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恋愛なんかやめておけ

Rennainannka ほてった乙女心に冷水ぶっかける一冊(このエントリは女の子向け)。

 特に、「恋愛しなきゃ」と思ってる女子は保険のつもりで読んでおくといい。「好き・ときめきと・キス」で終わるのは、さすがの猿飛だけ。現実は「その先」があり、その先こそ楽しく、やっかいなんだ。インスタントな恋愛は冷めるのも早い。

 人のプラスのパワーのうち、最も強いものは、誰かを好きになること。くだらなかった毎日がイキイキとなる。あの人を思うだけで胸がギュっと熱くなる。自分のことを分かってくれる、美しく優しい人を初めて見つけたんだとボっとしてくる。

 ホントは生物的な反応で、アドレナリンが湧いてるだけ。あるいは、「優しい」だの「分かってくれる」だの、自分でそう思ってるだけ。恋が盲目にしてるだけ。自分好みの相手を作り上げる「創作の喜び」に浸っているだけ――と、容赦なし。

 学校はあてにならない。学校でやっている「オシベとメシベ」、あんなのは性教育ではなく性器教育にすぎないと断ずる。どんなに純なものであっても生物的欲求(性欲とは言わん)を発火点にして恋愛が始まっているんだ、という。

 そして、精神的恋愛ってのは結局は夢なんだって。純真で本気の恋愛は、みんな夢。本気で恋愛をやっている人は怒るだろうけど、醒めたら分かる。夢というのは、みてるときはほんとだと思ってるもの。本人は疑わないが、現実の世界ではなくフィクションなんだ、と酸っぱい口調で繰り返す。

 さらに、江戸時代から現代に至るまでの風俗・文芸をひも解いて、いかに「恋愛」が男にとって都合のいい仕掛けであるかをコンコンと説く。自由意志で恋愛をやっている、いわゆる自由恋愛だとうそぶくのは勝手だが、女にとっては不公平だと主張する。また、フリーセックスの行き着く先は(どんなに気をつけても)望まない妊娠であり、出産であると真顔で諭す。

 つまり、女性にとって自由恋愛・フリーセックスは、「自由」かもしれないが「平等」ではなく、しかも代償が大きいぞ、と強く警告している。いまどき珍しいぞ、この爺ちゃん、と思ったあなたは正解。本書は1970年、およそ40年前に書かれたもので、当時から口やかましく言われていたんだなーと伺える。

 しかしながら、時代にそぐわない部分もある。

 「フリーセックスの増えた理由は、計算できないオンナが増えたということだ」と、自由恋愛という流行に股を開く女を嘆くが、イマドキの女はもっとしたたかになっている。レクリエーションのように楽しむ人もいれば、結婚の予約のつもりの人もいる。さらには、古式ゆかしき恋愛感覚を大事にしている人も。

 そもそもカラダとキモチを切り離して考えるのがおかしいという意見もある。遊屋通いが粋だなんて、分別が徹底してたのは昔話。なんというか、「一線を越える」が死語になりつつあるよなー、と思っていたら先週の「しゅごキャラ」でモロにwww(今日こそお兄ちゃんと一線越えるんだからーっ)

 おっと脱線。

 フリーセックスがスローガンのように唱えられ、否か応しか選べなかった時代とは異なり、今はもっと多様な――ハヤリ言葉を使うならダイバーシティ・ラヴとでも言おうか――恋愛があるんじゃぁないかと。それこそ純度100%ピュアからどろり濃厚ゲルルンなやつまで、何でもござれが「いま」。で、その選択肢の多さに戸惑い、どうしていいか立ちすくんじゃってる人が少なからずいると思う。

 イマドキの若者は「ドラマのような恋愛」なんて嘘っぱちだと見抜いている。ハチクロはマンガだから楽しめるのであって、あれを実行しようとする子はそれなりの外聞リスク(痛い子)を承知の上だろう。「東京ラブストーリー」はよくできた神話のバズ・ワードとして使われるにすぎない。ファンタジーしてもよし、打算と情熱のギリギリのところで妥協(というのか?)してもよし、何でもアリなんだ。

 ひょっとすると100人100色かもしれないなかで、きりりと一色を貫いている本書は、スケーラーとして役に立つ。極端かもしれないが、基準値(≠標準)として見なすんだ。一読して合わなけりゃ、100でも200でもゲタをはかせればよろしい。ふらふら揺れ動く恋愛感覚を、本書にぶつけて出てきたもの(=あなたが感じたもの)が、おそらく本当の気持ちなんだろう。

 さて、女の子向けと断ったにもかかわらず、律儀にここまで読んだ悪い男の子のために、本書で学べる女子攻略法をご紹介(ここから男の子向け)。

 この本は、説教臭いジジイの真剣な忠告として読めるいっぽう、女の弱さのツボみたいなものが見事にあぶりだされている。どういう風に押されると、ふらッとなってしまうのか、そんな「瞬間」が沢山ある。恋愛の危うさを説いているにもかかわらず、読み方を変えると女の子の弱点集になってしまうから危ない。よくつかんでるよな、と思ったのはここ。

愛しますといわれたことが、この上もないプレゼントに思えてくるんだ。なにかそれにお返ししないとすまないみたいになる。それで、ついおなじものを返すのがあたりまえみたいな気分になる
 何をいまさら(笑)と言いたきゃ言えばいい。けれども、笑う人は、「気持ちをプレゼント」することが有効な攻撃方法であることも知っている。

 女はもろい。ひと押ししてみて、女のほうにかたい防御がないとみると攻撃したくなる。それが男だ。まさに、押しの一手なんだ。男は女を攻撃する。どんなに「優しい」「思いやりある」ひとでも、男は女を「押す」んだ。具体的に、どんな風に「押す」のかは、(古典的なヤツばかりだが)本書が参考になる。

 もうひとつ。ラブレターへの上手な断り方をご紹介。メールではなく、手紙だ。

 書いた文字には力が宿る。わたしには縁が薄かったが、ラブレターは男女を問わず有効な手段だ。ただ、困るのはNGのとき。「ごめんなさい」と伝えるのも心苦しいし、NGを伝えないままでいるとあぶない。

 いちばんいい断り方は、むこうの手紙を封筒といっしょに、送り返すのだという。ことわる文章を書く必要はない。何も書かないでいい。出した人にはよくわかっている。手紙をもらったなり黙っていると、まだ可能性があると思われるからね。

――などと、エラそうに能書きたれているのは今だけで、いずれ娘は「お父さんに会ってほしい人がいるんだけど…」と言ってくるんだろうなー("Papa Don't Preach"ではありませんように)。


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風の谷の観鈴ちん「天顕祭」

天顕祭 ナウシカの世界観と神尾観鈴の運命が重なる。

 2007年度文化庁メディア芸術祭で、奨励賞を受賞した作品。ピンときたのは、これが同人誌だってこと。もちろん画力・構成・物語は素晴らしく、IKKIあたりで連載してそうなクオリティ。

 どうやら大きな戦争があったらしい。その傷跡が伝説のように言い伝えられている片田舎が舞台。神道のケガレと放射能汚染が日常レベルで染み渡っており、「天顕祭」はそれを祓う役目を持つお祭り。

 この夏祭りをタイムリミットとして、宿命に取り憑かれた娘と、彼女を護ろうとする男が描かれている。モチーフとなっている古事記のヤマタノオロチ伝説が上手く溶け込んでおり、ロマンファンタジーとしても、伝奇SFとしても読める。「大きな物語」を背負った「ささやかな日常」を精密に演出する様がいいね(特にラストにじんときた)。

 また、観鈴ちんのように「選ばれた生贄(にえ)」の運命を甘受することなく、立ち向かうところが痛快だし見所でもある。シナリオ的には霧島佳乃ルートに近いが、娘の背中にあるものは白い羽ではなく、蛇のウロコであるところがポイント。この蛇の描写がスゴいねー。現実世界に干渉してくる大蛇は薄墨のように描かれているんだけど、彼女しか見えないんだ。その大蛇が夜の中から"浮かび上がって"、リアルに"絡みつく"感じがイヤらしくっていい。

 さらに、ナウシカに出てくる、「腐海を浄化する植物群」を「放射能を吸収する竹」に読み替えているところが面白い。青々としてまっすぐ伸びる様子から、清浄な植物とされているからね。地鎮祭や門松でおなじみだし。ホントの効果のあるなしに関係なく、思わず信じたくなる設定なり。

