平凡なわたしが非凡な文章を書くために「不良のための文章術」
小飼弾氏の文が非凡なのは、弾氏が非凡だから。では、平凡なわたしは凡庸な文しか書けないのか? それは違う、やり方しだい。
その「やり方」を教えてくれるのが本書。
おっと、いそいで注釈を入れなければならないのは、この「非凡な文」について。「非凡な文」とは、読み手の心を動かすもので、納得・共感だけでなく、反発・批判も含まれる。感情のベクトルは関係なく、スカラーが大なるものこそ「非凡な文」なの。
そして本書、「不良のための」とは、要するにカネになる文章だということ。出版社が原稿料を払う気になる文章であり、読者がカネ出して買う気になる雑誌や本に載っている文章のこと。弾氏の文章もこれにあたる。
座右にしたい本書の目玉は、「凡庸な文が非凡な文に仕立て上げられていくプロセス」がこと細かに解説されているところ。最初は、箸にも棒にもかからない「書評」や「グルメガイド」の例文が出てくる。そいつを徹底的に調理しつくし、最後には立派に雑誌・書籍に載せられる「カネと交換できる」レベルにまで仕上げる。
たとえば、「窓ぎわのトットちゃん」の書評がある。知らない若い人のために説明しておくと、1981年に出た黒柳徹子の自伝エッセイで、連邦のモビルスーツのように売れた。ほのぼのしみじみした「いい話」なので、どうしてもありきたりな、凡庸な書評になる。
しかし、そいつを「雑誌に載せられる文章」に調理するのがスゴいところ。たくさんの調理法が紹介されていたが、ここでは二つの視点「体を使え」「地図的な感覚と年表的な感覚」を説明する(後のわたしの参考のために)。
まず、「体を使え」。カネになる文章を書くということは、一種のサービス業であり代行業なんだという。グルメガイドなら実食して判断材料を伝えるサービスだし、書評なら代わりに読んであげる。でも「トットちゃん」は、うす~いエッセイなので、あっという間に読めてしまう。どうすればいいか?
そこで提案されているのは、トットちゃんの舞台に行ってみること。作品の流れに沿いながら、その土地について報告をするなら、凡庸な人でも可能だという。で、どうせ行くならカメラもって撮りまくっていけとか、歩いた道やかかった時間をメモっておけとアドバイスする。
さらに、「地図的な感覚と年表的な感覚」を取り入れろという。「地図的な感覚」とは、空間的な関係に視点をおいてとらえる考え方で、「年表的な感覚」とは、時間の流れに視点をおいた考え方だそうな。要するに、「トットちゃん」単品で勝負するのではなく、その比較対象を持ってくるんだ。
トットちゃんの舞台(自由が丘)を、他の場所と比較する。他の場所は、東京のどこかでもいいし、当時の田舎と比べてもいい。当時の日本と世界と比較して考えてもいい。あるいは、トットちゃんが描かれている昭和初期を考える。日本やアジアはどんな時代だったか考えたり、黒柳徹子と同年齢の伊丹十三をもってきてもいい。
つまり、比較対象となる「補助線」を導入することで、「トットちゃん」の輪郭を際立たせるんだ。わたしも心がけねば。本を単品で紹介するよりも、「あわせて読みたい」的に話すほうがラクだし。
そういう「補助線」的な本なら、以前に紹介した「ワインバーグの文章読本」[レビュー]こそ、あわせて読みたい。ただし、ワインバーグはネタ集めやアイディアの出し方・積み上げ方が中心で、いいネタさえ出せばあとはライティングテクニックでカバーできるとしている。いいネタ・アイディアは習慣によるというワインバーグに影響され、どこへ行くにもメモ帳を持ち歩くようになったぞ。
ワインバーグでアイディア出し→自然石構築法→「不良のための文章術」で非凡化パターンが黄金ルートだね。
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