人により猛毒「イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ」
最初は「死」について、次は「性愛」について、この2編はあなたの試金石になるだろう。どれだけ自分のモノにしているかによって、衝撃がまるで違ってくるから。
これをトルストイの昔話のつもりで、他人事として読んだら、くらだないし第一もったいない。「死の葛藤」とか「夫婦愛とは?」と陳腐化しちゃうから。「人生が空っぽだったことに気づいた男の惨めな死にざま」とか、「嫉妬に狂って妻を刺し殺しちゃう悔恨」は、他でもない自分ごととして受け止めるべし。
■ イワン・イリイチの死
まずは、病気で死ぬ男の話。
成功人生を送ってきたが、病を得、どんどん篤くなっていく。家族の冷淡な様子や、ひとりぼっちで惨めな思い、そして、自分の人生がまったくの無駄であったことを徹底的に思い知らされるところなんて、自分に重ねなきゃ。
恐れ、拒絶、戦い、怒り、取引、抑うつ、そして受容といった典型的な(?)段階を経ながら、死と向かい合う心理的葛藤を容赦なく暴きたてる。死とは他人にだけ起きる事件だとタカくくっていた順番がまわってきたとき、どういう態度をとるのか。否が応でも「自分の番」を考えさせられる。
気楽・快適・上品――健康だった頃の価値尺度は、そのまま彼の人生の虚構度合いを示している。他者との精神的なかかわりを避け、自分の人生を生きてこなかった彼が、死を自覚することで、ムリヤリ向き合わされる。そして、もう、とりかえしはつかない。
これは怖いぜ。ここらなんて特に。
なぜ、何のためにこんな恐ろしい目にあうのか、と。ヒトゴトとして読んでいる方は、彼の友人と一緒。通夜で神妙な顔をしながらも、カードゲームのことをそわそわと考えて、「ほかでもないその死が自分にふりかからなくてよかった!」と安堵することと一緒なんだ。
だが、いくら考えても答えは見出せなかった。そしてよくあるように、なにもかも自分が間違った生き方をしてきたせいで生じたことなんだという考えが頭をよぎると、彼は即座に自分の人生の正しさをくまなく思い出して、その奇妙な考えを追い払うのだった。
そう、これはどれだけ「自分の死」=「生」を考えているかのリトマス紙でもあるんだ。これ読んでも自覚できない奴にゃ、次の言葉がふさわしい→「志村ー!後ろー!」w…ちと古かったかもしれんが、死はそこにいるよ。
■ クロイツェル・ソナタ
次は、妻殺しの話。
これもヨソゴト、夫婦喧嘩は何とやら、と捉えたら、もったいないお化けが出るよ。トルストイがスゴいのは、誰かの人生を稠密に描いているくせに、その心情がとても一般的なところ。ヨソの人の話なのに、自分のことをズバリ言い当てられているような共感を呼ぶから。
だから、嫉妬に狂って妻を刺した、なんて昼メロちっくな題材なのに、告白する男の苦悩が痛いほどわかる(刺した後ではなく、刺す前のね)。いや、わたしは嫁さん殺そうなんて思ってないよ、嫉妬することはあっても。それでも、彼とはどこかでつながっている、そんな感覚がまとわりつく。
もちろん、この男、ちょっと歪んでいる。男女関係の全てを性衝動や支配/服従の問題に還元したり、妻と売春婦の違いは、長期か短期にすぎないとか、求婚とは女性という肉奴隷をめぐる市場取引だーなんて、どこのレヴィ=ストロースじゃwwwとツッコミ入れたくなる。
それでも、彼が語る夫婦の背信や嫉妬、憎しみは、偶然の現象でもなければ彼の夫婦固有のことでもない。もっと一般的な理由だ。結婚のときは「愛」を声高に叫ぶくせに、いざ一緒になると、やれ生活費だ趣味がどうのと口をはさみ、子ができたら大騒ぎして「あなたは私の苦労を知らない」「おまえこそ何だ」と罵りあう。それどこの我が家wwwと笑えたら救われるのだが、かわいそうに、有史以前からの現実を、この夫婦は知らない。
性欲と責任が一体化しているのが、結婚制度。抽象的な「愛」と具体的な「あれ」にはさまれているのが、結婚生活。キリスト教が説く純潔や隣人愛の精神と、性愛関係・財産・家系・種の存続のための結婚制度、両者のズレに挟まれて、男は引き裂かれる。
このズレが根本的な原因であり、夫婦間のさまざまな問題は結果にすぎない。キレイゴトぬかすな、と男はいう。ささいなことで罵りあい、憎しみ合い、大騒ぎしたあと性交して一時休戦する。憎しみと肉欲を行ったりきたりする矛盾。
ほとんどの夫婦が「なんとなく」解決しようとする偽善を、この男は率直に追及する。嫉妬の感情に自分でガソリンをぶちまける様子、そしてクライマックス!途中まで共感半分、恐ろしさ半分だったのが、ラストのラストでおいていかれる。
そして、こちら側とあちら側の間に、隔たりなんてないことに気づくんだ。
自分を重ねて読んでみよう。怖いデ。
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コメント
Dainさんのレビューを見て、早速読んでみました。トルストイは初読だったのですが、諦念のこもった心情描写がリアリティあふれててよかったです。これだけの物を書くにどれだけ心の中を搾り出したのかと思うと、トルストイの精神力に圧倒されます。
トルストイは同じく古典新訳文庫から出ている「アンナ・カレーニナ」を積ん読しているのですが、こちらも楽しみになりました。
投稿: panna-cotta | 2008.09.13 16:08
>>panna-cottaさん
トルストイはスゴいです。遠い時代の異国の話が、まるで隣近所、いや自分の身に起こっているかのように思えてきますからね。
そして、「アンナ・カレーニナ」、忘れていました。挫折して積読山の一角を占めていることを。早速発掘せねば。しかも古典新訳文庫から出ているんですね、思い出させていただき、ありがとうございます (^^;
投稿: Dain | 2008.09.13 22:40