 運命に抗う男と娘が見た「天顕祭」の秘密、それは確かにおぞましいものなのだが、充分ありうる未来だろうね。「ザ・ワールド・イズ・マイン」の巨大獣ヒグマドンは荒唐無稽かもしれないが、奴の破壊跡た後を拝もうとする純朴な気持ちが分かるのと一緒。
人智を超えた「何か」に畏怖するとき、とりあえずカミとして扱いたがるのは、日本人のどこかに刷り込まれた発想なのかも。

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そうだ、宇宙、行こう「宇宙旅行はエレベーターで」

宇宙旅行はエレベーターで リアルSFのプロパガンダ本。

 クリアすべき課題の一つ一つに明確な回答を与えており、一緒に考えてるだけでワクワクできる。どの問題も現実的で、どの回答も現実的なので、単なる思考実験を離陸した「投資対象」としても魅力的だ(著者の一人は不動産投資信託のファンドマネージャーなので要注意www)。

 ケーブルの素材や強度、エレベーターの動力といった技術的課題から、敷設場所、建造方法や既存の宇宙開発計画との競合、気象や人為的リスクを考慮した安全性や移行・運用方法、さらには宇宙ビジネスの収支まで、グローバルレベルの風呂敷が広げられている。いや、話は月や火星エレベーターまで広がっているから、太陽系レベルか。

 面白いのは、風呂敷の現実味。

 技術的課題のほとんどは、既存のテクノロジーで解決可能だという。資本コストもべらぼうではなく、民間団体や個人(ex:ビル・ゲイツ)でも充分に手が届く「お買い物」だそうな(初期投資1兆円を高いと思うかどうかによるが…)。

 むしろ、NASAの官僚主義や、所有団体の政治・軍事的立場こそが最大の阻害要因になると指摘している。最初の宇宙エレベーターを建造するのは「アメリカ以外ありえない」と言い切っているが、最も可能性の高い国として、中国を挙げているのは見逃せない。本書で言及されてなかったが、きっとGoogleが手を挙げるぞ。

 細部だって手を抜かない。ジオステーション、クルーザー、アース・ポートのアイディアはSFからもらうものが多く、具体的なイメージを伴っている。クラーク「楽園の泉」やスタンリー・ロビンスン「レッド・マーズ」、カール・セーガン「惑星へ」に夢中になった人は、きっと拍手するに違いない。宇宙基地での治安活動のための警察の必要性に言及するあたりで、「ポリスノーツ」思い出したぞ。

 気づかされたのは、わたし自身の固定観念。「宇宙 = ロケット」が固くバインドされた頭に、「宇宙へいくために、なぜロケットを使うのか」という問いかけはブレークスルーをもたらした。また、宇宙旅行のコストの95%は重力を振り切るための費用に使われることを知って、そりゃ地球の重力は魂を縛るくらいだよねと呟いたり。宇宙と「いまここ」がつながっていることを、感覚レベルで想像する手段として、本書を使うと面白いぞ。

 宇宙エレベーターは、実現するかどうかではなく、「いつ、だれが」建造するかレベルになっている。風呂敷の巨大(でか)さと感触をお確かめあれ。

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なぜ私だけが苦しむのか

なぜ私だけが苦しむのか 死にたくなったらオススメ。わたしは予習として読んだ。

 心に痛みを抱きながら、日々なんとかしのいでいる人がいる。あるいは、「なぜ私がこんな酷い目に遭うのか?」と悲嘆に暮れている人がいる。突然、わが身に降りかかった災厄──病や事故、わが子や配偶者の死──から立ち直れない人がいる。

 そんな人にとって、伝統的な宗教はあまり役に立っていない。

 なぜなら、ほとんどの宗教が、神を正当化し弁護することにかまけていて、嘆き悲しんでいる人の痛みを和らげることを重視していないから。あまつさえ、「悲劇も本当は良いことだ。なぜならこの経験はあなたを善き人に導くのだから」とか、「自分を可哀相がるのは止めなさい、起きたことにはちゃんと理由があるのだから」などと、傷ついた心に追い撃ちをかけてくる。

 不幸に見舞われた人が望んでいるのは、ただ黙って聞いてもらい、「大変だね、辛いよね」と同情を寄せてもらうことなのに──著者クシュナーはラビ(ユダヤ教の教師)、その言葉の一つ一つに納得する。むしろ、信仰の根幹に疑惑の目を投げかけるような物言いに、こちらもたじたじとなる。

 両親を目の前で射殺されたイラクの子の写真を見たことがある。小さな女の子で、まだ何が起こったのか分からない様子だった。(両親の)血にまみれて泣き叫んでいる[One Night In Tal Afar]

 この戦争がその御名の下に実行されている時点で、「神」は疑わしくみえる。戦争の悲惨さを伝えるためか? 親の血を浴びた少女にとっては、充分すぎるほど伝わっているが、やりすぎとちゃうか? 信仰の強さを試しているのか? にしては、残酷なゲームのテーゼだ。たかだか2人じゃん、カタいこと言うなよwwwというのなら、ホロコーストは? 全能かつ善なる存在は、ガス室を放置プレイかよwww ヨブはもういないにもかかわらず、まだゲームを続けるつもりなのか?

 あるいは、マザー・テレサの死後、公になった個人的書簡によると、彼女は半世紀もの間、神の不在を感じていたという(for the last nearly half-century of her life she felt no presence of God whatsoever. from"Mother Teresa's Crisis of Faith")。あたりまえだ、聖女と奉られながらも、彼女がみた現実はあまりにも地獄すぎる。文字通り、どうして神はこの子等を見捨てたのですか? と問いただしたくなる。この感情は信仰の深さに反比例するだろうから、彼女にとって神の不在感覚はいかほどだったろうと暗鬱になる。

 そんな思考を経ると、「やっぱり神様なんていなかったね」と思えてくる。あるいは、善とか正義とか、人が決めた定義とは別の運行表を持つ神を想像したくなる。星の軌跡とか、過夏の野分を見ると、巨大な存在を感じることができる。仮にそれを「神」と名づけるなら、その神は、人間のことなんて、気にも留めてないだろう。

 しかし、著者はいう。ホロコーストは神がひきおこした災厄でないと。神は全能ではなく、善人に降りかかる苦痛を防ぐことができないのだと。7日目はまだ終わってないし、人の世は完成していないのだと。世の中には、理由の無い不幸が確かに存在するが、それは神がもたらしたものではないと。

 神は殺人者の側にではなく、犠牲者とともにいるのだと。人間が善を選ぶのか悪を選ぶのかを、神はコントロールしない代わりに、人間に善と悪の選択の自由を与えた以上、たとえそれが隣人を傷つける選択であったとしても、神は防ぐことができないのだという。

 唯一絶対神を信仰しない私にとって、ものすごい欺瞞に見えるのだが、この判断が現実とのギリギリのところなのだろう。大きな不幸に見舞われたとき、絶望に陥らずに生き続けるために、どうしても必要な解釈なのだろう。

 それでも、神を信じる心を信じることはできる。どんなに悲惨なときでも、怒りに我を忘れて「神よ、なぜ私だけが苦しむのですか?」と問うのではなく、「神よ、この耐え難い困難に立ち向かう勇気を、わたしに下さい」と祈るのだ。不完全な神を赦し、愛するための祈りは、わたしにも信じることができるのだ。おかしな話なのだが、本当なのだ。神は信じられないくせに、神への祈りを信じるのだから。

 原題が、"When Bad Things Happen To Good People"(善良な人に悪いことが起こるとき)であることに注意して欲しい。"Why Bad Things Happen To Good People?"ではないのだ。そして、悪いことが起きた人が、どう接し、どうとらえればよいかの手がかりが、本書にある(もちろん、悪いことが起きた「理由」なんて、書いてない)。

 いま、苦しい思いをしている人に読んで欲しい。そうでない人は、予習としてどうぞ。ただし、本書があなたの苦しみを減じてくれる保証はない。ただ、その方法を探す手助けとなることは、請け負う。

