「アブサロム、アブサロム!」はスゴ本
どろり濃厚なミステリとして読んだ、2008年のNo.1スゴ本。
ただし、最近のエンターテインメントに甘やかされた読者には、ちと辛いかも。物語は複数の語り手の視線によってさらされ、吟味されているのだから。ストーリー消化率を向上させるための「何でも知ってる説明役」は一切ない。たとえ三人称であってもだまされるなかれ。聞き手の内省であったり対話(!)だったりするのだから。
本書を「難解」呼ばわりする人は、「結局ナニがどうなったの?」を把握することこそが、小説を読むことだと思い込んでいる。傑作を「あらすじ」で読んだつもりにしたいのなら、p.439の「年譜」を見るといい。著者フォークナーによって、いつ、誰が、何したかが時系列になっているから(この3ページで読んだフリできるぜ)。ただし、これは完全なネタバレ。恐ろしい出来事、おぞましい運命が淡々と書かれているのがまた怖い。人物系譜も巻末にあるが、これも激しくネタバレ。
しかし、「ナニがどうなった」が分かっても、謎のまま残されるものがある。書き手が巧妙に隠したもの、それは、「なぜ?」だ。なぜ彼は殺されたのか? なぜ悪魔ごとく恐れられたのか? そもそも、すべての発端となる巨大な荘園を、一体なぜ築こうとしたのか? それぞれの「なぜ?」に対し、語り手たちは独自の解釈を与える。これまた三人称で書いてあっても真実ではない(だまされるなかれ)。
この「なぜ?」を読み解くことが、小説の醍醐味だろう。入れ子状になった語り手と、語り手自身が別の語り辺のなかで登場人物として動き回っているので、誰が、何の話をしているのかが入り乱れてくる。ちょっとこの「一文」をみてほしい。
だからおそらく彼はあの黄昏どきにあの庭をジューディスと散歩していたとき、慇懃に優雅にうわのそらで彼女と話しながら(ジューディスはあの夏初めてキスされたときのことを思い出して<これでおしまいだわ。恋なんてこれだけのことなんだわ>と思いながら、またしても失望にうちひしがれたが、それでもまだ屈服してはいなかった)彼は待っていたのだ(彼はサトペンが戻ってきて家にいることを知っていた。おそらく彼はなにやら風のような、暗い冷たいそよぎを感じて立ちどまり、<なんだ? あれはなんだ?>と思いながら真顔になってじっと油断なくかまえたことだろうが、そのとき知ったのだ、サトペンが屋敷へ入るのを感じたのだ。そこで彼はいままでとめていた息を、静かに、ほっとして深々と吐きだしたことだろう。彼の心も平静だったことだろう)──おそらく彼はそのときあそこで待っていたのだ。
むきーっ、長いよね。「彼」ってどの彼だよっと言いたくなるよね。長いし分かりにくいけれど、これで一文。でもって、構成はこんな感じ…
(´-`) .。oO( (´-`).。oO((´-`)) (´-`) )Oo。. (´-`)
シュリーヴ ボン サトペン ジューディス クウェンティン
- 地の文はシュリーヴとクウェンティンの会話(この文の外側の入れ子)
- 地の文で、シュリーヴ→クウェンティンに「語って」いるところだけれど、クウェンティンも知ってる話。つまり、ふたりで一つの話を「思い出している」のがホント(ただし、二人ともその場に居合わせていない。二人が生まれる前の話を、思い出している)
- 語りの舞台にいるのはボンとジューディス。でもボンは上の空(サトペンのことを考えている)。ジューディスも「恋ってこんなもんか」と失望していながらも、彼と歩をあわせている
- 語りの舞台の外から、この光景を見ている人物がいる。サトペン、ローザ、そしてヘンリーだ。それぞれの独白・告白・伝聞にて、この光景がは各人の立場で語られるが、どの「説明」も正しい
しかも、同じ描写、同じシーンが、微妙に異なる言葉・視点でくりかえし述べられている。ジグソーパズルを外側から埋めていくように、行きつ戻りつ文字通り「繰言」がくりかえされるのだ。
さらに、先ほどまで聞き手だった者が、次は語り手となって地の文に参入してくる。過去へ過去へと遡るうちに、反対に過去が追いかけてくる気になってくる。複数の語り手のそれぞれの声・口調がポリフォニックに聴こえるかもしれないが、その言い回しがだんだん一様になってくる。時と場を超えて、みなの語りが「似てくる」のだ(おそらく意図的)。そのため、一族の歴史を物語としてくりかえし聞かされているかのような錯覚に陥る。
あたかも、真っ暗な舞台を見ていて、語り手がそれぞれ別々のライトを手にしているかのようだ。ここぞという場面でライトを照らす。語り手はライトを手にしながら、舞台で起きていることを説明する。時がたち、語り終えた者はライトを消して舞台に上がり、別の語り手のライトに照らされる。
このとき、舞台を見、語りを聞いているのは「あなた」でもなく、「ワトソン君」のような客観者でもない。話者は聞き手になり、聞き手は話者になる。この入れ替わりは、ドストエフスキーの「話の運び手」に一斉に向かうポリフォニーとはずいぶん違う。
あるいは、ひとつの出来事がそれぞれの思惑により異なる様相を持つトコなんて、芥川の「藪の中」を思い出す人がいるかもしれない。ただ、「藪の中」は各人の都合のいいように事実が解釈されているのと異なり、「アブサロム」は、それぞれの解釈が起きたことを成り立たせている。つまり、動機――「なぜ?」の部分を除けば、登場人物たちがとらえた世界は矛盾も相反もしていない。その結果、わかり合えないことによる悲劇への墜落エネルギーはとてつもないものになる。
じゃぁどうすれば混乱せずにすむんだよ、という方は、この小説の中心人物、サトペンだけに注目すればよろし。多声的に述べられてはいるものの、最大の主人公サトペン自身が語られていないところがミソ。まるでその周りだけを詳細に記すことで浮かび上がらせるかのように描かれている。後半、サトペン自身の告白を耳にすることができるが、彼の行動の裏側を支えていたものを知って、愕然とするだろう。そして、彼が決して口にしなかった無念――こんなはずじゃ、なかった――を、あなたは代わりに呟いているに違いない。
物語そのものが語りだす声を訊くべし、2008年のNo.1スゴ本は、これだ。
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