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いま読むべきスゴ本「ルーツ」

 これはスゴい!2008年No.1スゴ本。

ルーツ1ルーツ2ルーツ3

 読もう読もうそのうち読もうと思っていても、タイミングというものがある。

 アレックス・ヘイリーの「ルーツ」は、まさに今だと感じた。強制的に連れてこられ、家畜のように働かされ、実質的に米国を支えてきたアフリカ系アメリカ人――その末裔が大統領になろうとしているのだから。

 だから読んだ、30年の積読を経て。

 合衆国の黒歴史ともいえる黒人奴隷の問題を真正面から描いた本書は、1977年のピューリッツァー賞を受賞し、世界的ベストセラーとなり、TVドラマ化され、一大センセーションを巻き起こした。「クンタ・キンテ」といえば、ご存知の方もいらっしゃるかと。

 本書の体裁は「小説」なのだが、著者が12年かけて自分の祖先を調べあげた集大成でもあるため、ファクト(事実)とフィクションを掛け合わせた「ファクション」と呼ばれている。親子七代、200年に渡る壮大な物語をまとめると(まとめられるのか!?)、「あらゆるものを奪いつくされ、失いつくしたとしても、それでも一歩一歩、自分の生活を築いていく系譜」になるだろうか。

 白人社会の黒人への仕打ちは、今あなたが想像したとおりで合ってる。どうかフィクションであってくれと祈りたくなるような強烈さだ(なかでも奴隷船の描写はかなりキツい。ここだけ劇薬指定)。そして、何度も脱走を図るクンタ・キンテに白人がやったことは、文字通り息を呑んだ。あまりの非道さに、思わず本から目を背けた。だが、クンタ・キンテは「人」ではなかったのだ。それが「あたりまえ」の時代。

 もちろん、そのパラダイムは合衆国の歴史の中でゆっくりとシフトしていく。しかし、そのスピードはあまりに遅く、情報はなかなか伝わらない。歴史の回転がもう少し早ければ避けられたはずの悲劇的運命に、宿命のように突入する。

 読者は、歴史の鈍重さにもどかしい思いをするとともに、米国が何よりも大切にする「自由」が、いかに高い代償を払ってきたかを知ってゾっとするに違いない。Tumblrで知ったんだが、

   ないから生まれるんだ
   中国人は道徳心が無いから儒教が生まれた
   日本人は勇気がないから武士道が生まれた
   アングロサクソンはずるいからフェアプレーの精神が生まれた

 これに、「アフリカン・アメリカンは束縛されてきたから、自由が生まれた」が加わる。アメリカンにとって「自由」は特別な言葉かもしれないが、アフリカン・アメリカンが言うと、いっそう深みが加わる。

 問題は「色」だけではない。裕福な白人と貧乏白人、奴隷と自由黒人、先住インディアンと混血、メソジストとバプチスト、開拓民と新興移民――「色」に限定されない差別問題がわんさとでてくる。

 著者は、黒人奴隷の一人に、こう言わせる「肌の色が白いからといって憎むのは、肌の色が黒いからといって憎むのと同じではないか」。問題を白と黒の差別だけに限っていては、白と黒の問題自体も解決できない。もうひとつ視点を上げ、そこを抜け出す必要を訴えているのだ。

 それでも、読み進めると不安になってくる。クンタ・キンテだけで半分以上を費やしているので、大丈夫だろうか、終われるのか?という気になる。冒頭に家系図があり、壮大なネタの開示にもなっている。著者ヘイリーにたどり着くまで、たくさんの血縁のバトンがリレーされるのだから、この調子でいけるのだろうかと心配になってくる。

 しかし、その心配をヨソに、現代に近づくにつれ「語り」のスピードは加速度を増す。それこそ「今」の引力に吸い込まれるかのように、ぐんぐんと時間経過が増していく。黒人の歴史は混血の歴史でもある。アフロ、アイリッシュ、インディアン…さまざまな種を併呑しながら、怒涛の勢いで歴史が迫ってくる。

 そしてラスト数ページ、「あっ」と驚いた。

 「どんでん返し」ではない。新事実や新解釈なんてない。ヘイリーは真っ正直にこの物語を書く経緯を説明し、その動機に従って"ルーツ"をたどり始める。その件を読んで初めて、この長い長い話は、形を変えた現代の伝承でもあったことに気づかされる。血のバトンの"ルーツ"を遡行するとき、そこまでの長い長い語りが、それこそ走馬灯のように読み手の内側を照らし出す。

 そして、彼が「その場所」で見たものを知ったとき、彼と同じようにむせび泣いているわたしがいた。このファクションは、円環を成している!

 興奮冷めやらぬまま最終ページになってしまう。もっともっと読みたかった。話の途中でいなくなった人たちは、どうなったんだろう? どこへ行ってしまったんだろう? 幸せなその後を送れたのだろうか? 別離は突然かつ音沙汰なしなので、後ろ髪を引かれるように読んできたのに。

 本書のサブタイトルは、"The Saga of an American Family"だという。ああ、確かに。アメリカの黒人を代表者を選ぶならば、クンタ・キンテのような奴隷の子孫を真っ先にあげなければならない。そう、現実にそうなるように――

――などと書いてきて、ハタと気づく。バラク・オバマは確かに「アフリカ系アメリカ人」だが、"African American"と聞いて真っ先に思い浮かべるクンタ・キンテたちの末裔ではないことに。

 African Americanは、いわゆる"Black"を政治的に正しく表現するための語で、必ずしもアフリカから強制的に連れてこられた人の子孫に限らない。あたりまえっちゃーあたりまえなのだが、自発的にやってきた人も"African American"と呼ぶ(ネタ元:wikipedia : African American)。バラク・オバマは後者にあたるのだが、みんな(特に米国の有権者)は知っているよね、常識的に考えて。でもなんだろう、この肩透かし感は。勝手に思い込んだわたしのあやまりなんだけれど。

 「ルーツ」に圧倒されたからだろうか。いずれにせよ、生きてるうちに読んでおきたい本が、生きているうちに読めてよかった。そういえるスゴ本。

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「アフリカ・レポート」から行動する

アフリカ・レポート アフリカの現状を活写した一冊。入口としても(日本語で読める)最新情報としてもオススメ。

 「なぜアフリカは貧しいのか?」への回答は、「植民地として搾取されてきたため」になる。何百年に渡って欧米に強奪され続けてきた結果、インフラや行政機能の崩壊、疫病の蔓延、治安の悪化から内戦・内乱に至り、貧困を生む負のスパイラルをまわす。

  • 160,000%を超えるインフレ率、ジンバブエ
  • 鉱物資源の利権をめぐって腐敗した国家、コンゴ
  • 無政府状態+内戦状態が10年余に続くソマリア
  • 血まみれダイアモンド利権で殺し合いが続いた、シエラレオネ
 しかし、「なぜアフリカは貧しいままなのか?」には、異なる回答が出始めている。最近読んだ2冊(「アフリカ 苦悩する大陸」と「最底辺の10億人」)には、政府や指導者層に問題があることがはっきりと述べられている。大統領や政府が無能無策なだけでなく、国民を食い物にして私腹を肥やしているからだという。

 もちろん、この2冊の著者が英国白人だから、とナナメに見ることもできるし、「おまえが言うな」と聞かないフリもできる。しかしながら、日本人のジャーナリストである松本仁一も、同じ実態を指摘している。政府の腐敗がいかに国をだめにしているかが淡々と明らかにされており、「かわいそうなアフリカ」が刷り込まれた読者であればあるほど、タブーに触れている気分になるに違いない(わたしがそう)。

 このタブーを破って、アフリカ政府の腐敗を批判する人もいる。国連機関や援助関係で、実際に現場を見てきた人だ。そのたびに政府の側から「You're RASIST(あなたは人種差別主義者だ)」と返されるという。「政府がうまくいかないのは、植民地支配で教育訓練の機会を奪われたためだ。それなのにあなたはわれわれを差別して…」という理屈だそうな。

