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人生を変えるのは恋と死。あるいは、ちょっとした行きちがい「ハワーズ・エンド」

ハワーズ・エンド 警告!本書に挟んである解説を読んではいけない。色紙のやつだ。

 編者の池澤夏樹氏が読書ガイドのつもりで書いており、あらすじや背景、おもしろがるポイントが紹介されている。ほとんど「さわり」だけなので、本文にとりかかる前に読んでいた――が、「ハワーズ・エンド」のやつはダメだ。重大なネタバレがあるから。

 自覚しているみたいで、ネタバレを書いた直後、池澤氏はこう続ける。

ぼくは先を急ぎすぎただろうか。ミステリで犯人の名を明かすようなことをしただろうか。しかし、この主題が正面に出てくるのは小説ぜんたいの半分まで行かないところだから、これは許していただきたい

 うはwwwおkwww、自分で分かってるじゃんwwwと噴きながら、もう一つの重大なバレも目にしてしまい、オレ涙目。そうかーあの人、死ぬんだー

 気を取り直して、彼が伝えたかったテーマを、バレ抜きで書いてみよう。この小説のテーマは、人と人との理解はいかに成り立つかを、さまざまな違い――階級、性、思想、格差、年齢――から描いている。上流階級のシュレーゲル姉妹と、実業家のウイルコック家、両家のつながりあいが、その中心軸になっている。

 一番てっとりばやいのは、男女の仲だろうね。だから最初の方でこんなセリフがある。

二人は恋仲にはなることができても、いっしょに暮らせない二つの違った型の人間だということなんですね。こういうことでは十中八九、自然の欲求と人間性が一致しないようなんですから
 このセリフは非常に予言的で、読み手は折に触れてここに戻りたくなる場面に飲み込まれる。同時に、このセリフはとっても象徴的でもあって、性を抜きにしても本書の勘所を巧妙に語っている。

 キャラクターが魅力的だと言われるが、登場人物が書き手を離れて勝手にしゃべって立ち回っている感じ。いや、著者のグリップから外れているわけではない。E・M・フォースターはちょっと距離をおいて暖かく見守っており、キャラ同士が交わした会話ネタにして、情景描写を演出するとこなんて、キャラへの愛すら感じられる。

 ただし、恋と死、それから偶然の行き違いについては、作者の作為性をびしびしと汲み取る。ある出来事をきっかけにして、両家の交流が遠のく日々が続く。有産階級の姉妹の日常がだらだら続くなぁと読んでて、ふと、次の警句が目を引く。

自分の名前というのは非常に遠くから聞こえるものである。
 ここから両家のつながりが脈を打ち始めるのだが、そこまでの出来事が伏線どころか主旋律だったことに気づかされる。その出会いは偶然でしかないのだが、仕掛けられた偶然だ。

 ここで小説家の御業を見てゾっとする。神は万能かもしれないが、小説家は登場人物を意のままに扱うことができない。だから、ちょっとした行き違い・偶然の出会いを仕組むことで、彼・彼女らを動かすのだ。

 読んでて気持ちがいいのは、フォースターがあちこちに埋伏させた格言や警句。これがいちいち唸るぐらいのデキで、しかもその本質どおりの展開となっているところ。警句が出てくるところは、物語が脈動するところだと思ってもよし。いくつか紹介しよう。

貧乏な人たちは自分が愛したい人たちの所まで行けないし、もう愛さなくなった人たちから離れることもできないんですから

自分以外の人間を信用するというのは金があるものだけに許された贅沢で、貧乏なものはそんなことをしてはいられないのである。

もしほうぼうの国の母親たちが集まれたならば、戦争はきっとなくなるのに
 カネにまつわる警句が多いのは、本書の主題でもあるから。金持ちと貧乏人がお互いに分かり合うためには、どのような努力を必要とするのか、あるいはそもそも不可能なのか? ラストで一つの答えを出している。

 最後に翻訳について。翻訳家として巨匠クラスの吉田健一訳なんだが、日本語が妙。「…は、…は、…が~」と主格を重ねたり、どう見ても It-that の強調構文を「それ」で直訳したり。英語というよりも日本語の貧弱さにひっかかった。

