ガツンときたスゴ本「パレスチナ」
アメリカ人のジャーナリストから見た「パレスチナ」が迫る。
本書を稀有なものにしているのは、「マンガ」なところ。画き手はジョー・サッコというマンガ家。フォト・ジャーナリストではなくコミック・ジャーナリスト、つまりマンガでパレスチナ問題に斬りこんでいるのだ。著者は1991年にヨルダン川西岸地区とガザ地区を訪れ、専ら占領地区のパレスチナ人にインタビューをする。そのときの感情、状況、境遇をつつみ隠さず、あまさず描きつくす。下手な物語化なぞせず、自分自身が登場し、一人称で語る。
いわゆる「マンガで分かる」ものではないことに注意。「分かりやすさ」なんぞ、これっぽっちも無い。入り組んだ主義・信条・身の上話をそのまま画き下す。「アラブ対ユダヤ」あるいは「イスラーム対イスラエル」といった対立構図を見ることも可能だが、さらに相対化され、「そうした構図で見ている人」として画かれている。
この相対化というか、取材対象への距離のとり方が面白い。作者は、どのインタビューにも顔をだし、肉親を殺された話や、収容所の生活、インティファーダの様子をふむふむと聞く。そのふむふむ顔の裏で独白する「思い」はなかなか辛らつだ。
とにかく、ぼくは仲裁のためにいるわけじゃないようだ
正直いうと、ぼくの大作マンガの成功は対立にかかっている
平和じゃ金にならん
そのいっぽうで、自問することも忘れない。「こんなこと書いて何になる?」とインタビュイーに語らせ、「パレスチナはジャーナリストだらけなのに、なにも変わっちゃいない」と責めさせる。あの場所は「正義」がありすぎるのだろう。どこかの立場に拠った、ただ一つの「正義」を押し通そうとすると、たちまち弊害が生じる。
だれかの「正義」に相対するものは、「悪」などではなく、また別の正義なのか。姦通した娘に対するイスラム法の家族版があり、投石をしたか・しなかったかもしれない子どもに対するイスラエル軍版の正義、占領軍が従うべきジュネーヴ条約の指針、占領軍の撤退を呼びかける国連決議――ガザでは正義を選ぶことができるようだ。
マンガという手段は、画き手の「耳目」というフィルターを通した現実を、画き手の「手」を通じて表現したもの。バイアスとデフォルメが二重にかかっていることを承知の上で、その「ゆがみ」を徹底して描く。兵士の銃床が奇妙にクローズアップして描かれ、ふりあげられた棍棒がグロテスクなまでに巨大に見える。ねじまげられた「現実」へ当惑した感覚が、ゆがんだコマ割りと不均衡なパースにより、いっそう増幅される。
この極端な表現を見ていると、別のマンガを思い出す。山田芳裕の「へうげもの」をご存知だろうか?心情の揺れを示すため、キャラの表情を誇張したり、パースを曲げてまで極大化させる。あるいは、スクリーントーンを使わず、徹底した書き込みをしているところは、東風孝広作画の「カバチタレ!」にも似ている。
それだけではない。意見が交錯する様子が、入り組んだフキダシの「足」によって語られたり、間白(コマとコマの間)を真っ黒に塗りつぶして語り手の感覚を表現する(語り手は拘束され、頭に袋を被せられ、狂いかけている)。淡々としてて恐ろしいのは、同一のコマが均等に整然とならぶページが続くところ。最初は1ページに3コマで、突然拘束されるところから始まる。そして、監禁生活が始まる。彼が壊れはじめる過程が、6コマ(2×3)、9コマ(3×3)、12コマ(3×4)、16コマ(4×4)、16コマ、20コマ(4×5)、20コマ、20コマ、そして20コマと続く。圧倒的な暴力シーンよりも、この部分に強烈なもの感じた。
いっぽうで、何もできない自分も思い知らされる。ここでいう「自分」とは、画き手のジョー・サッコでもあり、読み手のわたしでもある。このセンシティブな問題について、テルアヴィヴに住むイスラエルの女性と語り合う場面がある。当然、ガザを見てきた著者に賛成できるはずもなく、堂々めぐりのおしまいに、彼女はこう言い放つ。
イスラエルは占領地について言いわけをするのはうんざり!
戦争があった、わたしたちは土地を勝ち取った!
いまじゃ、わたしたちの土地なのよ!
太字化は原文まま。著者が何もいえなくなると同じように、わたしも黙すほかない。それでいて、パレスチナの老人の言葉が追いかけてくる。
あなたも人間だ、わたしも人間だ
みな塵から生まれたのだ…
ローマ人も、ビザンティンの人も、
十字軍も、トルコ人も、イギリス人も、
みな、ここにきたんだ
彼らはいま、どこだ?
みな、去っていった…
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コメント
パレスチナ問題は非常に難しいですね。
ニュースを見てても、どっちが正しいか全然わかりません。
投稿: スゴワザ FX | 2009.03.01 22:17