 そこで山形浩生さんこのコメントを思い出す。「何でも人のせいにする病」は、本書でも見事にあてはまる。

たとえばジンバブエのいまの惨状は、すべてを白人のせいにして白人の土地を没収し、それで生産力が落ちるとそれを外国企業のせいにして外国企業の資産没収を宣言し……という、何でも人のせいにする病の極端な例です
 まるで、子どもの無茶苦茶なわがままがまかり通る悪夢を見ているようだ。国に愛想をつかした人は脱出し、慢性的な人材不足に悩まされることになる。教育を受けた良識的な人材を外へ押し出そうとする内圧は、そうでない人びとを取り込もうとしているように見える。

 いっぽうで、前2冊の著者からは書きにくい視点も描かれていて面白い。「コーペラン」というフランスの行政顧問の話だ。セネガル独立直後、官僚は育っておらず、フランスは援助名目でこのコーペランを大量に送り込んだという。行政はコーペランが牛耳り、官僚でしか知りえないような非公開情報――ダムの建設予定地など――を横流しすることで、フランスの「国益」に貢献することになる。独立とは名ばかりで、形を変えた実効支配はまだ続いているようだ。

 さらに、アフリカにおける中国の存在感が興味深い。たとえば、2004年10月に中国とアンゴラの間に結ばれたODA融資契約だ。中国は20億ドルを融資し、アンゴラは石油で返済するという。内容は「住宅建設・道路・鉄道の補修」で、20億ドルのほぼすべてを中国の国営企業が受注した。労働者も設備も資材も中国から運び、アンゴラ人労働者は雇われなかったという。いわゆる「ひも付き」だと思われるが、ここまで徹底するのは珍しい。

 その一方で、商機を求めてアフリカに雄飛する中国人の猛烈ぶりも紹介されている。商売上手の中国人を狙って強盗事件が起きるが、文字通り「石に噛り付く」ように店を守る。したたかに成長するコミュニティを見ると、ハード・ソフトの両面で中国の存在感が増していることが分かる。欧米が引くのなら、中国を入れればという判断がなされているのかもしれない。

 真暗な前半と異なり、本書の後半はNGOの自立支援や日本人企業の自助努力が紹介されているが、「とってつけた」感が強い。草の根的活動に目を凝らせば、もちろん希望はあるだろうが、ODAとして毎年数百億つぎ込んでいる日本政府の影が薄いのはなぜ? ――で、冒頭へ戻る。援助漬になった企業と結託して甘い汁を啜っている腐敗した政府に。

 でも、絶望はしない。

貧困の終焉 以前のエントリ「だめな国は何をやってもだめ『最底辺の10億人』」で、アフリカの現状をあまりに否定的にとらえていた。そのコメントで、Yuu Arimuraさんからキツい言葉をもらった。感情的な言葉ながら、目の覚める思いだ。「最底辺」を読んだとき、そのあまりの救いのなさに、わたしは短絡すぎて冷静でいられなくなっていたに違いない。「だめ」と斬って捨てるのではなく、徒に絶望するのではなく、わたしにできることはまだあることに気づいた。まずは、akiraさんhsksyuskさんのオススメに従って、「貧困の終焉」を読んでみよう。それから、ODAの使途について働きかける方法を調べてみよう。

 上に挙げた方に限らず、さまざまな場所で有用なコメント・アドバイスをいただき、ありがとうございます。読んでレビューするだけでなく、募金で自己満足するだけでなく、も少し具体的に動こうかと。アイディアがありましたら喜んで承ります。

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この本棚がスゴい「本棚2」「本棚三昧」

 スゴい本棚を見るとウラヤマシイが、素直に言えない俺ガイル。

 「ふんだ、どうせ死ぬまでに読みきれないでしょうしー」とかツンデレぽく腐してみるものの、やっかみにしか聞こえないね。図書館パワーユーザーの看板はおいそれと下ろせないので、こうして人さまの本棚でガマンすることになる。

本棚2 まずヒヨコ舎の「本棚2」がいい。

 本を糧にして生計を立てている人たちの本棚は、やっぱりスゴい。物量だけでなく、その人の「色」がよく見える。図書館や書店は、よくも悪くも最大公約数的な選書をしているのと好対照を成している。

 たとえば、どう見ても古本屋の倉庫にしか見えない岡崎武志の本棚群は必見。氏に言わせると、「捨て犬を連れて帰るって感じ」なんだそうな。「それでこんなふうになっちゃったんですね」と次ページの本の洪水を見ると、嫁子がかわいそうに思えてくる("逆"なのかもしれないが)。

 それから、COCOさんとこのは危険だ。SFSFSFSFSFミステリミステリミステリミステリミステリで埋め尽くされている。好きな人が入ったら二度と出て来れない強力な磁力を発しており、見るのも毒な空間となっている(紹介してくれる"早川さん"がまたカワイイんだこれが)。

 大爆笑なのは、都築響一のセリフ。

本の場合、本当にもってなきゃいけないものなんて、ほとんどないと思うんですよね。できれば本はゼロにしたいんですね。そのとき必要なものだけ買って、終わったらチャラにするのが理想。
 激しく同意だ正論だ、うなづきながらページをめくると――ちょwwおまっwwwっとなる。なるほどこれが現実か。あふれる本たちが、かろうじて棚にハメこんであるといった様子にハラ抱えて笑わせてもらった。

 もちろん、ちゃんとコントロールできている人もいる。やくみつるや有栖川有栖の整然とした書庫は理想的だし、山崎ナオコーラの本棚はいい本を厳選しているのがよく分かる。

 「本棚2」では、以下の人の本棚を覗くことができる。と同時に、本にまつわる近況報告・悲悲こもごもを味わうことができるぞ。夢枕獏のマイブームが「鋼の錬金術師」、菊池秀行は「彼岸島」にハマっているそうな。いかにも「いかにも」で笑える。

  ・ 有栖川有栖
  ・ 安西水丸
  ・ 岡崎武志
  ・ 神林長平
  ・ 菊地秀行
  ・ COCO
  ・ 立本倫子
  ・ 都築響一
  ・ 西加奈子
  ・ 藤本やすし
  ・ やくみつる
  ・ 山崎ナオコーラ
  ・ 山村浩二
  ・ 夢枕獏

 ちなみに、同シリーズの1巻目「本棚」だとこの方の本棚になる

本棚三昧 次は、藤牧徹夜が撮った「本棚三昧」がいい。

 コンセプトは、「人の本棚をお腹いっぱいになるまで見てみたい」だから。上で紹介した「本棚2」と異なり、ひたすら本棚写真が続く。

 いちばん美しいのは、いしいしんじの本棚。「ほとんどいただきものですよ」と断りを入れているものの、微妙に統一感がある。あふれて床積みされた本も含め、つい手にとって見たくなる、わたし好みのラインナップ。

 成功本好きっ子が必見なのは、和田秀樹の本棚。出力は入力に従う格言まんまの本棚。古今東西のビジネス本・成功本・タネ本がぎっしりと詰め込まれており、ここからつまみ食いされているのかーと感慨深い。あの膨大な著書は、一種の要約者・編集者としてのアウトプットなんだろうね。

 なんとなく予想がついたのは辛酸なめ子さんとこ。「X51.ORG THE ODYSSEY」と中沢新一が仲良く鎮座しているのを見ても違和感わかない。新明解が絶対あるだろうなと思ってたら、ちゃんと隠れるように奥に納まっていたし。

 「殺し屋1」の山本英夫のセリフが潔い。

   本は読むものではなく、買うもの。なので、ほぼ読んでいないです

 その本棚は推して知るべしなんだけれど、さすが漫画家。いいマンガばかり揃ってますな(バラバラだけど)。「ザ・ワールド・イズ・マイン」と「不思議な少年」、「国民クイズ」と「ハッピー・ピープル」が仲良く並んでいるのを見るのも興味深い。

