フリーマン・ダイソンの知的な挑発「叛逆としての科学」
天才科学者といえば独善的な性格が浮かぶが、フリーマン・ダイソンはおよそかけ離れている。独善的な思想は無用とばかりに、物事の多面性や中庸、相補性を重視する。あまり「科学者」っぽくない。
「科学に関して、唯一無二のビジョンなどというものはない」とするダイソンは、還元主義の偏見にとらわれた大物――アインシュタインやオッペンハイマー――を容赦なく批判する。統一理論がどれだけ「現実性」を持つのかは、わたしの不勉強のせいでなんともいえないが、その晩年、統一理論に拘泥したアインシュタインの呪いは、よく分かった。
統一理論のようなもので科学を研究し尽くせない――ダイソンはその理由を、ゲーデルの不完全性定理で説明する(p.198)。ある体系上で、有限の公式を使って演算をする場合に、決定不可能な命題が必ず存在する。すなわち、それらの公式を使って真偽を証明できない数学的な命題が、必ず存在するのだ。つまり、どんなに数多く問題を解いたとしても、既存の公式では解けない問題が、常に存在するのだ。
そこで私は、ゲーデルの定理がある以上、物理学もまた研究し尽くせない、と主張する。物理学の法則は、一組の有限の公式であり、数学的演算の公式もそこに含まれるから、ゲーデルの定理は物理学の法則にもあてはまるのだ。物理学の基本方程式の範囲内でさえ、私たちの知識がつねに不完全であることをゲーデルの定理は意味している
多様性を認める態度はレビューにもあらわれている。初出は New York Review of Books なのだが、読者からの批判・意見に応じ、本書に収録する際に改変・削除を行っている。反対意見も受け入れるフトコロの大きさに惚れた。幅広い知見やバランス感覚だけでなく、事実に対して率直であろうとする姿勢に好感がもてる。
しかし、優れた物理学者が必ずしも良きレビューアーであるとは限らない。先端科学がもたらす未来像を、マイケル・クライトンの「プレイ」やネビル・シュート「渚にて」を用いて検証しているのだが、これがいただけない。ストーリーの全てを(オチも含めて)説明しきっているからだ。しかも御丁寧に、殺人ナノマシンの致命的な欠陥を物理学的根拠でもって指摘したり、核戦争による放射能汚染は限定的・局地的なものになる理由を解説したり、未読の方の読む気をくじくようなサービスっぷり。
この、読み手を挑発するような思考は、本書のあちこちに出てくる。こんな調子で、「良いナチス、悪いナチス」の話や、科学と宗教の位置づけ、テレパシーが科学的に研究できない理由について縦横無尽に語りつくす。賛否はともかく、頭ン中をかき回されている気分になる。
賛否はともかく、知的に挑発されたい方にオススメ。

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