 だが、訳文でつまずいてたらもったいないぐらいの、いい話だ。会話に張られた伏線を手繰るのもよし、箴言拾いの場とするもよし、あるいは、「どうやって人と人とが分かり合えるか」をテーマとした、ラブストーリーとして読むのもいい。

 それぐらいよくできている小説。

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ライター必携「調べる技術・書く技術」

調べる技術・書く技術 一行目から気に入った。簡潔に、こうある。

あるテーマを設定し、それについて調べ、人に話を聞き、最後にまとめる技術を紹介するのが、本書のねらい

 もっと焦点をしぼれば、

  1. ノンフィクションのテーマ設定
  2. 資料収集のノウハウ
  3. インタビューのアポとりと準備
  4. インタビュー(聞き取り、観察、記録)
  5. ネットワーク作り
  6. 資料整理
  7. そして執筆の準備から脱稿までの方法
丁寧に徹底的に書かれている。プロフェッショナルの具体的な技術が明かされている。こんなに詳らかにしてもいいのかしらんと心配になるほどオープンだ。

 野球のバッティングにたとえるなら、「フォーム」にあたる部分が本書。ノンフィクション・ライターとして培ってきた膨大な技術の中から、一般にも役立ちそうな「フォーム」をレクチャーしてくれる。

 興味深いのは、書き手が「いい嘘」をついているところ。

 一般化できそうな「フォーム」に限定しているから、「著者の独創は最小限に絞ってあると」いうが、そんなの嘘っぱち。ライターとしての「お作法」が教科書のようにだらだら書かれているなら、わたしも読みはしないさ。

 けれども、最小限のはずの「著者の独創」があちこちに滲み出てて、いい味を出している。「独創」に語弊があるなら、書き手のアクというか信念のようなものが、あちこちに表出している。たとえば、推敲のテクニックの一つ。

自分の書いた文章を読み返すときには、必ず声に出して読むこと。黙読した際には「このままでよい」と思えた文章でも、声に出してみると、つっかえたり言いよどんだりするものだ。そのときには、ためらわずに書き直す。
 声に出して、リズムで文章を受け止める。この方法そのものは目新しいものではないが、「音読してつっかえるなら、ためらわずに書き直せ」と言い切るのがスゴい。きっと、著者はこれを実践しているに違いない。声に出して、自分ならではのリズムで言葉を乗せる。このリズムこそ、書き手の個性なのだろう。

 さらにスゴいのは、「書き出しに全神経を注げ」という部分。あたりまえじゃん、とツッコミ入れられそうなんだが、「文を書く力の7、8割を書き出しに注げ」とまで断言する。曰く、書き出しを読んでもらえなかったら、残りの文は全て読んでもらえない。だから、「つかみ」で読み手のハートをつかまえろという。

 ああ、確かに。わたし自身、リード文で残りを読む/読まないを決めているので、資料を執筆するときは、特にリード文に注力している(blogなら、タイトルと一行目だね)。

 ともすると「暗黙知」に陥りがちなノウハウが一貫してまとめられている。ライティング・テクニックそのものよりも、それを支えるもろもろの技術がいっぺんに見える。わたしがライターを目指すなら、こいつを手がかりに愚直に登り始めるね。

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「とらドラ!」はスゴ本

 読むと幸せになれるラノベ。

 目つきは凶悪だが心優しい竜児と、見かけは美少女なのに凶暴な大河が織りなす熱血最強ラブコメディ。どこかにいそうなキャラクターの、ぶっちゃけありえない展開に手に汗にぎる!にやにやする!泣いて笑って顔赤らめて、あの頃の「どきどき」を思い出す。

 学園モノが好きなのは、なかった過去を懐かしむため(?)

 登場人物にメモリアルを仮託して、予想通りの恋愛模様にニヤニヤする、スピンアウトする展開にドキドキする。うれしはずかしラブコメディ。エエトシこいたオッサンなのに、自分を抱きしめてゴロゴロ転がりたくなる悶えたくなる。このトシになると、「高校生活」はファンタジーと一緒なんだぁ。

 スゴいのは、巻を追うごとに濃度と体温と回転数がヒートアップするところ。そして、二人の関係はだんだん変わっていくところがいい。気がつかない(気づきたくない)自分の気持ちと向き合うことのまぶしさを、彼・彼女と同じように感じる。

 青春が「すがすがしい」なんてウソ。あつくるしく、重苦しく、痛痒い自分自身。ここに描かれてる「高校生」とはまるっきり違った過去なのに、もてあまし気味だったあの頃のじぶん感覚がハッキリと思い出されてくるから、ふしぎー

 そして7巻、絶叫したね、大河と一緒になって。脳内釘宮で。

 前著「わたしたちの田村くん」がダラダラ続けない2巻完結だったので、「とらドラ!」も終わるべきところで終わるかと。これがクライマックス前のカタストロフィなんだと予感している――というわけで、8巻は会社休んで立ち読みする!(←買えよ!)