  ・ 建石修志
  ・ 川口葉子
  ・ 和田秀樹
  ・ 山本英夫
  ・ 名久井直子
  ・ 梅津数時
  ・ ヴィルジニー・オスダ
  ・ 北村ケンジ
  ・ 伊藤悠
  ・ 玄侑宗久
  ・ 青木径
  ・ 吉武利文
  ・ イナキヨシコ
  ・ いしいしんじ
  ・ ニコラス・ミアリ
  ・ 酒井直行
  ・ パルコキノシタ
  ・ 山本知子
  ・ 穂村弘
  ・ 天辰保文
  ・ 辛酸なめ子
  ・ バログ・マールトン
  ・ 祖父江慎
  ・ 平朝彦
  ・ 喜入冬子
  ・ 高田純次
  ・ モーガン・フィッシャー
  ・ 米原康正

 両方の本棚本を比べて見ると、共通していえるのは、「アウトプットはインプットに従う」こと。いい本・芸・味を出している人は、相応のインプットが本棚に現れているね。だから、次に自分が読む著者を、ここに出ている本棚から選ぶというのもいいかも(わたしの場合は、山本英夫の作品になる。いい本棚なんだこれが)

 それぞれの本棚本の違いを少し。

 まず、「本棚2」は、光の入り方とか空気の色を出そうとしている。つまり、本棚の「中身」よりも、本棚の"たたずまい"を写しとろうとしており、その人にとって本棚がどんな存在なのかがよく見える。反面、書名は潰れちゃっている写真多し。

 次に、「本棚三昧」は書名をクッキリを出そうとしている。部屋の感じとか、その人を立たせてみるとかいった小細工をせず、本棚の「内側」だけを際立たせている。おかげで、文字通り「お腹いっぱい」になるだろう。

 そうさ、「死ぬまでに読みきれない」なんて、みんな知ってる。それでも集めてしまうんだろうね。いや、集まってくるんだろうね、自分「を」好きになった本たちが。ジョン・ラスキンのいい警句がある。

     「人生は短い。この本を読んだら、あの本は読めない」

 本は選びたい。これは、わたしへの、戒め。

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好奇心は少女を殺す「少女が知ってはいけないこと」

少女が知ってはいけないこと 「そりゃやっぱり×××でしょうゲヘヘ」なんて邪な心で読んだら、豪快に投げられた。

 少女論のフリをしているものの、本書は物語論、しかもアニミズム的説明知まで深堀りしている学術寄りの論文集。ギリシア神話や北欧伝承、古事記、ディズニー映画「美女と野獣」を読み解いて、「説明知としての物語」を詳らかにしている。

 amazonにある惹句「大人のための物語論」は絶妙で、「眠れる美女」が起きないことをいいことに、イタして孕ませたりする伝承や、天真爛漫な「ラプンツェル」を○○して××する挿話など、「オトナの」要素に事欠かない。(余談だが、「ラプンツェル」は、ディズニープリンセス映画として来夏に公開される。○○して××するところは物語の性質上不可避なので、どう演出されるかが見所)

 実は、お題そのものに欺瞞が隠されている。「知ってはいけない」という禁止は、禁止対象を示すことになり、そもそも知らずに済んだことをわざわざ伝えることになるから。さらに、禁止することで好奇心はかきたてられ、どうしても「知りたくなる」から。

 エヴァ、パンドラ、プシュケ、そして青ひげの処女妻を例にあげ、禁じられたからこそ強烈な誘惑が生まれ、その意味を丹念に追いかけていく。

 もしも、本当に食べて/開けて欲しくないのであれば、最初から果実/鍵にアクセスさせなければよかったのだし、禁止の言葉も不要だったはずだ。

 しかし、「知ってはいけない」と禁じられる。青ひげの小さな鍵が象徴的だ。鍵は禁忌と同時に侵犯のメッセージを与えている。つまり、「開けるな(=開けろ)という二重のメッセージ」を伝えているというのだ。この二重のメッセージから、エヴァを誘惑した(とされる)蛇の正体が明かされるのだが、それを知ったときは本当に驚いた(蛇とは侵犯のメッセージを伝える神自身)。

 もちろん、そんな深読みをせずに、フェミニストが喜びそうな方面にも目配りしている。すなわち、奴隷としての結婚システムを成立させるための、仕組まれた「無知」だ。

 女性の体の性的所有や、相互束縛の契約としての結婚システムを成立させるためには、女は無知であるほうが望ましいとされていた。その戒めとして、「知ろうとする」女が災厄を招くストーリーが生まれたのだという。知を得ようとする女の侵犯こそが、人類のさまざまな不幸の根源にしたい意思こそが、そういう物語を生んだんだとするんだ。

 つまり、「無垢な少女」が市場価値を持つために、肉の悦びや妊娠出産、結婚生活の現実を「知ってはいけない」とするオスイズムを読み取ることができる。

 でもって、ディズニー映画「美女と野獣」を紹介されると、とても意味深に見えてくる。ヒロイン・ベルは、「読書する女」なのだから。女性の「知」は男性にとって不都合だったはずじゃないの?という視線で追っていくと、著者が「ベルが手にしている本をよく見ろ」と指し示す。何度も見たことがあるが、気づかなかった!(本書と映画の両方のネタバレになるので、ここもマウス反転にするね)

アニメをよく見ると、彼女の読んでいる絵本は、実は『美女と野獣』の絵本そのものだと気づきます。彼女は、彼女自身の物語に読みふけっています。そして、ストーリーに魅了されているのです。「彼女はすてきなプリンスにであう/でも第三章前には気づかないのよ」。もちろんこれもベル本人の運命なのです。

 彼女が浅薄なのか、気づかない「運命」なのか。その行く末はもちろんご存知だろうが、著者はプラトニックと肉欲のパラドクスからも読み解いている。解説手法はいささか強引にもかかわらず、次にDVDを見るときは何倍も「興味深く」なっているはずだ。

 よく知っているはずの童話が、まるで見慣れないものに化ける。「少女が知ってはいけないこと」に込められた意図を、ご堪能あれ。

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だめな国は何をやってもだめ「最底辺の10億人」

最底辺の10億人 「だめな奴は何をやってもだめ」という箴言は、国にもあてはまるのかもしれない。

 すなわち、「だめな国は何をやってもだめ」。国家まるごと腐りきっており、大統領から警官まで賄賂と蓄財に勤しむ。国家経営は破綻し、令状のない逮捕、裁判のない拘留、嘘選挙がまかりとおる。行政機関は国家資本を強奪するために存在し、軍部の武器は国内に向けられている。

 まず、資本が流出し、次に教育のある労働力が逃げ出す。大統領命令でお札を刷りまくり、「超」のつくハイパーインフレになる。援助は指導者の蓄財にまわされ、海外の銀行に貯め込まれる。社会資本として回転しないから、経済の発展もない(アフリカ最貧国の指導者の多くは、世界でも超富裕階級に属している)。

 そして、外からの非難に対し、大統領は「レイシスト」だと反撃する。国家の荒廃は「元」宗主国の陰謀だと断じ、仮想敵をつくりだすことによって自分への不満をすりかえる。結果、部族間の殺し合いから大殺戮に至る。地下資源をめぐる殺し合いが続き、子ども兵が跋扈する。利権から排除されたグループとの対立は激化し、部族間憎悪から内戦へ。

 では、反政府の立場ならよいのかというと、そうでもない。反政府運動という美名の陰に「ビジネス」見え隠れする。暴利をむさぼった大統領が選挙に負けると、今度は政府を追及する立場になる。しかも、ためこんだ莫大な資金を使って。

 いまの行政を司る人「だけ」が問題なのではない。他に代えても同じ腐敗を別の人が招き、やるだけ無駄。カネをかせぐ血縁者にぶらさがる体質が「文化」なら、誰を指導者にしても、その地縁・血縁者が群がり、たかり、国家資本は毟られる結果となる。

 全てとは言わないが、こうした「失敗」から逃れている国は極めて少ない。政府が比較的「まとも」で、まがりなりとも国づくりを進められているボツワナ、ガーナ、ウガンダ、マラウィが例外中の例外だろう。

アフリカ苦悩する大陸 (日本の)新聞雑誌で知った気になっていたが、ここま酷いとは。「アフリカ 苦悩する大陸」と併せて読むと、アフリカの貧困は文化病なのかと思えてくる

 アカウンティングも知らず、モラルのかけらもないような奴が国家財政を担うなんて、オオカミにヒツジの番をさせるようなもの。このカリカチュアを笑えたらいいのだが、残念ながら現実なのだ。山形浩生氏が中央公論で「自業自得」と言っていたのはひどいなぁと腹立ててたが、ああ、たしかにこれは「自業自得」だ。

 こうした実態が徹底的に解説されている。読んでる自分の目を覆いたくなる。著者は、失敗国家から脱出できる「期待値」を計算している。59年だという。それぐらい時間がかかるということは、もう何をやってもだめなんじゃないの?

