人を魔にするもの「闇の奥」
映画「地獄の黙示録」の原作だが、深淵を覗き込む感覚はこっちが上。
怪奇譚として読んだが、不安感覚が続くつづく。霧の中に連れて行かれ、そのまま取り残されたような気分になる。著者コンラッドの意図的な不明晰さがそうさせているのか。解説によると、彼自身、foggishness と呼んでいるそうな(コンラッドの造語で『霧的』とでも訳せばよいか)。
コンゴ奥地で王として君臨する白人、クルツの狂気を核に、崇拝する異形の黒人たちや、死臭をたたえて流れる大河、人の侵入を拒絶するジャングルが取り囲むように配置されている。物語の語り手は原生林の奥深くに分け入り、クルツに会いにいくのだが――
同じ深淵を目指したノンフィクション「コンゴ・ジャーニー」よりも、もっと粘度の高い恐怖が描かれている。命の危険を感じる「怖さ」ではない。もっと原初的なものにふれて強制的に呼び覚まさせる純粋恐怖が語られている。遺伝子に刻み込まれた、ケダモノだったときの記憶が、直接刺激される。
西洋文明の歴史が、自然をねじ伏せ勝利する過程であるとみなすなら、ねじ伏せる対象としての荒野(wilderness)が圧倒し、逆に呑み込まれるのは恐ろしかろう。このあたり、日本人には違和感があるかも。"disaster"が、なゐふるや野分と呼ばれてた頃から、「自然とは意のままにならぬもの」と折り合いをつけてきたからね。
べつの読み方もできる。
「闇」とは、アフリカ奥地の闇でもある一方、人の心の闇、西洋文明の闇をも含むと見做し、本作全体を帝国主義の寓話として読む。帝国主義の支配の尖兵を担ったクルツが、原始の闇に呑み込まれ悪鬼のごとき所業を果たす。読み手は語り部とともに、彼が囚われた狂気を腑分けし、血まみれの手を眺めるんだ――と、告発書のように読むのも一興。
さらに、別の読み方もできる。
ヨーロッパ人がアフリカで行った恐るべき殺戮――これはヨーロッパ人ではなく、アフリカ化(africanization)したヨーロッパ人がやったんだ。「だからヨーロッパにいるヨーロッパ人は悪くないんだ」という含意をにじませた、都合のいい責任転嫁のための手引書――と、西洋人の免罪符のように読むのも愉しい。
多重・多層な「読み」ができる。だが、はじめに書いた「原初の恐怖」を味わうために手にする方が、読み手として素直だろうね。訳書はたくさんでているが、最新の藤永茂訳が圧倒的にハマりやすいのでオススメ。

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コメント
>最新の藤永茂訳が圧倒的にハマりやすいのでオススメ。
その藤永茂さんが、ご自身のブログ「私の闇の奥」で興味深い話しをされています。
http://huzi.blog.ocn.ne.jp/darkness/
毎週一話の間隔ですが、それだけに中身が濃く、その持続する志には敬服せざるをえません。
投稿: elnest | 2008.07.23 09:42
>> elnestさん
ありがとうございます。
はい、このエントリを書く際にblogは見ました。
「改訳ノート」は徹底しており、その綿密さに驚きました。
訳者の姿勢を見ると、原文で挑戦すべきかもしれませんね。
投稿: Dain | 2008.07.25 22:39