 っつーか、レジもって行くヒマがもったいない勢いで、瞬間的に読みきって、読みたての一冊を抱えてレジに向かうだろうなー

とらドラ1とらドラ2とらドラ3とらドラ4
とらドラ5とらドラ6とらドラ7とらドラスピンオフ

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アフォーダンスを拡張する「数学でつまずくのはなぜか」

数学でつまずくのはなぜか 冒頭、こんな謎かけがある。

あなたが数学でつまずくのは、
数学があなたの中にすでにあるからだ
 かなりパラドキシカルなメッセージだが、最後まで読んだならば、ウソではないことが明らかになる。むしろ、この文をテーマとした一種のミステリとして読むこともできる。

代数でのつまずき 規範としての数学
幾何でのつまずき 論証とRPG
解析学でのつまずき 関数と時間性

 数学講師としての経験を踏まえ、それぞれの「つまずき」の根っこをズバリつかみとって見せてくれる。「どこに引っかかっているのか?」を推理しながらの問診は探偵じみてて面白いし、「犯人はそこだ!」と見つけ出すのは、代数なら代数の、幾何なら幾何の本質そのもの。

 いわば、中学高校における数学の、タネ明かしをしてくれる一冊。

 しかも熱血なトコがいい、体温高いよ、このセンセ。ラストの「プレゼント講義(3時間)」の件はじんときた。数学のセンセって、もっと冷静なイメージだったけれど、この人は真逆だね。アツくしつこく「数学なんて大嫌い」に付き合ってくれる。

 著者は、ワケ知り顔のオトナとは違う。「数学は役に立つよ」とか「数学はファンタスティックだよ」などと言わない。子どもたちが直面している「数学の忌々しさ」を肌身で感じているから。

 非常にユニークに感じたのは、アフォーダンスの観点から数学を問い直しているところ。アフォーダンスは、環境に実在し、人が生活していく中で獲得する意味(価値)と定義されているが、これを数学にまで拡張している。

 たとえば、ドアノブは「まわして引く・押す」ことを促している。これはドアノブに手が届くほど成長した子どもが知る「意味」だ。これと同様に、七曜日と七匹の魚を「同じ7」だと判る、数学的認識が獲得されているのではないか、と問うのだ。

 そして、その仮説を、「ユークリッド公理系とは、ロープレのようなもの」という子どもの気づきや、「xy座標の説明の前に、すでに場所を示す方法(行と列、経度と緯度)を知っていた」エピソードで裏づけしている。

 この考え方はスゴく納得が入った。小学生(低学年)の息子に「なぜ10で一桁くりあがるのか」と訊いたとき、「指が10本だから」と答え、さらに「もしも指が16本だったら」には、「16でくりあがる」と言ってたしwww

 ただ、とても残念だったのが5章。

 第1~4章とていねいに解説してきたのに、かなり端折って書いている。紙数が尽きたのだろうか、まるで別人向けのように飛ばしている。

 しかもこのテーマがとてつもなく面白く、かつ最初の「すでに自分の中にある数学」に直結しているネタなので、二重三重にもったいない。可能無限と実無限、カントールの挑戦、デデキントの無限は、合わせ鏡の深遠を覗き込んでいる気になってゾっとする一方、ラストで「すでに自分の中にある数学」を鮮やかに解き明かしている。

 最後に。この本と出会えたのは金さんのおかげ(レビューは[Personal_NewsN]、もっと深い思索をしてます)。金さん、ありがとうございます。得るところの多い、すばらしい一冊でした(MIUゲームの説明が本家GEBの10倍分かりやすかったですな!)。

