している。この写真が公開されると、写真を撮るだけで彼女を助けなかったとして、撮影者は強烈な批判にさらされた。ピューリッツァー受賞後、自らの命を絶ったケヴィン・カーターを、池澤は擁護する。それは一つの主張としてかまわないのだが、その立論が半分しか立っていないので大いに戸惑う。

今ぼくは彼を非難した人々を非難したい気持ちでいる。彼が撮らなければその地域の基金のことは外部に知られなかった。それがフォト・ジャーナリズムの使命だ。そのたった一人の少女を助けてどうするのだ?それはその場かぎりの偽善ではないか。見えるものに対してはセンチメンタルになるけれど、その背後にある見えないものを思う想像力は大衆にはない。

 池澤の「非難したい気持ち」は分かるが、立論がおかしい。撮影者が非難されている理由は、「したこと」ではなく、「しなかった」ことなのだから。「写真を撮ったことで災禍を知らしめたのだから評価すべき」は理解できるが、だからといって、彼女を放置してよい理由にはならない。「ジャーナリズムか人道か」の問題ではなく、「したこと」で「しなかったこと」を正当化させるリクツが歪んでみえる。

 写真には絶対に入らない「撮影者」を見たからこそ、大衆は非難したのではないか?むしろ、「無責任な大衆に裏切られたのがケヴィン・カーター」と丸める方が、よほどセンチメンタルに見える。Wikipediaを参照すると、「母親が傍にいた」説もあるが、あえて本書で展開されている「事実」で考えてみる。

 サン=テグジュペリの再評価、岡本太郎批判など、数十年の幅をもち、文化や政治まで踏み込んだ議論に、読み手も触発されるに違いない。無邪気に同調するのではなく、逆に著者との温度差・青白さに鼻白むこともあるかも。

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狂気の浸透圧「セールスマンの死」

セールスマンの死 毒物指定、ただし社畜限定。

 読書は毒書。とはいうものの、読者によって毒にもクスリにもなる。ローン背負って痛勤するわたしには、狂気たっぷりの毒書になった。やり直せない年齢になって、自分の人生が実はカラッポだったことを思い知らされて、嫌な気になるかもしれない。全てを捨て、人生をリセットしたくなるかもしれない。

 かつては敏腕セールスマンだったが、今では落ち目の男が主人公。家のローン、保険、車の修理費、定職につかない息子、夢に破れ、すべてに行き詰まった男が選んだ道は――という話。だれもが自由に競争に参加できる一方で、競争に敗れたものはみじめな敗者の境涯に陥るアメリカ社会を容赦なく描き出している。

 見どころは、このセールスマンの葛藤。

 とても前向きで、強気で、ひたむきだ。人生の諸問題はプラス思考でなんとかなると押しまくる。今で言う「ポジティブシンキング」の成れの果てを突きつけられているようだ。自分に都合よく現実を解釈し、自らを欺き続ける主人公への違和感は、そのまま自分の人生への違和感になる。

 そしてついに、目を背け続けてきた現実が、過去が、彼をつかまえる。自己欺瞞が徹底的にあばかれるとき、読み手は思わず自分を振り返りたくなる。わたしの人生はカラッポなんかじゃないって。同時に、彼がおかしい――いや、狂っているのかどうかも分からなくなってくる。いっそ「狂気」のせいにしてしまえれば救われるのに、と念じながら読む。

 とても興味深いのは、彼が何を「売って」いるのかという疑問。

 戯曲では、彼が持ち歩くサンプル・ケースの中身は明らかにされていない。彼が売っているのは委託された商品などではなく、「自分そのもの」であるという解釈が適切だろう。成果や結果を期待されながらも、結局は時間を切り売りしているわたしにとって、この解釈は痛い、痛いぞ。

