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学生必読「理科系の作文技術」

 文系理系は無関係、学生は全員読め。もう一度いう、学生は必ず読め。

 「上から目線」だの「えらそう」だの批判上等(ご指摘の通りだから)。その上で重ねて言う、必ず読め。かくいうわたしは、そう言ってくれる先達がいなかった。ゼミ発表やビジネス文書で「揉まれて」身に着けた我流の技術なので、心もとないことおびただしい。

 今では論文・レポートの作成技術に関する本は沢山あるが、コンパクトな新書にここまで丁寧+徹底して「学生のレポート」に特化したものはない。「東大、京大、北大、広大の教師が新入生にオススメする100冊」の第8位で、この手のランキングに必ず本書が入っているところに、センセ方の苦労がしのばれる。

 もちろん、ライティングの手ほどきを受けている方なら、「あたりまえ」のことばかり。しかし、その「あたりまえ」がないことでどれだけコミュニケーション・ロスが発生しているかゾッとさせられる。

 たとえば、「事実と意見は分けて書け」という。当然だ、どこまでが事実の報告で、どこからが仮説・意見なのか分からない文書だと、まともに扱ってすらもらえないだろう。にもかかわらず、意見をさも事実のように書いたり、事実に意見を紛れ込ませたりする実例が沢山ある。エッセイストを気取るならいいけれど、レポートとしては落第だろ。

 そもそも「事実とは何か」から定義している。事実とは、「自然に起こる事象や自然法則、過去の事件などの記述で、しかるべきテストや調査によって真偽を客観的に確認できるもの」を指す。

 しかも、「事実の書き方」と「意見の書き方」まで指南してくれる。「分けて書く」とは、分割して書けというだけではない。その記述が事実なのか意見なのか、読み手に分かるようにすることが重要なのだ。

 事実を書くポイントは2つ。

  • 書く必要性があるか否かを十分に吟味し、必要があるものだけを記述せよ。言い換えると、「必要でない記述は書くな」になる
  • ぼかした表現に逃げず、できる限り明確に書け。「明確に書く」とは、事実を記述する文は名詞と動詞で書き、主観に依存する修飾語が混入していないことを指す

 いっぽう、意見を書く原則は2つ。

  • 基本は、「私は…と考える」と意見であることが明確に分かるように「頭(私は)」と「足(考える)」をつける
  • 意見の核となることばが主観をあらわす修飾語の場合に限り、頭と足を省略できる

 上記のノウハウを逆手にとって「事実のフリした意見」を書き殴ってるわたしには耳が痛いですな。同時に、これまでに習得した文章術の「おさらい」ができてありがたい。アイディアの作り方で最も重要な「寝かせる手段」、トピックセンテンスの絞り方、自己流マインドマップのような「スケッチ・ノート法」、主題への「意思」を展開した目標規定文(thesis)へ収束させる方法──どれも一冊本がかけるぐらいの肝ネタを惜しみなく紹介してくれている。OHPの書き方まである懇切丁寧さだが、今ならパワーポイントか(キモは一緒)。どれも良い復習となりましたな。学生さんは読んで損なし、かつてのわたしに激しくオススメしたい一冊。

 何度でもいう、学生は必ず読んでおけ(命令形)。

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早い・安い・うまい「中国臓器市場」

中国臓器市場 中国の臓器移植をヒトコトで言うと、「早い・安い・うまい」だそうな。

 まず、早さ。肝臓や腎臓移植であれば、早くて1週間、遅くとも1ヶ月以内、心臓や肺移植でも1ヶ月以内にドナーが決まる。主要都市まで飛行機で数時間、ドナーが出れば、その場で飛べる。

 次に、安さ。腎臓移植を日本人が米国で受けると、1,600-2,000万円だが、中国なら600-750万円。肝臓移植の場合、米国7,000万-1億円に比べ、中国なら1,300-1,800万円でいける。渡航費や滞在費も考慮すると、圧倒的に安い。

 そして、うまさ。腎臓移植の場合中国国内で年間5000例以上、米国に次ぐ世界第2位の移植大国。移植医療は数をこなしてなんぼの世界、一大市場を築く中国は、物量共に他を圧倒している。

 この移植先進国を支えているのは、毎年1万人執行される死刑囚だという。交通事故などによる「不慮の死」によって突発的にドナーがもたらされる某国とは、かなり違う。実際、中国のドナーの9割が死刑囚で、そのメリットは大きい。

  • 若くて健康な臓器が用意できる
  • 事前検査を行うため、肝炎やエイズウィルスなどの感染を防止できる
  • 死刑執行の日時や場所が事前にわかるため、摘出直後の移植が可能
  • 死刑は毎年大量に執行されるため、ドナーが途切れることがない
 「死刑囚ドナー」という仕組みそのものが大量供給を可能としており、その結果、新鮮な臓器を必要なタイミング(ジャスト・イン・タイム)で供することができる。死刑囚の家族には当局から謝礼が渡され、病院は良い外貨稼ぎになり、(カネ持っている)患者は待たずに移植が受けられる。――と書いたら言いすぎだろうか。

 いいことばかりじゃない。年間1万人の臓器という「資源」では到底足りないのが実情らしい。中国国内では年間150万人が移植手術を必要としているが、実際に受けられるのは、およそ1万人にすぎない。ドナーは慢性的に不足しているが、それはそれ、カネとコネがモノをいう世界。

 利益を追求する病院と、その甘い汁を吸おうとする幹部の癒着っぷりがさらされる。ホンネとタテマエを上手に使い分ける斡旋人たちの活躍(の一端)が描かれる。そして、いつものパターンだが、全ての後回しにされ、虐げられる民衆の声が拾われている。どのページを開いてもわかる――世の中カネだと。

 日本人も例外ではない。2004年の天津の事例はシャレにならない。ある日本人女性患者が臓器移植手術を受け、歩けるまでに回復したが、手術費用が当初の400万円から1,500万円に膨れ上がり、払えなくなった。日本の在外公館に相談したが金の問題はいかんともしがたく、結局病院は治療をストップし、女性は死亡したという。まさに、カネの切れ目が命の切れ目というお話。

 つまり、大陸の非情に「現実的」な考え方が、臓器移植というテーマでクローズアップされているといってもいい。現実に移植を求める患者がいて、(たとえ歪であっても)供給できるシステムがある以上、両者を結びつけるのは市場のルールなのだろうね。

 そして、中国での移植サポートをしている日本人は、こう問いかける――「アメリカで移植を受けると美談、フィリピンで移植すると臓器売買だと罵られる。そして、中国だと倫理問題はどうなのだと問い詰められるのはなぜか?」――わたしには答えることができない。さらに、この日本人ブローカーは、本書の冒頭でこう述べている。

もし、愛するわが子が余命宣告を受け、残り数ヶ月の命と診断され、そこに子どもを救うことができるドナー(臓器提供者)がいたならば、あなたは倫理問題を持ち出すことができるでしょうか
 わたしは、何も言うことができない。梁石日の「闇の子供たち」なら小説の虚構を味わうゆとりがあるが、本書の現実はその斜め上にある。

 中国の死刑執行は、記念行事の直前に大量に行われる。

 そして来週10月1日は、国慶節だ。

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フィクションとノンフィクションがせめぎあう「戦争の悲しみ」