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オンナを理解するための7冊

 知でやり込めれば腹立てる。情で迫ると無視される。正論通すと逆ギレだ。兎角オンナは扱いにくい。

 ケッコンして何年も経てば、ちっとはオンナを分かった気になれる。

 しかし、それはあくまで「分かった気分」だけ。「オンナを理解するなんざ、10万年早いわ!」とか、「生物的に似ているだけで、しょせん違う生き物なのさ…」なんて割り切りたくなる。男脳・女脳とか全部遺伝子のファンタジーにするとラクだもん。

 だが断る。

 このわたしが最も好きな事のひとつは自分で分からないと思っていることを「知る」ことだから。オンナが大好きだから、理解したい、ちょっとでも近づきたい。何を考えてるのか、知りたい。言葉にするとヘンタイじみているけど、いえいえマジメな知的好奇心ですぞ。

 というわけで、オンナの取扱説明書となる7冊をご紹介ー

■ S4G Sex For Girls!―女の子のための性のお話(内田春菊、飛鳥新社、2007)

S4G まず基本。「理解」「分解」「再構築」の最初のプロセスなら、これ。女子のカラダについては保健体育を熟読しても分かったことにならない。もっと生々しいところで彼女たちを「知る」ための好著。

 春菊本は「私たちは繁殖している」がケッサクだと思っていたが、これは実用的かも。「使える」という意味ではなく、「誰も教えてくれなかったけど、大事なこと」という意味で。

 たとえば、性器の洗い方。包皮と性器の間にできるチーズ状の物質のスメルは身に覚えがあるが、ムスコにちゃんと教えてなかったことに気づく。曰く「剥いて洗え」。あるいはムスメの場合。性的に興奮してなくてもワレメはぬるぬるで臭くなる、尿や分泌物でね。だから開いて洗うべし。

 さらに、子どもが「コンドームってなに?」と聞いてきたら何て答えるか、あるいは性交中に見られたらどうリアクションしたらいいか、といった正解のない答え(の一つ)が描いてある。春菊流だが自分でアレンジすればよろし。

■ 臍下の快楽(安彦麻理絵、ぶんか社、2008)

Hesoshita 若くて可愛いオンナの子だってセックスをする。ただし、その事情はオトコのあずかり知らぬところでな!

――なんて性春の主張が聞こえてくる。カラダを開くことはココロを開くことと一緒なんだよなーと見えてくる。もちろん隠しているココロの層もあるよ、オンナの子だもん。けれど、オトコのように「予め自分自身を偽っておく」といった卑怯なやり方はしない。騙すなら最初からそのつもりなのがオンナだから。

 そういうブラックなとこも含めて、コミカルに(←重要)語っている。自分ネタを痛くならない程度に演出しているのがいい(一歩まちがえると自虐ネタに堕ちるからね)。

 書影は復刊された最近のモノ。世に出たのは15年ぐらい前だから、斉藤由貴ネタが出てきたり、顔射が一般的でなかったり、ケータイが見当たらなかったり時代を感じさせるところはある。しかし、「オンナとオトコ」はこれっぽっちも古びていないと強調しておく。むしろ、ガールズ・サイドからの圧力が開放的となった今、ようやく時代が追いついたといってもいいくらい。

 実はこの2冊、ゆりさんの[ 女性がすすめる「女性」を理解するための基本の3冊 ]で手にしたわけだけれど、さすがわが愛娘(嘘)。痒いところに手が届くというか、掻いてみて気づかされるというか。ありがとうございます、三冊目の「愛すべき娘たち」(よしながふみ)も読みますぞ。

■ オンナの「建前←→本音」翻訳辞典(扶桑社、2007)

オンナの「建前・本音」翻訳辞典 次は「分解」プロセス。彼女らの建前セリフからホンネへ変換してくれるステキな本をご紹介(独男向け)。

 重要なのは、「わかって」言ってくるオンナもいれば、意識せずに使ってくる方もいらっしゃること。「わかってる」者同士でコミュニケートできれば共犯意識が芽生えることを請合う…が、若い頃のわたしにゃ、そんな参考書無かったぞ。

 ピカイチの良問はこれ↓答えは反転表示。言われたことがある男子は多いだろうが、正解を答えた強者は少数に違いない。[ オンナの建前からホンネを見抜く10問 ]にレビューがてら問題を用意したから、チカラ試しにどうぞ。

問 : 「男の人って、どうして~なんだろうね」と一般名詞「男」で意見を訊かれる。あるいは「もしもなんだけどね~」と仮定の話を振られる


答 : 男 = ア ナ タ で す ぞ !