 彼の狂気がわたしに同期を取ってくる。彼の絶望がわたしに浸透してくる。「お話」と分かってはいても「ひとごと」ではないのだ。終盤、追い詰められれば追い詰められるほど、全てを捨てて、やり直したくなる。リセットへの誘惑の演出がまたいい。フラッシュバックを多用し、過去の人物と現在の彼との対話を繰り返す。彼がたどりついた結論はぞっとしない。

 人生には、リセットボタンなどない。あるのは電源ボタンだけなんだ。

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死なないカラダ、死なない心

死なないカラダ、死なない心 死にたくない、死ぬのはいやだ。

 たとえ自分の生の意味が微々たるものでも、やはり死ぬのはいやだ。ふりかえると悲しみしか埋まっておらず、見通しても希望のキの字も見当たらないとしても、やはり死ぬのはいやなものだ。

 ましてや、わたし自身、生の意味が微々たるものではないと信じる。辛いこともあったが、いまを生きているのが本当に楽しい。仕事はたいへんかもしれないが、それは「たいへんな仕事」なだけであって、わたしの人生ではない。いっぽう、妻や子はわたしの生そのもの。家族のおかげで生きていられる。

 だから、やっぱり死ぬのはいやだ。

 のっけからヘンな書き出しでゴメン。戸惑った方もいらっしゃるかもしれないが、別に病気になったわけでも余命宣告されたわけでもないので、ご心配なく。ただ、この本を読んで、かなり奇妙な気分になったので、そのまま書き下した。

 逆説的な表現なのだが、著者が解脱を説けば説くほど、わたしは自分の生に執着したくなる。著者・成瀬雅春はヨーガの第一人者で、インドにて「ヨーギーラージ」(ヨーガ行者の王)の称号を授与されている。本書では、呼吸法や瞑想で身体と精神を作り替え、心豊かに、楽に生きるためのヒントが、具体的に示されている。

 たとえば、瞑想。これは、「自分自身をみつめる修行」だという。「もう一人の自分が、瞑想をしている自分を見る」というアプローチにより、違う視点から物事を観察する習慣がつき、ひいては人生の判断を見誤ることが少なくなるという。瞑想は満員電車でもでき、「目を閉じて見えるものを表現する」や「次々と浮かぶ想念を執拗に追いかける」といった、変わった方法が紹介されている。

 冒頭のわたしの煩悩と異なり、著者は自分の死を待ち望んでいるのだという。別に自殺願望があるわけではなく、あくまでも元気に楽しく長生きして、その上で迎える死を楽しみにしているというのだ。なぜなら…

死の瞬間は、誰でも生涯でたった一度しか味わえない、最もドラマチックな体験です。そういう予測はできるので、私は死の瞬間をしっかりと見据えたいし、堪能したいと思っているのです。
 自分の死を最高のものにするために、ここまで積極的な人は初めて。こんな人なら、毎日充実しているに違いない。実際、本書で明かされる修行の成果はスゴいを通り越してすさまじい。著者の空中浮遊を「信じる/信じない」はさて置いて、彼が心から「自分の死」を楽しみにしており、そのために毎日努力していることは分かる。人間を極めると、こういう心になるのだろうか。

 そこで冒頭の文をふりかえると、どうやら、わたしは、単に「死にたくない」のではなく、「やり残したことを終えないまま、死ぬのはいやだ」になる。やり残したこととは、「すべきこと」だったり「したいこと」になる。嫁さんや子どもにしてあげたいことだったり、積読山や(人生の)課題本だったり、あるいは、仕事を通じた世間サマへの恩返しになる。

 これらは尽きることなく増えていくものだから、結局、死の間際に「あれもしていない、これもできていない」と悔いながら逝くのだろう。それでも、たとえ今夜死ぬとしても、「やり残したこと」の一つでも、今日というこの日に実践できているようにならないと。

 わたしは小説が好きだから小説でたとえよう。余命宣告されて、あれが読みたかったのに、と後悔する状況がしっくりくる。「カフカも源氏も鴎外も、ドストもホメロスもシェイクスピアも、サドも乱歩も康成も、読みつくしていない…あと10年、いや5年あれば」と言うくらいなら、今日読めよと。