 最後に。この本の存在を教えていただき、感謝しています。finalventさん、ありがとうございます。ブログをやっていて、本当によかったと感じています。

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「影響力の法則」はスゴ本

影響力の法則 肩書、権威はないが、うまく周りを巻き込んだり上司を動かして、結果を出せる人がいる。いっぽう、呼び名は何であれ、その役職名に見合った影響力を発揮できない人がいる。いわゆる、「部下をちゃんと使えない上司」というやつ。

 本書は、当人の肩書・権威とは別に、仕事をする上で充分な影響力を行使するための法則と方法がまとめてある。やり方を知っている人にはアタリマエというか、当然のコトばかりなんだけれど、ここまで徹底しているのは初。

 例によって長くなったので、以下に目次。

■1 最重要は、8章「上司に影響を与える」と9章「やっかいな部下を動かす」
■2 類書との決定的な違い――カーネギー「人を動かす」
■3 人を動かす前提として、相手の「性格」ではなく「環境」に目を向ける
■4 類書との決定的な違い――チャルディーニ「影響力の武器」
■5 ビジネスの場で活用できるカレンシー(価値)
■6 相手との関係がこじれている場合はどうする?
■7 参考URL

 そして、こいつはスゴ本。チャルディーニ「影響力の武器」バーバラ・ミント「考える技術・書く技術」ぐらいの劇的な効果をもたらすことを請合う。サブタイトルが「現代組織を生き抜くバイブル」とあるが、看板どおりバイブルとして使っていける。

■1 最重要は、8章「上司に影響を与える」と9章「やっかいな部下を動かす」

 全編これノウハウのカタマリのような本だが、一番使えるのは8章と9章だ。

 まず、第8章「上司に影響を与える」は必読。上司とwin-winの関係を築き、上司に働いてもらうための全てのやり方が書いてある。上司を思うとおりに操縦するテクではない。上司とパートナーシップの関係を作り、理解し、後押しするための方法だ。上司との典型的な問題は、QA方式でまとめられており、即適用できる。例えば、

  1. 自分のアイディアを上司が受け入れようとしない
  2. 上司はちゃんと仕事をしないうえに、アドバイスを聞かない
  3. 上司は近寄りがたく、よそよそしい
  4. 上司から、やりがい、自由裁量の幅を引き出すには、どうしたらよいか
  5. 上司が指導方法を変え、能力開発やコーチングをするようになるには、どうしたらよいか
  6. パートナーシップを求めない上司には、どう対応するか
  7. 上司の能力開発のために、部下は何ができるか
の、それぞれの解答が幾通りも提示されている。そして、そのカギは自分自身にあることに気づかせてくれる。また、上司への影響力を阻む部下側の要因(最大の要因は部下の上司観)もまとめられており、いたれりつくせり。

 さらに、第9章「やっかいな部下を動かす」も必読。部下に限らず、同僚の協力も得る方法も同様に書いてあるから。有能だが、扱いにくい部下・同僚に動いてもらうための全部の方法が書いてある。

 ここのカギも自分自身。ピグマリオン効果を持ち出し、部下を味方と思えるところがスタートだという。つまり、よい成果を期待されると、その期待に応えようとし、駄目だと思われていると悪い行動をとる傾向があるからこそ、まず自分(上司)の態度をポジティブにせよ、という理屈だ。

 影響力を発揮するための、指示、依頼、連絡、脅迫、懐柔、説得、恫喝、give-take、win-win など、実際の現場で様々な「やりくち」がある。しかし、難しい状況下や、話の通じないやっかいな相手・集団・組織を前にすると、なかなか実行できない。本書では、厳しい状況下における影響力の障害を取り除き、実際にどうアクションをとるべきなのかが解説されている。結果を出す力が劇的に向上していくはずだ。

■2 類書との決定的な違い――カーネギー「人を動かす」

 このテの本は沢山出ているし、人を動かす秘訣は、山本五十六に聞かずとも知っているだろう―― やってみせ、言って聞かせて、させて見せ、誉めてやれ。でもそれだけでは足りないのだ。さらに、脅してきかせ、すかしてなだめる──ことが重要。笑顔と怒顔の両方が必要。この「強く出る」のは諸刃の剣なのだが、(毒も含めた)効果的なやり方もオプションとして有用だ。

 あるいは、カーネギー「人を動かす」の秘訣を思い出すかもしれない。カーネギー曰く、「人を動かす秘訣は、この世に、ただ一つしかない」という。しかも、この事実に気づいている人は、はなはだ少ないそうだ。

人を動かす秘訣は、間違いなく、一つしかないのである。すなわち、みずから動きたくなる気持を起こさせること――これが秘訣だ。

 そして、どうすればみずから動きたくなる気持ちを起こさせるかというと──相手の望むことをやってやれとか、積極的にほめてみせよとか、相手を重要視せよとか五十六元帥と同じことを言い出す。「人を動かす」を読みながら、ほめられたり目立ったりするのがキライな人ならどうするの? とか、そもそも相手が望むことって何? とツッコミを入れたくなる。

 あのね、それは分かっているけど、簡単にはできないことなの。何をすればいいのかは知っているけれど、どうやってすればいいのかが、分からないの!

 その声にズバリ応えているのが第4章「なにが人を動かすのか」。システマティックで打算的かもしれないが、法則から実践までエゲツないほど赤裸々に書いてある。相手の「性格」ではなく「環境」に目を向け、相手が何によって評価され、報酬を受けているか徹底的に調べよという。そうすることで、「相手が望む価値」が何であるかが見えてくる。

■3 人を動かす前提として、相手の「性格」ではなく「環境」に目を向ける

 よく「相手の性格を推し量り、理解につとめよ」といわれるが、嘘だ。「性格」なんて相当知り尽くさないと分かるものでも無いし、そんな時間も余裕も無い。だいたい、そんなによく知らない仕事相手の「性格」を決めるなんて、失礼極まりない。

 だから、「相手を取り巻く環境要因」に目をつけろという。要するに、相手が何によって評価され、報酬を受けているか徹底的に調べよという。仕事で何を担当し何に責任を負っているかを調べる(これは「性格」より簡単のはずだ)。それによって相手が価値を置くものや、ものの見方、他者との接し方の傾向が見えてくる。

  • 何をもとに評価されているか、報酬を受けているか
  • 組織外から受ける圧力や出来事
  • 上司からの期待
  • 同僚からの期待
  • 組織文化風土
  • 教育訓練の内容」
  • 担当業務の性質(定性・定量的、創造性、リーダー・フォロワー)
  • キャリアの足跡(ポジション、組織内・外のキャリア、潜在能力、満足度)

 相手が仕事をしている環境や状況から、何が相手の行動を左右しているかが読み取れる。相手が何に価値を置いているかを見つけることで、こちらとの価値の交換に何が必要か導くことができる。

■4 類書との決定的な違い――チャルディーニ「影響力の武器」

 また、チャルディーニ「影響力の武器」という名著がある。いかにYESを言わせるかを徹底分析しており、人間が社会的証明、権威、希少性などひっかかりやすいことが、これでもかというほどあらわにしている。これは人間関係間の影響力について「開いて」書いてある本で、交渉や対話の場に応用できるテクニック本として有益だろう。

 いっぽう本書は、ビジネスの場に「閉じた」指南書で、より具体的で実践に即したものとなっている。個々の対話ではなく、より戦略的に相手に影響を与えるための方法論なのだ。「武器」が個対個を想定したナイフや銃器であるならば、本書は爆撃機やミサイルなど、より広範囲なパワーを行使する、さしずめ「影響力の兵器」といったところだろう。

 あるいは、「与えつづけよ、さらば得られん」などと言う人は多い。ギブ・ギブ・ギブ・ギブ・ギブしていけば、いずれ必ずテイクできる。だから貢献に徹せよというアドバイスは、嘘だということを知っている。

 もちろん、貢献し続けることで協力を得やすくなることはあるが、いつもそうとは限らない。相手が「貸し」を返そうとしない場合はどうするのか? そもそもギブをギブだという自覚がなければ、相手は「貸し」だとは思わない。

 そういう相手にはどうするのか? 第7章「交換の戦略」に、相手にプレッシャーを与える方法、その阻害要因、現場での交渉術がまとめてある。ありていに言えば恫喝の戦略だ。率直にオープンにするか、一部だけにするか、計画に執着するか、その場の状況に合わせるか、win-winを目指すか、win-loseでもテイクするのかなど、実にさまざまな戦略オプションを提示している。win-winは確かに理想だけど、現実は違う。それを知っていながら、「win-win以外のオプションを捨てる」ことがいかに愚かしいかが沁みるほど思い知らされる。