 本当だろうか。ホントに、何をやっても無駄なのだろうか? 著者は、「私たちの手ではそれらの国を救済することができない」と断りを入れておきながらも、

 1. 公的資金を活用する独立サービス機関(行政の卸売り的組織)
 2. 予算の出入り、監視、および追跡調査する体制
 3. 常備組織としての軍部の編成と、素早い軍事介入

を提言する。そしてこれらを裏付ける組織的なバックアップとしてG8の活用を提案している。どれも強力な効果がありそうだし、部分的には実績を挙げてきていることも理解できる――しかし、インセンティブがないのだ。国家運営に対し、憲章の必要性を訴えるが、強制力がない限り、画餅にすぎない。

 動機はいろいろあれど、先進国が「動く」ときがある。たとえば、外交ポーズや利権支援の批難をかわすため、カードのように予算がきられる。あるいは、着々と油田やレアメタルの開発契約を進めている中国を牽制する動機もありうる。地下資源に誘引され、資本投下のために警察国家の必要性が謳われ、実現されることもある。

 しかし、それはパワーゲームやビジネスの産物としてであって、貧困をなくすために国家として本気で取り組もうとしているわけではない。著者は人道的配慮や安全保障がインセンティブになりうるといっているが、誰がそれで自軍を動かすだろうか。ルワンダは国際的な利権がないから軍事介入がなかったんじゃぁなかったっけ?

 軍隊はカネだ。国益にならない限り、どこの国もビタ一文も出せない。かろうじて国際協調の免罪符である平和維持軍があるが、3.でいう臨機応変で素早い介入は実現できるのだろうか。「世界政府」「ビッグ・ブラザー」の単語がとても魅力的に見えてくる。

 じゃ、民間は?

 たとえばNGO。著者は、NGOがつくる幻想を「えせヒューマニズム」と断じている。「貪欲で豊かな世界が貧しく弱い世界にルールを強制している」というNGO主張こそが自己満足あり、短絡的な道義的闘争の場をでっちあげているというのだ。

 あるいは、セレブリティたちのチャリティは、先に述べた外交ポーズを演繹するための一手段にすぎないのかも。先進国の指導者たちにとって、セレブリティたちと同じカメラ・フレーム内に納まることがインセンティブになるのかね。

 そうした援助も、「ない」よりはマシなのだろうか。援助が軍事費に化け、指導者たちの私腹の肥やしになる様を見せ付けられると、「だめな国は何をやってもだめ」という文句がふたたび浮かぶ。収入の1%を寄付してきたけれど、全く無駄なことだったのではないかと思えてくる。

 そんな「お作法」や「お上品なお手続き」を一切カッ飛ばして、私設軍隊を編成して国家丸ごと乗っ取るほうが、早い安い上手いんじゃぁないの? このプランは小説のように奇だが現実にあった(失敗したけど)。チャリティのカリスマである元ロックスターは、ぜひF.フォーサイスを見習うべき。

 いずれにせよ、だめな国の現状も将来も、絶望的に見える。本書のどこを読んでも希望なんてない。だからこそ、アフリカの発展に尽力している山形浩生氏には頭が下がる。何の縁もないのによく頑張れるなぁ、と尊敬する(たぶん彼は「それが私の仕事だから」とか言いそうだけど)。

アフリカ・レポート いま松本仁一「アフリカ・レポート」を読んでいるが、この絶望感を加速してくれる。より具体的に「だめ」さ加減が分かる。「だめな国は何をやってもだめ」――ああ、わたしが間違っていますように。誰か反論してほしい、この認識が誤っていると

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飲んだら読むな、読むなら飲むな「ウルトラヘヴン」

 読むクスリなんだが、週刊文春の小話集ではない。読むドラッグ、しかも「最上級のペーパー・ドラッグ」だ。

 オビにある、謳い文句に偽り無し。酔って読むとダイレクトに作用してくるので、かなり危ない。アルコールは感情や感覚の増幅器にすぎないから、飲みながら読むとバッド・トリップになること請合う。呑んでジェットコースター乗っちゃダメのと同じだし、アルコール入りセックスが深いのと一緒。

Ultra1_2Ultra2

 近未来――多種多様なドラッグの発明によって、好みの精神世界を体験できるようになったはいいが、違法ドラッグの危険性も桁外れになっている。「人間やめますか」どころじゃない、人間じゃないナニカにまでなろうとするのね。

 見所というか酔いどころは、究極のドラッグを求める主人公のトリップシーン。皮膚の表裏の区別がつかなくなり、体そのものが裏返しになる感覚や、メタ現実を時系列に、しかも何層にもわたって知覚するイメージ群がすさまじい。主人公だけでなく、読んでる自分までもが微分されてる気分になってくる。

 さらに、知覚とは、脳により咀嚼されたデータにすぎないことが、よく分かる。あるシーンで、「情報未処理」の状態である赤ん坊そのままの世界を「視」る。遠近感デタラメで、全体は部分を構成しており、平衡感覚は完全に喪われている。一瞬一瞬が妙にクッキリとして、まるで高精密映像のパラパラマンガで現実が成り立っているような、そんな感覚を「理解」できる。

 つまり、ホントはそこまで「解析」できるにもかかわらず、通常の脳だとそこまで追いつけないのだ。だから、無数の諸相の最大公約数的なところをパターン認識して誤魔化している――そんなことを、主人公と一緒になって「理解」する。

 たとえば、いわゆる麻薬中毒と似ているかも。疑似体験として、視界が脈打っているような錯覚なら、↓のyoutubeで確認できる。最後まで画面を見つめた後、モニタの「外側」を眺めてみよう(視聴注意!気分が悪くなったらすぐ止めること)

 これは、脳による映像情報の処理をいじったもので、網膜に映っているけれど「視」ずに見たことにして補っている部分がうねっている。

 あるいは、蓮コラ(蓮イボ)が忌み嫌われることも同様かと。脳が自動的に処理している「顔」や「体」への変換を拒絶しているため、見流せない映像と強制的に向き合わされる。この、脳がいうことをきかない気持ち悪さこそが、生理的に嫌なんじゃぁないかと。実際、トリップシーンには、蓮コラっぽい表現もあるので、用心用心。

 本書は、masashiさんオススメで出会えた傑作。masashiさん、ありがとうございます。幾重にも崩壊した現実、狂ったアフォーダンス、怒涛の幻想世界を、何度でも安全に(?)堪能できますな。ただし、「飲んだら読むな、読むなら飲むな」と声を大にして言いたい。でなきゃ「混ぜるな危険」と大書きしておかないと。