 いま読めよ、「そのうち」「いつか」は一生こない。

 著者は常に、命がけで生活しているという。別に大変な生き方をしているわけではなく、人生を最高にエンジョイするために、悔いのないよう、思い残すことのないよう、精一杯生きているという。ヨーガを極めると、人生の目標を日常化するようになるのか。ホコリを被ったWii-Fitを出してこようか。

 最後に。巻末に苫米地英人との対談があるのだが、これがすごい。トンデモに見えなくもないが、両者とも実績を出している天才級。わかっていないのはわたしか。ここで瞑想がいかにキモチイイかについて、おもしろい説明がされている。瞑想によって、どのくらいドーパミンが出るかについて、こうある。比較のために、気持ちがいいセックスのときに出るドーパミンを100とすると、

   50 : おいしいご飯を食べたとき
   200 : アルコールを飲んだとき
   300 : マリファナを吸引したとき
   400 : コカインやヘロイン
   1000 : アンフェタミン(覚せい剤)
   3000 : LSD
   30000 : 臨死体験

 そして、瞑想で出るドーパミンは、やり方によっては臨死体験のときの量を超えるという。昔、達磨大師が足が腐るまで瞑想して座っていたことから、苦行に耐えてすごい修行者だと言われたが、間違い。あれは気持ちがいいから、足が腐るまで座っていたというのが正解だそうな。いわば、ニンテンドーDSに夢中になった子どもが、一晩中やって足がしびれて立てなくなったようなものなんだって。

 ちょっとWii-Fit探してくる。

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娘親限定「女の子が幸せになる子育て」

女の子が幸せになる子育て 親が読んで、ほっとする本。

 フェミニストが何と言おうが、男の子の子育てと、女の子の子育ては、ちがう。男女は、性差ではなく性格が性別に定着していくもの。つまり、「男の子らしさ」や「女の子らしさ」は、お互いもともともっており、成長の過程で(主として環境により)際立たせられていくものでないかと。

 しかし、ほとんどの育児本は、性差を意識していないか、あるいは「男の子限定」の内容となっている。なぜなら、育児本を手にするのはたいていママだから。「女の子=自分が小さかった頃」を考えて、自分を基準にしてしまうだろうから。

 そんなニッチにピッタリとあてはまる本を読んだ。なじみの図書館の予約待ち順位は、「100位」。amazonでは見えにくいが、本書がどれだけ望まれているか、よく分かる数字だ。娘を持つ親のためのアドバイスが満載しており、まさにいま読みたかった一冊。

 とはいうものの、デジャヴ感やライフハック臭もしており、そういうトコも人気を呼んでいるのかも。たとえば、ゴールをイメージした問いかけをせよという。「片付けなさい」とガミガミ叱っても、なかなか言うことをきかない。いっぽう、

  「きれいになったら、どんな気持ちがする?」
  「きれいになった部屋で、何がしたい?友だちが呼べるね」

…など、片付いた後のイメージが頭に浮かぶような言葉を掛ける。片付けるプロセスではなく、片付いた後のメリットを想起させるのだ。同様に、「私、こういうのできない」と子どもが言ってきたら、「もし、できたとしたら?」と返す。自分を卑下したり、諦めそうになったら、尻をたたく前にモチベーションをあげるのだ。まさに、ライフハックそのもの。

 いっぽう、目ウロコ、腑に落ちる指摘もある。たとえば、「子どもが勉強をしないのですが、どうしたらいいでしょうか?」という相談への返答。「勉強しなさい」と言えば、子どもが勉強するかといえば――親自身が知っている、そんなことありえないことを。

