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上から目線の「本を読む本」を10倍楽しく読む方法

 もはや読書論の古典とまであがめたてまつられている「本を読む本」。

 これを、なるべく楽しく読む方法をご紹介…というのも、手にしたかたならご存知だろうが、スーパー上から目線に辟易すること間違いないから。そして、もったいぶった言い回しで結局それかよ…とツッコミを入れるだろうから。

 しかし、だからといって無用な本ではない。新入生から読み巧者まで、得るものは必ずあるはずで、説教臭さえ気にしないのであれば極めて意義深い一冊だとオススメできる。ここでは、本書にふれながら、わたしの「本を読みかた」について思うところを書く。誰かのヒントになればこれ幸い。

■ 決まった読みかたなんて、ない

 完成された本の読みかたなんて、存在しない。十人いれば十通り、百冊あれば百通りの読みかたがある。本書の著者アドラーをはじめ、識者(?)たちが「本はこう読め」と押し付けるたびに、ゲンナリしているし、その轍を踏まないよう注意しているつもり。

 ただ、「うまい読みかた」というのは存在する。

 では、「うまい読みかた」とは何ぞや?

 これに答えるためには、まず、その本を読む「目的」を明らかにしなければならない。目的とは、「なぜその本を読むのか?」に対する具体的な返答だ。知識を得るためであれ、楽しみが目的であれ、必ず「○○したい」という返答になる。たとえば、「日本人のしつけは衰退してるって、ホント?」や、あるいは「江戸川乱歩のような短編を、読みたい」になる。

 そうした「目的」にあった本が選ばれ、選ばれた本に沿った「読みかた」が存在する。「日本人のしつけ」が目的であれば、そうした事実や主張を探しながら読むことになるだろうし、「乱歩のような短編」なら、静かな暗い部屋で、好きなノットで読みたいもの。「○○についての知識を得る」や「△△のテーマを概観する」といった具体的な目的があって、それに適った読み方が、「うまい読みかた」。

 よく使われる宣伝文句に、「ためになる本」とか「役に立つ本」がある。だが、なんの「ためになる」のか、あるいは、どんな「役に立つ」なのだろうか?これを意識せずに読んでいる限り、いつまでたっても雑学に毛が生えた程度でしかない。もちろん「読書に成果を求めない」といったスタンスもありだが、能動的に読むなら、まず「目的」が必要だ。

 「本を読む本」で紹介されている読みかたは、知識を得ることが「目的」の場合に役に立つ。あるいは、特定のテーマを追いかけるときの「うまい読みかた」が記されている。

■ 分析読書とシントピカル読書

 本書のキモは第二部「分析読書」と第四部「シントピカル読書に尽きる。入門編の第一部は心得みたいなものだし、第三部「文学の読みかた」は著者の意向で大幅に割愛されている。ここでは、「分析読書」と「シントピカル読書」についてまとめてみる。

 分析読書とは、一冊の書物から深い理解を得るための読みかたのこと。テーマを把握し、内容を解釈し、著者のいわんとしていることを充分に理解したうえで、批評する。要するに、「流し読み」「拾い読み」ではない、ふだんのあなたがやっている読みかたのこと。

 いまふうに言うならば、" So What ? "を連発して、トピックセンテンスを抜きだす。そこからイシューツリーを再構成して、論証の誤りや脆弱なところを衝いたり、前提そのものを疑ったりする読みかたになる。ロジカルシンキング本に親しんでいる方なら手馴れたものだろうが、1940年代に自分の言葉で書いたアドラーはえらいと思う。

 そして、シントピカル読書とは、特定のテーマについて複数の書物を横断的に読むやりかたのこと。当然、ある本を読むと、そこから別の本へ派生して…が延々とくりかえされることになる。

 おもしろいことに、著者アドラーは、「何を読むか」と「どんなテーマか」は相互に影響しあうという。準備の段階でできあがった読書リストを消化していくうちに、リストの順位が変動したり、想定外の本がランクインしてきたりするわけだ。

 これもみなさんご存知のやりかただろう。巻末の「参考文献」をたよりに幅をひろげたり、amazonの「この本を買った人は…」をチェックすることでもできる。あるいは、図書館のレファレンスサービスを利用するのはどうだろう?テーマと目的を具体的に述べ、いままで読んできた本をならべると、次に読む資料のリストを示してくれる。複数の図書館にかけもちで相談すると効果的。「日本人のしつけは衰退してるって、ホント?」や、「乱歩みたいな短編」を問い合わせてもいい。質問と回答事例は、[レファレンス協同データベース]が参考になる。

 いずれにせよ、最初の「目的」さえブレなければ、分析読書もシントピカル読書もハズさないはずだ。本書を立ち読みできるなら、p.172 に分析読書のまとめ、p.244 にシントピカル読書のまとめがある。ここだけ読んで、ピンときたら読む価値はあると思っていい。

■ 「本を読む本」を批評する

 分析読書の一環として、本を正しく批評しなさいという。著者の根拠と論理から、論証の完全性を疑う方法が紹介されている。

 たしかに批評を心づもりして読むことで、本から得られる「目的」は大きくなる。そして、本書で解説される「反論を解消する」や「判断保留の重要性」などは、かなり役立つだろう。

 しかし、その余勢を駆ってマキャベリ批評でボロを出す。著者は、「君主論」の次の箇所を、明らかな誤りだと断定している。

古いと新しいとを問わず、すべての国家の基礎は良き法にある。国家の武力が十分でないところには良き法はあり得ない。よって武装国家は法治国家の条件である。

 この部分について、著者アドラーは、こう批評する。

だが、よき法は十分な警察力に依存するという事実からは、警察力が十分であれば法は必然的に良きものとなる結論は導き出されない。この議論は、最初の仮定が果たして妥当かどうか疑わしいのに、それを棚上げした議論である。これは「不合理な推論」の例である。

 (゚Д゚)ハァ?

