「読んでいない本について堂々と語る方法」はスゴ本
タイトルは本を開かせるための釣りで、本書そのものに仕掛けがしてある。もちろん「未読本について語る方法」はあることはあるが、そいつを探しながら進めると、ホントの目的を読み流してしまう可能性が大。
■1 本書の、「表面」
疑似餌となっている「読んでいない本について堂々と語る方法」は、本書のあちこちに散っている。なかでもズバリなやつは、p.169-170 だろう。すなわち、第一に、冒頭で作品を褒めることで、読み手の信頼感を抱かせろという。あとはひたすら一般的考察に逃げ、最後に次の記事で本に言及することを予告する。しかし、次の記事なるものがあらわれることがなく、その本を葬り去ることができるというのだ。
そして、誰もが本を「読んだ」と思っているだけで、「ちゃんと」読むなんてことは、ほとんどありえないことを明らかにする。ほとんどの場合、ナナメ読みか飛ばし読みしているか、タイトルや評判から勝手に類推しているにすぎない。さらに、「読んだ」という人だってその記憶はどんどん(TPOと自己都合にあわせて)改変されているものだという。
だから、本の内容に一言もふれることなく批評は可能で、未読の段階・批評の状況に関係なく、気後れせずに自分の考えを押し付けたり、必要なら本をでっちあげればよろしい。――というのが、本書の、表側の、趣旨。
■2 本書の「裏面」と、トラップ
この論証のため、著者はかなりのページを使って「本を読む、つまり"読書"って、どういうこと?」を徹底的に検証する。モンテーニュ「エセー」やエーコ「薔薇の名前」を使って、「読んでいない」と「読んだ」とのあいだにある境界が、いかに不確かであやふやなものであるかについて突き詰める。これが本書の、裏側の、趣旨。
ネタバラシじゃないかって?だいじょうぶ、著者は序章でバラしているのだから。未読本について語るためのテクニックのみならず、あいまいで、いい加減な読書行為の分析にもとづいたひとつの読書論を打ち立てるのが、本書の目的なのだという。
ちなみに、「薔薇の名前」と「第三の男」は完全にネタバレしている。もちろん皆さん既読だからかまわないよね、という著者一流の皮肉とみた。実は、ここにも罠がある。ある箇所で「薔薇の名前」のラストを明かすのだが、それちがう!既読ならすぐ気づくぐらい大きな誤りなのにと思いきや、後でぬけぬけと誤りを認める。
つまり、作品の援用にあたり、自分の主観的事実を述べたに過ぎないと、本書の仕掛けを実演してみせているのだ。地図の著作権トラップのように、最後まで読まない人をあぶりだす罠なのかと思ったぞ。
■3 読書とは何か――読書論
その本を読む、つまり「読書」とは、いったいどういうことだろう。物理的な本はそこにあるが、「読書」とは、本を「所有」することではない。書き込みや線を引きながら"読んだ"といっても、その書き込みや傍線は「読書」ではない。読書ノートやブログでのコメントも、読書から生み出されたものであって、読書ではない。
もちろんプルーストを持ってこなくても明白だろう。読書とは行為のひとつで、物としてのページと読み手のあいだで成り立つ経験のこと。読書という体験を経ることで、新たな知見を得たり、異なる思考様式をたどったりすることができるが、あくまでアタマの中でのこと。だからわたしたちは、ページに記載されたものを、視覚を通じて受け取ったと信じている記憶の形でだけ、「読んだ」といっているにすぎないんだ。
これは、速読・遅読・斜読に関係なく、「読んでいた・読んだという記憶」でもって読書が成り立っている。この記憶がいかにあやふやで、改変されやすいかについて、著者は執拗に追求する。「読んでいない本について語らされる」小説のエピソードを通じて、この「読んだ」「読んでいない」境界線がいかにあいまいかを示してみせる。
■4 読者とは何か――読者論
読者は、本を読んでいるあいだだけに存在するとは限らない。むしろ、本を読み終わった後に始まるといってもいい。読者は、さまざまな書物を渡り歩くことによって、そこに保たれていた自身の一部を再発見するという。これは、テクストを通じてあたらしい意味内容を創造的にリ・プロダクトすることと近しい。
書物のなかに、自分を見つけ出すやりかたなのだが、不思議なことに、「読むことによって変わる"読者"」がどこにもいない。わたしのような「影響されやすい」読者だと、読んだら読んだぶんだけ知識なり思考が移動する。むしろ、読んでもピクとも動かないような本は、読まなくてもいい本だといっていい。
そんなわたしにとっては、読み手を本に従属させまいとする著者の意見は新しくみえる。本に深入りしすぎて、読み手の創造性が奪われてしまうことのほうを危険視するあまり、本から汲み取る知識や思想のほうを低く評価してしまっているのではないか?この疑問は最後まで続く。
■5 書物とは何か――書物論
本書をハウツー本のフリをした「読書論」だと思い込んだら、これまた罠にかかったことになる。読み手の独創性を守るため、書物から一定の距離を置くことが必要だと主張するためには、それを可能たらしめている理由――書物の役割こそが、もうひとつの柱なのだから。本書はハウツー本のフリをした「読書論」のフリをした「書物論」でもあるのだ。
書物は単体で存在するのではなく、その著者、タイトル、出版社などによって、ジャンルやレベルのなかで位置づけられる。その位置さえ把握していれば、直接その本を読まなくても「堂々と語る」ことは可能だという。
たとえば、みんなのだいすきな村上春樹の新作ならば、中の人が誰であれ、高いポイントをつけるだろうし。このときの「書物」は、存在すらしていなくても大丈夫。なぜなら、「本という物質はひとつだが、それを話題にするあらゆる関係性の結び目としてなりたつ」のだから。