■5 ビジネスの場で活用できるカレンシー(価値)

 本書では、相手が価値を持つものをカレンシー(currency、通貨)と呼んでいる。そして、影響力を行使するとは、相手が価値を置くものを提供し、その代わりにこちらが得たいものを得る、つまり価値の交換のことだと定義している。いかにもゲンキンかもしれないが、ビジネスや組織の場で活用できるカレンシーは、想像以上にある。

  1. 気持ちの高揚や意欲を喚起するカレンシー(ビジョン、卓越性、倫理) : 組織のためになる、より大きな価値がある、重要なことを上手くやれる機会が持てる、「正しい」ことを成し遂げている――こうした気持ちを相手に渡せることで、相手を「その気」にさせることができる
  2. 仕事そのものに役立つカレンシー(リソース、学び・成長、支援、対応、情報) : 予算、人手、場所、時間、スキル向上のチャンス、業務的バックアップ――これはそのまま交渉のテーブルに乗せられる「価値」
  3. 立場に関するカレンシー(承認、ビジビリティ、評判、接点) : 努力や能力を認める、幹部層の目にとまることで、所属感覚を持ったり、自己の重要性に気づかせたりする
  4. 人間関係に関するカレンシー(理解、受容、一体感) : 親身な態度や友好的な応答、私的なサポートを差し出すことで、相手との一体感を得ることができる
  5. 個人的なカレンシー(感謝、当事者意識、自己意識) : 恩義を受けたことへの感謝や、受けた恩義を忘れていないことをあらわしたり、重要な業務への責任感を感じさせたり、自己尊厳、アイデンティティを再認識させることで、参加モチベーションをあげることができる
 重要なのは、自分のカレンシーを低く見積もりすぎないこと。自分が誰の許可も得ずに使えるものは何か? に着目することで、自分が使えるリソースが意外にあることに気づくはずだ。リソースといえば予算や昇進(ポスト)しか思いつかず、それが無ければ交換に使える価値を持っていないと思い込むのはもったいない。

 感謝の気持ちを伝えること、正当な評価をすること、尊敬の気持ちを表すこと、仕事を手伝うこと、依頼にすばやく応えること―― 自分が使える資源を広くとらえることで、相手の望むカレンシーを差し出すことができるのだ。

■6 相手との関係がこじれている場合はどうする?

 「相手が望むもの」が分からない。自分のカレンシーが相手に合っているのかどうか、確認したい。こういう場合は、相手との関係がこじれているときがほとんどだろう。お互い、疑心暗鬼に陥っていて、何を言ってもうまく伝わらない状況に違いない。

 こんなとき、どうする?

 本書では、強力な方法が紹介されている。それは、「直接当人に訊け」だそうな。相手との関係は最悪か、それよりマシなぐらいか。しかし、それでも、あえて、単刀直入に聞いてみろ、とアドバイスしている。以下のコピペが役に立つ。

少しでもあなたの助けになれるように、少なくとも邪魔しないで済むように、どんなプレッシャーを受けているかを、教えてください。私たちの業務と関係があるし、お互いに助け合えば利点があると思うのです。
 これは経験がある。以前イヤな目にあった相手に否定的な感情を持ち → 相手を避ける → 悪意があると思い込む → 相手を責める → 影響力が発揮できない → 相手に否定的な感情を持ち(以後ループ)…

 ハマりこむ否定ループから抜け出るのに、わたしが取ったシンプルなやり方は、「相手のところへ出向いて、直接聞き出す」だった。もちろん同僚とはいえアポイントを取り、相手の席へ出向いて、下心なく真摯に聞く。本書で指摘するとおり、「あなたが聞いてくるとは思わなかった」と言われた。こちらがネガティブなイメージを抱いていると、相手にも伝染るというのは本当。相手もわたしを恐れていたようだ。ちなみに、このミーティングは成功で、両方ともに良い結果が出せたと申し添えておく。

 わたしはエイヤっと飛び込んでいったが、本書ではもっと成功率の高いノウハウが詰まっている。

 まず、相手の動機と意図を否定的に「予断」することを止めろという。理解しがたい行動を取った相手の意図を、その「性格」のせいにするなと。代わりに、前述の「環境」に拠るものではないかと考える。自分の気に入らないことをするからといって、相手を悪者扱いしたり、愚者だと決め付けることは、ものスゴい魅力的に見える。しかし、それは結局、自分の首を絞めることになる。

 次に、相手とのチャンネルを開けという。相手に直接いくまえに、相手のことをよく知る同僚に確かめることで、相手に対する理解が深まる。相手を避けることは、相手の正しい情報が減ることだ。だから、正しく判断することはますますできなくなる。これを肝に銘じて、接点を増やせという。

 そして、誠心誠意で問いかけることが重要。何とかしてやりこめてやろうとか、質問の皮をかぶった非難になってはいけない。否定的な「どうして○○してくれないのですか?」といった質問は、問いかけているのではなく、責めているのだと心得ておく。否定的にとらえないための問いかけコピペとしては、こんなものが紹介されている。

  • あなたが対応しなければならないプレッシャーについて、もっと理解したいのです
  • あなたの業務担当の内容と役割を教えていただけるでしょうか?
  • あなたの懸念を減らすためにお役に立つことで、私にできることは何でしょうか?
  • ○○について懸念をお感じのようですが、それは具体的にはどのようなことですか?
 最悪の場合、無視されるか追い払われるかだ。しかしそれはまずありえない。率直に問いかけてくる場合なら、相手はたいてい歓迎する。また、自分が置かれている状況を説明するのは、けっこう嬉しいもの。オープンな態度で行くならば、どこまで「さらけだす」かは別として、困っていることをなるべく話してくれるだろう。

 「いや、それでも相手はガンコなんだよ!ワガママなんだよ!」と自分が思う場合は、自分を疑ったほうがいい。相手へのわだかまりで自分自身の視線がゆがんでいないか、コミュニケーションチャネルを合わせることを放棄していないか、もう一度考え直した方がいい。影響力を行使する一番の障壁は、自分自身なのだから。

■7 参考URL

 残念ながら、本書は "Influence without Authority"(権威のない影響力)の全訳ではない。全16章のうちの前半9章を翻訳したもので、応用編がごっそり抜けている。スピードを重視して「影響力の法則」の真髄をまずお届けしたかったそうな。mottainai.

 それでも、この前半9章だけでも非常に参考になると思う。文字通りゲンキンなところもあるが、ビジネスの場はこれぐらいドライでもOKでしょ。むしろ、このくらい計算高くないとしのいでいけないのかも。

 以下、参考URLを記載しておく。

"Influence without Authority"の本家本元がここ↓より複雑な事例が紹介されている。
Influence without Authority

その一部の日本語訳は、ここ↓に集められている。研修プログラムなども用意されているが、本書を読んでから考えてみるといいかも。
Influence

翻訳者のブログでは、セミナーの案内、著者からのメッセージが紹介されている。
影響力の法則 あれこれ

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無制限の想像力が爆発する「やし酒飲み」

やし酒飲み ブッ跳んだ小説。いかにもムラカミハルキが書きそうな。

 ナイジェリアの作家、エイモス・チュツオーラが書いた、奇想天外な大冒険。やし酒を飲むしか能のない男が、鳥になったり神になったり石になったりして、やし酒づくりの名人を探す旅。

 想像力のナナメ上を形容して「荒唐無稽」といわれるが、こいつは次元すら超えている。頭蓋骨だけの生き物。地をはう巨大魚。後ろ向きに歩く死者…そこには人と神と精霊と妖怪の一切に区別がなく、生者と死者も一緒くた。形や大きさ、運動を支配する法則は通用せず、因果も論理もめちゃくちゃだ。

 語りくちすらぶっ壊れている。冒頭はこうだ。

わたしは、十になった子供の頃から、やし酒飲みだった。わたしの生活は、やし酒を飲むこと以外には何もすることのない毎日でした。当時は、タカラ貝だけが貨幣として通用していたので、どんなものでも安く手に入り、おまけに父は町一番の大金持ちでした。