 マキャベリは「武力は法治の必要条件」と述べているのであって、「武力は法治の十分条件」とは言っていない。アドラーは、マキャベリが出していない「警察力が十分であれば法は必然的に良きものとなる結論」をもってきて、「君主論」を批判している。これは、中公文庫版の「君主論」(p.68)も参照すると、よく見えてくる。

ところで、昔からの君主国も複合国も、また新しい君主国も、すべての国にとって重要な土台となるのは、よい法律とよい武力とである。よい武力をもたぬところに、よい法律のありうるはずがなく、よい武力があって、はじめてよい法律がありうるものである。

 マキャベリは、武力の必要性を訴えているものの、武力さえあればよい法律があるとは述べていない。

 もしもマキャベリが、「武力さえあれば法治OK」と言っているのなら、アドラーが指摘する、その妥当性を示す根拠が必要になる。しかし、マキャベリ自身、「武力さえあれば」と思っていないから、本一冊になってる。武力だけではままならぬから、権謀術数や人身掌握の術を述べている。

 つまり、アドラーは誤読か意図的か不明だが、マキャベリの主張を歪めたうえで、そいつを批評している。このように、書き手が言ってもいないことをでっちあげて、そいつを論破することで批判したつもりになる詭弁術を、「わら人形論法」(Straw man)という。

 さらに、この箇所は、軍隊の種類と傭兵軍について検証する章で、マキャベリは歴史的事実から信頼に足る軍隊の種類を論考し、最終的には「自国軍」こそが頼りになるという結論を引き出している。法治と武力の話ですらなく、カンケーないところに噛み付いて「不合理な推論」とレッテルを貼るのは、言いがかりにひとしい。

 つまり、マキャベリの主張のねじ曲げと、的はずれな批判の両方をしている意味で、アドラーは「君主論」を『分析読書』していないのではないかと。著者は哲学のセンセーだったらしいが、ロゴスはいのちだろうに。

 あるいは、この「本を読む本」自体を分析的に読んでもらうことを期待して、こんな罠を仕掛けたのだろうか。批判読書を勧めておいて、自分が批判されるような「穴」を設けておくなんて、粋なはからいをするものだ。分析読書しなかったら、この「穴」に気づかないからね。

 本書を「必読の書」ともてはやすのもいいが、まず隗よりスタート。ひととおり読んだら、本書そのものを俎上に載せてみるのもいい。

■ 「本を読む本」に致命的に足りないもの

 これまで、教養書や啓蒙書から知識を得るための「著者の読みかた」を紹介してきた。

 では、小説などのフィクションを読むための「読書法」はあるのだろうか?――これが第三部「文学の読みかた」になる。ここは著者の意向により大幅に割愛されているものの、小説に対する著者の態度があからさまにミエミエで笑ってしまう。そして、本を読むうえで、いちばんだいじな心得が書いていないことに気づく。

 「本を読む本」では、小説を読むための心得として、非常に多くのものを要求する。面白かっただけではダメで、どこがどう面白かったのかキチンと説明できなくてはならないと。だから、審美せよ、鑑賞せよ、味わえ、学べ、追体験せよ、統一性を把握せよ、解釈せよとやかましい。なのに、もっとも大切なところが抜けている。

 著者のスタンスに欠けているもの、それは、「その本を楽しんで読む」に尽きる。面白がって読む、同化して読む、面白いとこだけ読む、読まない、つまみ読み、ナナメ読み、音読、黙読、味読、好きに読めばいいんだよ、小説は。

 著者アドラーは、読書を、高級な何かのように勘違いしているようだ。知識や教養を摂取するのに躍起になって、肝心の読書のよろこびを放棄している。知識欲を満足させる「たのしみ」ではない。あるいは、小難しい思想にくすぐられた自尊心の「よろこび」ではない。純粋に、単純に、本そのものをおもしろがって読む――そうした読みかたを、忘れてしまっているのではないかと。

■ 読まない権利

 これはアドラーだけを批判できない。わたし自身、多かれ少なかれ、そうした姿勢を持っているのだから。知識が得られる、考え方を学ぶ、知的生産ができる――読書になんらかの報酬を求めている限り、どっこいどっこい。もちろん読書から利益を引き出そうとする姿勢は大切だが、「本を読む」ってそれだけだったっけ?

 忘れられた読みかたを思い出すために、「読者の権利10カ条」が役に立つだろう。これは、「ペナック先生の愉快な読書法」で紹介されており、ちいさい子をもつ親にとって、かなり身につまされるに違いない。

 「わが子を読書好きにしたい」という親の願いの裏側には、「見返りを求める読書」が隠れている。この、見返りを求める読書こそが、本を読む喜びを失わせているという。読書の幸福を伝えるために、読者は次の10カ条の権利があるという。

  1. 読まない権利
  2. 飛ばし読みする権利
  3. 最期まで読まない権利
  4. 読み返す権利
  5. 手当たりしだいに何でも読む権利
  6. ボヴァリズムの権利(小説と現実を混同する権利)
  7. どこで読んでもいい権利
  8. あちこち拾い読みする権利
  9. 声を出して読む権利
 10. 黙っている権利

 「読む」ためには「読まない」選択肢が必要なんだ。「本を読む本」の真逆を追求する、「見返りを求めない読書」のおかげで、ほんとうの喜びを味わえる。この10カ条で「本を読む本」を照らすと、もっと立体的な読書をすることができるだろう。つまり、目的に適ったスタイルを保ちつつ、楽しんで読めるのだ。

 そういえば、わが子は「かいけつゾロリ あついぜ!ラーメンたいけつ」を何十回も読んでいる。通読もするし、好きなとこだけ拾い読みするし、声に出して読むし、身振りで示しながら読むし、わたしに音読させたり、イシシとノシシで交代して読んだり、いろいろな「読む」バリエーションを思いつく。

 とにかく読めること、読むことそのものを、じつに楽しそうに、「読んで」いる。彼の、自由な読書スタイルを見ながら、教えられる思いをしている。字を教えたのはわたしだが、好きに読むやり方は、彼に思い出させてもらった。

 人生は短い、合わないなら読まなくていい。大事だと思ったところだけつまみ読みすればいい。つまらなければ途中で放り出してもいいし、好きなところは好きなだけ読み返せばいい。濫読上等。小説と現実を混同したくなるではないか。分析的な読書も、シントピカルなテーマ追求もアリだが、なによりも目が見えているうちに、溺れるように読みたいね。


2020.12.28追記

コメント欄より、名無しさんからご指摘をいただいたので、下記の通り応答する。

■名無しさんのご指摘

  1. 『本を読む本』の原著は英語の”How to Read a Book”だから、原文に当たるべき
  2. 『君主論』の原文に当たると、「十分に武装されていない国家において良き法律はあり得ないので、十分に武装された国家は良い法律を持つことになる」と読み取れる
  3. これは、アドラーの指摘する、不合理な推論になる

■ご指摘への応答

 『本を読む本』について、名無しさんへの応答

リンク先はコメント追加が自由のため、気になる点があればコメントどうぞ。

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事実はSFよりも奇なり「操作される脳」

操作される脳 「メタルギア・ソリッド」が、"近未来"でなくなっている件について。

 がんばりすぎのスネークは別として、軍関係者の悩みのタネは、「ためらう兵士」だそうな。「発砲をためらう兵士たち(Men Against Fire,1947)」によると、実戦で発砲するのは15~20%にすぎないという。発砲率なら訓練で向上できるが、兵士といえど人だ、ストレスや疲労はエラーを招き、戦場でのエラーは死を招く。