 使用上の注意をよく読み、用法・用量を守り、覚悟キメてお使い下さい。

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諸君 私はカルドセプトが好きだ

諸君 私はカルドセプトが好きだ
諸君 私はカルドセプトが好きだ
諸君 私はカルドセプトが大好きだ

スネフ戦が好きだ ロカ戦が好きだ
カリン戦が好きだ ゴザ戦が好きだ
タリオ戦が好きだ ギルマン戦が好きだ
ナバト戦が好きだ ビスティーム戦が好きだ
ケルダー戦が好きだ 暗黒の奈落戦が好きだ

SSで PS2で
PSで Xboxで
DCで NDSで

この地上に存在するありとあらゆるカルドセプトが大好きだ

レベルMaxの自陣に踏み込んできだセプターを吹き飛ばすのが好きだ
轟音と共に全魔力を奪い取って城へ強制送還させる時など心がおどる

オーディンランスを担いだデコイが敵陣を撃破するのが好きだ
第一波を生き延びた敵が反撃し カウンターで沈む時など胸がすくような気持ちだ

いかさま臭いダイスコントロールしてくるゼネスを蹂躙するのが好きだ
レベルMaxの自陣を踏ませた後に ホーリーワード「ゼロ」を放つ時など感動を覚える

スペルオンリー主義の逃げ足を封じ、集団で吊るし上げていく様などもうたまらない
高コストカードをシャッターで一枚また一枚と割ってゆき
溜め込んだ魔力をドレインマジックで吸い取ってやるのも最高だ

HPの少ない哀れなクリーチャーどもはマジックボルトで狙い撃ちし
イビルブラストやテンペストで木端微塵に粉砕した時など絶頂すら覚える

大事にレベル上げされている敵陣を滅茶苦茶にするのが好きだ
クリーチャーをテレキネシスで強制退去されていく様はとてもとても悲しいものだ

レベルMaxの火属性+オールドウィロウ+ランプロの一点豪華も好きだ
高速道路の料金所のごとく支払わせるときなどオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラと叫びたくなる

諸君 私はカルドセプトを 地獄の様な対戦を望んでいる
諸君 私と闘うセプター戦友諸君
君達は一体 何を望んでいる?

更なる対戦を望むか?
情け容赦のない 糞の様な対戦を望むか?
火水地風無の限りを尽くし 三千世界の鴉を殺す 嵐の様な対戦を望むか?

 「 カルドセプト!! カルドセプト!! カルドセプト!! 」

よろしい ならば対戦だ

我々は満身の力をこめて今まさに振り下ろさんとする握り拳だ
だがこの暗い闇の底で十年もの間 堪え続けてきた我々に ただの対戦では もはや足りない!!

ネット対戦を!! 一心不乱のネット対戦を!!

我らはわずかいちセプター 三百六十一枚を司るセプターにすぎない
だが諸君は一騎当千の古強者だと私は信じている
ならば我らは諸君と私で総兵力百万と一人のセプター集団となる

我々を忘却の彼方へと追いやり眠りこけているセプターを叩き起こそう
髪の毛をつかんで引きずり降ろし眼を開けさせ思い出させよう
連中にマンドレイクの悲鳴を思い出させてやる
連中に我々のテンペストの轟音を思い出させてやる

究極絶対神の元で奴らの哲学では思いもよらない事があることを思い出させてやる
一千人の吸血鬼の戦闘セプターで世界を燃やし尽くしてやる
「最後のセプター ニンテンドーDSよりネットワークへ」
第七次リュエード作戦を開始せよ

征くぞ 諸君

セプター名「Dain」で待っている

カルドセプト



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東大が求める人材とは「東大入試 至高の国語 第二問」

東大入試至高の国語「第二問」 嘘かまことか、現国の入試問題から「東大が求める人材」があぶりだされている。

 30年分の過去問から読み解かれた「東大入試の本質」というやつは、非常に奇妙だが納得はできた。すなわち、東大現代文は、「死」を主題とした問題が、もう何十年も出続けているのだという。著者曰く、「死にとりつかれていると言っていいほどの頻出ぶりである」だそうな。東大は、「死」という簡単に答えの出せない、標準解のない問題を突きつけているのだ。

 たとえば、病に冒された国木田独歩に手紙を書けという1982年の第二問。アタマを抱え込むことを請合う。独歩は死を覚悟しており、気弱な面と実際的な側面をまぜこぜにした手紙をよこしている(その手紙が出題文)。これを受け取ったと仮定して、返事をかけというのだ。しかも200字、どうすりゃいいの?

 あるいは、1985年の第二問。金子みすヾの詩を二編ならべて、「各自の感想を記せ」という。(゚Д゚)ハァ? というやつだね。白状すると、わたしは赤本でぶちあたり、東大はワケワカランと投げ出したことがある。

次の二つの詩は同じ作者の作品である。二つの詩に共通している作者の見方・感じ方について、各自の感想を一六〇字以上二〇〇字以内で記せ(句読点も一字として数える)。


「積もった雪」

上の雪
さむかろな。
つめたい月がさしていて。

下の雪
重かろな。
何百人ものせていて。

中の雪
さみしかろな。
空も地面(じべた)もみえないで。




「大漁」

朝焼けだ小焼けだ
大漁だ
大羽鰯の
大漁だ

浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰯のとむらい
するだろう。



東京大学入学試験「現代文 第二問」1985

 たぶん道徳的・感傷的な「作文」だと零点なんだろうなーということは薄々わかってた。「声なき鰯を思いやる」といった優等生的(上から目線の)解答は即ペケだろう。では何を書いたら「正解」なのか、分からない。

 いわば、答えが出ない問題が出題されるのだ。

 この「第二問」はかなり有名で、齋藤孝著「齋藤孝の読むチカラ」にも取り上げられている。ごていねいにも、その「解答」を引用し、「試されていたのは、読む力にとどまらない」と、なで斬りにする。齋藤氏はエセイストなので、まともに読んだら気の毒だ。にもかかわらず、彼がいかに表層的・優等生的で、問題の本質どころか問題自体を理解していないことを容赦なく暴いている。東大入試は、「いい人コンテスト」の場じゃないんだって。

 齋藤氏の「誤答」を指摘した後、キーワード「死」を核にして、この「第二問」を読みほどいていく。最初はとっかかりのない「のっぺらぼう」な問題が、実は生き生きとした、いや生臭くって残酷なテーマを内包していることに気づかされる。

 いや、「内包」じゃないね。ぜんぜん隠してない本文に読み手が「見ようとしない」方角から光をあてて、偽善ですらない無意識の態度を浮き上がらせている。著者の「読み」は、謎解きに近いほどスリリングで、それこそ「あっ」と驚く仕掛けも施されている。こんなに豊かな「読み」ができるなんて、たいへんうらやましいアタマを持っている。

 その一方で、話があちこち八艘飛びしてて、どう転ぶか分からない危うさもある。(これは面白いところでもあるのだが)主張の展開途中で、唐突にマジックワードが差し挟まれる。こっちが戸惑っているうちに、そのマジックワードは検証されないまま、次のパラグラフでは論拠として扱われている。

 さらに、文中のどこを探しても「私は~」が存在せず、全ての論拠は「れる/られる」で述べられ、次の章では、「私たちは~」に引き継がれている。あたかも、「読み進めているということは、同意しているんだよね?よね?」という臭いがぷんぷんしててイヤだー。

 同趣旨の好著「哲学の誤読」が論理ガチガチだったので、脳をギリギリ絞り上げるようなシビアな読みを期待していたのだが、ちょっと肩透かしを食らった。

 とどめになるが、それぞれの入試問題への「解答」がないのはダメでしょうに。あれだけフロシキ広げてあれこれ言い放ったのだから、ちゃんと200字以内で畳めよ、と言いたい。「本書の趣旨は読み解きだけ、解は自力で」とでも言いたいんだろうか。「哲学の誤読」はヒーヒーいいながらも解答出していたぞ。