戦争の悲しみ ヴェトナム戦争を、ハリウッド映画で知ったつもりの頭に、ガツンと一撃。

 オリバー・ストーンやコッポラ、キューブリックだけじゃない。カチアートを追跡してその狂気に交ざり、おとなしいアメリカ人のダブスタに戸惑い、輝ける闇を覗き込んで震えた――が、これらはレイプする側か、現場を視姦する立場から描いたヴェトナム戦争。

 反面これは、蹂躙される側から描いた抗米戦争。投下される爆弾と流れる血の量はハンパじゃないので気をつけて。空爆と空襲の違いは、片方が一方的に圧倒的なところにある。あんまりな描写にフィクションとして扱いたくなる。キャタピラにこびりついた人肉が腐りきって辟易し、河に入って戦車を洗車するくだりは見た人にしか書けない。

「…中でハンドルを握ってると、その感じがピンと来る。地面の小高くなっているとことか、木の切り株とか、倒れた煉瓦塀とかに乗り上げるのと全然違うぜ。あっ、こいつ間違いなく人間だ、人間を轢いたんだと確かにわかるんだ。水で満杯の袋みたいに、音を立てて体が破裂する。その、はじけるときに、キャタピラーを軽く押し上げるんだよ、ほんと!」
 戦争の狂気はこの物語の時間軸を侵している。つまり、順番がバラバラなんだ。フラッシュバックのように蘇る過去を後悔する形式かと思えば、一人称「俺」でありたけの感情を吐き出したあと、突き放したように「そういう物語を書く男の話」にする。

 どのエピソードもプロローグにふさわしいし、どの挿話もエピローグにふさわしい。時間軸上を自在に行き来する叙述に、ひょっとすると、読み手はジョーゼフ・ヘラーを思い出すかもしれない。

 しかし、「キャッチ=22」よりも異様なのは、同じ出来事が繰り返されるところ。塗り重ねられる油絵のように、微妙に異なるタッチで描きなおしたりしている。それは、この物語を書いている人物に流れている時間が、過去を再評価しているから。かつて否定した出来事を肯定的に受け止めようとしたり、失敗したりしているから。

 脈絡のなさのおかげで、歴戦のヴェトコンの勇士が別のページでは幽霊におびえたりするし、純潔の処女への思い出が綴られた矢先、思う存分に踏みにじるシーンが炸裂したり(そう、これは破壊されたラブ・ストーリーでもある)。

 情感たっぷりに愛を語ったり、スペクタクルな戦場シーンを織り交ぜたり忙しい。最大の賛辞のつもりなのだが、どうしても罵倒に聞こえる誉め言葉を使ってもいいなら、「まことにハリウッド的な物語を刻んでみた」になる。

 フィクションの嘘くささを消臭するために、ある仕掛けを施しているが、開高健の「ベトナム戦記」と「輝ける闇」を思い出す。前者はルポルタージュ形式の小説、後者は小説形式のルポルタージュに読める。本書は両者を混ぜたといっていい。

 戦争の狂気を伝えるためには、ふつうのやり方では無理があるんだろうね。

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補整しながら読む残雪の「暗夜」

暗夜 中国の不条理小説。痛勤電車で両手バンザイさせて読んだわたしもシュールだw

 おもしろい…けど、いつものように素直にオススメできない。というのも、「ワケ分からん」小説でもあるから。編者の池澤氏は「カフカをおもわせる」と評するが、カフカ的とはちょっと違うような…(著者がカフカ本を書いていることに引きずられているぜダンナ)。

 おそらく池澤氏は、「虫」や「城」や「掟」を念頭に置いているんだろう。しかし、あれはちゃんと目指すものがあるぞ。不条理な世界を突きつけることで、現実へ"揺さぶり"をかけることが目的なの。だから、「その世界」でのつじつまはちゃんと合っている。試みに、「虫」や「城」や「掟」を別名で置換してみるがいい。たとえば、「病」や「官僚機構」、あるいは「良識(≒KY)」の隠喩にすると腑に落ちる。

 これが、残雪の小説だとまるで違う。物語がものがたりの体をなしていない。どの短編でも主人公は要領を得ず、うろうろした挙句、きまって途方にくれる。まわりは不安と敵意に満ちており、理由のない悪意に翻弄される。

 まるで、大事なことが抜け落ちている夢を強制的に見させられているようだ。メッセージ性なんて一切ない。そもそも何を伝えたいのか、まるで見当もつかない。阿Qの不安定感と、内田百ケンの暗がり、安部公房の超常識、最近ならペレーヴィンとかブッツァーティをホーフツとさせられる。

 遠近法や物理法則を無視した描写に対し、一切説明するつもりはないようだ。ではファンタジーにしちゃえ、とギアを切り替えられない。日常に徹底しており、この世界を出たりヨソの世界から持ってくるつもりはなさそうだから。

 こういうズレを含む小説を読むとき、わたしは無意識に「補整」をやってしまう。自分で読んでいるものを、自分ら説明・予測してしまう。環境を捉える感覚は穴だらけなので、色や形や方向を補いながら認識するのと一緒。横断歩道を渡るとき、全てのクルマを観察することはしない。ヒューリスティックに判断しているにすぎない。

 同様に、あまりに理不尽な跳躍を見つけたり、説明の大穴があったりすると、読み手(わたし)がそこを埋めようとするのだ。すなわち、作者の背景を考えて理由付けをしてあげたり、書かなかった意味を見出したりする。

 もちろんわれらが池澤氏は、そんなタネ明かしをしてくれる。大丈夫、これくらいバレたって、彼女の小説はちっとも瑕疵にならないから。

文化大革命が残雪の文学を解くキーワードの一つであることは間違いない。この暴力的な不条理の時期は彼女の13歳から23歳に当たった。その前には大躍進政策の失敗による全国的な飢餓があった。
 文革についてわたしは、ほとんど無知に等しい。歴史の教科書からとりこぼされ、新聞が伝えるプロパガンダは信用できず、知識人が恥ずかしそうに語る話でしか知らない。だから、巨大な力が働いた跡を小説上から想像するしかない。彼女が確信をもってつむぎだす超現実を、主人公と一緒にさまようしかない。

 読み人を選ぶ小編ばかりだが、「痕」の、あの理由のなさが好きだ。「暗夜」のどこへ連れて行かれるかワケ分からなさが好きだ。長編「突囲表演」が傑作らしいので読む。


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量子力学の巨人が生命の本質に迫る「生命とは何か──物理的にみた生細胞」

生命とは何か アプローチは秀逸だが、「生命」そのものに対するズバリの答えはない。

 むしろ、「生命体」や「生命活動」とは何か、といったお題が適切かと。生きている細胞の営みを物理的に定義しなおした場合、どのようになぞらえることができるか? について、実にうまく表している。

 半世紀を経て、なお刺激的なのは、シュレーディンガーの「問いの立て方」が上手いからだろう。たとえば、「原子はどうしてそんなに小さいのか」という問いへのブレークスルーな答えがある。それは、この問いの言い換えによる。つまり、本当は逆で、「(原子と比べて)人はどうしてそんなに大きいのか」という疑問に答えているのだ。

