ハタチの、バイブル「アデン、アラビア」
手に触れたところから、熱が、震えが侵入し、読み手のこころと化学反応を起こす。読む前から何が書いてあるのかわかり、それはまさしく自分のこと、自分が言いたいことなんだと驚愕しながらページをめくる。熱に浮かされたように読みきると、主人公と同じことをはじめる――すなわち、旅に出るのだ。
なんてね。
そういう本にであうには、一種の技能と、それから若さが必要だ。目利きとしての腕はみがいているものの、わたしにとっては「若さ」が足りない。少なくとも二十年前でないと効果を及ぼさない本だね。わたしの場合は「地上の糧」だった。ジッドを読んで発火したときを振り返りつつ「アデン」を読んだので、懐かしいような切なさにひたった。
いまどきの若者は何に発火するのだろうか?ケルアックじゃあるまいし、ライ麦?深夜特急?藤原新也?古いか。だが、この新訳があらたな火打石になるかもしれない。あまりにも有名な冒頭を引く。ピンときたなら、手にとっていただきたい。あなたが二十歳なら限りなく毒書になる。
僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない。何もかもが若者を破滅させようとしている。恋、思想、家族を失うこと、大人たちのなかに入ること。この世界のなかで自分の場所を知るのはキツイものだ。そうでない方が本書を読むのは辛いかも。リリシズム満載の語り口でつむぐ、戦争と社会への幻滅と批判は、「ハシカのようなもの」と一掃できてしまうから。あるいは、中二病のキツいやつだと揶揄されてしまうかもしれない。怒れる若者の独白は、老いたる世捨人の繰言とおなじくらい退屈だから。
でも、いまだからいえる。昔のわたしにmailできるのなら、きっとこう告げるだろう。ここでないどこかを目指して旅立ったとしても、そのどこかへ連れて行っているのは自分自身。だから、行った先でも日常に倦むことは必至――とね(聞く耳もたないだろうが)。
そして、著者が強烈に批判する「ホモ・エコノミクス」のレッテルを貼られた「いまのわたし」だからこそ、いえる。自分の目に映るものだけが世界のすべてだと信じるきみは、あぶない。その万能感覚は「わたし」も識っている――というよりも、記憶している。世界がきみのアタマだけで閉じていると思うなよ。そのままだと世界からしっぺ返しを食らうぞ――ってね。やっぱり聞く耳もたないだろうが、まぁいいさ。やけどするがいいさ。
読み人を選ぶ一冊。ただし、罹患したら一生かがやく一冊。

| 固定リンク
コメント