 死なない兵士はムリとしても、せめて、死ににくい兵士はできないだろうか?この発想をもとに、生物学的なパターンを改変して戦闘用にする研究がなされている。恐怖や痛みを感じずに突撃し、見聞きしたすべての情報を丸ごと記憶している。傷を受ければ即座に自己治癒し、睡眠や食べ物なしでも活動可能な兵士をつくりあげる。

 リアルタイムに指示を伝えるヘッドセットはゲームより楽だ。なぜなら、どちらへ向かって進むかは自分で判断しなくてもよく、体が勝手に指示された方向に進むから。バイタルサインは常時モニタリングされるだけでなく、兵士の"思考"までもキャッチできるテクノロジーだ。MGS4では体内に注入したナノマシンで敵味方を識別していたが、本書で紹介されている研究との区別がつかない。

 人の脳を電気的、化学的、物理的に操作して人類に革新をもたらすテクノロジーのひとつひとつに、ぞくぞくとする。帯のキャッチに「これは、SFではない」とあるが、じゃぁなんだというと、MGS4であり、AKIRAであり、Firefox(ブラウザでなく戦闘機)だろう。

 その研究主体というか、予算の出所は、米国防総省の国防高等研究計画局(DARPA)だそうな。インターネットの原型であるARPANETやステルスの開発で有名だが、スネークの迷彩スーツもDARPA製だったりする。その研究テーマは…

  • 脳を改変し、恐怖や眠気を感じさせない
  • 脳の活動を完璧にモニターし、直接操作する
  • 代謝能力を自分で低下させ、冬眠する
  • つらい記憶だけをピンポイントでを消去する
  • 頭で考えるだけでマシンを動かす
  • 自己治癒能力を高め、傷を急激に治す

 公開情報だけでここまで暴露されていることに感嘆すべきなのか、公開情報だけでこれほどなら、本当はもっと恐ろしいんじゃないかと戦慄すべきなのか、わからない。けれども倫理のラインはずいぶん遠くに行ってしまったようだ。

 倫理や尊厳について、著者は逆ギレ気味に語る。研究には二つの目的(dual purpose)があり、軍事技術は平和のためにも転用されていると。そもそも、科学技術は軍の要請により発達してきたことは、歴史の示すとおり。そして、人間をサイボーグにして戦争するのが尊厳に対する侮辱というのなら、なぜ義肢を操作できるのは人間的勝利といえるのか――と問いかけるのだ。

 ちょっと楽観的すぎやしないかとヒヤヒヤしながら読む。未来なのか今なのか、ゲームなのかリアルなのか界面が活性化されるされる一冊。

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祖国とは国語である「完本・文語文」

文語文 国語としての日本語を考えるなら、夏彦翁に訊け。

 山本夏彦にいわせると、明治の日本人は文語を捨てたんだそうな。平安時代から千年かけて洗練された日本語を手放し、西洋語の翻訳を「日本語」としてあらたに発明したのが、いまの国語となっている。

文明開化は東洋を捨てて西洋を学ぼうとして、皮相だけを学んで根本に及ばなかったから私たちはその両方を失ったのである。
 そして、文語を捨てたことにより、詩は朗誦にたえなくなり、読者を失ったという。じっさいの終焉は御維新ではなく、新聞の社説が文語から口語に変わった大正十年まで続いたんだと(詩が全部口語自由詩になったのもこのころ)。

 わたしの場合、さいしょから無い世界で呼吸してきたからピンとこない。だが、少し引いてみるならば、千年の言語を捨ててから百年経ったのが、いま、なんだろうね。生きてきた数十年だけで日本語が終わったとか語るのは、わたしにとって、百年早いのかも。

 いろいろな「~は終わった」がある。「モー娘。」は終わった。「マスメディア」は終わった。「大きな物語」は終わった。「Web2.0」は終わった。終焉メソッド、カッコいいよね。思いどおりにならなかったからといって、拗ねてみせるのはガキのしぐさ。

 だから先手をうって終了宣言する。「あの○○はもう、あの頃の○○じゃない」といえば、自分の失望感を隠しながら批判することができる。その失望は過剰な期待が現実に即していなかった結果なのだと指摘されずにすむ。

 夏彦翁は「終わった」などと言わない。「捨てた」んだと。変わってしまった日本語を、いつくしむように語る。国語が失われ、あらたな「国語」になりかわる過渡期を、あきらめと愛惜の混じったあたたかい目で眺める。中江兆民、二葉亭四迷、樋口一葉、萩原朔太郎、佐藤春夫、中島敦たちの名文を引いて、死んだ子の歳を数える。

 だが、夏彦翁は「文語に帰れ」といっているのではない。そんなことはできやしないことは百も承知で、ただ、いましばらく文語に残る「美」を探したいのだと。「昔はよかった」メソッドは、翻って「今はダメだ」の反語として使われる場合が多いex.[日本語壊滅]。これも、現実のうつろいに取り残されたり、期待と違った場合に多用される呪文だ。翁はいましめつつもチクリチクリとこれをやる。

 失われたことばとはいえ、そのリズムは現在へも脈打っている。「山月記」は教科書から外せないし、「乳と卵」はネタのみならず話体や拍子も一葉の衣鉢を継いでいる(と思いたい)。「戦艦大和ノ最期」なんてこの文体でしか表現できないだろうなーと思ってたら、文語を擬したものなんだそうな。どのメールの末尾も「けり」なんて書かないけれど、「けりをつける」ことはできる。

 毒舌がいりまじった鋭利な指摘に、胸をグッと押される。たとえば、いまは本が多すぎるんだと。そして、新しい本は古い本を読むのを邪魔するために出ているようなものなんだと。二千年も前に人間の知恵は出尽くしていて、デカルトも孔子もあらたに付け加えるのものがなかったんだという。「なべての書は読まれたり、肉はかなし」をここでも聞かされる。

 それでもフォロー(?)は忘れない。新刊が必要なのは、同時代の人から実例を出して説かれるために必要なんだと。昔の知恵を再発見する役割があるんだと。ちょっと安心もする。そういや、シオランを知ったのは翁のおかげ。

私たちは、ある国に住むのではない。ある国語に住むのだ。祖国とは、国語だ。(シオラン)
 ただしツッコミも入る。ひたすら文語を懐かしみ、口語の欠点をあげつらうのは彼の義務みたいなもんだ。けれども、口語の末尾が「だ」「である」しかないと言うのは如何。言文一致なら、「や」「かな」「べし」、あと体言どめもアリだろう。文語のようなルールのないのが口語なのだから――なんて茶々いれると、こう返されるだろうね。
文は削りに削って危うく分からなくなる寸前でとどまるをよしとする。それを転瞬のうちに理解する読み手の快いくばくなるを知らない。
 ああたしかに。簡にして素の文語は遠くなってしまった。さいしょから持っていないわたしには、惜しむことすらできやしない。その残像を書写するだけ。

