なぜ私だけが苦しむのか
心に痛みを抱きながら、日々なんとかしのいでいる人がいる。あるいは、「なぜ私がこんな酷い目に遭うのか?」と悲嘆に暮れている人がいる。突然、わが身に降りかかった災厄──病や事故、わが子や配偶者の死──から立ち直れない人がいる。
そんな人にとって、伝統的な宗教はあまり役に立っていない。
なぜなら、ほとんどの宗教が、神を正当化し弁護することにかまけていて、嘆き悲しんでいる人の痛みを和らげることを重視していないから。あまつさえ、「悲劇も本当は良いことだ。なぜならこの経験はあなたを善き人に導くのだから」とか、「自分を可哀相がるのは止めなさい、起きたことにはちゃんと理由があるのだから」などと、傷ついた心に追い撃ちをかけてくる。
不幸に見舞われた人が望んでいるのは、ただ黙って聞いてもらい、「大変だね、辛いよね」と同情を寄せてもらうことなのに──著者クシュナーはラビ(ユダヤ教の教師)、その言葉の一つ一つに納得する。むしろ、信仰の根幹に疑惑の目を投げかけるような物言いに、こちらもたじたじとなる。
両親を目の前で射殺されたイラクの子の写真を見たことがある。小さな女の子で、まだ何が起こったのか分からない様子だった。(両親の)血にまみれて泣き叫んでいる[One Night In Tal Afar]。
この戦争がその御名の下に実行されている時点で、「神」は疑わしくみえる。戦争の悲惨さを伝えるためか? 親の血を浴びた少女にとっては、充分すぎるほど伝わっているが、やりすぎとちゃうか? 信仰の強さを試しているのか? にしては、残酷なゲームのテーゼだ。たかだか2人じゃん、カタいこと言うなよwwwというのなら、ホロコーストは? 全能かつ善なる存在は、ガス室を放置プレイかよwww ヨブはもういないにもかかわらず、まだゲームを続けるつもりなのか?
あるいは、マザー・テレサの死後、公になった個人的書簡によると、彼女は半世紀もの間、神の不在を感じていたという(for the last nearly half-century of her life she felt no presence of God whatsoever. from"Mother Teresa's Crisis of Faith")。あたりまえだ、聖女と奉られながらも、彼女がみた現実はあまりにも地獄すぎる。文字通り、どうして神はこの子等を見捨てたのですか? と問いただしたくなる。この感情は信仰の深さに反比例するだろうから、彼女にとって神の不在感覚はいかほどだったろうと暗鬱になる。
そんな思考を経ると、「やっぱり神様なんていなかったね」と思えてくる。あるいは、善とか正義とか、人が決めた定義とは別の運行表を持つ神を想像したくなる。星の軌跡とか、過夏の野分を見ると、巨大な存在を感じることができる。仮にそれを「神」と名づけるなら、その神は、人間のことなんて、気にも留めてないだろう。
しかし、著者はいう。ホロコーストは神がひきおこした災厄でないと。神は全能ではなく、善人に降りかかる苦痛を防ぐことができないのだと。7日目はまだ終わってないし、人の世は完成していないのだと。世の中には、理由の無い不幸が確かに存在するが、それは神がもたらしたものではないと。
神は殺人者の側にではなく、犠牲者とともにいるのだと。人間が善を選ぶのか悪を選ぶのかを、神はコントロールしない代わりに、人間に善と悪の選択の自由を与えた以上、たとえそれが隣人を傷つける選択であったとしても、神は防ぐことができないのだという。
唯一絶対神を信仰しない私にとって、ものすごい欺瞞に見えるのだが、この判断が現実とのギリギリのところなのだろう。大きな不幸に見舞われたとき、絶望に陥らずに生き続けるために、どうしても必要な解釈なのだろう。
それでも、神を信じる心を信じることはできる。どんなに悲惨なときでも、怒りに我を忘れて「神よ、なぜ私だけが苦しむのですか?」と問うのではなく、「神よ、この耐え難い困難に立ち向かう勇気を、わたしに下さい」と祈るのだ。不完全な神を赦し、愛するための祈りは、わたしにも信じることができるのだ。おかしな話なのだが、本当なのだ。神は信じられないくせに、神への祈りを信じるのだから。
原題が、"When Bad Things Happen To Good People"(善良な人に悪いことが起こるとき)であることに注意して欲しい。"Why Bad Things Happen To Good People?"ではないのだ。そして、悪いことが起きた人が、どう接し、どうとらえればよいかの手がかりが、本書にある(もちろん、悪いことが起きた「理由」なんて、書いてない)。
いま、苦しい思いをしている人に読んで欲しい。そうでない人は、予習としてどうぞ。ただし、本書があなたの苦しみを減じてくれる保証はない。ただ、その方法を探す手助けとなることは、請け負う。
最後に。この本の存在を教えていただき、感謝しています。finalventさん、ありがとうございます。ブログをやっていて、本当によかったと感じています。
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コメント
同感です。私は無神論者ですが、死と隣り合わせで宗教が最後の救いである人や、宗教に感化されて生を高められる人の存在は否定できません。でも強引な布教活動をしていたり、政治に影響力を持っている場合は抵抗したくなります。その手が身内に伸びてきたらなおさらです。
投稿: けん | 2008.07.26 09:46
>> けんさん
その真偽はともかく、生きることへの影響力は確かにありますね。ミもフタもありませんが、「俺は神を信じる!自分に都合のよいときだけ!」というとあるマンガのセリフが全てを物語っているかと。
信じる心を利用できるのは、やっぱり人間が弱いからなのでしょうね…
投稿: Dain | 2008.07.26 22:45
