この喪失感は、中年の特権なのかも「モンテ・フェルモの丘の家」
家族喪失の物語、と読んだ。ありきたりな題材をじょうずに料理している。
すべて書簡形式――つまり、登場人物たちの手紙のやりとりを読む形で進行する。恋も、愛も、別離も、そして死も。ただし、よくある「二人の往復書簡」ではなく、男女入り乱れて8人のやりとりを読まされることになる。メールというよりもメッセンジャーをのぞいている感覚。
でもだいじょうぶ、主要なキャラクターは二人、中年男ジュゼッペと、彼と不倫してたルクレツィアのやりとりがメインだから。中年男はアメリカへ移住し、女はイタリアの田舎暮らしにあきあきしている。それぞれの場所から、「昔はよかったね」と思い返しながら今の生活にとりくむ様子がやりとりされる。
そして、彼らを囲むように友達がいる。辛らつな言葉を交わしつつ親密な空気をかもしている仲間たち。その仲間うちで、誰かと誰かが惚れただの寝ただのといったエピソードが鼻につく。まるで大学のサークル内での色恋話を聞かされているようだが、四十五十のもう子どもも大きくなっているようなトシでするのか?さすがイタリア、恋の国。
そうしたワキアイアイの象徴が、モンテ・フェルモの丘の家(マルゲリーテ)。そこには、たくさんの友達があつまり、いつ行っても誰かが待っていて、あたたかい雰囲気でむかえてくれる。いわば「たまり場」ってやつだね。そうした場をもっていた仲間内が、だんだんバラバラになっていく様子が手紙を通じて知らされる。友情という絆にむすばれた、擬似的な家族が消えさってゆく様子が、外側のエピソード。
そして、コアの話で、典型的なイタリアの大家族が壊れてゆく。さらに、その傍らで、もうひとつの現代的で実験的な小家族が消えていく。もちろん手紙形式なので、渦中もしくは伝聞といった極端な形でしか知らされない。もっとも知りたい客観的な視点なぞないので、読み手は書き手に移入したり突き放してみたりなにかと忙しいかもしれない。
もちろん、エエトシこいたオッサン・オバサンなのだから、自分の選んだ生き方の結果は引き受ける覚悟でいるはずだ。だが運命は、そいつを軽く超えるほど残酷だったりする。若けりゃ「そんな時代もあったね」と次のステップもあろうが、もう時間がないんだ、あの丘の家と同じように。この感覚を、中年男ジュゼッペがうまいこといいあらわしている。
ある年齢まで生きてきた人間にとっては、初めて見るものは、もう関係ないのだ。旅行者として眺めるだけで、興味はあっても心はつめたい。他人のものなんだ、それは。この喪失の物語を、バラバラの往還を再構成する形で読ませるのが面白い。読み手は誰がダレやらとまどいながら、必死になって出来事を追いかけよう、思い出をつなげようと読むんだけれど、登場人物たちの距離がどんどん離れてしまうんだ。集めようとする読者と、離れようとするキャラクターの方向のズレが、この小説をユニークにさせている。そして、集め終わる頃にはもう、とりかえしのつかないところにまで至っている。そして、その場所からふりかえる過去と、モンテ・フェルモの丘の家は、もう違ったものに変わってしまっている。
運命に流されて、変わってゆく私。そんな私を、ときどき遠くで叱ってもらう「あなた」も、変わってしまった。あのとき選んだ生き方を、あなたは忘れない。でも、あなたは、私の青春ではないんだ。「あのときのあなた」こそが、私の青春そのものだったのだから――この喪失感は、わたしがトシとったせいだろう。
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