 日本語は終わったのではなく、変わったんだということがわかる一冊。

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ハタチの、バイブル「アデン、アラビア」

アデン、アラビア やけどするような本がある。

 手に触れたところから、熱が、震えが侵入し、読み手のこころと化学反応を起こす。読む前から何が書いてあるのかわかり、それはまさしく自分のこと、自分が言いたいことなんだと驚愕しながらページをめくる。熱に浮かされたように読みきると、主人公と同じことをはじめる――すなわち、旅に出るのだ。

 なんてね。

 そういう本にであうには、一種の技能と、それから若さが必要だ。目利きとしての腕はみがいているものの、わたしにとっては「若さ」が足りない。少なくとも二十年前でないと効果を及ぼさない本だね。わたしの場合は「地上の糧」だった。ジッドを読んで発火したときを振り返りつつ「アデン」を読んだので、懐かしいような切なさにひたった。

 いまどきの若者は何に発火するのだろうか?ケルアックじゃあるまいし、ライ麦?深夜特急?藤原新也?古いか。だが、この新訳があらたな火打石になるかもしれない。あまりにも有名な冒頭を引く。ピンときたなら、手にとっていただきたい。あなたが二十歳なら限りなく毒書になる。

僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない。何もかもが若者を破滅させようとしている。恋、思想、家族を失うこと、大人たちのなかに入ること。この世界のなかで自分の場所を知るのはキツイものだ。
 そうでない方が本書を読むのは辛いかも。リリシズム満載の語り口でつむぐ、戦争と社会への幻滅と批判は、「ハシカのようなもの」と一掃できてしまうから。あるいは、中二病のキツいやつだと揶揄されてしまうかもしれない。怒れる若者の独白は、老いたる世捨人の繰言とおなじくらい退屈だから。

 でも、いまだからいえる。昔のわたしにmailできるのなら、きっとこう告げるだろう。ここでないどこかを目指して旅立ったとしても、そのどこかへ連れて行っているのは自分自身。だから、行った先でも日常に倦むことは必至――とね(聞く耳もたないだろうが)。

 そして、著者が強烈に批判する「ホモ・エコノミクス」のレッテルを貼られた「いまのわたし」だからこそ、いえる。自分の目に映るものだけが世界のすべてだと信じるきみは、あぶない。その万能感覚は「わたし」も識っている――というよりも、記憶している。世界がきみのアタマだけで閉じていると思うなよ。そのままだと世界からしっぺ返しを食らうぞ――ってね。やっぱり聞く耳もたないだろうが、まぁいいさ。やけどするがいいさ。

 読み人を選ぶ一冊。ただし、罹患したら一生かがやく一冊。

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あら、こんなところに数学が「続 5分でたのしむ数学50話」

 「5分でたのしむ数学50話」の続編。

5分でたのしむ数学50話_続 前作のレビューは、[わかる瞬間が楽しい「5分でたのしむ数学50話」]にある。より敷居がさがり、さらに身近な「数学」を紹介している。「こんなところに数学が!」と驚かされることばかり。

 たとえばエッシャーの「だまし絵」。精密に描かれた鳥や魚と、背景となる地の部分が規則正しくパターンを成しているのだが、鳥や魚がだんだん背景にとけこみ、地の部分だったところに魚や鳥が見えてくる。

 これが自作できるというんだ。CCC基本タイプとTTTTタイプの二通りのやり方を紹介しており、いわれるがままに描いてみる――と!なんとちゃんと「エッシャー風」に描ける、おもしろい(絵心がないので公開しない)。

 エッシャーは数学者コクセターを介して非ユークリッド幾何学を知ったのだそうな。これにより、有限な平面の中で無限性をモデル化できる。自分がつくったモチーフがくりかえされ、画面からはみ出て無制限に広がっていく様子を想像する。愉快なようでヒヤリとさせられる。無限の片鱗を実感する。

 また、確率論の解説として、モーツァルトの「音楽のサイコロ遊び」が紹介されている。二つのサイコロを振って、出た目の合計に相当する小節を選んで演奏していくそうな。サイコロで音楽が「創れて」しまうという驚き!にクラクラした。11^16通りの小節になるから、サイコロを振るたびに新しい演奏ができる仕掛け。

 そこから著者はちょっとした思考実験をする。音符やインターバルの組み合わせやリズムの構造を分析することで、「モーツァルト風」「バッハ風」の作曲をコンピュータにやらせることが可能になるのではないかと。つまり、確率計算で作曲するわけだ。

 そして、このアイディアを実現した作曲家オルムフィンネダールを紹介している。このアプローチに基づいて、作曲家たちをいわば交差させる手法を開発したという。まず、ある作曲家に特徴的なパラメーターで作曲を開始する。で、だんだんパラメーターを変えてゆき、最終的には別の作曲家のパラメーターにあわせるんだって。モーフィングの作曲版ってやつか。

 このアプローチを「小説家」に適用したネタを考えたことがある。漱石なら漱石の「書き口」があり、そいつを分析する。よく使われる名詞や係り言葉、末尾の文句。会話体、構成、挿話を洗い出し、統計的なパラメータであらわす。次に、全く異なるストーリーを持ち込んで、そのパラメーターで書き表す。分析の対象は「猫」がいいと思った(章により書き方を変えているから)。

 数学そのものの紹介よりも、むしろ数学の応用分野に焦点を当てている。金融工学、宝くじ、コンパクトディスク、ファジー理論など、数学がいかに実社会を支えているかを聞いているうちに、「世界を核心部分でつなぎとめているものこそ、数学なのだから」というメッセージが伝わってくる。

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恋愛小説の完成形「肉体の悪魔」

肉体の悪魔 天才が書いた小説、としかいいようのない。

 文章は極限まで洗練され、エピソードは恐ろしいほどたくみに構成されている。自意識の動きを冷徹に微分し、あらわにする。情愛を知り尽くした箴言を吐くいっぽうで、自らの運命をさりげなく練りこむ。

 うまい、としかいいようがない。

 これを18で書いたのだから、天才というほかない。同じく超早熟のサガン「悲しみよこんにちは」にも驚いたが、フランス文学って、すごいもんだ。幅をひろげるつもりで手を出した新訳に、足をとられてしまっている。

 百の誉め言葉よりも一の引用。めろめろになったのが次の文。狂おしいほど血が騒ぐ。

彼女の両手が僕の首に絡みついていた。遭難者の手だってこれほど激しく絡みつくことはないだろう。彼女は僕に救助してもらいたいのか、それとも一緒に溺れてほしいのか、僕には分からなかった
 第一次大戦下のフランス、15歳の「僕」と、19歳の人妻。夫が戦地にいるあいだにふたりは出会い――ありきたりな食材を、完璧といっていいほどの一品に仕立てあげる。

