この写真がすごい2008
これはスゴい。写真のちからというものを、あらためて思い知らされる。
どんな「ちから」かというと、わたしの発想を引っ張りだすチカラだ。ふつうでない角度からアイディアをひき出すちから、意図しない深さまで考え込ませるちからだ。
例えばこうだ。文の意味というものは、文脈にのっとってたちあらわれる。だから、文脈から切り離された文は、意図しない威力を発揮する。その前後はどんな内容なのかを想像したり、なぜこんな文を切り取ったのかと不審がったり。tumblr を漂う文は、それ自体で輝きを持つ。
写真も同様。エロや猫写真はともかく、tumblr を漂う画像は、ひとクセもふたクセもある。キャプションやURLから切り離されて、それ自体でわたしの価値観を試しにくる。何が写っているかによって、どういう意図でシャッターが押されたのかを想像するのだ。説明なしで写真に相対するとき、いつもより考えている。
そこには、写っているものだけでなく、写した奴の「意図」を汲み取ろうという努力が、余計にかかる。どうやったらこんなシーンが撮れるのだろうかと考え込んだり、どういうつもりでシャッターを押したんだろうかと思い悩んだり。あるいは、写っている奴と写した奴の意図のズレ(こんなん撮るなよ vs. シャッターチャンス!)を想像するのも愉快だ。
その結果、説明文つきの写真よりも、違う頭の使い方をしていることに気づく。バックグラウンドなしでつきつけられる写真が喚起する発想が、撮影者の意図を突き抜けることもある。
本書は、プロ、アマチュア、媒体に関係なく、編者の大竹昭子氏が「すごい」と感じた写真が並んでいる。それぞれの写真に、彼女のコメントが付与されているだけで、一見しただけでは誰がどんな意図で撮ったのか全くわからない(撮影情報は巻末にまとめてある)。
どんな写真か分からないって? 写真を文章で表現しても、わたしの拙さが目立つだけだから、編者のコメントを一つ引用してみよう。
木炭のスケッチ画のようだが、数千人の肖像写真を重ね焼きしたものである。驚くのは、ヘアスタイルや胴体はボケているのに、顔だけはくっきりと浮き上がっていることだ。ふつう顔は個の象徴とみなされるが、サイズはほぼ一定で、眼や鼻や口の位置もとびぬけて個性的という人はいなくて、だいたい同じ位置に収まるものなのだ。「だれでもない」と「だれでもある」の境をさまよっているような顔。人の中には、他人とちがっていたいという願望と、同じでありたいという気持ちが点滅しているのではないか、とそんなことを思わせる。
どうだ、この「顔」を見てみたいと思わないか? 男でもない、女でもない、中性的ともいい難い、奇妙で懐かしい「顔」がそこにある。安心と違和感がない交ぜになった、不思議な気持ちを呼び起こす。
もちろん、撮影者の意図が即座にわかるものもある。撮影者やそれを選んだ編者の悪戯ゴコロに、こっちもニマリとした写真もある。あるいは、撮った人も思いもよらなかった結果が写ってしまった怪作もある。
しかし、ほとんどのものは、言葉に出せない違和感を突きつける。どこかで見た光景に潜む不協和音が、編者のコメントで浮かび上がる仕掛けになっており、まことに気持ちが悪い(かつ、何度も見入って/魅入ってしまう)。
だから、これはわたしにとって、「すごい」というよりも、思わず知らず「魅入ってしまう」ような写真集やね。撮影現場、撮った意図、そもそもこいつを選んだ理由をあれこれ想像する。魅入っているうちに、いつもと違った方向・深度から、意識しなかった気づきが得られる。写っているものとは全然ちがうことを考え始めているわたしがいる。
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コメント
最近写真にはまっている当方、このエントリからもこの本の魅力がビシビシ伝わってきます。
ただ、いつもDainさんが読んでる本とは少し毛色が違う感じの本書。
Dainさん自身がどうやってこの本を発掘してきたかが気になります。
投稿: DukeK | 2008.08.06 01:13
>> DukeKさん
ここです↓
http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20080722bk06.htm
投稿: Dain | 2008.08.06 01:34