 ではどうするのか?曰く、「親の仕事は勉強する環境をつくる」ことだという。

 環境を整えることで、勉強する習慣をつけさせよという。具体的には、「三点固定の法則」という方法を紹介している。三点とは、「起床時間」「夕食時間」「就寝時間」のこと。この三つの時間を毎日きちんと固定することで、生活リズムが生まれ、前後の勉強時間も固定されるのだという。ポイントは曜日によって例外を設けないこと。休日、夏休み、冬休みも例外を作るなとチト厳しいが、「子どもの生活リズムを乱しているのは実は親」という裏側のメッセージも読み取れる。

 門限の重要性も納得できる。何時にするかが問題ではなく、「門限がある」という事実が重要なのだ。

 それは、子どもが家族の一員であり、信頼を裏切ってはいけないという「心のストッパー」の役割を果たすのだという。門限は規制ではなく心配のラインなのだということを分かってもらうつもり。同様に、携帯電話にも門限を設けよという。携帯電話を持つというのは、「家の中に外の世界がある」という状況を作り出していること。だから、「夜の何時以降は携帯をリビングに置いておく」ルールも理解できる。

 どこかの育児書で聞きかじったHackも出てくる。それは、「私が嫌だから、それはダメ」というやつ。わたしも嫁さんも、「あなたのためだから」が大嫌い(そんなCMがあったね)。この言葉に隠された欺瞞を知っているからこそ、子どもに向かっては言わない。譲れない一線は「ダメなものはダメ、私がダメだと決めたから」で押し切る。ヨソはヨソ、ウチはウチというやつ。

 詭弁スレスレ(でも有効)な問いかけもある。部屋の片付けをしない子に、「掃除は今日する?それとも明日する?」と聞くのだ。掃除をするのが前提となっていて、子どもとしては「今日」か「明日」しか選ぶほかはないという問いかけだ。ホラ、デートのお誘いで使えるワザ「今度の日曜日、映画に行く?それとも美術展?」と一緒。応用は、「何か、悩んでいることない?」と聞くのではなく、「困っていることは何?」と尋ねるのだ。

 ポジティブシンキングもあるぞ。子どもが短所だと思い込んでいる発想を転換するのだ。たとえば、子どもが「わたしは飽きっぽい」と思っているのなら、「好奇心旺盛だ」とプラスの言葉で表現してやる。さらに、両者を「そして」でつなげてあげる。つまり、「あなたは飽きっぽい。そして、好奇心旺盛なんだよ」と伝えるのだ。このとき「しかし」でつなげると、前者を否定しているようになるので、順接であることが重要だそうな。

 いちばん重要だと感じたのは、次の問いかけ。おそらく、そういいたくなる場面が何度もあって、ほんとうに訊くべき質問はこれだろうから。すなわち、

  「なぜ、そんなことをしたのか?」

  と問い詰めるのではなく、

  「本当は、どうしたかったの?」

と訊くのだ。「なんでそんなことするの!?」とバシッと言うと、子どもはすらすらと答えてくれるだろうか?なぜなぜと追い込むと、子どもは理路整然としゃべってくれるだろうか?そんなことないよね。むしろ、「そんなこと」を否定的に捉えていると子どもは判断し、ますます殻に閉じこもるか、萎縮するかだろう。

 人の行為の裏側には、必ず何らかの肯定的な意図があるという。一見するとネガティブな言動であっても、その背後にポジティブな意図が隠されていることが多いというのだ。反抗的な態度をとる裏側に、肯定願望があるのがその典型かと。叱って禁止することで、一時的に問題行動を抑えることができるかもしれないが、その奥にある本当の原因を知らなければ、別の問題と化すことは、自分の経験を振り返ってみても明らかだろう。

 「女の子を育てる」視点からの助言もありがたい。

 たとえば、女子校のメリット。それは、「男女の役割分担からフリー」であること。共学だと、重いものを運んだり、荒事・電気配線は「男の子」、被服・飾りつけ・飲食関係は「女の子」と振られてしまう。女子校の場合、すべて自分で行う必要が出てくる。その結果、共学では出会えなかった得意分野に気づく可能性が広がるという。なかでも一番育つのは「リーダーシップ」だという。なるほどなるほど。

