やりたいようにやればいいじゃん、しゅごキャラが憑いてるよ「楽園への道」
All kids hold an egg in their soul...
Egg of our hearts...
Our would-be selves... Yet unseen
... But adult?
「なりたいアタシ」や「ありたいジブン」は、普通、「夢」と呼ばれる。大きくなったら何になりたい? その子にとって大切なタマゴのようなものだ。みごと、そのタマゴを孵化させる人もいれば、割ってしまう人もいる。
だが、それは子どもがオトナになる過程で実現したり失ったりするもの。
では、いいオトナがそうしたタマゴを見出してしまったら、どうなる?
本書の2つの人生が、それぞれ答えを示している。ひとりは、ポール・ゴーギャン。高給と妻子を投げ捨てて、絵を描き始める。もう一人は、その祖母フローラ・トリスタン。貴族生活から脱し、労働者や女性たちの権利確立のために奮闘する。
自分を生贄にして楽園を目指す。ゴーギャンは芸術の楽園、フローラは平等な社会を。もちろん周囲には認められず、極貧と冷遇を余儀なくされる。その孤軍奮闘ぶりと確信・妄執っぷりは、何かに取り憑かれているようだ。
さらに、それぞれの半生と照らし合わせると、文字通り「人が変わってしまった」ようだ。まさにキャラチェンジという言葉がぴったり。安定した生活から離れ、精力的に動き回る。いくつもの国や海を「横に」移動するだけでなく、ブルジョアや貴族社会から最底辺まで「縦に」堕ちていく。文明化社会から野蛮人の生活にダイブする。夫の奴隷から逃げ出す。キリスト教的禁忌を破り、桁外れのセックスライフを味わう。
この生き生きと「移動」する2つの人生が、わたしの推進力になる。躍動する人生が流体クラッチのように伝わって、わたしのハートをアンロックする。
しかし、2人の軌跡は決して交じり合うことはない。ゴーギャンと、その祖母というだけで、それぞれ違う人生を生きた。そこを強調したいのか、著者のバルガス=リョサは巧妙な構成をとっている。
つまりこうだ。奇数章ではフローラの社会活動を、偶数章ではゴーギャンの退廃的な生活を交互に描いている。それぞれ混じることも譲ることもせず、互いに独立したストーリーとして成り立っている。
しかも、それぞれの章で自分の人生を回顧するシーンを差し挟み、さながら四重奏のバウムクーヘンのような対位法を実現している。また、地の文と同じつながりで10年前の回想を混ぜ込んだり、内的独白と客観描写を平気で並列させているので、読む方はけっこう忙しい思いをするかも。
たしかに、35歳以降のゴーギャンを「芸術というデーモンに取り憑かれた生涯」と評するなら話は早いが、冒険をするか常識的に考えて? 失ったものがあまりに多すぎる。祖母のフローラだってそうだ。ペルーで何不自由ない生活を送れたのに、それを捨てるどころか真逆の、いや誰もやったことがない人生を歩み始める。
そして、病と貧困にあえぎ、「わたしがやってることなんて、何ひとつ意味なんてないのかもしれない」と夜ごと絶望に悶える。そのさまを見せ付けられると、軽々しく「好きを貫け」なんていえなくなる。
それでも、彼・彼女はそういう人生しか生きれなかったんだ、と納得する。モームの「月と六ペンス」で植えつけられた「なぜ?」が、憑き物が落ちたように分かる。ゴーギャンは、楽園を目指したんだ。たどり着くことはなかったけれど、求めていく過程を身もだえしながら生き抜いたんだ。

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