 だから、「もし人間が原子に影響を受けるぐらいのサイズだったら、今の感覚器官や思考形態をとれない」という人間主義的な匂いが醸されて微笑ましい。なんとなく循環論法(?)と思えてくる。

 いっぽうで、生物を「時計仕掛け」と見なすことで、さまざまな「発見」が得られた。染色体は生物機械の歯車になるし、生命活動を遺伝子のパターンの維持と読み替えられる。遺伝子の突然変異を非周期性結晶の「異性体的変化」に置き換えてしまうところはお見事。メタファーの力を利用して、物理学と生物学の両方から手を伸ばして握らせようとしている。

 ただ、最も肝心な点なのに、ちゃんと読めたか自信がないのが、「負のエントロピー」。生物の定義にまでかかわっているのだが、わたしはこう読み取った。

 つまりこうだ。生物にとってエントロピー最大が、「死」すなわち無秩序の状態で、原子的な混沌を指している。そして、その反対が「負のエントロピー」であり、秩序だった状態のことを言う。生物は、「秩序」を取り込むことにより、エントロピーが増大することを防いでいる。言い換えると、「負のエントロピー」を取り込み、エントロピーを排出することによって、エントロピーの増加を防いでいる――これが、シュレーディンガーの主張。

すなわち生きているための唯一の方法は、周囲の環境から負エントロピーを絶えず取り入れることです。生物が生きるために食べるのは負エントロピーなのです。このことをもう少し逆説らしくなく言うならば、物質代謝の本質は、生物体が生きているときにはどうしてもつくり出さざるをえないエントロピーを全部うまい具合に外へ棄てるということにあります。
(シュレーディンガー「生命とは何か 物理的にみた生細胞」p.141)
 こう読んでいくと、「負のエントロピー」とはすなわち、食物ではないのかと思えてくる。だがこれは孔明の罠だそうな。植物にとっての太陽光も「負のエントロピー」であり、動物にとっての栄養素と同様、「環境から得られる一定の秩序だった現象」として読み取るのが正解だろう。

 この「負のエントロピー」論は非常に誤読を招きやすいそうな。たとえば、ベストセラー「生物と無生物のあいだ」の著者が、この「負のエントロピー」を批判していることについて、バッサリ斬られている。本書の解説(p.214)によると、「この混同と過誤の誠に見事な標本」なんだそうな。

 たしかに解説を読む限り、誤読は間違いなさそうなんだが… それでも、誤解を招きやすい文章であることは確か。わたしのような生物学のシロートだと同じ罠に陥るかもしれない。念のため、ここに引用しておこう。

ただし、第6章60節(145ページ以下)の「負エントロピー」という言葉は、その直後の原註にもかかわらず、やっぱり誤解を招きやすい言葉だ。なぜなら、今日の物理的科学には熱力学のエントロピーと通信工学に由来する情報理論のエントロピーという二種類のエントロピーがあって、この両者が分子生物学の大学教授などによっても、しばしば混同され過誤や混乱を助長しているからだ。私はたまたま最近(2007年)出版された通俗科学書のベストセラーものの一つに、この混同と過誤の誠に見事な標本を見つけたので、ここに引用する。
「シュレーディンガーは誤りを犯した。実は、生命は食物に含まれている有機高分子の秩序を負のエントロピーの源として取り入れているのではない。生物は、その消化プロセスにおいて、タンパク質にせよ、炭水化物にせよ、有機高分子に含まれているはずの秩序をことごとく分解し、そこに含まれる情報をむざむざ捨ててから吸収している。なぜなら、その秩序とは、他の生物の情報だったもので、自分自身にとってはノイズになりうるものだからである。」
(講談社現代新書「生物と無生物のあいだ」150ページ)
この文中の「生物」を「動物」と書き換えれば、少しはましだ。それにしても、シュレーディンガーは、本書をまともに読めば分かる(「ガモフ物理学講義」、白揚社近刊の中の「生命の熱力学」の項とそこの訳注を見ればいっそう分かりやすい)ように、タンパク質などのような有機高分子の秩序を負のエントロピーの源だなんて言ったのではない。そして彼は、遺伝物質を構成する大型分子(彼が非周期性結晶と呼んだもの)は、時計の歯車のように熱力学を一応超越した(エントロピーとは無関係な)個体部品だと言ったのである。
 そう、岩波新書版を文庫化するにあたって付加された解説が面白い。上記のようにベストセラーがけちょんけちょんにされているのも興味深いが、シュレーディンガーの「梵我一如の悟り」をオルガスムになぞらえて説明しようとする勇気も称えたい。訳者が25歳のとき童貞だったという告白なんざ聞きたくもないネタだけれど、声を出して笑ったのはおまけの解説。シュレーディンガーが小児性愛者だったことまでは書いていないが、私生活の奔放さ(?)が垣間見えて面白い。

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「アルケミスト」はスゴ本

アルケミスト スゴ本。ただし、読了後「もっと早く出会っておけば…」と後悔した一冊でもある。

 箴言の詰まった寓話としても読んでいいし、自己啓発本としてもいける。その証拠に、amazonレビューの方向がなんとバラバラなことか。前者として読んだ方には、サン=テグジュペリ「星の王子さま」を、後者とみなす方は、オグ・マンディーノ「地上最強の商人」をオススメする。それぞれのベクトルの最高峰だから。

 つまり、この薄い一冊に、両者のエッセンスが蒸留されているんだ。

 BGMは岡村孝子「夢をあきらめないで」が最適――というか、読んでる間ずーっとこの曲が頭ン中をエンドレス。テーマも曲調も歌詞も、本書がそのまま歌になっている錯覚に陥る。主人公の少年に対し、アルケミスト(錬金術師)が放った次の一句なんてぴったり。

     傷つくのを恐れることは、
     実際に傷つくよりもつらいものだと、
     おまえの心に言ってやるがよい

 お話を一言でネタバラシすると、夢買い長者だ。あるいは北条政子の夢買い(曾我物語)か。似たような民話は世界のあちこちにあるそうな。これは一種のマインドコントロールなんだが、「自分の心に素直に」や「兆しに従え」といったメッセージまで含めると、セルフ・マインドコントロールになる。ほら、「書くと叶う」ってやつ、聞いたことあるでしょ

 ただ、この仕掛けを上手に隠し、あたかも地中海沿岸の伝説のような体をなしているのは作者の手腕だろう。そんなタネをぜんぶ分かってても、しっかり腹に落ちてくる。これは物語そのものが持つちからなんだ。

 これを強力にオススメしてくれたのは、妄想大好きッ娘ゆりさん、最近のわたしの師匠ですhehehe! 素晴らしい一冊を教えていただき、ありがとうございます。

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名著!「日本人の英語」

 「東大、京大、北大、広大の教師が新入生にオススメする100冊」で第5位。日本人の英語

 特に京大のセンセが、「英語の本質がわかると言っても過言ではない」とか、「全学共通科目の英語なんぞ 100 年続けても、この1冊には適うまい」といった最大級の賛辞を贈っている。

 著者はマーク・ピーターセン。明治大学経済学部の助教授(当時)。新入生の「異様な英語」から、修士や博士論文に出てくる「イライラする文」までを、達意な「日本語」で説明してくれる。なぜ「異様」なのか、そしてなぜ「イライラ」するのかを理解するとき、英語の壁を一つ越えるだろう。

 そういうわたし自身、単語をつなげたり拾ったりするだけなので、心もとない。次の例文は簡単なくせに面白い「読み」ができる。

     a) Last night, I ate chicken in the backyard.
     b) Last night, I ate a chicken in the backyard.