 著者が校長を務める品川女子学院では、「二十八歳の未来から逆算した教育」をすすめているという。「幸せな将来」「子育ての方針」は漠としすぎているので、ゴールを「二十八歳」に決めているのだ。そのときにどんな自分になっているかを共有し、そのために「いま」何をするべきかを逆算して考えるのだという。たしかにその通り。子育ては期限つきなんだことを、いまさらながら思い知る。プリンセスメーカー(8年)やアイドルマスター(1年)だと非情なまでに戦略的に考えるのにね。

 リアルギャルゲのマニュアルとして、唯一の一冊。


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「自分を信じろ、好きを貫け」と160年前に言った人

 それは、ラルフ・ウォルドー・エマソン。ソローやニーチェ、宮沢賢治や福沢諭吉などに影響を与えた哲人で、その第一級の論文「自己信頼」の新訳版を読んだ。

 これは自己啓発の原本・原液。今でもコピペされることもちょくちょくあるので、皆さんの目にとまることもあるかと。自己啓発好きなら、全ての行に強烈に反応するだろう。言い換えるなら、これが祖にして極意なので、本書をマスターすれば、コピペ本は要らなくなる。

 たしかに、D.カーネギー「道は開ける」や、S.コヴィー「7つの習慣」を思い起こすような一節もあったが、本書はもっとシンプルだ。そのキモはこれに尽きる――自己信頼(Self-Reliance)。自分の考えを徹底的に信じて、付和雷同せず、自己をよりどころとして生きろ、というのだ。

 さらに、社会が規定する「善」や「良識」といった名目に惑わされるな、と説く。それがほんとうに「善」かどうかを【自分で】探求し、内なる声に従えという。善や悪は単なる呼び名にすぎず、簡単に他の言葉と置き換えられる。正しいものは、自分の性質に即したものだけであり、悪いものは自分の性質に反したものだと断定する――淡々粛々としたアジテートに、読み手はヒートアップするかもしれない(書き手はいたって冷静)。

 そして、自己信頼から遠ざける原因として、一貫性への強迫観念を指摘する。過去の自分の行動に縛られ、今の自分の自由な立場を放棄するのは愚の骨頂だと。分別ぅ?なにそれ?オフィシャルでの言動に囚われ、記憶の屍を引きずり回すようなことをするなという。矛盾を恐れるな、常に現在の視点から検証し、日々あたらしい一日を生きよという激励は、読み手に向かっているというよりも、エマーソン自身のためのメッセージなのだろう。

 ただ、彼の主張を推し進めると、「この本そのものも捨てよ」になる。読むのは自由だが、それに囚われるな、自分の内なる声こそが神聖なのだから、となる。凡百の「成功本」は本書のコピペであったとしても、この本質まで透徹したものは、ほとんどない。100冊の成功本を読んで悦に入っているより、1冊の本書に背中を押されてみるがいい。

 人生に、突破口を。

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「詩学」は原則本

 古典というより教典。小説、シナリオなど、創作にかかわる人は必読。

 著者アリストテレスは、悲劇や叙事詩を念頭においているが、わたしはフィクション全般に読み替えた。フィクションを創造するにあたり、観客(読み手)に最も強力なインパクトを与え、感情を呼び起こすにはどうすればよいか?構成は?尺は?キャラクターは?描写は?「解」そのものがある。

 これは、「現代にも通ずる古典」というのではない。二千年以上も前に答えは書かれていて、今に至るまでめんめんとコピーされてきたことに驚いた。本書が古びていないのではなく、新しいものが創られていないんだね。

 著者に言わせると、わたしたちヒトは、「再現」を好むのだという。この概念はミーメーシスといい、模倣とも再生とも翻訳される。現実そのものを見るのは不快で、その現実を模倣したもの――演劇だったり彫刻、絵画だったりする――を見るのを喜ぶのだという。彫刻や舞台を用いることで、これは「あの現実を模倣したのだ」とあれこれ考えたり語り合うことに、快楽をおぼえるのだ。