まず、自分だけが苦しんでいるという思いが苦しみを重要な者にしてしまうんじゃないでしょうか
投稿: | 2009.02.23 19:18
>>名無しさん@2009.02.23 19:18
苦しみの相対化は、本書こそ効きます。オリジナルなもの、この痛みは「わたし」自身のもの、という思いがあればあるほどに。
投稿: Dain | 2009.02.24 00:00
こちらも読みました。
感想は若干違っているようですね。
私にはまだ、「そばにいること」が救いになるのか実感できません。
ただ、何かを信じること、祈ることで生まれる自分の中の力みたいなものは分かるような気がします。
また、保険として必要なときに読み直したいと思います。
いずれにせよ興味深い本で、良い本を紹介いただき、ありがとうございました。
投稿: bookbath | 2009.07.23 05:47
>>bookbathさん
保険として持っていてください。危機に陥り、自分のこころが潰れそうに感じたとき、この本を思い出してください。ただ何もいうことなく、じっとそっと傍にいてほしい、そう願うとき、自分の周りに誰かがいる――そんな人生をおくりたいものですね。
投稿: Dain | 2009.07.25 22:29
こんにちは、いつもドキドキしながら拝見しております。
>神はコントロールしない代わりに、人間に善と悪の選択の自由を与えた
という記述が見られるパラグラフの次で「ものすごい欺瞞に見える」と書かれていたのが気になったため、「欺瞞に見えなくなったらイイな~」と思いながら下にコメントいたします(私はキリスト教徒です)。
(キリスト教の授業で聞いたことです)例えば、ある人が飼い犬と散歩している時に、その犬が突然暴れて他人の所有物を傷つけてしまった場合、飼い主の責任が問われます。その理由の1つは、社会通念等では、飼われている犬の責任能力が認められていないため、飼い主が自分で飼っている犬をコントロールするように定めているからです。
神と人との関係は、「親密で人格的な交わりであるべき」なので、社会通念上の「飼い主/飼い犬」関係とは別の脈絡に存しています。神が人間の選択に干渉すると、人間から自由がなくなってしまいますし、神はそれを望んではおられない、というのが一般的な見方です(また、「神は良き牧者」「神に従うべし」という言い方もありますが、これは更に別のお話になります)。
人は、神を「因果応報」で考察する傾向がありますが、これだと神が自動販売機と変わらなくなってしまいます(お金を入れたらジュースをくれる/不正をすると警報機が鳴る)。なので、「人が決めた定義とは別の運行表を持つ神」という表現には賛成いたします。
投稿: chippito | 2011.08.13 18:30
>>chippito さん
コメントありがとうございます、あらためて自分のエントリを読み直し、考え直す良い機会を得られました。
わかりやすい説明、ありがとうございます。キリスト教の教えそのものは学ぶ機会はありませんでしたが、とても勉強になります。
読み直して分かったのですが、わたしの「欺瞞」は、ドストエフスキーの「大審問官」の焼き直しですね。神に因果を求めようとすると、どこかで(誰かが)ウソをつかなくてはならなくなります。だから、「コントロール」や「因果」といった人に把握できる言葉で表現することに無理があるんじゃないかと。
「人が決めた定義とは別の運行表を持つ神」は、とても"しっくりくる"のですが、そんな神は、そもそも人や星や可視光線でとらえられる個々にかかわることもないでしょう。
投稿: Dain | 2011.08.14 09:12
>>Dainさん ※最後にいたしますので、今一度書き込みさせて下さい。
冒頭からマザー・テレサの所まで読んでおりました時、「何の為に子供たちが苦しまなけりゃいけないのか、何の為に子供たちまで苦しみによって調和を買う必要があるのか、まるっきりわからない」と言ったイワンを思い出さずにはいられませんでした。
アリョーシャはこれを「反逆」と呼び、私は「無神論」と見ておりますが、ここまで言われてしまうと、すぐには何と答えていいのか分からなくなってしまいます(苦悩が大きすぎて、1人では太刀打ちできそうにありません)。
Dainさんも私も、別々の運行表で生活してるのではないでしょうか。1人1人の人間がかくも種々様々なのですから、1人or少数がその他大勢を制御しようとすること自体元々無理な話で、だからこそ力や嘘が多用されているのです(神に因果を求めるまでもなく、最初から破綻していることにご留意ください)。
投稿: chippito | 2011.08.14 12:55
>>chippito さん
お返事ありがとうございます。
けれども、コメントでやりとりするのは難しいですね。おいしいアイスティーか、冷えたビールを前にアツく語れたらなー、と思います。
投稿: Dain | 2011.08.17 00:37
今日も悪いことがありました。無かった日なんてありません。私事ですが、親戚は、ヒドイ人なのに自動的に大金持ちです。私は幼少の頃から、毎日、つらいことだらけです。たとえ、小さな嬉しいようなことが起きたとしても、それは、次なる不幸への罠のようなものです。喜んだ私が愚かでした。
年末は死ぬつもりでいました。今月にしよう、それが過ぎたら、次の月。そんな毎日です。救いを求めることは、もはや、ありません。そんなことは、もうとっくに過ぎましたから、残念なのは、信じて今まで生きてきたことです。実に無念です...。
投稿: エセル | 2014.01.26 13:00
>>エセルさん
コメントから拝察するに、とてもお気の毒に感じます。本書が、エセルさんの苦しみを減らしてくれる保証はできませんが、それを探す手助けとなることを願います。ぜひ、手にとってみてください。
投稿: Dain | 2014.01.26 14:37