 そういうオマエモナーと言われる前に、わたしの解答を書いておこう。

作者は、擬人的な表現を用いつつも、単なる感情論を超え、主体を成り立たせているのは客体で、主客を逆転させても同じことだと感じ取っている。例えば人が獲らなければ魚の葬式は成り立たないし、魚が獲れなければ飢え死んだ人の葬式だろう。上の雪がなければ、中の雪や下の雪は存在すらしないし、これは上中下を入れ替えてもあてはまる。つまり、人間的な感傷論をさしおいて、主体と客体はお互いが抜きさしならぬ関係なのだ。(197字)


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アパルトヘイトの時代臭「鉄の時代」

鉄の時代 どの小説もその時代と場所につながれている。

 「世界文学」だの「時代を超えた」といった麗句は、その時代と場所を取捨し、普遍性だけに目をつけているから用心しないと。残雪「暗夜」やクンデラ「存在の耐えられない軽さ」を、文化大革命やプラハの春から乖離させて語るわたしは、表層をなでているに過ぎないから。

 いやいや、逆の言い方もできるぞ。残雪やクンデラを通じて、その時代や場所を知るんだ。フィルタリングされたスコープで、時代を覗き見するといってもいい。残雪は暗喩として、クンデラは直喩として。

 クッツェー「鉄の時代」で描かれるアパルトヘイトは、メタファーのようなまだるっこしさはない。物語のなかに、まるで映像のようにクッキリと臭いが写りこんでいる。彼がこれを書いたのは、1986-89年で、アパルトヘイト体制末期だった――などと、したり顔できるのは過去話だから。非常事態宣言が発動され、内乱状態だった時代から、本書は生まれている。政治的な意味合いを読み取るなという方にムリがあるだろう。本書の半分は、現場からのルポルタージュといってもいい。

 もっとも、マスコミよろしく騙るのなら、ストーリーはもっと簡単だったろう。善悪二項対立を仕立て上げ、それぞれの代表者に因縁とドラマを演じさせればいい。読者は分かりやすい物語を好むものだし。

 しかし、そんなキレイな作為なんて施さない。カラードがカラードを追い、殺す。「黒人対白人」の構図なんてどこにもなく、黒人同士が殺し合い、警官は遠巻きに包囲する(カラードが逃げ出さないために)。善悪は恣意的で、人びとは運命にこづき回される。ひどいことが行われていることは分かる、至近距離で子どもが撃たれているのだ。でも、誰がどうしてなんて、これっぽっちも知らされない。

 これを70歳の白人の老婆の目を通じて描かれる。彼女は無力で、しかも癌に侵されている。体はいうことをきかず、関節が悲鳴を上げている。ひとり娘はアメリカに行ってしまい、他に家族はいない。誰も、彼女の言うことなんて、聞かない。

 この老婆の意思がすごい。生きぬくこと、抗議すること、抵抗することへの強い意思に触れ、その熱におもわず手を引っ込めるかもしれない。あとは死ぬだけじゃないの? もう充分じゃないの? という声すら失う。ぎりぎりのところから、最後まであきらめることなく、相手を信じよう・愛しようとする。

 本書は、娘に宛てた長い長い手紙という形式で語られている。読み進むうちにこの手記は、実は「遺書」であることに気づく。その瞬間に読み手は、手紙にある「あなた」とは、実は自分を指しているのではないかと思えてくる。アパルトヘイトの混乱すら遠景に押しやり、彼女の執念といってもいいほどの意思――信じようとする心こそが、「生きていること」と同義になるのかも、と自問する。

 政治的な臭いを嗅ぎとろうとしてたわたしが、ちゃんと読めてたかどうか疑わしいが、少なくとも小説が時代や場所の軛から抜け出ている現場に立ち会えたわけだ。

 この鉄のにおいは血のにおい。アパルトヘイトの時代に立ち会える一冊。

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SFで描いた青春恋愛小説「ハローサマー、グッドバイ」

ハローサマー、グッドバイ ボーイ・ミーツ・ガール、少年のひと夏の恋物語――だと思っていたら、のけぞった。

 サイエンス・フィクションを、ちょっとナナメに見ていた。SFなんて科学調味料で味付けしたファンタジーにすぎないから、ギミック取ったらただの冒険譚でしかないと思ってた。

 つまり、宇宙人や未来人を持ってこなくてもそのテーマは書けるんじゃないの? そんな「設定」で紙数稼ぐの? その「設定」がないと語るに値しないの? とまで冷ややかに見ていたことがあった。

 この物語は、そういう視線を粉々にしてくれる。これはSFでないと書けないし、その強烈な証拠をラストで明かすのは上手い/美味い。後半の急転直下は驚きの連続だし、最後の最後のドンデンは、一本背負いのように決まった。わざわざホーガンやクラークを持ってこなくても、SFってスゴいね、と実感できる。

 わたしのように疑り深い読者向けなのか、出だしでこんな予防伏線を張っている。主人公ドローヴに語りかけられるこのセリフが、よもや物語全体を覆っているとは気づかなかった。

「だいじなのは、お話の裏にこめられた意味なんだよ、ドローヴ少年。お話ってのはある目的があって語られるもので、その語られかたにもやっぱり目的がある。お話しがほんとかそうでないかなんてのは、どうでもいいことなんだ。それを忘れるなよ」
 仕掛けがあまりにも鮮やかなので、そこへ至るまでのビルドゥングス・ロマンが霞んでしまうほど。けれども、よく目を凝らすことで、親との葛藤や優越感ゲーム、友情と恋愛の不安感、オトナへの懐疑が上手に折りたたまれている。

 のんびりした田舎の漁村風景に見え隠れする戦争の影の出し方がいい。全て少年の独白体で進められるため、読み手も同じ情報の制限を受けることになる。このもどかしさと息苦しさは彼の気分そのもの。最初は、少年と少女の夏の冒険だったのに。

 そして、あばかれる人性の残酷さと、一変した風景とのコントラストが、まぶしい。

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インテリアとしての本と本棚「自宅の書棚」

自宅の書棚 本のある暮らしを提案する一冊。無性に本の整理をしたくなることを請合う。

 いや、「本だらけで足の踏み場もない」とか、「これが倒れてきたら圧殺される」といった自嘲も聞こえる。このblogを覗いているなら、本との戦いに明け暮れている方も多かろう(わたしの戦歴は「図書館を利用するようになるまでの20ステップ」にまとめた)。

 しかし、本書に出てくる、暮らし中で「本を活かす」ライフスタイルを見せつけられると、自分の考えが誤っているのではないかと確信が持てなくなる。本の山を自慢げに語るのは、奴隷の鎖自慢ではないかと冷や汗が出てくる。「おまえ、ただのコレクターじゃね? 読みもしないくせに」と言われている気がしてくる。

 それぐらい「美しい」んだ。著名な作家や建築家たちのホーム・ライブラリーやリビングが紹介されており、どこもみっちりと収納され、ディスプレイされているにもかかわらず、不思議に「調和」というイメージがつきまとう。本に生活が侵されている人にゃ、目の毒かも。

 いわゆる「写真集向き」に限定せず、キッチン、寝室、バスルームなど、部屋別に大量の実例が案内されている。さらに、階段、廊下、玄関、トイレなどを有効利用した省スペース型の書棚も紹介されており、(やる/やらないは別として)本をインテリアとして活かすヒントが沢山もらえるだろう。

 例えば、バルガス・リョザのロンドンのアパートメントの本棚が必見。船の帆をイメージした回転式書棚となっており、部屋の間仕切り的な役割りも果たしている。高い天井まで一杯の本棚で、上のほうは双眼鏡で探すという某作家と好対照やね。

 あるいは、「キッチンに料理本」という定番を覆す事例がある。下ごしらえするときに読みたい本もあるだろうし、書棚に置けない本をキッチンに置いてもかまわないと提案する。陶磁器の食器と本が、デザインの秩序を乱すことなく並んでいる写真を目にすると、自分の家の台所まで違って見えてくる。キッチンが読書エリアになる? そういや嫁さんが実践してるなぁ…