 ここからわたしの妄想ね。ヒトにとってリアルそのままは複雑すぎて理解できないのではないかと。全ての経験は言語化できないし、全ての視覚情報は処理しきれない。だからリアルをいったん移し換えて(写し変えて)、単純化する。

 たとえば、小説ならテーマに沿った描写や出来事に絞るだろう。出来事を全て描写しようとすると、破綻するから。再生させるための媒介を経ることで、リアルは(書き手の表現欲求に沿って)整理される。受け手は整理された「リアル」を再現させて、現実を把握できたと満足するのだ。因果に焦点をあて、現実を「わかりやすい物語」にしてもらうことで咀嚼できるようにする。あるいは、小説内の出来事や登場人物の感情を追体験・疑似体験する同じフレームで、現実を理解できたと誤解するのかもしれない。

 妄想はおしまいにして、本書の肝にはいる。

 悲劇とはなにか。アリストテレスはこう定義づける。

悲劇とは、一定の大きさをそなえ完結した高貴な行為の再現(ミーメーシス)であり、快い効果をあたえる言葉を使用し、しかも作品の部分部分によってそれぞれの媒体を別々に用い、叙述によってではなく、行為する人物たちによっておこなわれ、あわれみとおそれを通じて、そのような感情の浄化(カタルシス)を達成するものである。

 実践に使えるポイントは、二つ。この実践は、いわゆる劇作に限らず、小説や映画などにも効く。

 一つめのポイントは、「おそれとあわれみ」。この感情を受け手に与えると、その作品は成功したといえる。もちろんこれに限らず、すぐれた作品には、恐怖、怒り、憎しみ、嫉妬、喜楽、哀切など、さまざまな感情が渦巻いている。そして、登場人物が抱く激しい怒りや恐怖が、受け手に伝染することがある。

 しかし、それらはアリストテレスに言わせると、「劇中の人物がこれらの感情のゆえに誤った判断をして破滅する、または危機に陥ることを示すため」なのだという。作中の因果の輪の一部をなしたり、トリガーとして「強い感情」が働いているのだという。そして、「おそれとあわれみ」こそが、すぐれた作品にとって必須の条件となる。

 「おそれとあわれみ」を引き起こすためには、「不幸」の要素が必要となる。「幸福→不幸」もしくは「不幸→幸福」となるかはそれぞれだが、多かれ少なかれ不幸の要素がある。観客は自分に似た人物が不幸にあうのを見て、自分もまた同じ不幸にあうのではないかとおそれ、あるいはその人物が不幸に値しないにもかかわらず不幸に陥るとき、あわれみをおぼえるのだという。この感情を引き起こすことが、悲劇の目的なんだとまで言う。

 さらに、この感情を引き起こす効果的な方法まで伝えている。アリストテレスはまず、視覚効果の限界を指摘する。見た目を弄って「怖そうな仮面」や「痛々しい様子」を表現しても効果的ではないという。今風にたとえるなら、びっくり箱的な仕掛けや、どばーん血まみれの映画や小説は、怖いといってもすぐ慣れてしまうようなものか。

 では、どうすれば最も効果的におそれとあわれみを引き起こすだろうか。それは、予期に反して、しかも因果関係によって起こる場合だそうな。予想を裏切るような(でもその中でのリクツは合っている)出来事を見せられると、そこに「驚き」が生じるから。

 ここで、あるフィクションを思い出す。奇妙な死亡事故を調べているうちに、あるビデオを見てしまう男の話。実はそれは「呪いのビデオ」だったというやつ。このフィクション、わたしと友人との間で評価が真っ二つに割れているが、ようやくその理由が分かった。

 カギは、「呪いのビデオ」を信じるかどうかにかかる。少なくとも「ありそうだ」と思えるなら、「おそれとあわれみ」を驚きとともに効果的に味わうことになる。「見た人は一週間で死ぬ」という事実は、見ちゃった後に知らされるからね。そりゃ怖いし、かわいそうだよ。