「だ・である」と「です・ます」を混交させたり、地の文だったはずが語り口調につながってたり。読んでいるこっちが奇妙な気分になってくる。このヘンテコな日本語は、原文の壊れた(?)英語の雰囲気を出すために実験的に編み出されたらしい。原文の書き出しはこうだ。
I was a palm-wine drinkard since I was a boy of ten years of age. I had no other work more than to drink palm-wine in my life. In those days we did not know other money, except for COWRIES, so that everything was very cheap, and my father was the richest man in our town.
 やし酒飲みに相当する"palm-wine drinkard"が曲者。"drinker"(飲む人)と"drunkard"(大酒のみ)を掛け合わせたような造語が目を引く。さらに、酒を飲む「ほかは」のつもりで使っている、"more than"は、フツー"other than"だろ常考とツッコミ入れる(この辺りは解説の受け売り。この奇妙な英語にまつわる種明かしは、全読してからチェックしよう)。

 でも、おもしろい。ばつぐんに、おもしろい。

 マンガでいうなら、エノモトや戦車の「不条理マンガ」を初めて読んだときと同じ気分みたいで懐かしい。次から次へと、事件が死が暴力がひっきりなしに現れ出る。そのむちゃぶりに振り落とされないよう、言語レベルで既におかしな文にしがみつく。

 ご都合主義な呪術とか変なしきたりとか狂った問答に驚かされる一方で、妙に細やかな細部とかミエミエの策略とか微妙にお約束どおりの展開に笑わせられる。そもそもそんなチカラがあるのなら、最初に使えよ!と何回ツッコんだことか。

 ナナメ上を超えた想像力が全ページで炸裂しており、印刷された白と文字の黒の二色しかないはずの紙上に極彩色が踊っている。本、特に「小説」というのは書き手と読み手が同じ世界観というか文化に乗っかってはじめて成り立つんだということが、イヤっていうほど知らされる。いったん両者をディスコミュニケートさせると、合理的な世界の脆さや精霊の世界の近さが分かる。この感覚は、ハルキ臭ぷんぷんだね――ああ、逆か、逆だった。彼ならこれを10倍に希釈して大長編に仕立て上げるんだろうね。

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宇宙へのハイパーリンク「宇宙エレベーター」

宇宙エレベーター 「宇宙エレベーター」は誘い水。その奥は深くて広いサイエンス・エッセイ(ちょい"ムー"が入ってる)。

 これまでと異なる視座を手に入れて、もう一度この世界を眺め回すおもしろさ。科学+想像力の限界までストレッチしてるので、免疫がない方には「世界を変える一冊」になるかも。ただし、かなり敷居を下げているので、好きな人にはモノ足りないだろう。

 著者は、トルコ人初の宇宙飛行士候補、アニリール・セルカン。ATA宇宙エレベーターの考案者としてNASAの宇宙開発に携わっている。宇宙飛行士を目指すヘヴィ・スモーカーなのがユニーク。人類未踏の「宇宙で喫煙」(Space Smoking)を実現させたら、いろんな意味で話題になるね(「プラネテス」の船長フィーを思い出せ)。

 宇宙エレベーターのアイディアでNASA案と一騎打ちするところがおもしろい。当初のNASA案は、地表から建造物を伸ばしていく方式で、外側(宇宙側)へ引っ張ってもらう力がどうしても必要になる(建造物が重力に負けてしまうから)。この力をどこから持ってくるかが課題だった。

 いっぽう、著者セルカン氏の案は、宇宙空間からスタートして、継ぎ足し継ぎ足しで伸ばしていくやり方だという。これは、静止軌道に重心がくるように上下(宇宙方向と地球方向)に向かってエレベーターを作っていく「楽園の泉」(A.C.クラーク)のアイディアを大胆に応用している。セルカン氏のblogより引用すると――

宇宙エレベータとは、地球から約3万6000km離れた静止軌道上まで伸びた「新輸送システム」です。ロケット等よりも安全で、低コストでの運搬が可能になると言われています。現在は建設や運用などの問題で実現していませんが、将来、宇宙エレベータで軌道上の宇宙ステーションと地球を結ぶことができれば、宇宙空間への観光や、生活も夢ではないかもしれません
(アニリール・セルカン「宇宙エレベーター」が、アニメになりましたより)
 現実に寄り添った夢を見せてくれる一方で、宇宙の外へ目を向けている。11次元宇宙理論や「シワだらけの宇宙」なんて、(書いてあることはやさしいものの)想像を絶する世界だし、シュメールやアステカの古代文明に宇宙船のことが記されていた!なんて件は思わず参考文献をチェックしたぞ(学研の「ムー・スーパー・ミステリー・ブックス」が版元だったぞ)。

 何よりも、大笑い&大満足だったのが、「タイムトラベラーの注意点」。未来科学か誇大妄想か、時間旅行の現実性に対する究極の問題が提示されている。

step1 : 地球はおよそ時速1600kmで回転している

仮に、タイムマシンで一時間前に戻るとするならば、出発したのと同じ場所にまた出てこようとしても、地球は回っているので出発地点より1600km離れたところに出てしまう

step2 : 地球は太陽の周りを時速1万6624kmで回っている

その結果、正確には出発地点より1万8224km離れたところに出てしまう

step3 : 太陽も時速8万6400kmで銀河を移動していたり、銀河もアンドロメダに向かって時速24万kmで移動していたり、さらに我々の宇宙がある場所自体が、乙女座グループの方に時速160万kmで移動したり、さらにさらに、乙女座グループも含めたグレートアトラクターと呼ばれる道の空間に、時速214万7200kmで移動している!

つまるところ、タイムマシンで同じ場所から同じ場所に1時間戻るだけで、スタート地点から490万1824kmも離れたところに出てしまうのだ!

 タイムトラベルを考えるならば、地球の中だけではなく、宇宙全体をソトから見て考えていく必要があるというわけだ。時間のラセンを飛び越えるだけじゃなくって、座標軸の指定も、タイムマシンにおねがいしなきゃね(デロリアンDMC-12は年月日しか入力できなかったようなwww)。

 この本を教えていただいたのは、Tさんのおかげ。ありがとうございます。素晴らしい本をオススメいただいて、感謝しています。この本を読むと、セルカンさんに会いたくなりますねッ

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生きてる人、いますか? 「CROSS†CHANNEL」(18禁)

CROSSCHANNEL 愛は差別だ、というシンプルな結論にたどりつく。そして、世界は(やっぱり)自分が観測しているから在る、とも思い知らされる。

 生きているのなら、生きつづけていてほしい。すべての価値観は、生きている上になりたつのだから――主人公の何気ないメッセージが、こんなに重くなるとは。

 「他者」なんていらない、きみさえいてくれれば。そして、女をひとり引き受けるのは、リアルのほうが簡単なことにも。慣性に従って生きていくことができるから。

その慣性が破綻するときはきっと――

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時間感覚を変える「アフリカの日々」

アフリカの日々 「ライ麦畑でつかまえて」のホールデンが絶賛してた小説、といえば思い出すだろうか? ほら、図書館員が間違って渡したやつ。

 読んでいるとき、時間の流れかたを意識するほうだ。(物語の)中の流れと、読み手のわたしの時間と、両方を意識する。もちろん物語の流れは一様ではないし、外のわたしの感覚も一定ではない。ちょうど、併走する自動車の窓ごしに握手するようなもの。うまくシンクロするとフロー感覚が得られ、スピードアップすると「めくるめく」という表現を当てはめたくなる。

 そういう意味で、ディネセンの「アフリカの日々」は、まるで違う時間が流れている。

 そこにはディネセンの時間が頑として在り、わたしは自動車を降りざるを得ない。この語りにつきあうために、歩いていくほかない。著者は自動車に乗ったり飛行機に乗ったりするが、流れくる時のスピードは歩くのと変わらない。いつものように、うっかり速度をあげると、美しい光景はあっというまに消え去る。