 一生かかっても読みつくせない本をせっせと集めている自分がバカらしく思えてくる、そんな一冊。

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衝撃のスゴ本「17人のわたし」

17人のわたし 虐待で多重人格障害となった女性が、精神科医の助けにより、人格を統合する。

 不謹慎な言い方だが、そこらの小説より遥かに面白い。多数の人格が生まれた理由、記憶の共有や人格の入替えメカニズム、人格を統合する方法など、物語形式で500頁みっちりと詰まっている。

  ■1 カレンの中の17人
  ■2 なぜ人格が生まれたのか
  ■3 人格 = 記憶 ?
  ■4 ぶっちゃけ「ビリー・ミリガン」とどっちが面白いの?
  ■5 カレンのメッセージ

■1 カレンの中の17人

 著者は精神科医で、10年以上の歳月をかけて彼女の治療にあたった。「カレン」という肉体の中に17人の人格があり、それぞれの過去と役割を持っている。

ホールドン34歳、男常識
キャサリン34歳、女秩序
カレン・ブー2歳、女幼年期
シドニー5歳、男ユーモア
ジュリアン5歳、女記録係
シーア6歳、女医学の知識
クレア7歳、女女性性
マイルズ8歳、男強さと怒り
イリーズ8歳、女先導役
カール10歳、男苦痛の除去
ジェンセン11歳、男芸術鑑賞
ジュリー13歳、女健康問題
アン16歳、女信仰心
サンディ18歳、女完璧な娘
カレン110歳、女普通の子ども
カレン221歳、女普通の大人
カレン330歳、女憂鬱

 強い痛みや恐怖が限界を越えると、それを引き受ける人格が生まれる。耐え切れない感情を引き受け、その出来事を「なかったことにする」のだ。あるいは、あったことはぼんやり覚えていても、実体を持って思い出せないようにする防護壁となる。

 たとえば、シドニーが誕生したのは、父親に脅された3歳のカレンが恐怖のあまりウンチを漏らしたとき。父親はそのウンチを無理矢理カレンに食べさせようとするのだが、この事実を隠蔽し、何もなかったことにするために生まれたのだ。シドニーはその時の恐怖と屈辱を引き受け、3歳のまま時を止める。

 あるいは、父親が友人のセックス相手としてカレンを貸し出したときに生まれたのがジュリーという人格だ。カレンは当時11歳、暗闇の中で男にのしかかられた恐怖を引き受けている。血と暗闇を極端に怖がり、男性恐怖症のまま成長を止めている。

 ああ、このカレンの父親というやつが最低の糞野郎なことは、わざわざ指摘するまでもなかろう。読み手は確実に気分を害するというよりか、気分が悪くなるだろう。

 彼女の初体験は深夜の廃工場。父親と祖父に連れられ、複数人の男たちに輪姦されている。そのとき使用したのは針。ガムテープで口をふさぎ、男たちに触れられているカレンの腹部に針を突き刺して、すぐに引き抜く。針を使用するのは、痕が残らないから。誰にも気づかれることもない。

 さらに、器具を使うこともある。くるみ割り器は乳首とか指を挟むためだけではなく、もっとおぞましい目的に使用された。取手が木でできたドライバーやラジオペンチ、ハンマーも同様だ。すなわち、男たちは彼女の体の中に入れて遊んだ。

■2 なぜ人格が生まれたのか

 ああ、そうだ。わたしだったら、発狂するか、自殺しかねないような凄惨な体験を重ねている。辛すぎる現実に潰されないよう、「自分」を守るため、恐怖や痛みを引き受ける人格がどうしても必要になる。

 ほとんどの人格は年を取るのをやめ、成長を拒絶し、異なった時期で時間が止まっている。そして、その時点で起きていたこと――たとえば、レイプされたこと、親が「死ねばいいのに」と言っていたこと――の中で、ずっと時をすごしている。

 破滅的な行動をとる人格もいる。針金ハンガーのフックを膣に入れ、性器を破壊しようとしたのはカール。女でなくなれば、ひどい目に遭わなくてすむからだという。膣をめちゃめちゃにした後、縫い合わせるつもりだったらしい。

 こういうのを、地獄と呼ぶんだろうね。

 著者はひとりひとりと話し合う。同情し、励まし、慰めるが、時には強く出ることもある。おかしくなってしまった「人格」に対してセラピーをすることもある。

 その過程で明らかにされる「カレン」の人格システムがスゴい。

 ひとつの肉体に複数の人格を配置し、それぞれ独立した個性を成り立たせている一方で、重要な記憶を共有する。必要に応じて最適な人格が選ばれ、スイッチングする(原題は、"Swiching Time")。これまた不謹慎千万ながら、寄生獣の「後藤」の切り替えシステムを髣髴とさせられる。

 カレンの場合は、家――ファミリーの部屋という心的概念が元になっている。それぞれの人格に「部屋」が割り当てられることで、同じ肉体なのに互いに独立している。記憶の共有や外部への「接続」が必要な場合は、家でいう「リビング」にメンバーが集まる、という仕掛けだ。

 それぞれの経験を、それぞれの人格が受け持っているから、精神科医に話す虐待経験が自分のものでないような気がしてくる。その記憶を話すことはできるけれど、それにまつわる感情は別の人格のものだから。カレンはその感覚をこんな風に表現する。

「わたしはまだ彼らのことをよく知らないんですが、すべての人格をよく知っている人格もいるような気がします。たぶん先生は、わたしじゃなくてほかの人格と話をしたほうがいいのかもしれません。ときどき、わたしは自分の人生に乗り込んだ乗客の一人にすぎないんだという気がするんです」

 その、「すべての人格をよく知る人格」ホールドンに指導されながら、著者はカレンの中の人格の統合を試みる。この統合シーンもスゴい。人格は合体するようなしぐさなのだが、じっさいは「溶け込む」あるいは「紛れ込む」ような感覚のようだ。それぞれの人格が受け持っていた記憶だけでなく、その感覚や嗜好までも引き継ぐ。いままでの空白期間への感情が押し寄せる描写は、カレン自身の言葉だから生々しく感じとれる。

 一つの人格を統合するということは、新しい過去をひとつ与えられるようなもの。しかも、まるで馴染みのない他人の過去を引き受けることになる(ホントは、その"他人"がカレンの辛い思いの一端を受け持っていたのにね)。

 そして、統合を繰り返すたびに、自分が少しずつ薄まっていく。「統合」とは足し算なのではなく、全体に対する自分の範囲が小さかったことを気づかされる作業なのだから。彼女のアイディンティティ・クライシスを追いかけながら、自分とはすなわち記憶だと気づかされる。「個性」だの「自我」を持ち出して、他とは違う己を定義しようとしても、無駄なことなんだと。

■3 人格 = 記憶 ?

 仮に、感覚器官の統合体としての「意識」こそ自己だ――なんて定義しても、それは精巧につくられたマシン=肉体としての自己にすぎない。その一つの肉体に沢山の人格が宿るカレンの場合、それぞれの自己を自己たらしめているのは、それぞれの人格が持つ記憶にしか拠り所がないように見える。それぞれの記憶が受け持つ性格に便宜上の名前がつき、その名前に「人格」を付与されているのではないのか、とまで思えてくる。

 特に、「カレン3」を「カレン」に統合する話なんてまさにそう。カレンという肉体の代表者として最初に精神科医にかかったのは「カレン3」だ。「カレン3」が選ばれたのは、彼女が従順で、あまり深い記憶を持っていないからだという。そして、「カレン3」に対して順番に人格統合していくはずだった――しかし、あるとき、「カレンにカレン3を統合させよう」という話が持ち上がり、準備され、実現する。これは非常に混乱した。

 カレン3に対し、既に複数の人格が統合されているにもかかわらず、「カレン3そのもの」はまだ統合されていないのだという。カレン3は「憂鬱」を受け持つ。その重苦しい感覚や記憶こそが実体で、「カレン3」はラベルにすぎないように思える。

 つまり、ある一連の記憶を持つから、その人格の一貫性が保たれているだけではなく、その一連の記憶そのものが「わたし」であるということ。わたしという肉体は数ヶ月で細胞レベルでリフレッシュされているにもかかわらず、わたしが「わたし」でいられる。それはわたしの記憶のおかげ。その記憶そのものが「わたし」という名前をつけて保存されたわたしの「本体」なのではないか――そんな気になってくる。

■4 ぶっちゃけ「ビリー・ミリガン」とどっちが面白いの?

