祖国とは国語である「完本・文語文」
山本夏彦にいわせると、明治の日本人は文語を捨てたんだそうな。平安時代から千年かけて洗練された日本語を手放し、西洋語の翻訳を「日本語」としてあらたに発明したのが、いまの国語となっている。
文明開化は東洋を捨てて西洋を学ぼうとして、皮相だけを学んで根本に及ばなかったから私たちはその両方を失ったのである。そして、文語を捨てたことにより、詩は朗誦にたえなくなり、読者を失ったという。じっさいの終焉は御維新ではなく、新聞の社説が文語から口語に変わった大正十年まで続いたんだと(詩が全部口語自由詩になったのもこのころ)。
わたしの場合、さいしょから無い世界で呼吸してきたからピンとこない。だが、少し引いてみるならば、千年の言語を捨ててから百年経ったのが、いま、なんだろうね。生きてきた数十年だけで日本語が終わったとか語るのは、わたしにとって、百年早いのかも。
いろいろな「~は終わった」がある。「モー娘。」は終わった。「マスメディア」は終わった。「大きな物語」は終わった。「Web2.0」は終わった。終焉メソッド、カッコいいよね。思いどおりにならなかったからといって、拗ねてみせるのはガキのしぐさ。
だから先手をうって終了宣言する。「あの○○はもう、あの頃の○○じゃない」といえば、自分の失望感を隠しながら批判することができる。その失望は過剰な期待が現実に即していなかった結果なのだと指摘されずにすむ。
夏彦翁は「終わった」などと言わない。「捨てた」んだと。変わってしまった日本語を、いつくしむように語る。国語が失われ、あらたな「国語」になりかわる過渡期を、あきらめと愛惜の混じったあたたかい目で眺める。中江兆民、二葉亭四迷、樋口一葉、萩原朔太郎、佐藤春夫、中島敦たちの名文を引いて、死んだ子の歳を数える。
だが、夏彦翁は「文語に帰れ」といっているのではない。そんなことはできやしないことは百も承知で、ただ、いましばらく文語に残る「美」を探したいのだと。「昔はよかった」メソッドは、翻って「今はダメだ」の反語として使われる場合が多いex.[日本語壊滅]。これも、現実のうつろいに取り残されたり、期待と違った場合に多用される呪文だ。翁はいましめつつもチクリチクリとこれをやる。
失われたことばとはいえ、そのリズムは現在へも脈打っている。「山月記」は教科書から外せないし、「乳と卵」はネタのみならず話体や拍子も一葉の衣鉢を継いでいる(と思いたい)。「戦艦大和ノ最期」なんてこの文体でしか表現できないだろうなーと思ってたら、文語を擬したものなんだそうな。どのメールの末尾も「けり」なんて書かないけれど、「けりをつける」ことはできる。
毒舌がいりまじった鋭利な指摘に、胸をグッと押される。たとえば、いまは本が多すぎるんだと。そして、新しい本は古い本を読むのを邪魔するために出ているようなものなんだと。二千年も前に人間の知恵は出尽くしていて、デカルトも孔子もあらたに付け加えるのものがなかったんだという。「なべての書は読まれたり、肉はかなし」をここでも聞かされる。
それでもフォロー(?)は忘れない。新刊が必要なのは、同時代の人から実例を出して説かれるために必要なんだと。昔の知恵を再発見する役割があるんだと。ちょっと安心もする。そういや、シオランを知ったのは翁のおかげ。
私たちは、ある国に住むのではない。ある国語に住むのだ。祖国とは、国語だ。(シオラン)ただしツッコミも入る。ひたすら文語を懐かしみ、口語の欠点をあげつらうのは彼の義務みたいなもんだ。けれども、口語の末尾が「だ」「である」しかないと言うのは如何。言文一致なら、「や」「かな」「べし」、あと体言どめもアリだろう。文語のようなルールのないのが口語なのだから――なんて茶々いれると、こう返されるだろうね。
文は削りに削って危うく分からなくなる寸前でとどまるをよしとする。それを転瞬のうちに理解する読み手の快いくばくなるを知らない。ああたしかに。簡にして素の文語は遠くなってしまった。さいしょから持っていないわたしには、惜しむことすらできやしない。その残像を書写するだけ。
日本語は終わったのではなく、変わったんだということがわかる一冊。

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