 みつめあう瞳のなかにうつる自分と、時間を忘れてうつろう感覚を、非情なほどの正確さで伝える。身も心も「溺れて」いると、時の流れが歪む。わかるよね、やりまくっていると朝だったというやつ。しかも寝て起きてすぐやってやってやっているうちに、昼なんだか夜なんだか、一日経ったのかそれとも三日続いているのかわからなくなる。そんな状況を、冷静に観察している「僕」ガイル。こわい、こわいよ、これは。

 訳者・中条省平氏は、この歪んだ時間感覚を読みほどくガイドとして、経過を年表化している。あとがきのなかとはいえ激しくネタバレなので気をつけて。この年表、余計なお世話かと。読み手もいっしょに時を忘れる特殊効果がだいなしー。

 あと、三島由紀夫といっしょに「小説という文学形式の終末を予言したような究極の小説」と持ち上げるが、そこには激しくハテナがつく。たしかに非常に完成度の高い、いやパーフェクトといってもいいぐらいのすごい小説だ。

 けれども、完成度が高すぎて、かえってウソくさいんだ。稠密な心理描写によって行為のすべてが説明済みだといわんばかりのエゴイズム。説明のつかない行為やこころの動きは、最初から捨象されている。完璧な「フィクション」なんだ。

 これはもっぱら、好みの問題なのかも。行動を追いかけているうちに、その裏側の動機や感情を想像するといった「型」が好きなので、こうした心理小説のスゴさはわかればこそ、その抽象性もよく見える。

 つまり、「肉体」がないんだ。奇妙なほど肉体の感覚がかんじられない。肉体からとりだした「魔」こそ本作のテーマだからなのか、肉体のたてる、具体的なにおいが存在しない。うつくしい作品なんだけれど、ホンモノに見えない。よくできた doll を愛でるような読書。

 これは三島作品にも同じことがいえる。ものすごい「美」に圧倒されるんだけれど、なんかウソくさい。「憂国」の切腹シーンなんて壮烈な美をビンビン感じるんだけれど、なまぐさい臭気は書かれない。映像としての「美しさ」こそあれ、そこに「におい」は存在しない。血は色であって臭ではないんだろうね。文学少女が、ハマりやすい罠。

 さらに あまりに完成度が高いので、オチは読む前からわかったぞ。ふたりの間にあるものは、愛そのものだった。しかし、その永続性は最初から断たれていた。だから、愛を愛として成立させるために作者は○○しなければならないことは、あらゆる恋愛小説のテンプレともいえる

 冷静に語る「僕」に触れていると、自分の熱さがわかる。微熱をだいて、読みふけれ。

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読むので思う

読むので思う 面識はないけれど、メンターとして想っている人がいる。

 読むジャンルが違っているほどいいが、違いすぎてもこまる。手や興味が届かないから。微妙にズれてて、それでいて読書レベルが上、かつ、ライティングも見習いたい。傾倒するのではなく、参考にする。

 そんな人のひとりに、荒川洋治さんがいる。

 これまで、「読書の階段」や「ラブシーンの言葉」を読んできた(リンク先はレビュー)。詩人の、吟味された言葉の、プロフェッショナルのレビューは、とても参考になる。

 ただし、けっこう辛らつ。研ぎ澄まされた文章で、胸をグサリと刺してくる。

 たとえば、北村太郎の文章を引きながら、「読書によって心が広くなるより、狭くなる人の方が多い」と言ってくる。ドキッとして目がとまる。

 つまりこうだ、自分が好きなものしか読まないと、一つの考え方、生き方の「型」にしがみついて、他をを認めようとしない人になる危険があるという。固執する「型」への知識はますます増えていくいっぽうで、その人の心は、いよいよかたくなになるという。自戒自戒。

 ブログやネットについても、ひややかな目を向けてくる。ネットでの日記公開は、他人を意識したものであり、人に見せたら日記ではないと言い切る。

 そして、「いっぱい書くことは、何も書かないことと同じ。書いた、伝わったという幻想にとらわれ、自分を見失う」と手厳しい。練達の読み手だから、もちろん紀貫之も啄木も読んでいる。その上で言い切っている。ちがうんだ、「伝わったという幻想」にほんろうされながらも、それでも伝えたい熱いものがあるから、書くんだ、などと青臭く反論したくなる。

 やたら古典的名作をオススメしてくる「権威」にも苦言を呈する。読書の意義を若者につたえるシンポジウムで挙げられた「名作」にツッコミを入れる。文句のつけようのない作品に対し、「果たして、ほんとうに若い人たちは読むのだろうか」と問いなおす。

 こんなカンジだ。「万葉集」を全部読むのはつらい。「金色夜叉」は古い文体なので「多情多恨」を。「吾輩は猫である」のなじみにくい笑いよりは、「こころ」「門」がいい。いっそ明治以降は「こころ」「銀の匙」「黒髪」「野火」「楢山節考」でよいのでは、と仕掛けてくる。

 だいたい、専門家でもふうふう言っているような古典的名作をすすめても、若者どころか、誰も読みはしない。「イーリアス」「紅楼夢」はムリ。「赤と黒」はわかりにくい。「カラマーゾフの兄弟」は人物描写が粗略だし、「失われた時を求めて」は読みきるまでに人生が終わりかねないという。

 では何がいいかというと、「文庫一冊に入る長さのもので、いまも力を持つ『たしかな』名作」をくりかえし読めという。たとえば、「脂肪の塊」「緋文字」「人形の家」「武器よさらば」をオススメしてくる。ああ、たしかに。新潮文庫の100冊はマーケティングの賜物だけど、ブックガイドとしても優良な証左がここにある。

 本書のタイトル、ちょっとかわっているのだが、ちゃんと理由があるんだ。

本を読むと、何かを思う。本など読まなくても、思えることはいくつかある。だが本を読まなかったら思わないことはたくさんある。人が書いた作品のことがらやできごとはこちらには知らない色やかたち、空気、波長をもつ。いつもの自分にはない思いをさそう。
 詩人の手遊びなのか、韻をふんでいたり、対句が沈んでたりしてて、読むのがたのしい。ブックガイドとしても、ライティングのお手本としても、秀逸。読むと「思い」が浮かんでくる、ちょうど書き手と響きあうように。


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平凡なわたしが非凡な文章を書くために「不良のための文章術」

不良のための文章術 小飼弾氏の文が非凡なのは、弾氏が非凡だから。では、平凡なわたしは凡庸な文しか書けないのか? それは違う、やり方しだい。

 その「やり方」を教えてくれるのが本書。

 おっと、いそいで注釈を入れなければならないのは、この「非凡な文」について。「非凡な文」とは、読み手の心を動かすもので、納得・共感だけでなく、反発・批判も含まれる。感情のベクトルは関係なく、スカラーが大なるものこそ「非凡な文」なの。