 面白さの視線が違う。結論を先に言うと、「どっちも興味深いけれど、ハマりポイントが違う」だな。

 ダイエル・キイス「24人のビリー・ミリガン」も多重人格障害を扱ったノンフィクションだが、焦点は連続強盗・強姦事件の「犯人は誰か」になる。「多重人格の人間が犯罪を犯した際、罰せられるのは"誰"か?」、あるいは、「その多重人格は"本物"なのか? どうやって"証明"するのか?」がポイントだろう。実際、ビリー・ミリガン裁判の焦点もそこだったので、読み手は自分の疑問が明かされていく過程を興味深く読むことができる。

 「ごく普通」の青年が猟奇的な事件を起こした際、解離性同一性障害による心神喪失を認め責任能力を否定→無罪へ持ち込む戦術が選ばれる。つまり、「あれをやったのはニセモノのボク」パターン。この戦術が使われるようになったのも、ビリー・ミリガン裁判のおかげだろう。まず「ホンモノなのか?」から始めることができるから。

 「ビリー」は裁判をめぐる駆け引きや警察当局の非道な扱いが(実話ながら)ドラマティックに書いてあり、読み手を惹くのもそこだろう。

 いっぽう「カレン」は、彼女の内面を探るクエストであり、それぞれの人格との対話・文通・メッセージングの記録でもある。本書の見返しに、あたかも「登場人物一覧」のように17人のプロフィールが出てくるが、意図は同じだろう。この17人こそが「主人公」なのだから。

 複数の人格の口から、カレンの過去が明かされる。もちろん「うそ」を言う人格もいるし、父親の嘘を信じ込んでいる人格もいる。読み手は断片的な発言からカレンの過去を再構成するミステリ的な取り組みも求められるだろう。

 そして、それぞれの人格を統合していく段になると、「憂鬱」という一面しかなかった「カレン」が、だんだん人間的な厚みを帯びてくることに気づく。以前の彼女ならやらなかった突拍子もない行動や、感情的に強く出たりする駆け引きに驚くだろう。わたしは、暴力的だった夫に対し、同情するようなそぶりすら見せる様子で、彼女が「変わった」ことに気づいた。後半はカレンの成長譚として読むこともできる。

 裁判や犯罪といった「彼」の外側のドラマ性が高い「ビリー・ミリガン」と、「彼女」の内部の人格を通じて過去を探り、受け入れていく「カレン」、どちらを興味深く読むかは読み手しだいなのだが…わたしは、カレンの方がより緊張感を持って読んだ。

 多重人格モノとして、あえて順番をつけるならこんな感じ(ジュディス・スペンサーの「ジェニーのなかの400人」やクリス・コスナー「私はイヴ」は未読なので比較不能)。

   17人のわたし > 24人のビリーミリガン > 五番目のサリー

■5 カレンのメッセージ

 すべての人格を統合し、すべての過去を受け入れたカレンが、最後にメッセージを残しているので、ここに引用する。

私のように虐待を受けた子どもは、もはや現実の世界には生きていないのです。そんな子どもの目は、絶対に安全だとわかっている場所、すなわち自分の内面にしか向いていないのです。絶え間ない恐怖にさらされ続けた私は、生き抜くために彼らの言いなりになっていたのです。子どもたちが私と同じような目に遭い、虐待という環境の中で誰にもふり返ってもらえないことが、二度とありませんように――それが私の願いです。かつての私のような、自分の恐怖を人に話せない子どもがこの世からいなくなることを、心から祈っています。
 最後に。これは、敬愛する渡辺千賀さんが「誰にも勧めないすごい本」と絶賛されていたので、もちろん原書で購入→挫折した一冊("Kite Runner"といい、本書といい、英語の本ってラリホーマが掛かってるのかな?かな?)。渡辺千賀さん、スゴい本を教えていただき、ありがとうございます。

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嫁と「ひぐらし」

 かれこれ2週間以上、昭和58年6月の雛見沢から出られない。

 発端は嫁さん。

 レンタル屋であるDVDを掲げて、「コレ借りてもいい…?」と上目づかいに訊いてくる。その視線に弱いことを知った上で使う。ちなみに嫁さん、アニメは"からきし"なんだが、ムシの知らせか何かで、大当たりを引いてくる(前回は「鋼の錬金術師」だった)。

 まなめ先生のおかげで、ネタバレを回避しつつ陰惨な話だと知ってはいたので、それとなく警告する。「うんいいよ」と二つ返事。「娘を混ぜちゃうような話じゃないだろうし」――ええ、確かにダークファンタジーではないのですががが。

 早めに子どもを寝かせ、いそいそと酒宴の準備をする(明日は休みだ♪仕事もない)。そういや、嫁さんとアニメなんて久しぶりだよな、というか一緒に「二人だけで」何かを観ることそのものが久しぶりだよなーとトキメキながら、電源ON→DVDオン→再生オン………………………

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「シャドー81」はスゴ本

シャドー81 スリルとスケールたっぷりのスゴ本、この大傑作を紹介できてうれしいよ。

 プロットは極めてシンプル。最新鋭の戦闘機が、ジャンボ旅客機をハイジャックする話だ、表紙がすべてを物語っている。犯人はジャンボ機の死角にぴったり入り込み、決して姿を見せない。姿なき犯人は、二百余名の人命と引き換えに、莫大な金塊を要求する。

 シンプルであればあるほど、読者は気になるはずだ、「じゃぁ、どうやって?」ってね。完全武装の戦闘機なんて、どっから調達するんだ? 誰が乗るんだ? 身代金の受け渡し方法は? だいたい戦闘機ってそんなに長いこと飛んでられないから、逃げられっこないよ!

 本書の面白さの半分は、この表紙を「完成」させるまでの極めて周到な計画にある。一見無関係のエピソードが巧妙に配置され、意外な人物がそれぞれの立場から「戦闘機によるハイジャック」の一点に収束していく布石はお見事としかいいようがない。

 そして、もう半分は、表紙が「完成」された後、ハイジャッカーと旅客機のパイロット、航空管制官の緊張感あふれるやりとりだ。無線機越しの息詰まる会話から、奇妙な信頼関係が生まれてくるのも面白い。ハリウッドならCG処理してしまいそうなスペクタクルシーンも魅所だが、時代がアレなだけに映画化不能www

 さらに、面白さを加速しているのは、先の見えない展開だ。伏線であることは分かっていたが、まさかそこへ効いてくるなんて…と何度も息を呑むに違いない。文字通りラストまで息をつけない(あまりにも○○な最後に、読み達者であればあるほど唸るかも)。

 本書は30年前に読んだっきり。新潮文庫版は、永らく絶版状態だったようだ。それが今回、ハヤカワNVで復活して嬉しいことこの上ない(ちなみに同時に出ている「ゴーリキー・パーク」は骨太の極上)。400頁強、ゆっくり読めば徹夜小説になるが、思わず知らず夢中になること請け合う。

 ただ、今回の再読にあたり、穴というか無謀というか無茶が目立った。もし○○ならどうするつもりだったんだろう…と何度ツッコミを入れたことか。計画段階での神経質なほどの緻密さと好対照をなす実行段階の大胆不敵さに、一種腹立たしさすら覚えながら読む。結末がわかっていても、やっぱりハラハラしてしまう。

 本書と汗を握りしめ、秋の夜長にイッキ読み。未読の方こそ幸せもの、極上のミステリを、どうぞ。もちろん、明日の予定がない夜にね。


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