仮定の話や一般論といいつつアナタの性格が試されている。一番よくあるパターンは、「彼女がいるときに、タイプのコから好きですって言われたら、男の人ってどうするんだろうね?」という質問。「男」=アナタなので要注意!誠意ある回答をすべし。どうでもいい人にこのネタは振らないので、脈あり(ただし検査中)のステータス。

■ 女はなぜ突然怒り出すのか(姫野友美、角川書店、2006)

女はなぜ突然怒り出すのか このテの本を選ぶポイントをただ一つ。それは、著者がオンナであること。

 野郎が書いたものだと、どうしてもマニュアルじみてくる。「俺はこのテクで○○人落とした」とか、「これ一冊でカノジョのハートをワシづかみ」といった、手練手管集になりかねない。

 語れるほど経験値稼いでないけれど、「オンナには、原因→結果の明確なパターンがあるわけではない」ことは分かってる。そのときの気分や感情に応じた『傾向』を見きわめてそれに沿った回答を返すのが重要。だから、マニュアルちっくにオンナを捕らえようとすると、かならずモレヌケがある。

 本書がいいのは、オトコの素朴な疑問に答えているところ。丸まる一冊使って、あらゆる「なぜオンナは…のか?」の疑問に答えているところ。

  • なぜオンナは、ワガママを言って男を困らせるのか?
  • なぜオンナは、オトコの浮気を一発で見抜くのか?
  • なぜオンナは、オトコのロマンが理解できないのか?
  • なぜオンナは、「仕事と私と、どっちが大事?」と訊いてくるのか?

等など。竹内久美子の劣化コピー的なところもあるので、鵜呑みにしないようにネタ的に流し目で読んであげるのがオトナというもの。amazonレビューで半怒りの方がいらっしゃるが、オトナ気ないですな。

 眉ツバのカガクテキ考察はさておき、本書を読むことで、オンナが会話に何を求めているかが分かるはず(それはオトコとまるっきり違う)。会話を通じて、オトコは「解決」を求めるが、オンナは「共感」を求めるのだ。このコピペが分かりやすい。

   女 「車のエンジンがかからないの…」

   男 「バッテリーかな?ライトは点く?」

   女 「昨日はちゃんと動いたんだけど…」

   男 「バッテリーかどうか知りたいんだけどライトは点く?」

   女 「今日は○○まで行かなきゃならないから車を使えないと…」

   男 「んでライトは点く?」

   女 「前に乗ってた車ではこんな事無かったのに…」

   男 「ライトは点く?点かない?」

   女 「○時に約束だからまだ時間はあるけど…」

   男 「死ね」

■ 困ったオンナを黙らせる技術(植木理恵、サンマーク、2007)

困ったオンナを黙らせる技術 「理解」→「分解」ときたら、「再構築」ですな。「黙らせる」なんて挑発的なモノ言いだけど、主眼は「いかに愛すべき女を理解するか」に焦点をあてている。

 たとえば、「オンナの言葉は、その場限り」だという。あるいは、「オンナは行間やストーリーを無視して、シンプルな結論にしがみつく」そうな。そのメカニズムを説明するだけでなく、じゃぁオトコはどうすればいいのか?に明快に答えてくれる。「ああ言えばこう言う」想定問答集として秀逸やね。典型的なやつは、[ 困ったオンナを黙らせる技術 ]にまとめた。

 ただ、オモシロオカシク"演出"しているうちに、本当にオンナの話かぁ? と疑わしくなってくる。物言いは「職場の困ったオンナ」だけれども、そういう困ったちゃんは女男関係無くいると思うぞ。オンナが明かすオンナの本質は、性を超えているのかも。

■ スカートの下の劇場(上野千鶴子、河出書房新社、1992)

Gekijou ここまで読むと「分かった」気になれる。性差だけでなく思考差を理解すれば、歩み寄ることも可能なんじゃないかと思えてくる。

 じゃ、ここらで突き落としてみよう。

 男と女のセクシュアリティには、はっきりとした非対称性があることが分かる一冊。

 「スカートの下の劇場」では、あのちっぽけな布切れの歴史を通して、男と女のセクシャル・ファンタジーの非対称性が焙り出されている。

 さらに、男が「見て」いる女はファンタジーにすぎないこと、そもそも女のセクシュアリティは男のようではないから、男女の立場を入れ替えても意味がないことが徹底的に解説されている。