 そして本書、「不良のための」とは、要するにカネになる文章だということ。出版社が原稿料を払う気になる文章であり、読者がカネ出して買う気になる雑誌や本に載っている文章のこと。弾氏の文章もこれにあたる。

 座右にしたい本書の目玉は、「凡庸な文が非凡な文に仕立て上げられていくプロセス」がこと細かに解説されているところ。最初は、箸にも棒にもかからない「書評」や「グルメガイド」の例文が出てくる。そいつを徹底的に調理しつくし、最後には立派に雑誌・書籍に載せられる「カネと交換できる」レベルにまで仕上げる。

 たとえば、「窓ぎわのトットちゃん」の書評がある。知らない若い人のために説明しておくと、1981年に出た黒柳徹子の自伝エッセイで、連邦のモビルスーツのように売れた。ほのぼのしみじみした「いい話」なので、どうしてもありきたりな、凡庸な書評になる。

 しかし、そいつを「雑誌に載せられる文章」に調理するのがスゴいところ。たくさんの調理法が紹介されていたが、ここでは二つの視点「体を使え」「地図的な感覚と年表的な感覚」を説明する(後のわたしの参考のために)。

 まず、「体を使え」。カネになる文章を書くということは、一種のサービス業であり代行業なんだという。グルメガイドなら実食して判断材料を伝えるサービスだし、書評なら代わりに読んであげる。でも「トットちゃん」は、うす~いエッセイなので、あっという間に読めてしまう。どうすればいいか?

 そこで提案されているのは、トットちゃんの舞台に行ってみること。作品の流れに沿いながら、その土地について報告をするなら、凡庸な人でも可能だという。で、どうせ行くならカメラもって撮りまくっていけとか、歩いた道やかかった時間をメモっておけとアドバイスする。

 さらに、「地図的な感覚と年表的な感覚」を取り入れろという。「地図的な感覚」とは、空間的な関係に視点をおいてとらえる考え方で、「年表的な感覚」とは、時間の流れに視点をおいた考え方だそうな。要するに、「トットちゃん」単品で勝負するのではなく、その比較対象を持ってくるんだ。

 トットちゃんの舞台(自由が丘)を、他の場所と比較する。他の場所は、東京のどこかでもいいし、当時の田舎と比べてもいい。当時の日本と世界と比較して考えてもいい。あるいは、トットちゃんが描かれている昭和初期を考える。日本やアジアはどんな時代だったか考えたり、黒柳徹子と同年齢の伊丹十三をもってきてもいい。

 つまり、比較対象となる「補助線」を導入することで、「トットちゃん」の輪郭を際立たせるんだ。わたしも心がけねば。本を単品で紹介するよりも、「あわせて読みたい」的に話すほうがラクだし。

ワインバーグの文章読本 そういう「補助線」的な本なら、以前に紹介した「ワインバーグの文章読本」[レビュー]こそ、あわせて読みたい。ただし、ワインバーグはネタ集めやアイディアの出し方・積み上げ方が中心で、いいネタさえ出せばあとはライティングテクニックでカバーできるとしている。いいネタ・アイディアは習慣によるというワインバーグに影響され、どこへ行くにもメモ帳を持ち歩くようになったぞ。

 ワインバーグでアイディア出し→自然石構築法→「不良のための文章術」で非凡化パターンが黄金ルートだね。

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ソレナンテ・エ・ロゲ?「アルトゥーロの島」

アルトゥーロの島 楽園喪失メロドラマ。

 このご時勢に世界文学全集、かなり評価していた。けれど、選本に節操がないというかテキトーというか、かなりハテナ?なものが混じってる。「読書癖」の強い池澤夏樹氏ならではの発想なのか、哲学がないのか原則がないのか、よくわからん(わたしの蒙昧というオチもあり)。

 本書なんてまさにそう。古典文学から軸足を外し、主流たる英米仏とは力点をずらそうという「意図」はわかるんだが、なんじゃこりゃという作品だったのがこれ。現代イタリア文学を入れたいんならエーコかタブッキでいいじゃないかと言いたくなる。

 中身はベッタベタの通俗小説。ナポリ湾の小島、美しい自然、母と死に別れ、野生的な生活を送る十四歳の少年。不在がちの父が連れてきた継母は十六歳の少女だった。性の目覚めと誘惑と抵抗と、そして、破局――どう見てもエロゲです、ありがとうございました(ただし、エロゲ的展開を期待してはいけない、これはブンガクなのだから)。目を惹いた描写はここ。

それは、経験のないぼくの目にも、歳のわりにはかなり発達しているように見えたが、でもその女性らしい姿のなかに、まるで彼女自身、自分が成長したことに気づいていないような、どこかあどけない未成熟さと無頓着さがあった。
 その少女が女へ、そして母へと変わっていくのはまさにメタモルフォーゼという形容がぴったり。彼女への思慕は普通だろうし、反面、思春期の反発もある。そして、当然のことながら、欲望がある。

 池澤氏は両者の葛藤を「心理戦」と呼び、「これはメロドラマの構図だが、モランテはこの構図に人間の魂の真の姿を巧みに刻み込んだ」とまで評価するが、すまん、「たましいのしんのすがた」はついぞみえず、ダレたり詰まると新キャラ投入してストーリー転がす某ラノベとの区別がつかんかった。

 あるいは、神聖なる父親像の喪失や、母性愛と異性愛の混在・混乱、あるいは、イニシエーションとしてのセックスといった、いわば古典的な道具立てを現代にもちこんで語ってみせたというのであれば、なかなか上手くかけている。が、そうした道具立てへの陳腐感のほうが先に鼻についてしまう。

 池澤氏は解説でこう述べる「禁じられた恋というのは物語の要素であって、決してすべてではない」。しかし、著者自身がこのネタで引っ張ろうとしているのが律見江ミエ。ウソだというなら、外してみなされ。物語そのものが立てなくなってしまう。メインは「禁じられた恋」、これに牽引され、読者はラストへまっしぐらに向かっていくはずだ。

 本書で欲求不満になったら、牧村僚の義母シリーズをオススメ。

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「服従の心理」はスゴ本

服従の心理 他人を服従させるマジックワードは、「責任はとるから」。

 この一言で、善良な市民が信じられない残虐なことをする。良心の呵責に耐えきれなくなると、記憶の改変を行う。「自分はまちがってない、あいつが悪いからだ」と平気で人をおとしめる。信じられるか? わたしは信じられなかった … 最初は。

