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恋愛小説の完成形「肉体の悪魔」

肉体の悪魔 天才が書いた小説、としかいいようのない。

 文章は極限まで洗練され、エピソードは恐ろしいほどたくみに構成されている。自意識の動きを冷徹に微分し、あらわにする。情愛を知り尽くした箴言を吐くいっぽうで、自らの運命をさりげなく練りこむ。

 うまい、としかいいようがない。

 これを18で書いたのだから、天才というほかない。同じく超早熟のサガン「悲しみよこんにちは」にも驚いたが、フランス文学って、すごいもんだ。幅をひろげるつもりで手を出した新訳に、足をとられてしまっている。

 百の誉め言葉よりも一の引用。めろめろになったのが次の文。狂おしいほど血が騒ぐ。

彼女の両手が僕の首に絡みついていた。遭難者の手だってこれほど激しく絡みつくことはないだろう。彼女は僕に救助してもらいたいのか、それとも一緒に溺れてほしいのか、僕には分からなかった
 第一次大戦下のフランス、15歳の「僕」と、19歳の人妻。夫が戦地にいるあいだにふたりは出会い――ありきたりな食材を、完璧といっていいほどの一品に仕立てあげる。

 みつめあう瞳のなかにうつる自分と、時間を忘れてうつろう感覚を、非情なほどの正確さで伝える。身も心も「溺れて」いると、時の流れが歪む。わかるよね、やりまくっていると朝だったというやつ。しかも寝て起きてすぐやってやってやっているうちに、昼なんだか夜なんだか、一日経ったのかそれとも三日続いているのかわからなくなる。そんな状況を、冷静に観察している「僕」ガイル。こわい、こわいよ、これは。

 訳者・中条省平氏は、この歪んだ時間感覚を読みほどくガイドとして、経過を年表化している。あとがきのなかとはいえ激しくネタバレなので気をつけて。この年表、余計なお世話かと。読み手もいっしょに時を忘れる特殊効果がだいなしー。

 あと、三島由紀夫といっしょに「小説という文学形式の終末を予言したような究極の小説」と持ち上げるが、そこには激しくハテナがつく。たしかに非常に完成度の高い、いやパーフェクトといってもいいぐらいのすごい小説だ。

 けれども、完成度が高すぎて、かえってウソくさいんだ。稠密な心理描写によって行為のすべてが説明済みだといわんばかりのエゴイズム。説明のつかない行為やこころの動きは、最初から捨象されている。完璧な「フィクション」なんだ。

 これはもっぱら、好みの問題なのかも。行動を追いかけているうちに、その裏側の動機や感情を想像するといった「型」が好きなので、こうした心理小説のスゴさはわかればこそ、その抽象性もよく見える。

 つまり、「肉体」がないんだ。奇妙なほど肉体の感覚がかんじられない。肉体からとりだした「魔」こそ本作のテーマだからなのか、肉体のたてる、具体的なにおいが存在しない。うつくしい作品なんだけれど、ホンモノに見えない。よくできた doll を愛でるような読書。

 これは三島作品にも同じことがいえる。ものすごい「美」に圧倒されるんだけれど、なんかウソくさい。「憂国」の切腹シーンなんて壮烈な美をビンビン感じるんだけれど、なまぐさい臭気は書かれない。映像としての「美しさ」こそあれ、そこに「におい」は存在しない。血は色であって臭ではないんだろうね。文学少女が、ハマりやすい罠。

 さらに あまりに完成度が高いので、オチは読む前からわかったぞ。ふたりの間にあるものは、愛そのものだった。しかし、その永続性は最初から断たれていた。だから、愛を愛として成立させるために作者は○○しなければならないことは、あらゆる恋愛小説のテンプレともいえる

 冷静に語る「僕」に触れていると、自分の熱さがわかる。微熱をだいて、読みふけれ。

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受信: 2009.01.02 12:02

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