 その反面、信じられないのであれば、本を投げたくなる。じっさいその友人は「カネ返せ!」と言ってた。「キリストの血統は実は続いてました、それはオマエだ!」なんて奴や、「平凡な少年が実は伝説の魔法使いだった」奴などが、これにあてはまる。自分を重ねられるキャラクターがピンチになったあと、そいつを覆す。危機も逆転も、そのキャラだから起こりうるもの(ビデオ、血統)であれば、より効果的に受け手の感情を引き出せるのだ。

 二つめのポイントは、「カタルシス」。これは注釈のほうが分かりやすい。訳者は二つの説を取り上げていた。ひとつは瀉出説、もうひとつは倫理的浄化(教化)説なんだが、瀉出説のほうがしっくりきた。昔の治療の一手段、瀉血からきているんだろう。

 これは、医療における有害物質の瀉出(除去)にもとづく解釈だそうな。悲劇はあわれみとおそれの感情を引き起こすが、それは結局、これらの感情を高めたうえで、この感情から観客を解放するためであるという。熱病患者には熱を加えて熱から解放する治療のような「類似療法」のようなもの。

 さらに、この効果は知的なものにとどまらない。なぜなら、まさにこの知的な働きによって、肉体も変化するからだという。つまり、肉体はアドレナリンを分泌し、心臓がバクバクし、手に汗をにぎり、目には涙があふれる。泣きゲーで涙を流したり一本抜いたりすると、スッキリするのはこういうこと――戯言兎角、一種の呼び水となっているのだろう、感情の水位を高め、あふれ出すための。

 エッセンスをまとめるとこうなる――観客が感情移入できるような、普通の人がピンチになるが、どうしてそうなったか、最初は分からない。その原因を探っていくうちに、その人は何かの因縁を持っていることが認知される(キャラと観客の両方に)。因縁は劇の外側にしつらえてあり、作中ではその結果や影響しか見えない。適切な不幸とそれに見合った解決で受け手をハラハラドキドキさせ、なおかつドンデン返しする。ただし、「いかにもありそう」な因果でなければならない。で、ラストにホロリと泣かせれば上出来。

 ベストのフレームはこんな感じで、あとはバリエーションの問題となる。そうそう、アリストテレスに言わせると、「みんなが知っているお話」を下地にするのはいいけれど、変えちゃダメだそうな。共有されていつ、大きな物語があるなら、それをベースとする。観客は舞台の「再現」を見ると共に、自分の記憶のなかでも「再現」させるんだ。この二重の再現こそが快の元なのだろう。「あ、知ってる知ってる!」という奴やね。

 ベースとなる神話があるなら、その登場人物は死ぬべきときに死に、戦うべきときに戦う。その構造はそのままにしたうえで、観客に「あわれみとおそれ」を呼び起こすような出来事を、予期に反して、しかも納得できる因果関係でもって引き起こすのがベスト。

 たとえば、いわゆる「時代物」が良例だろう。歴史にIFはないけれど、史実はそのままで、「実はあんな陰謀があったんだ…表沙汰にはならなかったけど」なんて話がぴったりや。「儂の死を三年隠すのじゃ」とか、「自衛隊が戦国時代にタイムスリップしちゃいました」なんてそう。史実を変えずに、どう着地させるかが見所やね。それにひきかえ、「自衛隊が第二次世界大戦にタイムスリップしちゃいました」の方は、偽史展開(パラレルワールド)なので、アリストテレスによると二流扱いとなる。

 人により、本書から受ける刺激が異なってくるかも。わたしが挙げた例よりも、もっと「それを言うならコレでしょ」という小説、マンガ、映画があるだろう。それくらい基本的なことが書いてある。

 創作のデザインパターンともいえる一冊。小説、シナリオなど、創作にかかわる人は、ぜひ読んでほしい。原則そのものがあるのだから。

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