 鶏肉は「chiken」なので、a) が正解なんだろうが、「b) を正しい英文として読めば、簡潔で、とてもヴィヴィッドで説得力のある表現になるという。「a chiken」とは、「ある鶏1羽」なので、裏庭で鶏を捕まえて、そのままそこで食べたことになる。

 著者曰く「夜がふけて暗くなってきた裏庭で、血と羽だらけの口元に微笑を浮かべながら、ふくらんだ腹を満足そうになでている――このように生き生きとした情景が浮かんでくる」だって。「a」ひとつでここまで変わる発想がすげぇ。

 次。「猫を冷蔵庫に入れる」のと「猫を電子レンジに入れる」の違いがエキサイティングなり。

     a) She put the cat in the freezer to cool it off.
     b) She put the cat in her microwave oven to dry it off.

 つっこむ所が違うかもしれないが、著者は太字の違いを解説する。なぜ冷蔵庫が「the」で、どうして電子レンジが「her」になるのが自然なのか?

 かわいそうな猫をそっちのけにして、著者は純然たる意識の問題だと説明する。冷蔵庫というものは、どの家庭にでもあると意識されるが、電子レンジはまだそこまで普及していない。その意識の違いが「her」と「the」の使い分けで表現するそうな。

 前置詞を使った言い回しの解説は、非常に分かりやすい。to, at, on, in, about, out などの「位置関係」を使って視覚的に説明してくれる(絵はないけれど)。イディオムに悩まされている中高生にオススメしたい。

     a) He is off work today.
     b) He is out of the office today.
     c) He is out of work.

 a) も b) も「今日はお休み」だが、c) は「失業している」になる。out というのは三次元関係を表し、動詞に「立体感のあるものの中から外へ」という意味を与える。いっぽう、off は「あるものの表面から離れて」という意味を与えるという。

 目からウロコなのは、「時」を気にする英語と、「相」を重視する日本語の違い。訳文と並べて「時」「相」を比較してみると瞭然だ。

     a) Before I went to Beijing, I studied Chinese.
     b) 北京へ行く前に、中国語を勉強しておいた
     c) Before I go to Beijing, I am going to study Chinese.
     d) 北京へ行く前に、中国語を勉強する予定だ

 話の時制によって形を変える英語と、時制を気にしない日本語。つまり、過去のことなら過去形の、今のことなら現在形であることを強いるのが英語で、過去か現在かは気にせず、行動の状態(前・後)だけで済ますのが日本語。英語的にするなら、b) は「北京へ行った前に」となるが、日本語として不自然だろう。

 日本人の英語の不自然さを、日本語での違和感として教えてくれる。これはありがたい。例えば、「明治大学」を英語でどう書く?

     a) Meiji University
     b) University of Meiji

 大学名の英称なんて「決めごと」だから、どちらでもいいというわけではく、正解は a) だそうな。「University of ○○」の大学があるから、b) でもよさそうなのだが、この of は属性的な関係を表すため、○○には具体的に実在する地名が入る。「明治」は形容的につけられた単なる「名」にすぎないから、不適切だという。その違和感をあらわすなら、b) は「明治な大学」になるそうな。

 「英語の本質がわかると言っても過言ではない」と絶賛されているのは、著者の長い日本語生活のなかで、「この英文で彼・彼女は何を言いたいのか?」を先回りできるようになったから。少なくともわたしには、復習以上の「気づき」が得られたが、学生のときに読んどきゃよかった…と反省しきり。

 薄いのに濃い一冊。

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【微グロ注意】 カニバリストの告白

カニバリストの告白 食人が忌み嫌われる理由の一つに、その調理方法がある。

 「八仙飯店之人肉饅頭」を観ていたとき、そう思った。料理人が発作的にkろした女の処理に困ってミンチ→肉まん→(゚Д゚)ウマー(捜査にきた警察も喜喜!)。

 そもそも、そんなチャンス(?)は、遭難して食料が尽きたときとか、食人族のお宅に招かれたときしかない。だから、まともに調理していない生焼け・腐肉だったり、見た目まんまのグロテスクだったり。解体・調理の場所と食事処が物理的に近しいのも輪をかけている。タブー云々の前に、嫌でしょ、そんなの、たとえ「猿の肉」と偽られても。

 食物連鎖を上るほど、旨いものになる。オキアミ→ニシン→マグロの順で美味しいからね。結果、マグロを食ってるヒトのほうが一番旨いはず。開高健が「松本清張の下唇、ニコチンが染みてホロ苦い旨さだろうな」と語ったことがあるが、そのときの調理法は確か、「炙り焼き+岩塩」だったような気が。

 では、超一流のシェフなら?

 否が応でも期待が高まる。題名は「カニバリストの告白」だし、表紙をみろよ、「うまそう」な骨付き肉だろ? 実際、告白体というか手記の形で語られる天才シェフの半生は、そのまま上質のミステリになっている。

 その人を食ったユーモアたっぷりな「語り」に、ニヤニヤが止まらない。彼のレシピが折々に挿入されており、最初、読者はヨダレを垂らすだろうが、そのうち生唾が酸っぱくなってくる仕掛け。究極のレシピを追求する数奇な運命をたどるうち、読者は「表紙」を見返したくなる誘惑に幾度も駆られるだろう。

 ただし、「劇薬小説ベスト」で鍛えている、このblogの読者サマにはモノ足りないかと。いっぽう、ネットで評判を漁ると、「下品」「狂ってる」「吐き気を催す」という良識的なご意見が沢山おじゃる。やっぱり常識人からすると、ちょいと背伸びが必要かも。

 食べることは理解すること――ふつう異文化理解に使われる言い回しが、読了後は真の意味で「腑におちる」一冊。

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人により猛毒「イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ」

イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ 「オマエモナー」的に読んで、キツい思いをしよう。

 最初は「死」について、次は「性愛」について、この2編はあなたの試金石になるだろう。どれだけ自分のモノにしているかによって、衝撃がまるで違ってくるから。

 これをトルストイの昔話のつもりで、他人事として読んだら、くらだないし第一もったいない。「死の葛藤」とか「夫婦愛とは?」と陳腐化しちゃうから。「人生が空っぽだったことに気づいた男の惨めな死にざま」とか、「嫉妬に狂って妻を刺し殺しちゃう悔恨」は、他でもない自分ごととして受け止めるべし。

■ イワン・イリイチの死

 まずは、病気で死ぬ男の話。

 成功人生を送ってきたが、病を得、どんどん篤くなっていく。家族の冷淡な様子や、ひとりぼっちで惨めな思い、そして、自分の人生がまったくの無駄であったことを徹底的に思い知らされるところなんて、自分に重ねなきゃ。

