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「ザ・ロード」はスゴ本

 ピューリッツァー賞を受賞した傑作。

 だからなのか、どいつもこいつも誉めまくり。毒舌で鳴らしてる豊崎由美氏をして「問題作にして傑作」とまで言わしめているのだから。もちろんわたしも誉めますが何か?

 カタストロフ後の世界を旅する、父と子の物語。劫掠と喰人が日常化した生き残りを避けて、南へ南へ――食べ物を求めて? 食べられないように? 残った弾丸の数を数えながら、こんな地獄ならいっそ―― わたしと同じことを、この「父」も考える。

 終末世界で人として生きるのは、かなり難しい。

 地の文から句読点を外し、会話をくくるかっこ「 」を廃した、全編独白のような文体は、慣れるのに苦労するかも。その代わり、どこに注目すべきか、無駄も隙も否応もなく入ってくる。

やるべきことのリストなどなかった。今日一日があるだけで幸運だった。この一時間があるだけで。"あとで"という時間はなかった。今がその"あとで"だった。胸に押し当てたいほど美しいものはすべて苦悩に起源を持つ。それは悲しみと灰から生まれる。そうなんだ、と彼は眠っている少年にささやいた。パパにはお前がいる。

 この文体のおかげで、前作「血と暴力の国」では暴力のシンプルさが際立っていた。いっぽう本作では、色彩と時間を喪った世界をとても"狭く"見せている。俯瞰視点がないんだよ。つまり、すべての動作は見える範囲で完結しており、すべてのリアクションは息継ぎせずに語り終えられる。

 もちろん、「なぞらえ」もやったぞ。自ら「火を運ぶ人」に擬する会話が繰り返されるところから「プロメテウスの火」を、ショッピングカート+幼な子から「子連れ狼」を、それぞれ思い浮かべた。キリストを背負った聖クリストフォロスまで引いてくる方もいる(=豊崎由美氏)けど、すげぇ深い読みやね。

 なぞらえ読みも愉しいが、こいつは素直に読みたい。喩えを探して読むよりも、むしろそのまま「わたしだったら、どうする?」と考え考え読む。子どものためなら鬼にも魔にもなれるが、子どもには人でいてほしい、いてくれ、と願うのは父のエゴなのか。

 「奪い・犯す」世の中で生きていくためには、やはり、「人」をいったんやめる必要があるのではないか。「隠れ・逃げる」生活は、いずれ捕まる。かつて「人」だった連中なのか、あるいは飢えか、どちらにせよ、捕まえられる。そうならないよう、新しい世界で生きていくための原則と訓練を叩き込むのが「父」なのではないか。

 幼いわが子が生きていく未来を案じ、苦しいほどの愛おしさを抱いている。この愛おしさは、作中の父と一致する。ラストのくだりで落涙するいっぽう、そこに至るまで父が「してこなかったこと」に真剣に腹を立てる。

わかってる。ごめんよ。でもパパの心は全部お前のものだ。今までもずっとそうだった。お前が一番の善い者だ。ずっとそうだったんだ。

 だからこのラストは、作者の偽善でしかない。父がやったことは、黒よりもなお暗い闇にわが子を置き去りにしたことに等しいから。結局、父のエゴイスティックな願いは聞き届けられることになるのだが、あれほど神なき荒涼を見せつけられた後では、とってつけた救済に見える。「傑作」を乱発するどいつもこいつも、「父」を知ってるのかよ、安易に感動するこいつらのために、真逆のラストも用意してやれよ、ほら、キングの「クージョ」を思い出せよ――と、うめく。

 恐ろしいほどのリアリティに、このラストに反発する。それだけこの小説に「囚われ」たからか。これ、父をやってる人とそうでない人で、評価が変わるね。

 すべての父に必読の一冊。

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コメント

 こんばんは。
いつも拝見しております。紹介された本を買いに走った本もあるくらいです。ゲームやラノベネタはわかりませんが、それも楽しく読んでます。
「ザ・ロード」はたった今読み終わったばかりなので、感想を興味深く読みました。ストーリーは読み終わってみれば単純で、オチもそうなるんだろーな、といった感もありますが、終末ネタが好きなので、雰囲気と廃墟描写だけでも結構楽しめました。一気読みしました。
最後のあたりですが、私は親になったことがないので、想像できない部分もありますが、結局父親とは…そうすることしか出来ないのかな、とも思いました。バトンを渡すだけというか。
あとがきによると作者のマッカーシーは年をとってから出来た息子がいるそうで、息子の成長を見届けられないかも、という個人的な不安が反映されてるのかな、と深読みしたりもしてます。