 たとえば簡単なバイトを思いうかべて欲しい。心理実験のバイトだ。

 実験室に入ると、いかにも研究者然とした人が指示してくる。あなたは先生の役で、一連のテストを行うんだ。で、生徒役の人がまちがえると、罰として、電気ショックをあたえるのがあなたの仕事だ。

 そして、何回もまちがえると、そのたびに電撃は強くなってゆき、最後には耐え難いほどの強いショックを与えることになる。生徒は叫び声をあげてやめてくれやめてくれと懇願する。あなたは心配そうに研究者を見やるが、彼は「あなたの仕事を続けてください、責任はわたしが取りますから」とキッパリ。

 実をいうと、この実験の被験者は先生役の「あなた」。生徒は役者で、電撃はウソ、叫び声は演技。実験のテーマは「権威 v.s. 個人」なんだ。つまり、良心に反するような行為を強いられたとき、権威に対して、どこまで服従し続けるのかを見るのが、この実験の真の目的なんだ。

 もちろん、40年前に行われた実験の結果は[ミルグラム実験]で確認できるが、あなたの予想を裏切っている。人は権威に命じられると、かなり非人道的な行為まで手を染めてしまう。良心の痛みは覚えるかもしれないが、あえて権威に逆らうようなことはしないという。

 この結果は、あなたをかなり不愉快にさせるかもしれない。事実、この実験は、結果だけでなくプロセスの倫理的問題も含め、厳しい批判にさらされることとなった。

 なぜなら、著者スタンリー・ミルグラムは、この結果でもって、ナチスのアイヒマンがやったことは「悪の陳腐さ」にすぎないとみなしたから。ユダヤ人をせっせとガス室に送ったアイヒマンは、悪魔でもサディストでもなく、権威にからめとられたただの官僚にすぎないと主張する。単に彼は自分の役割を果たしていただけであって、民族や文化、人格に関係なく、「あなた」にも起こりうる――そうした「問題」を突きつけてくる。

良心と権威の葛藤によるジレンマは、社会の持つ性質そのものに内在するものであり、ナチスドイツが存在しなかったとしても、われわれの問題となっただろう。この問題について、単なる歴史問題であるかのように扱うのは、それを実際以上に遠ざけようとすることになってしまう
 これを、不愉快だと斬って捨てるのはもったいない。あるいは間違っているとナンクセつけるのも不毛だ。結果は結果として受け止めて、そこからどういう知見を引き出すのかが、読み手に求められている課題だろう。

 わたしは、第11章「服従のプロセス」を注意深く読んだ。「被験者(先生役)が…」と表現されているところは全て「あなたが…」に読み替えて、わたしが同じ葛藤に陥ったとき、どのように「服従」していくのかを予見しながら、読んだ。

 どうやら、わたしの場合、「責任の喪失」と「行動の連続性」に弱いらしい。つまり、権威ある人から「責任は取るから」といわれたとき、わたしはスイッチを押すだろう。そして、過去の行為を正当化するために、スイッチを押し続けるだろう。今やめたら、さっきまでやってきたことが「悪いこと」だと認めてしまうことになるからね。

 そうした権威に対し、どうあらがうか?いや、その前に、自分が陥っている状況をどうやって客観視するかが課題になる。権力にからめとられたとき、目先の細々した作業にいっしょうけんめいで、その結果がどうなるか、それが倫理的に許されるか――なんて判断は放棄してしまうだろうから。

そのとき、エンジニアは何をするべきなのか そんな場合、「そのとき、エンジニアは何をするべきなのか」[レビュー]で考えたことが役に立ちそうだ。「エンジニアとしてなすべき判断と、会社の期待がズレるとき、どうすればいい?」ときは、判断プロセスを共有化し、複数の意見を聴いた上で決める。「おおっぴら」にできないのであれば、それはそもそもしちゃいけないことなのだから。さらに、現状を知るためだけでも、「社外の目」は必要だろう。オフのつきあいを濃ゆくしないと。

――そんなフツーのわたしの読みと比べて、「訳者あとがき」の山形浩生氏の読みはスゴいぞ。おかしな話かもしれないが、最後の最後、彼の「服従実験批判」がいちばんおもしろい。翻訳仕事の余滴をもって、同じ実験結果から全く違う知見を引き出し、みごとに説明しつくしている。

 その批判の着眼点が秀逸で、展開に説得力があるんだ。前提に揺さぶりをかけ、プロセスを別の観点から洗いなおし、最後は実験の解釈そのものをくつがえしてしまう。読み手は、ああっと言ったりおおっと呻いたりいそがしい。ラスト数ページでドンデン返しがあるなんて、ミステリみたいw

 山形氏は「蛇足」と称するが、この十ページで本書から別のスゴ味を見出せた。「服従は信頼の裏返し」なんて、ミルグラムが示したぞっとしない結論からずいぶん救われたぞ。すばらしい洞察だと思う。

 誉めたついでにおかしな点を挙げておく。

 まず、実験の三者の表記が紛らわしかった。「実験者、被験者、被害者」と表記するので、「○験者」が共通し、「被○者」も共通しているため、字形のカタマリで読むわたしには、いつもここでつまづいた。

 さらに、被験者は「先生」、被害者は「学習者」とも読みかえられているので、まぎらわしさに輪をかけている。案の定、p.161の図18で、「被験者」と書くべき人物が「被害者」になっている。

 さらに、この実験への倫理的な批判に対する弁明文(p.261)で、腑に落ちない部分があった。次の太字で示した部分だ。文脈からすると、「いちばん悪いこと」ではなく、「いちばん良いこと」のような気がするのだが…

さらにもう一点。従順な被験者は被害者に電撃を加えたことについて自分を責めたりはしません。その行動は自分自身から出たものではないからです。そして従順な被験者が自分について述べるいちばん悪いことは、将来はもっとうまく権威に抵抗することを学ばなくてはならない、というものです。
実験が一部の被験者を刺激してこうした考えを抱かせたというのは、わたしから見れば(中略)実験の帰結として満足のいくことです

 こんな瑣事はともかく、本書は「この本がスゴい2008」に入れるべきスゴ本。もう発表しちゃったので、覚えてたら来年版に入れよう。

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愛書家へのプレゼント「図書館 愛書家の楽園」

図書館愛書家の楽園 古今東西の図書の蓄積に関する薀蓄がぎっしり。

 「図書館」というお題であるものの、公的施設に限らない。個人的な蔵書、私設ライブラリーも、「愛書家の楽園」であることに変わりないから。図書館というよりは、図書室、しかも、シンと静まりかえった夜の図書室がお似合いかも。

 夜もふけて本棚の前に立つとき、目になじんだ背表紙が語りかけてくる。それは、入手したいきさつや、書名からつむぎだされる連想、読了したときの感動を呼び起こす。さらに、そこに仲間入りさせたい「ほしい本」の装丁を想像し、ならべ方は著者順がいいのか関連性を重視すべきなのか、独り思いめぐらす。