 恐れ、拒絶、戦い、怒り、取引、抑うつ、そして受容といった典型的な(?)段階を経ながら、死と向かい合う心理的葛藤を容赦なく暴きたてる。死とは他人にだけ起きる事件だとタカくくっていた順番がまわってきたとき、どういう態度をとるのか。否が応でも「自分の番」を考えさせられる。

 気楽・快適・上品――健康だった頃の価値尺度は、そのまま彼の人生の虚構度合いを示している。他者との精神的なかかわりを避け、自分の人生を生きてこなかった彼が、死を自覚することで、ムリヤリ向き合わされる。そして、もう、とりかえしはつかない。

 これは怖いぜ。ここらなんて特に。

なぜ、何のためにこんな恐ろしい目にあうのか、と。
だが、いくら考えても答えは見出せなかった。そしてよくあるように、なにもかも自分が間違った生き方をしてきたせいで生じたことなんだという考えが頭をよぎると、彼は即座に自分の人生の正しさをくまなく思い出して、その奇妙な考えを追い払うのだった。
 ヒトゴトとして読んでいる方は、彼の友人と一緒。通夜で神妙な顔をしながらも、カードゲームのことをそわそわと考えて、「ほかでもないその死が自分にふりかからなくてよかった!」と安堵することと一緒なんだ。

 そう、これはどれだけ「自分の死」=「生」を考えているかのリトマス紙でもあるんだ。これ読んでも自覚できない奴にゃ、次の言葉がふさわしい→「志村ー!後ろー!」w…ちと古かったかもしれんが、死はそこにいるよ

■ クロイツェル・ソナタ

 次は、妻殺しの話。

 これもヨソゴト、夫婦喧嘩は何とやら、と捉えたら、もったいないお化けが出るよ。トルストイがスゴいのは、誰かの人生を稠密に描いているくせに、その心情がとても一般的なところ。ヨソの人の話なのに、自分のことをズバリ言い当てられているような共感を呼ぶから。

 だから、嫉妬に狂って妻を刺した、なんて昼メロちっくな題材なのに、告白する男の苦悩が痛いほどわかる(刺した後ではなく、刺す前のね)。いや、わたしは嫁さん殺そうなんて思ってないよ、嫉妬することはあっても。それでも、彼とはどこかでつながっている、そんな感覚がまとわりつく。

 もちろん、この男、ちょっと歪んでいる。男女関係の全てを性衝動や支配/服従の問題に還元したり、妻と売春婦の違いは、長期か短期にすぎないとか、求婚とは女性という肉奴隷をめぐる市場取引だーなんて、どこのレヴィ=ストロースじゃwwwとツッコミ入れたくなる。

 それでも、彼が語る夫婦の背信や嫉妬、憎しみは、偶然の現象でもなければ彼の夫婦固有のことでもない。もっと一般的な理由だ。結婚のときは「愛」を声高に叫ぶくせに、いざ一緒になると、やれ生活費だ趣味がどうのと口をはさみ、子ができたら大騒ぎして「あなたは私の苦労を知らない」「おまえこそ何だ」と罵りあう。それどこの我が家wwwと笑えたら救われるのだが、かわいそうに、有史以前からの現実を、この夫婦は知らない。

 性欲と責任が一体化しているのが、結婚制度。抽象的な「愛」と具体的な「あれ」にはさまれているのが、結婚生活。キリスト教が説く純潔や隣人愛の精神と、性愛関係・財産・家系・種の存続のための結婚制度、両者のズレに挟まれて、男は引き裂かれる。

 このズレが根本的な原因であり、夫婦間のさまざまな問題は結果にすぎない。キレイゴトぬかすな、と男はいう。ささいなことで罵りあい、憎しみ合い、大騒ぎしたあと性交して一時休戦する。憎しみと肉欲を行ったりきたりする矛盾。

 ほとんどの夫婦が「なんとなく」解決しようとする偽善を、この男は率直に追及する。嫉妬の感情に自分でガソリンをぶちまける様子、そしてクライマックス!途中まで共感半分、恐ろしさ半分だったのが、ラストのラストでおいていかれる。

 そして、こちら側とあちら側の間に、隔たりなんてないことに気づくんだ。

 自分を重ねて読んでみよう。怖いデ。

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悪用厳禁!「プロパガンダ」

プロパガンダ 「だまされた」と思わせずに大衆を騙すテクニックがわんさと紹介されている。

 広告・政治宣伝のからくりを見抜くスゴ本。コマーシャルで衝動買いしたり、連呼されるワンフレーズ・ポリティクスに洗脳されることはなくなるだろう。マスメディアの欺瞞を意識している方なら自明のことばかりかもしれないが、それでも、ここまで網羅され研究し尽くされているものはない。

 もちろん、チャルディーニの「影響力の武器」と激しくカブってる。その研究成果が幾度も引用されており、暗黙のお返しを求める返報性の罠や、小さなものから大きなコミットメントを求める一貫性の自縄自縛のテクニックなんて、そのまんまだ。

 しかし、破壊力が違う。「影響力の武器」を一言であらわすならば、「相手にYesといわせる」ことを目的としているが、本書はそれに加えて「相手を説得し、積極的に賛同させる」ことがテーマなのだ。さらに、一人ふたりではなく、大衆レベルで実現しようとしている。あたかも自分自身の考えであるかのように、自発的に受け入れるように仕向けるテクニックが「プロパガンダ」なのだ。

 誉め言葉としては最悪かもしれないが、ナチスやカルトを興すノウハウが沢山ある。

 ここでは、その一部を我流に解釈してご紹介。広告や政治家に騙されないことを目的としている本だが、それに限らず、自分の営業活動に応用したり、モテるテクニックとして悪用(?)も可能だ。

 例によって長くなりすぎた。見出しは次の通り。

  1 ラッ○ンの絵を売るキレイなおねえさん
  2 ヒューリスティックによる騙しのテクニック
  3 操作される欲望「自己イメージ法」
  4 某大型電気店の「ローボール・テクニック」
  5 騙されないための3つの質問
  6 おまけ : カルトの教祖になるための7つの方法

■1 ラッ○ンの絵を売るキレイなおねえさん

 説得手法を一つ一つ見ていったらキリがない。格好のエピソードがあるので、そいつをご紹介しよう。

 本書に出てくる強力な説得手法を見ていくうちに、「あること」に気づいた。それは、わたし自身、この説得に出会っているということだ。もちろんテレビコマーシャルやPR戦略といったマスメディア向けのもあるが、もっと個人的な意味で。まだキャッチセールスが一般用語でなかった頃の話だ。

 本書のコトバを使うなら、

   ・返報性の規範
   ・一貫性の罠
   ・罪悪感に訴える
   ・自己イメージ法
   ・希少性を強調する
   ・ドア・イン・ザ・フット・テクニック
   ・セックスアピールを利用する

 が、ほぼ完全な形で使われていたね。このセールスシナリオを書いた奴は、本書を読んでいたに違いない。

 「ラッ○ンの絵に興味ありますか?」とキャッチされ、そのまま連れ込まれた先は、広いフロアを幾重にも区切ったブースの一つだった。季節はずれのボディコン服に目を奪われたことは秘密だ。

 最初は、「アンケートにお答えいただきます」だった。趣味や年代、どういう絵に興味があるかといった、あたりさわりのない質問に答えていった。そして、アンケートに答えた報酬として、ラッ○ンのマウスパッドをもらった。