 中の時間感覚は、こんなカンジ。

時間についても、土地の人たちはゆったりとした友好関係をたもち、退屈して時間をもてあますとか、ひまつぶしをするとかいうことはまったく考えてもみない。実際、時間がかかればかかるほど、彼らは幸せなのである。たとえば、友人を訪問するあいだ、あるキクユ族に馬の番をたのんだとしよう。すると、彼の顔つきは、その訪問がなるべく長びけばよいと思っていることをあらわに示す。彼はそういうとき、時間をつぶそうとはしない。腰をおろし、しずかに時の流れと共に生きてゆくのを楽しむのだ。
 土地の人に引きずられ、ゆっくりたっぷり読む。じっくり読みを強要させる、いい小説だ。おかげで、わたしの読書スピードに super low があることに気づいた。

 この変化は、時のとらえかたそのものにかかわってくる。この変化は、わたしの中に、ひとつの偏見があったことを、強制的に気づかせる。つまり、時間というものは、何かをぎっしりと詰め込むような器ではないことに気づく。数字で区切ったり、予定を入れたり、仕事でも遊びでも、いつも何かをしていなければならないもの―― それが時間だという考えが、ひとつの観念にすぎないことが理解できる。

 ある人々は、この偏見に気づくことができない。時間とはスケジューリングされるものであり、オンならあらゆる予定を、オフなら"vacant"を隙間なく入れ、「消化」していくものだという人がいる。イベントに満ちた人生を送れるだろうが、この本は読むことすらできない。まず「あらすじ」を知りたがるだろうし。物語の起伏はあまり期待しないほうがいい、ゆっくりしているから。

 アフリカのコーヒー園を経営する著者が出合った人々、出来事がゆったりとした筆致で綴られている。見所のひとつは自然描写の美しさ。

サファリに出ていたとき、バッファローの群れを見たことがあった。百二十九頭のバッファローが、銅色の空の下にひろがる朝霧のなかから、一頭、また一頭と現れた。力強く水平に張りだした角をもつ、黒くて巨大な鉄のようなこの動物たちは、近づいてくるというよりは、私の目の前で創りだされ、過ぎさるというよりは、その場でかき消えるように見えた。
 キリンの優雅さを花弁にたとえたり、象の群れの決然とした様子をペルシャ織としてあらわしたり、著者は巧妙にアフリカの自然を切り取っている。

 アフリカの美しさだけではない。著者の農園に大打撃をあたえるイナゴの大群のエピソードは、その混乱をよそに非情なほど的確な書き口で描写されている。

襲来が最高潮に達すると、それは北欧のブリザードに似て、強風とおなじヒューヒューいう音がし、身のまわりにも頭上にも小さな硬い怒り狂う翼が飛びかい、日光をあびて薄い鋼の刃のように輝きながら、しかも太陽をさえぎってあたりは暗くなる。

 時系列になっていたり無視したり、こんな調子で語りつむぐ。いくらもしないうちに、著者はもうアフリカにはいないのだな、ということに気づく。そこの思い出をぜんぶ伝えたいという強い気持ちが伝わってくる。

 あまりに強い思い出なので、同じ出来事がくり返し形を変えて語られる。読み手はデジャヴを覚えながらもすでに聞かされた出来事を幾度も目にするうちに、ディネセンの思い出のいくつかは伝説になりはじめる。

 一人称で語られるにもかかわらず、「私」の細部はほぼ完全に無視されている。夫も子どももいるはずなのだが、登場するのはほんのわずか、しかも「夫」「子」と呼ばれるだけ。交友の大部分は土地の人々なのだ。

 彼女が語りたいこと全部に耳を傾けた後、解説を見てみよう。びっくりすることを請合う。省略された「細部」の大きさと重さが、彼女の土地の人へのやさしさを裏付けていることが分かるに違いない。この小説の本質を、訳者は見事に言い当てている。

この作品は、なにを書いたかとおなじくらい、なにを書かなかったかによって成りたっている

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「ザ・ロード」はスゴ本

 ピューリッツァー賞を受賞した傑作。

 だからなのか、どいつもこいつも誉めまくり。毒舌で鳴らしてる豊崎由美氏をして「問題作にして傑作」とまで言わしめているのだから。もちろんわたしも誉めますが何か?

 カタストロフ後の世界を旅する、父と子の物語。劫掠と喰人が日常化した生き残りを避けて、南へ南へ――食べ物を求めて? 食べられないように? 残った弾丸の数を数えながら、こんな地獄ならいっそ―― わたしと同じことを、この「父」も考える。

 終末世界で人として生きるのは、かなり難しい。

 地の文から句読点を外し、会話をくくるかっこ「 」を廃した、全編独白のような文体は、慣れるのに苦労するかも。その代わり、どこに注目すべきか、無駄も隙も否応もなく入ってくる。

やるべきことのリストなどなかった。今日一日があるだけで幸運だった。この一時間があるだけで。"あとで"という時間はなかった。今がその"あとで"だった。胸に押し当てたいほど美しいものはすべて苦悩に起源を持つ。それは悲しみと灰から生まれる。そうなんだ、と彼は眠っている少年にささやいた。パパにはお前がいる。

 この文体のおかげで、前作「血と暴力の国」では暴力のシンプルさが際立っていた。いっぽう本作では、色彩と時間を喪った世界をとても"狭く"見せている。俯瞰視点がないんだよ。つまり、すべての動作は見える範囲で完結しており、すべてのリアクションは息継ぎせずに語り終えられる。

 もちろん、「なぞらえ」もやったぞ。自ら「火を運ぶ人」に擬する会話が繰り返されるところから「プロメテウスの火」を、ショッピングカート+幼な子から「子連れ狼」を、それぞれ思い浮かべた。キリストを背負った聖クリストフォロスまで引いてくる方もいる(=豊崎由美氏)けど、すげぇ深い読みやね。

 なぞらえ読みも愉しいが、こいつは素直に読みたい。喩えを探して読むよりも、むしろそのまま「わたしだったら、どうする?」と考え考え読む。子どものためなら鬼にも魔にもなれるが、子どもには人でいてほしい、いてくれ、と願うのは父のエゴなのか。

 「奪い・犯す」世の中で生きていくためには、やはり、「人」をいったんやめる必要があるのではないか。「隠れ・逃げる」生活は、いずれ捕まる。かつて「人」だった連中なのか、あるいは飢えか、どちらにせよ、捕まえられる。そうならないよう、新しい世界で生きていくための原則と訓練を叩き込むのが「父」なのではないか。

 幼いわが子が生きていく未来を案じ、苦しいほどの愛おしさを抱いている。この愛おしさは、作中の父と一致する。ラストのくだりで落涙するいっぽう、そこに至るまで父が「してこなかったこと」に真剣に腹を立てる。

わかってる。ごめんよ。でもパパの心は全部お前のものだ。今までもずっとそうだった。お前が一番の善い者だ。ずっとそうだったんだ。

 だからこのラストは、作者の偽善でしかない。父がやったことは、黒よりもなお暗い闇にわが子を置き去りにしたことに等しいから。結局、父のエゴイスティックな願いは聞き届けられることになるのだが、あれほど神なき荒涼を見せつけられた後では、とってつけた救済に見える。「傑作」を乱発するどいつもこいつも、「父」を知ってるのかよ、安易に感動するこいつらのために、真逆のラストも用意してやれよ、ほら、キングの「クージョ」を思い出せよ――と、うめく。

 恐ろしいほどのリアリティに、このラストに反発する。それだけこの小説に「囚われ」たからか。これ、父をやってる人とそうでない人で、評価が変わるね。

 すべての父に必読の一冊。

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ドラッカー「マネジメント」はスゴ本

 マネジメントの原則がわかる、いわば原液。

マネジメント1 そこらで1,500円で売っている「ビジネス書」は、本書の一部をうす~くのばして「再利用」していることに気づく。広い世の中、「ビジネス書を読むのがシュミ」なんて変わった御仁もいそうだが、100冊のビジネス書より、1冊の本書を使うべし。

 しかしこれ、厚いんだよね。巨大な辞書といったカンジで鈍器にピッタリ。

 もちろん、図書館の期限内で読みきれるはずもなく、痛勤電車に持ち込めるはずもなく、むなしく延長と延滞の日々を重ねてきた。抄訳である「エッセンシャル版」は読んだのだが、ブツ切りの主張が脈絡なく連なっている。

 それが、ありがたいことに分冊版が出た。4分冊になっており、その第1巻を読む。おかげで、彼の考えを順番に追いながら、一緒に考え抜くことができる。すこし読むだけで「気づき」が山ほどでてくる。付せん使うなら、全ページに貼るハメになる(ヘタすると1ページに2つも3つも貼る)。