書物がいかにヴァーチャルな代替物として作り上げられるかについては、「薔薇の名前」で"あの本"について語り合う二人の会話を証拠として挙げている。その本は「存在」はするものの、ある理由により読めないのだ。そしてその「読めない本」(なんつー矛盾!)に書いてある内容こそがキモだったりする。"あの本"を読まないことこそが、謎を解くことになる――とても象徴的なエピソードだね。読書は、書物と読者のあいだだけでなく、その書物を話題とする(自称/詐称)読者たちのあいだにも、存在するのだ。
■6 最大のトラップ
だが、ちょっと待て。何かおかしい。
著者は、書物を読むことと、それについて語ることは、別々の活動なのだということを見事に検証してみせているが、それは小説やエッセイ――すなわち書物だ――の事例をもってしてである。読まれる対象である書物もって読まなくてもいい証拠とする、なんというパラドックス。
そして、著者は「薔薇の名前」を、ざっと流し読みしただけだというが、ウソだ。上述のトラップや「読めない本」をヴァーチャルな本だと見抜くところなんて、まさに精読・再読している証拠だろう。
つまり、「読まなくてもいい」証明として扱うためには、その俎上にある本を熟読玩味する必要があるんだ。「読まなくても堂々と語れる」内容こそが、ちゃんと読んでいないと話せないのだ。「読まなくても語れる」ために精読したという、なんという自己矛盾。
さらに、話題の関係性の結び目としての書物論や読者論についても、同様のことが言える。ある書物が全体の中での位置づけが可能だというならば、それ以前の書物を読んでおく必要があるはずだ。村上春樹の新作を位置づけたいなら、旧作や近いジャンルを読んでおく必要があることと一緒。
いや、目録や他の言説(書評)、あるいは本の本があるではないかと反論されそうだ。しかし、その言説を信じるためには、やっぱり旧作や周辺を読まなければならない。「その書物を読まないために」きちんと読んでおくべき本が、必ず出てくるのだ。読書から得られる知見なり情報なり思考様式に裏付けられてこそ、「全体の中の関係性」をつかむことができるのだから。
結局のところ、「読むために、読まない」ことを目指すと、どうしても「読まないために、読む」ことになる。本書をマジメに読もうとすればするほど、この自己矛盾の堂々めぐりに陥る。あ、あれ?あまりに拘泥して「書物のディテールに迷い込んで自分を見失う」ことこそ、本書で戒めていることじゃなかったっけ?
■7 もっと気楽に「読む」?
つまり、二重三重の罠なのだ、これは。
「読んでいない本について堂々と語る方法」が、「本」という体裁をとっている限り、どんな読み方をしても自己言及の罠に陥る。接近して読むと、「本当に読んだといえるのか?」というジレンマに囚われ、逆に読み飛ばして(あるいは読まないまま)テキトーに語ると、正鵠を射ていたりする(←これすらも本書に書いてあるという皮肉!)。
もちろん、こうした深読み、裏読みをせずに、ただ漫然と流してもいい。あるいは、ざっと目を通すことで「読んだという記憶」を作り上げることも可能だ。その場合は、最初の「■1 本書の、表面」にまとめた内容なる(それはそれで著者の思惑どおりなんだ)。
ただ、著者も訳者も罠の解説をほとんどしない。うっかり誉めたりすると、その「誉めかげん」によって、いかに読んでいなかったがバレる仕掛けとなっている。本書を深くするのは、書き手よりも、むしろ読み手。どこに「斉天大聖」と記すか、注意しながら読んでみよう。
自分の「読むこと」への揺さぶりがかかる、かなり貴重な一冊となる。
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コメント
頭痛くなりました。寝ます。
投稿: Zinc | 2009.02.01 20:35
>>Zincさん
おやすみなさい…
投稿: Dain | 2009.02.04 06:50
「ハムレット」を原始的な生活を営む「部族」が理解することができるかどうかという疑問から、彼らに読み聞かせる場面だって、バイヤールの創作かも。で学者が「ハムレットの母は、国王が死後、即、国王の兄弟と再婚するとは何事か?」と部族に問えば、「そんなのあたりまえだよ~。男がいなけりゃ、労働は、なりたたないじゃん」という部族の「現実味」を帯びた「意外な答え」が、なんかおかしくて(笑)良い。ハムレットの議論は、それ自体を知らなくとも(成り立つ)(意見できる)ことが証明?されています。
この「やりとり」って、脳科学者「茂木健一郎」とヘキサゴン?「木下優樹菜さん」の対談に等しい。木下さんにも「内なる図書館(自己都合的な価値観)」は存在するし、たまにプロ顔負けの斬新な指摘も木下さんはします、そこが面白い。
「読んでいない本~」のコンセプトを応用して、例えば、「観ていないテレビ番組について堂々と、その出演者のブログに書き込む方法」てな感じで、「テレビ番組」をほぼ観ないで楽しむことにチャレンジしてきました(演者のブログ中心で)
「素人ミュージシャンがメジャーデビューを賭け、サバイバルバトルを繰り広げる番組」を観なくとも、展開・予測・大局が、だいたい読めた(演者ブログは必読)
あ、「読んでいない本~」と同時に、アリストテレス「詩学」、島田雅彦「小説作法ABC」、佐藤亜紀「小説のストラテジー」も読み合わせたら、番組の「オチ」がわかりすぎて、番組自体がツマランくなった…あ~ぁ(泣)。この本を日常生活のあらゆる場面で応用してみたい。
投稿: シュークリーム | 2009.07.28 22:37