 で、次はそのアンケートを用いて質問・プレゼンタイムになった。焦点は、「わたしが何に興味を持っているか」や「わたしはどんな性格か」だった。絵を売りつけられるのかしらん、とビクビクしていたので、ちょっと安心したことを覚えている。

 さらに、「こういった絵はどうお感じになりますか?」と、いくつか絵の評価を求められるようになった。あれこれ好き勝手しゃべった。自分のことを聞いてくれるのは気持ちがいいもんだ。よいと思った絵を選び、どういった点がよいと思ったかを質問されたね。

 それが、いつのまにか、「その絵を買うとすると…」という話になっていた。その絵はとても希少性があり、かつ高価なのだが、会員(年会費無料)になると特別価格になるという。さっきの「アンケート用紙」はいつの間にやら「申込用紙」になっており、あとは自分の名前を住所を書くだけとなっている。

 後知恵になるが、今にして思い返すと、この時点で「一貫性の罠」に陥っていたんだね。アンケート→質問→評価と段階を追うにつれて、コミットメントをくりかえしたのだから。「わたしはこんな性格で、こんな絵が好き。だから、そいつを買う」の一つ一つにYes,Yes,Yes,と答えていったのだから。

 さらに、マウスパッドをもらっているのでいまさら断りにくいというのもある。「返報性の規範」だ。返そうとしても笑顔で、「プレゼントですから」と返される。ノベルティ恐るべし。そういやコーヒーも飲ませてもらったっけ。どれくらい時間がたったのか…2時間!? そんなに!

 まだある。最初に高い値段でふっかけた後、ぐっと値を下げるやり方は「ドア・イン・ザ・フット・テクニック」。最初の提案は断られるのを承知で、次の価格が本命なのだ。敷居が下がったので妥協しやすくなるのと、最初の提案を断ったという罪悪感に訴えることができる二重の罠だね。

 結論から言うと、サインはしなかった。断ることがこんなに大変だったのは、おねえさんに対する罪悪感(大事な時間を遣ってしまった)ことだけでなく、自己イメージを覆すような決定を下したからなんだね。おねえさんが絵を売るのは仕事だから、断るのはこちらの勝手。むしろ、最初に言っていた「○○が好きな自分」とは別の決定をしたことで、自己一貫性を損なっている感覚が辛かったのではないかと。

■2 ヒューリスティックによる騙しのテクニック

 第16節「パッケージ」に、ヒューリスティックによる騙しのテクニックがある。

 ヒューリスティック(heuristic)とは、課題解決の際に用いられる単純な手がかり、もしくはルールのこと。例えば、シリアル食品を選ぶ際、母親は「栄養」が手がかりとなり、子どもは「おまけ」がそれに相当する。

 情報量が莫大で、選択肢も有り余るほどなので、意思決定のための時間なり労力がほとんどなくなってしまっている。そのため、「栄養」「おまけ」「プレゼント」といった、その商品の判断基準を設け、それにしたがって決定するやり方が有効だ…というよりも、無意識的にこれをやっている。

 著者によると、ヒューリスティックは容易に捏造したり操作したりすることが可能だという。シリアル食品の箱は、健康的に見えるようデザインを変更できるし、芸人の動きに合わせて笑い声やスーパーを挿入することもできる。政治家は効果的な身振り手振りをさりげなく出せるようイヤホンを通じて指示を受けることができる。容貌は、メーキャップや整形手術によって改善可能だ――シリアル、芸人、政治家の本質とは無関係に。

 自己啓発書で「成功するための服装術」とか「好感を持たれる話し方」があるのは、適切な印象を与えるための正しい服装があるから。人は見た目が十割だったり、第一印象が全てを決定するのは、ヒューリスティックの説得がいつまでも続くから。

 つまり、自分の意思如何にかかわらず、それっぽい格好と言動を身につけることにより、外見の鎧をまとうことができる。そんなのあたりまえだって? これを意識することで、騙しを「加速」させることができる。騙す相手によって、自分のパッケージを決めるわけ。詐欺師の常套やね。

 注意して欲しいのは、それらしい格好をすればいい、ということではない。「それらしい」と判断されるポイントは、変わらないということ。シリアルを選ぶ判断ポイントが「栄養」である人は、ずっと「栄養」で選び続けるし、服装で判断する人はずっと「服装」がヒューリスティックになる。

 たとえそれが間違っていることが分かったとしても、変えないんだ。「○○政策を重視しているから」「ハト派だから」で選んだ政治家が期待を裏切ったとき、別の人に投票するかもしれないが、判断ポイントは変えない。ヒューリスティックを疑い、「その判断ポイントはそもそも適切だったのかしら」なんて思わないからね。

■3 操作される欲望「自己イメージ法」

 第17節 「自分を納得させる」には、自己イメージ法が紹介されている。

 「影響力の武器」にもあるが、要するに、自分でメリットを考えさせるやり方だ。例えば、ケーブルテレビの契約を取り付ける話がでてくる。「ケーブルテレビを導入したら、どんな番組を見たいか、少しの間、想像してみる」や、「自分だったらケーブルテレビの利点をどのように使い、どう楽しむかを考えてみる」ことにより、契約書にサインするように説得させる技術だ。クルマの代理店でも聞くよね、「どんな利用シーンをイメージしますか?」とか。

 これは商品を売りつけるやり方に限らない。モテ・テクで言うなら、「彼のどこがいいところ?」というやつだろう。付き合おうか迷っている彼女に、第三者がこの質問を投げると、あれこれ好感ポイントやメリットを挙げた挙句、「付き合う」を選ぶだろう。自分で判断しているとはいえ、「いいところ」を考え出しているのは自分自身なのだから、そいつを否定するのは、ほぼ不可能だ。

 自分に好感を持ってもらうときにも使える。こんな風に――わたし(Dain)にとって、お近づきになりたい彼女がいるとしよう。お互い顔見知り程度で、もう一歩進めたいときに使うテクニックだ。友達の協力が必要だが、お近づきになりたい彼女に対し、こう言ってもらうんだ。「Dainとは知り合いでしょ? あいつのいいところってどんなところ?」ってね。

 ひょっとすると、よく知らないから…とかわされるかもしれない。そのときは「ほら、オレはDainと友達なんだけれど、あんまり知り合っていないあなたの目から見た"いいところ"を知りたいんだ」、ブラインド・ミーティングの紹介文を書かなければならないからとかなんとかと言い包める。そして、ムリヤリにでも"いいところ"を考えてもらう。

 その"いいところ"だと彼女が思うイメージ(やさしそうな、意志が強そうな、物静かな、○○が得意そうな、親しみやすそうなetc...)こそ、彼女の自己イメージになる。彼女が男性を選ぶときのヒューリスティックになっていることも念頭に入れて、そこを強調するような行動すればさらに効果的。友達を介せず、自分を「道化」化してもいいなら、自分で「ボクのいいところって分からない、教えて」とアタックしてもいい。

■4 某大型電気店の「ローボール・テクニック」

 これは「つい買ってしまった」話。

 ハードディスク内蔵のビデオカメラを買うために、ネットや電気店をあちこち見てまわっていたとき、この「ローボール(lowball)・テクニック」に出会った。もちろん、そのときはこの名前も知らないし、そもそも自分が説得されているとも思わなかった。

