読むので思う
読むジャンルが違っているほどいいが、違いすぎてもこまる。手や興味が届かないから。微妙にズれてて、それでいて読書レベルが上、かつ、ライティングも見習いたい。傾倒するのではなく、参考にする。
そんな人のひとりに、荒川洋治さんがいる。
これまで、「読書の階段」や「ラブシーンの言葉」を読んできた(リンク先はレビュー)。詩人の、吟味された言葉の、プロフェッショナルのレビューは、とても参考になる。
ただし、けっこう辛らつ。研ぎ澄まされた文章で、胸をグサリと刺してくる。
たとえば、北村太郎の文章を引きながら、「読書によって心が広くなるより、狭くなる人の方が多い」と言ってくる。ドキッとして目がとまる。
つまりこうだ、自分が好きなものしか読まないと、一つの考え方、生き方の「型」にしがみついて、他をを認めようとしない人になる危険があるという。固執する「型」への知識はますます増えていくいっぽうで、その人の心は、いよいよかたくなになるという。自戒自戒。
ブログやネットについても、ひややかな目を向けてくる。ネットでの日記公開は、他人を意識したものであり、人に見せたら日記ではないと言い切る。
そして、「いっぱい書くことは、何も書かないことと同じ。書いた、伝わったという幻想にとらわれ、自分を見失う」と手厳しい。練達の読み手だから、もちろん紀貫之も啄木も読んでいる。その上で言い切っている。ちがうんだ、「伝わったという幻想」にほんろうされながらも、それでも伝えたい熱いものがあるから、書くんだ、などと青臭く反論したくなる。
やたら古典的名作をオススメしてくる「権威」にも苦言を呈する。読書の意義を若者につたえるシンポジウムで挙げられた「名作」にツッコミを入れる。文句のつけようのない作品に対し、「果たして、ほんとうに若い人たちは読むのだろうか」と問いなおす。
こんなカンジだ。「万葉集」を全部読むのはつらい。「金色夜叉」は古い文体なので「多情多恨」を。「吾輩は猫である」のなじみにくい笑いよりは、「こころ」「門」がいい。いっそ明治以降は「こころ」「銀の匙」「黒髪」「野火」「楢山節考」でよいのでは、と仕掛けてくる。
だいたい、専門家でもふうふう言っているような古典的名作をすすめても、若者どころか、誰も読みはしない。「イーリアス」「紅楼夢」はムリ。「赤と黒」はわかりにくい。「カラマーゾフの兄弟」は人物描写が粗略だし、「失われた時を求めて」は読みきるまでに人生が終わりかねないという。
では何がいいかというと、「文庫一冊に入る長さのもので、いまも力を持つ『たしかな』名作」をくりかえし読めという。たとえば、「脂肪の塊」「緋文字」「人形の家」「武器よさらば」をオススメしてくる。ああ、たしかに。新潮文庫の100冊はマーケティングの賜物だけど、ブックガイドとしても優良な証左がここにある。
本書のタイトル、ちょっとかわっているのだが、ちゃんと理由があるんだ。
本を読むと、何かを思う。本など読まなくても、思えることはいくつかある。だが本を読まなかったら思わないことはたくさんある。人が書いた作品のことがらやできごとはこちらには知らない色やかたち、空気、波長をもつ。いつもの自分にはない思いをさそう。詩人の手遊びなのか、韻をふんでいたり、対句が沈んでたりしてて、読むのがたのしい。ブックガイドとしても、ライティングのお手本としても、秀逸。読むと「思い」が浮かんでくる、ちょうど書き手と響きあうように。

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