 そうなんだ、原書のタイトルは "The Library at Night" といって、深夜に本棚の前に立ったときの、あの静けさと饒舌さそのままがエッセイとなっている。もちろんその "The Library" とは、スタートは著者マングェルの図書室になる。その縦横無尽な語り口から察するに、とてつもない読書家ですな。

 それから"The Library"は、古代アレクサンドリア図書館、ネモ船長の図書室、ヒトラーの蔵書と強制収容所の図書室、ラブレーやボルヘスによる架空の書物などに拡張する。現実・空想を隔てなく語りつむぐ人と書物の歴史は、饒舌をはるかに過ぎて奔放というべき。

 ただし、書き手の発想は連想から連想へと跳んでおり、秩序だった時系列や分類を求めている読み手は、寄り道と閑話休題に途方にくれるかもしれない。章だてを見ればわかる。

  神話としての図書館
  秩序としての図書館
  空間としての図書館
  権力としての図書館
  形体としての図書館
  …

 こんな切り口で網羅的かつ徹底的に、人類の外部記憶装置としての図書館を考察する。その博覧強記っぷりに、ちょっと近寄りがたくなるが、親しみのもてる所もある。たとえば、カフカの「掟の門」を図書館の門になぞらえているあたりで、強い親近感をいだいたぞ。わたしだけではないだろう、この「掟」を「知」と読み替えたのは。

 気になったエピソードをいくつか挙げよう。まずはヒトラーの蔵書から。

 ヒトラーの個人蔵書は一万六千冊ほどあったといわれている。うち七千冊は戦争史、一千冊以上は芸術関係の評論、一千冊は大衆小説で、ポルノ小説もいくつかあったそうな。有名どころなら「ガリヴァー旅行記」、「ロビンソン・クルーソー」、「ドン・キホーテ」もあったが、ヒトラーお気に入りの作家カール・マイによる冒険小説は、ほぼ全巻そろっているという。

 ヒトラーのコレクションはワシントンのアメリカ議会図書館に収められている。「本棚は人をあらわす」というのであれば、この本棚こそみるべきなのだが、不思議なことに、第三帝国を研究する歴史学者からは無視されてるんだって(もったいない)。

 次に、図書館と情報技術の考察が興味深かった。たとえば、Googleが図書館プロジェクトを断念していたことは知らなんだ。

 Googleの図書館プロジェクト、すなわち "Google library Project" とは、世界を代表する図書館――ハーヴァード大学図書館、ボードリアン図書館、スタンフォード大学図書館、ニューヨーク公共図書館――と連携して、蔵書をスキャンし、オンラインで読めるようにするという計画で、2004年の発表当時はえらく興奮したものだ。「知」がネット共有されるってね。

 ところが、本書によると、予算や運営の問題で、Googleは2005年7月にプロジェクトを断念しているという(p.77)。いまではスケールダウンして、図書カードを拡張した程度の検索カタログにとどまっている[参照]。また、NIKKEI-NETの「ネットも本も」覇権握るグーグルによると、著作権をめぐる訴訟がプロジェクトを阻んでおり、Googleのフェアユースに対する抗弁の成否がキーとなっているそうな。

 情報技術に対するマングェルの視線は、いささか冷ややかだ。書籍情報のデジタル化によって、検索や調査効率が飛躍的に向上することは認めるものの、デジタル化された「メディア」への信憑性は、イギリスの「ドゥームズディ・ブック・プロジェクト」で疑問符をつきつける。

 「ドゥームズデイ・ブック」とは、11世紀に作成されたイングランドの土地台帳のことで、千年の歳月を経たメディア――書籍の形でいまも読むことができる。1986年、BBCは250万ポンドを費やして、コンピュータ仕様のマルチメディア版「ドゥームズデイ・ブック」を製作した。

 この、電子版「ドゥームズデイ・ブック」には25万の地名、2万の地図、5万の写真、3千のデータセットと60分の動画が含まれていた。このプロジェクトには100万人以上が協力したという――しかし、16年後の2002年3月、その情報を読み出そうとしたが、できなかった。データを復旧させようとさまざまな試みがなされたが、どれもうまくいかなかった。

 ディスクやCD-ROMの寿命はせいぜい10年。情報のデジタル化は便利をもたらす一方で、深刻な危険性をはらむと指摘する。そのいっぽうで、紙メディアである書籍をさりげなくもち上げているところにニヤリとする。

解決策がないまま、現在も膨張しつつある人類のコンピュータ上の財産は、いつ消滅してもおかしくないという深刻な危険を抱えている。それとは対照的に、およそ千年前、紙の上にインクで書かれたオリジナルの「ドゥームズデイ・ブック」はロンドン南西にあるキュー公文書館に完璧な状態で保存されており、いまでもはっきりと読むことができる
 もちろん「夜の図書館」なので、「闇」の部分――焚書や禁書についても語られる。有名なアレクサンドリア図書館の炎上エピソードにも紙幅を費やしているが、2003年にイラクで行われた略奪・焚書は目玉ひんむいて読んだぞ。
ときには図書館が意図的に破壊されることもある。2003年4月、イラクに米英軍が駐留していた間に、バグダッドでは国立公文書館、考古学博物館、国立図書館が略奪された。数時間のうちに、人類史上で最古の部類に入る記録のほとんどが忘却の彼方へと追いやられた。現存する最古の書物である六千年前の草稿、サダム・フセインの部下たちによる略奪を免れた中世の年代記、寄進財務省に保管されていた幾多の美しいコーラン――それらすべてが、おそらく永久に消えてしまった。
 ほかにも、カリグラファーの手による美しい写本の数々は消失し、10世紀の書籍商が残した「千夜一夜物語」などの貴重な説話集も失われたという。いわゆる時事的な視点――人道的問題や駐留軍の財政難、地政学的均衡といったネタばかり追いかけていた。が、そんな文化的狼藉がなされていたなんて知らなかった。焚書は前時代のもの、と考えていたが、おめでたい奴だったね、わたしゃ。

 つまみ食いで紹介してきたが、本書の1/1000にも足りない。本好きであればあるほど、本書は魅力を発揮する。人はなぜ書物を収集したがるのかという根源的な問いからはじまり、自分好みのライブラリーをつくりたいという欲望、さらには、棚や部屋の物理的な大きさと、無制限に増殖したがる本にはさまれた葛藤までが、歴史的エピソードを交えて紹介されている。

 ある本を選ぶということは、別の本が選ばれなかったということ。なんてエロゲ的な。すべてを包含しようという欲望と、排除しようという矛盾にはさまった碩学の悩みは、とても近しい。

 書物を愛するすべての人に。

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