 つまりこうだ。

 某大型電気店を訪れたとき、お目当ての製品の値段リストを持っていた。ネットショップなら○円、競合店なら○円といった一覧表を作ってたわけ。この表を作るのに、どえらい苦労をかけた。価格.comも便利だけれど、アフターサービスやポイント特典は一つ一つ調べなければならない。リアル店舗も負けじと特典をつけてくるので、リストはどんどん長くなっていた。

 で、交渉に入ったわけ。

 もちろんこちらはリストを見せて、「ヨドバシさんなら○円で、しかも特典つけてくれる」とか言うわけ。販売員さんは電卓たたいたり、「ちょっと訊いてきます」と席をはずしたりしているんだ。年度末だったので、かなり有利だと思ってたわけ。

 そして、思ったとおり、最安値+特典つきで決着した。やったねって思ったね。

 お決まりの保障契約書の記入といった手続きを済ませ、いざ支払い。店員さんにカードを渡して、ボーっと待っていた。商品はすでに手元にあって、入園式までに使いこなせるように、今日は練習だなーなどと思いをめぐらしてた。

 そしたら、申し訳なさそうな顔で店員さんが戻ってくる。値引きの計算違いをしていて、店長にそれを指摘されたというのだ。特典はそのままなのだが、価格は競争店より少し上回るそうな。

 そりゃ、えーッという気分になるわな。もちろん「買うのやめます」というのはできるが、あとはもう持って帰るだけなのを、チャラにしなければならない。契約書も書いているから、買う気マンマンというより、もう買った気分でいる。なんてこった…

 本書によると、このとき起こっていることは、次の3つがポイントだという。まず、購入しようという決定は変更可能だが、「記入する」という行為や「カードを渡す」ことで、コミットメントが強まっている。次に、このコミットメントによって、カメラを使うという楽しい期待が本物になろうとしている。取引を中止してこの期待を放棄したら、おおいに失望することになる。最後に、示された価格は高いものであるが、べらぼうに高いわけではない。そして、

こんな場合、おそらく客は次のように考えるだろう。「なんてこった。でも、せっかくここまでやって来て、いろいろ書類に書き込んだしなぁ…何もまた他に店に回らなくても…」
コミットメントはコミットメントを再生産する。すなわち、小さなコミットメントをしてしまうと、それがさらなるコミットメントを行う状況を作ってしまう。最初の行動を正当化しなくてはならないために、態度が変化する。そしてこの態度変化が、将来の決定や行動に影響を及ぼす。
 もちろん、著者の指摘どおりの行動をとった。すなわち、その店で買ったわけだ(リストまで作って検討したにもかかわらず!)。値段が安い店を最優先するつもりで作ったのに、どうしてあんな行動をとったか、今なら分かる。

 たかが電化製品の購入と笑うなかれ。本書にはその応用編として、割の合わないビジネス戦略を採り続ける企業の話や、多数の犠牲者を出しながら、なんら現実的な目的のない戦争を続ける某国の例が出てくる。コミットメントか積み重ねることで、最初の意図とは異なる決定を下す。陰謀説にした方が気楽なんだけど、実際はそうじゃない。「ボタンのかけちがい」は、悲劇の理由の比喩としては、あまりにも無神経だ。

北爆は北ベトナムの民衆の戦意を喪失させることなく、むしろ高める結果にしかならないという決定的な証拠があったにもかかわらず、参謀本部は北爆の続行強化を決定した。北爆を激化させるという意見が参謀本部で強かったのは、すでになされた決定と一致していたためでしかなかったからだと、結論づけられている。言い換えると、戦争に対するそれまでの投資について生じた自らの不協和を低減するために、参謀本部は戦争をエスカレートさせたのである。
 誰だって嘘はつきたくないが、自己正当化の罠は自分自身をもハメる強力な「武器」であることを、お忘れなきよう。

■5 騙されないための3つの質問

 ナチスの宣伝大臣ゲッベルスは、プロパガンダの力をよく理解し、こう主張していた。

   大衆は、最も慣れ親しんでいる情報を真実と呼ぶのである

 そのため、プロパガンダは単純で明瞭な言葉をくりかえすことで世論に影響を与えようとした(そして大成功だった)。うすうす身構えていたのだが、本書を読んでからはもっと強く意識するようになった。政治家やニュースキャスターの口から簡単なフレーズがくりかえされるとき、気をつけるのではなく、警戒するようになったのだ。

 商品名の連呼やワンフレーズ・ポリティクスといった、「分かりやすい」説得手段なら、まだ体制を整えることができる。

 では、「返報性の規範」や「一貫性の罠」、あるいは「罪悪感に訴える」といった分かりにくい搦め手できたときは、どうすればよいか? あるいは、説得の技法で攻撃されていることが分かりつつも逃げづらいときは、どうすればよいのか?

 本書に示されるような説得の技法を学ぶことで、騙されなくなるのかというと、実際のところ、それだけでは足りない。説得の技法から免れていると思うことと、実際に免れていることは違うからだ。

 例えば子どもにCMの話をしてやればいい。テレビで商品名を連呼しているのは、覚えてほしいからだとか、○○を食べるとパワフルにシュートを決められるのは何の関係もないとか。広告のしくみや目的を教えることで、子どもたちは広告に対して懐疑的になるかもしれない。しかし、だからといって広告に出てくる商品を買いたくなる気持ちが弱まるかというと、そんなワケなかろう。騙そうとしているのを承知で、わたしたちは買っているのだ。

 騙されないためのテクニックがいくつか紹介されているが、ここではその一つ、「悪魔の唱道者役を演じる」をご紹介。説得する意図がはっきりしており、決定が下されていない場合に有効なやり方だそうな。相手側、すなわち説得者になりきって、この説得コミュニケーションを診断する。

  1. 説得する側は、何を得るのか
  2. なぜ、こうした選択肢がこのような形でわたしに示されているのか。他の選択肢はあるのか、選択肢を提示する別の方法はあるのか
  3. 提示されている選択肢以外の選択肢を選ぶと、何が起こるのか。別の選択肢を支持する論点は何か
 この質問を吟味し自答することで、説得されやすさに歯止めをかけ、説得の真の意図を見ようという姿勢が生まれてくる。仮に某政党が看板としてキムラタクヤを起用するなら、アピール先の支持基盤がウィークポイントだと分かるからね。あるいは、オレオレ詐欺を水際で止めることが不可能なのは、「一貫性の罠」にハマってしまっているから。すでにコミットした自分の行動・考えを覆そうとするとき、強い苦痛に見舞われるはずだ。そいつを飲み込んだ上で応対しない限り、「行員がとめるのも聞かずに振り込む」被害者は増え続けるだろう。騙そうとする側、騙される側の心の動きが手に取るように分かってきて、正直恐ろしい。

 かつて、「悪のマニュアル」という犯罪の手引書があった。窃盗から殺人までイラスト入りで分かりやすく解説してあって、誰でも始められそうな敷居の低さだった。こういう本があるから、犯罪が増えるのか、犯罪を防ぐために本が必要なのか、分からなくなってくる。