 だから、本書を「まとめ」ることはできない。目次でお茶にごすことも、ピンときた文句を切り貼りすることもしない。それは既に、どこかの「ビジネス書」がやってきたことだから。功なり名なり遂げて重役椅子に座っているオッサンが、1,500円の自著のためにコピペすることと一緒だから。

 なので、「わたしが陥っていた罠」の話をしよう。以下、本書のレビューではなく、「マネジメント」でガツンと気づかされたことの一例になる。

■1 生産性の罠

 仕事を効率化し、生産性を上げよという。

 そこで、Lifehack本を買ってきて→マネして→やった気になる。これが、「わたしが陥っていた罠」だった。同じ作業を、より短い時間で終わらせることが「生産性を上げる」と思っていた。

 たとえば、プログラムを組んでいるとき。このときは、「時間あたりの行数」が、生産性を測るしるべとなっていた。たくさん書けた日は、よくがんばったんだと自分を評価していた。あるいは、仕様書やマニュアルを書くとき。この場合、枚数が指標となっていた。大量の文書を作っては悦に入っていた。コード行数、文書量、モジュール、ファンクションポイント、クラス… なんであれ、「出来高」で測定するしかない。

 ここに、品質の要素を持ち込んでもいい。「たくさん書ける⇒品質が悪い」のではなく、より短い時間で書けるのだから、余った時間でレビューすればいい。生産性の高い人は、そうでない人が書くコードの量と同じだけの量を、書き上げるだけでなく、洗練させ、テスト済みまでできるのだ――そう信じていた。

 この罠にとらわれていたとき、たった一行の条件文で劇的に性能を向上させたり、1枚のエグゼクティブサマリーを作るのに一日かける人は、その生産性を測ることができなかった。時間と行数は、完全とはいわないまでも、ほぼ等価交換できるものと見なしていたからね。自覚せずとも、人月の神話をつくり出していたわけだ。

■2 生産性とは何か

 ドラッカーの答えはシンプルだ。「生産性は、貢献で測れ」という。そして、何がどう貢献したかについて、マネージャーが注意深く考え直すことで、生産性について正しく定義できると述べている。

 つまり、生産性を定義づけるものは、企業にとっての貢献であり、何を貢献と見做すかは、企業によって違うはず。ホントにコードを量産するだけで許されるような企業なら――もしあればだけど――単位あたりのコード量こそ生産性を測るモノサシとしていいだろう。

 この件を読んだとき、ピンときたのは、ゴールドラットの「ザ・ゴール」だ。危機的状況の工場を立ち直らせたマネージャーの話だ。そこに、こんなエピソードがある。

 ―― 製造ラインの効率化のために、あるプロセスに最新鋭のロボットを導入した。しかし、抜本的な向上にいたらなかった。なぜか? マネージャーは試行錯誤の末、特定のプロセス『だけ』改善しても、その前後に仕掛かり中か在庫の山を築くだけにしかならないことに気づく。そして、むしろライン全体の効率を上げるには、最も遅いプロセス(ボトルネック)か、制約条件の一番厳しいプロセスに着目すべきだと悟る(たしか、鎖の強度はその最も弱い環に一致すると喩えていた)。

 そのあたりのスリリングな展開は「ザ・ゴール」を読んでいただくとして、全体最適化を測るための便利な言葉が「貢献」だ。たとえば、あるプロセス改善案をこう考えるわけだ――「その改善はどう貢献するのか?」ってね。きっと、二つの質問が出てくるはずだ。

  1. 何がどうなれば「貢献」したことになるのでしょう?
  2. 上の1. ができたかどうかは、どうやって測ればよいでしょう?

 すると、単位あたりの出来高だけでなく、品質や納期、リリース後の話にまで拡張するだろう。不具合率だけでなく、故障率や稼動量、MTBFや量あたりの受注額にも至るかもしれない。「この改善案で○% 増量できます」の発想だけで思考停止している限り、絶対に考えられない。

 そして、貢献を数値化するのはマネージャーの仕事だ。マネージャーは、「何が貢献になるのか」という目で仕事を見るようになる。必然的に、「何に対する貢献? ⇒ 貢献の対象となる目標は何か?」と自問するようになる。

■3 目標による管理

 「貢献」という言葉を使うとき、必ず「○○に貢献した/する」と目的語が必要だ。その目的語こそが、目標になる。そして、目標を決める際、「自社の事業は何か、将来の事業は何か、何であるべきか」という問いを元にせよという。

 この問いは、幾度も読み手に突きつけられる。既存の製品、サービス、業務プロセス、市場、最終用途、流通チャネルなどを体系的に分析し、現在も有用性を備えているだろうか? 今後も顧客に価値を届けているだろうか? 人口構成、市場、技術、経済の見通しに、適合しているだろうか?

 その答えが「ノー」なら撤退せよという。あるいはそれ以上資源を使わずにすます方法を考えろという。この問いを真剣に、体系的に追求し、その答えを受けて経営層が動く必要がある。

 残念ながら、わたしが働いている場所からそうした動きは見えない。しかし、経営層のデスクから個々の仕事場レベルまでトップダウンで振り下ろせる価値観は、本書を通じて見出すことができた。

 わたしの仕事は「システム屋」だから、先に述べた貢献を数字にして、「モノサシ」を設定すればいい。そして、半年ごとに当てなおすことで「生産性」を測定することができる。より少ないコード・不具合でもって、より多い受注額をまかなえばよいのだから。

 極端な話、受注したシステムを作らずに"持ってくる"のが、最も「貢献している」ことになる。あるいは、基幹系だけを共有化させ、あとはカスタマイズを別料金で取る「口利き屋」か(PROBANK?J-BOX21?)。さらに、システムってーのはべつにITだけで成り立っているだけじゃないから、そのオペレータやデータセンターも「込み」で提供するほど一体化するのか。

 社畜の妄想はさておき、「生産性の罠」に気づいたのだから、めっけもの。そんな「罠」がもりもり見つかるので、いわゆるエグゼクティブクラスでなくても読むべし。さらに、本書を読むことで「何を価値として提供するのか」という見方を得る。

 1,500円のビジネス書を100冊読むよりも、本書を使え。

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人を魔にするもの「闇の奥」

闇の奥 映画「地獄の黙示録」の原作だが、深淵を覗き込む感覚はこっちが上。

 怪奇譚として読んだが、不安感覚が続くつづく。霧の中に連れて行かれ、そのまま取り残されたような気分になる。著者コンラッドの意図的な不明晰さがそうさせているのか。解説によると、彼自身、foggishness と呼んでいるそうな(コンラッドの造語で『霧的』とでも訳せばよいか)。

 コンゴ奥地で王として君臨する白人、クルツの狂気を核に、崇拝する異形の黒人たちや、死臭をたたえて流れる大河、人の侵入を拒絶するジャングルが取り囲むように配置されている。物語の語り手は原生林の奥深くに分け入り、クルツに会いにいくのだが――

 同じ深淵を目指したノンフィクション「コンゴ・ジャーニー」よりも、もっと粘度の高い恐怖が描かれている。命の危険を感じる「怖さ」ではない。もっと原初的なものにふれて強制的に呼び覚まさせる純粋恐怖が語られている。遺伝子に刻み込まれた、ケダモノだったときの記憶が、直接刺激される。

 西洋文明の歴史が、自然をねじ伏せ勝利する過程であるとみなすなら、ねじ伏せる対象としての荒野(wilderness)が圧倒し、逆に呑み込まれるのは恐ろしかろう。このあたり、日本人には違和感があるかも。"disaster"が、なゐふるや野分と呼ばれてた頃から、「自然とは意のままにならぬもの」と折り合いをつけてきたからね。

 べつの読み方もできる。

 「闇」とは、アフリカ奥地の闇でもある一方、人の心の闇、西洋文明の闇をも含むと見做し、本作全体を帝国主義の寓話として読む。帝国主義の支配の尖兵を担ったクルツが、原始の闇に呑み込まれ悪鬼のごとき所業を果たす。読み手は語り部とともに、彼が囚われた狂気を腑分けし、血まみれの手を眺めるんだ――と、告発書のように読むのも一興。