投稿: ぎんこ | 2008.07.18 01:16

>> ぎんこさん

マッカーシーは、ヒトの運命にとんちゃくしない作家です。

登場人物が酷い目に遭ったり死んだりするのも、そういうものだから、そうなる、といった感覚で、雨が降ったり雪が溶けたりするのを見る気分になります。(最近だと、「血と暴力の国」の殺人機シュガーですな。「機」は間違いではありません、機械の「機」です)

人の生き死には自然現象であることに、あらためて気づかせてくれる作家です。運命なんてクソの役にもたたないものだと。

だから、そこに予定調和的な展開を持ってこられると、逆に戸惑ってしまいます。「らしくない」ね、なぜだろうかな、って。もちろん、あとがきのマッカーシーの息子の件は書いてあるとおりですが、息子の存在がこのラストを誘導したのかも、とさらに勘ぐっています(ただしこの勘ぐりは矛盾してることは、本書の扉を見れば瞭然です。本書は息子のために捧げられているのだから)。

そして、もう一歩進めると、父として初心者なマッカーシーが透けて見えてきます。仮に息子に世の中のこと──善いことも、邪悪なことも──を教えるようになるぐらい「父親」をやってきたら、このラストになるかどうか。父としてのセンチメントはさておき、子どもをどうしなければいけないかを突き詰めると、答えはわたしの意に沿うものになるかと。

投稿: Dain | 2008.07.19 22:51

丁寧なレスどうもです。
私はあまりこの小説に「恐ろしいほどのリアリティ」を感じなかったんですよね。たぶん。マッカーシーの個人的かつ幻視的なヴィジョン、と思ってます。だから、父親像も象徴的なものとしてとらえています。子供もです。
Dainさんのおっしゃる「世の中のこと──善いことも、邪悪なことも──を教える」父親の方が現実的にも倫理的にも正しいし、そうあるべきだと思いますが、この小説の中に持ち込むと、小説の世界そのものが変わってしまうと私は思いました。
この小説では主人公たちの名前もないし、ほとんど人間としての描写がないので、読者がいろいろと自分の個人的体験を投影してしまうのかもしれません。

投稿: ぎんこ | 2008.07.20 00:59

>> ぎんこさん

  > マッカーシーの個人的かつ幻視的なヴィジョン、と思ってます。
  > だから、父親像も象徴的なものとしてとらえています。子供もです。

個人的かつ幻視的、ですか… カメラで写すような、かなり具体的な描写だったような気が。あるいは、接写・広角・バストアップと、カメラ視線な作風だと思います。そして、その描写に憑かれてしまったのがわたしです。「個人的体験を投影」したのは、そのせいかもしれませんね。

読み方はともあれ、作者に聞いてみたいですね、「ラストがらしくないよね?」って。

投稿: Dain | 2008.07.20 22:34

 私は視覚的な描写の多い小説が好きなので、この本もDainさんと同じく、魅せられてしまいました!幻想的でも、くっきりと鮮やかな映像もあると思います。
私はマッカーシーこれが初めてだったので、わかってないのかもしれません。おすすめはやっぱり「血と暴力の国」でしょうか?
そういえば「ザ・ロード」も映画になるそうですね。「トゥモロー・ワールド」みたいな感じになるのかなと思いました。この映画、原作とはあまりにもかけ離れていて潔いくらいでしたけど、「ザ・ロード」は割と忠実に映像化できそうな気がします。

投稿: ぎんこ | 2008.07.21 00:27

>> ぎんこさん

「ザ・ロード」がマッカーシー初読でしたか… そうすると、
「血と暴力の国」は、逆に「らしくない」と感じるかもしれません。

わたしのオススメ(というか、お気に入り)は、「すべての美しい馬」ですね。
ただし、No.1の誉れ高いのは、"Blood Meridian"といわれています。

投稿: Dain | 2008.07.21 11:58

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受信: 2008.08.02 21:07

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