 そう、本書だって一緒。「説得の技術を紹介することで、その真の目的を暴き、騙されないようにする」ことを目的とした本なのだが、ここまで微に入り細を穿つ書き口なので、逆に、こいつを悪用しだす奴が出てくるのではないかと心配になってくる。

■6 おまけ : カルトの教祖になるための7つの方法

 リストだけ引用。第35節には詳細な解説がなされている。まさに悪用厳禁やね。

  1. あなたの社会的真実を作りなさい
  2. グランファルーンを作りなさい
  3. 不協和の低減を用いてコミットメントを引き出しなさい
  4. 教祖の信頼性と魅力を確立しなさい
  5. 未救済者を転向させるために信者を送り出しなさい
  6. 信者たちを「好ましくない」考えから遠ざけなさい
  7. 信者の視野を幻に集中させなさい

影響力の武器 最後に。本書と、「影響力の武器」の両方を読めば、説得に関するほぼ全てのテクニックを効率的に身につけることができる。

 くれぐれも、悪用なさらぬよう。

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エロゲにエロが必要な理由をKanonを使って証明する(ソース俺)

 もうすぐ不惑だというのに、もう10年前の作品なのに。

 何回も何回も泣かされる。

 ゲームで、ノヴェルで、同人で、アニメ(顎)で、アニメ(京アニ)で、幾度も幾度も、消え往く少女たちを見送っては哀しみの涙を流し、取り戻した過去を一緒に喜び合っては涙を流す。悲しくても嬉しくても泣ける、かわった作品だ。

 いまもBSで京アニ版をやっている。こないだは真琴エンドで、いま舞シナリオ。

 もうね、号泣ですよ。前フリも伏線も展開も全部把握しているのに。あの鈴が「チリン」と落ちる音がいつまでも耳の奥に残っていて、ふとしたはずみで思い出して、じわ~っと目頭が熱くなる。

 これね、病気ですよ。嫁さんも子どももローン様も抱えているエエトシこいたオッサンがするようなことじゃない。まだプリキュアなら「キモッ」で許されるかもしれないが、これはどう見ても狂っている(ちなみに、京アニKanonは初見ではない)。

 そこでね、考えてみたワケなんですよ。どうしてKanonだけこうなのかなって。ボロボロ泣いたやつって結構あって、Kanonのほかには「AIR」とか「君が望む永遠」、「家族計画」あたりがそう。最近だったら「CROSS†CHANNEL」、これは爆泣きした。

 でね、気づいたんよ。今はもう泣かなくなった作品って、18禁バージョンをプレイしていることに。

 世の中って面白くって、エロゲなのに、「エロ抜き」、つまり全年齢推奨版というのがあるんだ。えっちなシーンをカットして朝チュンにしたり、最初からそんなそぶりすら入ってないバージョンがあるんよ。

 で、今でも泣いているのは、「エロ抜きバージョン」をプレイした奴に限定されていることに、気づいたんよ。つまり、play中は泣くんだけれど、エロ有バージョンだと、ラス前で犯っちゃうんで、感情移入が途切れるの。出すもの出した後、客体像として冷静に見ちゃうわけ。

 それぞれのシナリオの彼女たちに恋をして、そのラストがエロで締めていたならば、いわゆる恋が成就したといえる。物語の主人公と行為する彼女を見ながら、自分も擬似行為をすればいい。これこそ正しいエロゲの使い方だろうし。

 しかし、そのエロがないままだったら?

 いつまでたってもその恋は、終わらせられないでいるんだ。物語だから、主人公との関係は一応の決着がつくだろうが、その主人公の影として会話をし、感情を費やし、選択肢を決めてきた「わたし」はどうなる? 物語は終わってしまっているのだから、彼女たちは永遠に高校2年生のままだ。もう10年ちかくなるのに、名雪への思慕は、いつまでたっても片想いのまま。

 こうして、この恋は終わらせることも進めることもできず、わたしの心は宙吊りにされたまま、「名前をつけて保存」されることになる。真の恋愛とは片思いだという。だから、この成就できない想いこそ、恋と呼ぶにふさわしいのだろう(カッコ付きかもしれないが、な)。

 だから、エロが必要なんだ。

 どんな形であれ、思いを遂げなければ、慕いを終わらせることができない。これは二次でも3Dでもリアルでも一緒。なんらかの形で決着をつけない限り、この片思いはいつでもロードされる。エロゲにエロが必要なのは、その世界から覚めるためのスイッチみたいなものだから。その「恋」を上書きで保存するために必要不可欠なんだ。そして、エロのおかげで、このゲームをやり始めた目的を思い出すことができるんだ。

 あ、だからといって、「トドメを刺すために、名雪の触手陵辱絵をドゾ~」なんてURLで誘ってはダメよ。

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ボクらは魚を、待っている 「銀むつクライシス」

銀むつクライシス ミステリの謎解きと、手に汗にぎる追跡劇、そして、どんでん返しの法廷モノ。

 これらが一体化しているノンフィクション。カネを生む魚がどのように「マーケティング」され、乱獲され、壊滅していくのかが、銀むつ(マゼランアイナメ)を通じてよく見える。

 南極海を逃げる密漁船と、追うオーストラリア巡視船。緊迫したシー・チェイスを偶数章に、莫大な富を生む銀むつをめぐる市場の事情を奇数章に、交互に重ねるように配置している。読み手は順番に読むことで、密漁船の正体と目的、そして、その背後のビック・ビジネスがだんだん分かるような仕掛けになっている。

 さらに読者は、ラストの法廷シーンでは、やるせな思いを抱くことになるだろう。それは、想像を超える「意外な結末」からではなく、当事者それぞれの事情や思いを分かったことにより、困惑するだろうから。

 そう、思惑はそれぞれ違う。

 密漁者にとっては、一様に見える海に線引きをし、既得権益を護ろうとする保護主義は敵そのものだ。漁業は生活の手段であり、投資の回収手段でもある。いっぽう、追いかける巡視船にとっては、奴らは泥棒であり、海洋法の隙間をくぐりぬけて違法操業している連中だ。そして、いざ捕まえるとなると、自国の規制に100パーセント従わなければならない、やっかいな存在だ。

 さらに、輸入業者にとっては、魅力的な商品名(チリ・シーバス)を付け、手を尽くして人気者に仕立てる「戦略的食材」であり、大事な商売道具だ。乱獲で品薄になるのなら、代替品を探さなければならない。アメリカの一流シェフにとっては、脂がたっぷりのった、どんな料理・味付けにも合うパーフェクト・フィッシュである。そのいっぽうで、環境破壊のレッテルを貼られるのはぜひとも避けたい(「Save Tuna」の例もある)。

 そして、そこには、わたしも入ってくる。「旨いものを安く食べたい」――飽くなき食への欲望が地球の果てまでめぐっていることを、確かに感じる。皿の上に料理された魚しか知らないのであれば、密漁と偽装が横行している現実を知ってたまげるだろう。カッコ付の「国産」ウナギや、「シシャモ」の本名は知っていたが、まさかここまでとは…

 海の奥底までまかり通る市場原理は、獲り尽くし、喰い尽すまで続くのか。考えさせられるというより、暗澹たる思いにおおわれる一冊。

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