 さらに、別の読み方もできる。

 ヨーロッパ人がアフリカで行った恐るべき殺戮――これはヨーロッパ人ではなく、アフリカ化(africanization)したヨーロッパ人がやったんだ。「だからヨーロッパにいるヨーロッパ人は悪くないんだ」という含意をにじませた、都合のいい責任転嫁のための手引書――と、西洋人の免罪符のように読むのも愉しい。

 多重・多層な「読み」ができる。だが、はじめに書いた「原初の恐怖」を味わうために手にする方が、読み手として素直だろうね。訳書はたくさんでているが、最新の藤永茂訳が圧倒的にハマりやすいのでオススメ。

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7月7日は目が離せない「三菱東京UFJの憂鬱」

 もちろんハルヒでも洞爺湖でもなく、三菱東京UFJ。

 勘定系統合「Day2」 ―― 開発工数11万人月、投資額2500億円におよぶ史上最大のシステム統合プロジェクトが正念場をむかえる日だ。

 「5月にやったじゃん、ATMでトラブってた」という声があるが、あれは単なるバージョンアップで、難易度は低い。

 旧東京三菱と旧UFJ、メガバンクを統合させるにあたり、新規システムを作るのはぶっちゃけありえない。だから、どちらかのシステムに片寄せすることになる。片寄せされる方は「のりしろ」を準備したシステムにバージョンアップするわけだ。

 5月にやったのはこのバージョンアップで、旧東京三菱の250店が「のりしろ」付きシステムに切替えただけ。大山鳴動してトラブル262件だったのも頷ける。

 しかし、7月7日から始まる実質正念場では、旧UFJの420店が、旧東京三菱システムを土台にした新システムに移行していく。言い方をかえると、日立のシステムがIBMの勘定系に「片寄せ」する形になる。難度は飛躍的に上がっている。

 下馬評ながら処理能力の高いと言われる日立製システムが、なぜIBMに「寄せ」なければならかったかというと、旧東京三菱が旧UFJを救済するという政治的事情があったから。

 Project-Day2 の詳細が公開されるのはずっと先だろうが、結果が出るのはもうすぐ。吉と出るか、凶と出るか、みくるちゃんなら知っているだろうか? 「禁則事項です」

上手な謝り方 12月の完了まで、三菱東京UFJの憂鬱は続きそうだ。

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参考

「もう金融トラブルは起こせない三菱UFJの公的責任」 Foresight July 2008
「三菱東京UFJ銀行のシステム統合、成功しても顧客は理解できるか?」 IT+PLUS
「システム統合、難関に=来月7日に新段階-三菱東京UFJ銀」 時事ドットコム

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損得勘定の定石を知る「定量分析実践講座」

 コンサルタントやマネージャにとっては、武器庫になる一冊。定量分析実践講座

 もちろん意思決定を行うにあたり、数字で裏付ける重要性は分かってる。けれども、KKD(勘・経験・度胸)だけで決めてないだろうか。最後に「エイヤっ」と決めるとき、跳躍の幅は狭められないだろうか、着地点の精度を高められないだろうか。

 そんな意思決定の確実性を高める「定石」が16、紹介されている。

 しかも、16種の武器の使いどころや適用例が「case」→「思考のプロセス」→「解説」と三段階で説明されている。「実践的」と銘打っているのはケーススタディが豊富なためだろう。コンビニの新米経営者を主人公とし、彼が直面するさまざまな問題に対し、定量分析手法を駆使していく。その過程を通じて、読者にも武器が扱えるようになるのを狙いとしている。

 たとえば、サンクコスト(sunk cost:埋没費用)。

 PMBOKガイドで知っていたが、「死んだ子の年を数えない」方法。業務用冷蔵庫を購入するケースが紹介されている。A製品を購入するために20万円手付金を支払った後、B製品も同等の性能があることが分かった。しかも安い。トータルで考えると、Bを選んで手付け20万は「なかったことにする」のが合理的な例。


   A製品購入
             価格 80万円
             手付金 20万円(支払い済) ――(※)


   B製品購入
             価格 45万円


 しかし、この20万円が惜しくて判断がニブってはいけない。大切なのは、「これからの支出」に着目すること。そうすると、


   A製品購入
             これからの支出 60万円


   B製品購入
             これからの支出 45万円


 となり、Bを選ぶのが合理的なことは明らか。「手付け20万を足して、65万かかったんだ」などと死んだ子の年を数えてはいけない。

 著者はダメ押しで、「ナンピン買い」を紹介する。「ナンピン買い」とは、以前に買った株が値下がりした時点で買い増しし、平均購入価格を下げるような買い方だそうな。あえてそうす他の理由があるならともかく、過去を振り向いた判断は合理的ではないという。合理的意思決定とは、現時点から未来をみて行うものだから。

 コンビニの冷蔵庫や株取引の話だから、皆さん微笑して読めるのかもしれないが、実際の駆け引きだとこうはいかない。ツッコミどころ満載だねっ。

  • すでに○○千万円追加しており、ここで中止すると、もとの損失に加えて○○千万円の追加損となります(脅迫のテンプレ)
  • この実装には4週間の遅れが生じておりますが、生産性を上げることで遅れを取り戻す所存です(棒読みマネージャ)
  • このオンナにこれだけ使ったんだから、最後までさせてくれなかったら大損だ(ミツグ君の思考パターン)

 あるいは、複数の排反案を絶対額から選択する手法。

 臨時店舗を出店するにあたり、店員を何名にするといいのか? というケーススタディ。店員一人当たりのコストは25万円で、見通しが以下の場合、A,B,C案のどれが合理的か。

単位・万円店員数人件費前利益生産性人件費後利益限界生産性
A案  1      70  70    45    70
B案  2      110  55    60    40
C案  3      130  43    55    20

 著者は、こんな風に考えろとアドバイスする。

 人件費を考慮しなければ、C案が最も利益を出している。しかし、限界生産性は20万円で、一人当たりの店員コスト(25万円)を下回っており却下。じゃぁと効率(1人あたりの生産性)を重視するなら、A案がダントツ(70万円)になる。A案でファイナルアンサー?

 ここに、効率化の罠がひそんでいる。生産性を上げることは大切だが、生産性を上げるために臨時に店舗を出すわけではない。重要なのは、最終利益を最大にすること。どれか一つを選ぶ問題(排反案)の場合は、効率を最大化させるのではなく、絶対額の最大化を求めるべし。この例だとB案の最終利益(人件費後利益)が最大(60万円)。

 ここまで教科書的な事例は少ないだろうが、どんな武器を、いつ、どういう風に使えばよいかが理解できる。16種類の武器は以下の通り。

  1. 分散と標準偏差
  2. リスクとリターンのトレードオフ
  3. 回帰分析
  4. 限界利益
  5. 機会費用
  6. サンクコスト(埋没費用)
  7. キャッシュ・フローとNPV
  8. 独立案:効率性指標による優先順位づけ
  9. 排反案:絶対額での選択
  10. 混合案:限界効率の比較
  11. リスクと不確実性
  12. ディシジョン・ツリーとベイジアン決定理論
  13. 感度分析
  14. リアル・オプション
  15. システム思考、システム・ダイナミクス
  16. ゲーム理論

 注意が必要なのは、「武器の紹介」にとどまっているところ。ケーススタディと簡単な操作法がまとめられているだけで、使いこなすにはトレーニングが必要。本書だけであれこれ考えても、武器屋で素振りしているようなものだから。

 武器の種類は少ないけれど、扱い方をマスターするなら、以下の2冊をオススメ。

問題解決プロフェッショナル「思考と技術」問題発見プロフェッショナル―「構想力と分析力」

 どちらも徹底的に武器を扱いながらその思考方法を身につけることができる。これらで思考訓練を積んだ後、本書の武器を眺めると一段と違った輝きが見えるに違いない。

 紙数の都合上なのか、はしょったところや省いたところがあるが、網羅性を求めても詮ないもの。気になるなら、巻末の参考文献を手がかりに進めばいい。大切なのは、「いつ、どんな場合にこの武器が使えるのか?」をおさえることなのだから。

 あいまいさを最小化し、納得感を得られやすい数値で世界を表現する方法を知る。無味乾燥なデータから意味ある情報に変換し、「何が経済的に有利なのか」という経済性計算を考える。完全に徹底しなくても、「やり方」を知っているだけで大きく違ってくるぞ。

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