 ぱんつに対するオンナのこだわりと、女のぱんつに対するオトコのこだわりの落差が、情け容赦なく描かれている。女にとってのぱんつは最初に着装するもので、男にとっては最後に取り去るもの。女にとっては隠すもので男にとっては「見る」もの。

 「見る」「見られる」という固定された視線をもつ男女関係では、女は最初から「見られるもの」として自分の身体像を形成している。その象徴がパンティであり、ブラジャーなのだ。

 オンナの身体は「見られるもの」、自分のものであって自分のものでないとまで言い切る。拒食症が女の子に特有の心身症であったり、痩身からエステまで、「ボディ・コンシャス」な意識を見ると、女がどのくらい自分の身体にとらわれ、身体に封じ込められているかわかる。

■ 男たちへ(塩野七生、文藝春秋、1993)

男たちへ 上野おばちゃんの次は、塩野おばあちゃんに叱ってもらおう。

 全54章、塩野節が炸裂している。続編をあわせると117章かけて、ニッポン男児をけちょんけちょんにけなしている。ものすごくわかりやすくまとめると、彼女が住んでいるイタリアこそ最高で、比べてニッポンはだらしがない、ダメダメだね、もっと頑張んなさいというエッセイ。

 まぁ塩婆だから仕方がない。歯に衣着せぬ舌鋒でみじん切りにされながら読むと、たしかに学ぶところもある。

 たとえば、ワイシャツ。塩婆曰く、あれは下着なんだと。オンナのブラウスとはワケが違い、男物のワイシャツはスーツの上着とセットになっている。だから、ワイシャツだけでウロウロするのは下着一丁で歩き回るのと同じでカッコ悪いという。「上着を脱いでワイシャツ姿だけになる時は、失礼して上着を取らせてもらいます、ぐらい言うではないか」だそうな。ちょっとは「装う」という心意気がオトコには必要だと痛感させられる。

 しかし、今日は日差しが強くて最高気温26度、今の湿度は50%だ。

 あるいは、ネクタイピン。スーツという定型フォーマットの「中で」おしゃれのバリエーションを楽しめるのが本物のオトコだという。ネクタイピンはクリップタイプではなく、文字通りピンで突き通すものが良いという。あるいはカフスボタン。ちゃんとした男性なら、カフスで留めておけと。なるほどーおしゃれは大事だもんね。

 しかし、今日の痛勤電車は濃密だった。カバンや靴をもぎ取られる人もいた。

――というわけで、梅雨真っ盛りの今はノーネクタイ+ワイシャツ一丁うでまくり!で会社に行く。こういうオトコは「ふがいない」「魅力がない」んやろね。

 自分こそ正しく、自分を受け入れられないものは間違っている。なぜなら正しく(=自分の意見)でないから。なんつートートロジー。「フツウの男をフツウでない男にするための男性改造講座」と銘打っても、書いてあることはアタシ・アタシ・アタシのオンパレード。

 さっきの「歩み寄り」の気分は粉々に砕け散っている。オンナを理解することは、やっぱり無理じゃないかと。

 それでも「頼りないオトコどもよ、奮起せよ」と発破をかける彼女を見ていると、オンナというものは、天上天下アタシ独尊的価値判断でもって全てを斬ろうとするものなのかと思いたくなる。ダンナやムスコ、あるいは編集者(♂)に同情するよ。

 あるいは、「ふがいないオトコ」という都合よくカリカチュアライズされた藁人形(♂)を攻撃する様子を見ると、彼女に欠けているのは、相手のことを想像することではないか、と気づく。作家として藁人形(♂)を「創造」するのではなく、むしろ人として異性を「思いやる」気持ち。

 そこには、相対化だのメタ視点といった想像力が入る余地はない。風土が違う、気質が違う、歴史が違う、だいたいユリウス・カエサルみたいなスーパースターを基準にしたら、あらゆるオトコが期待はずれになってしまうのでは、と涙目でツッコミ入れる。

 これは反面教師の書にもなる。

 塩婆がオンナの代表だというつもりはない(だとしたらそれは恐ろしいことだ)。だが、それでもこう考えることはできないだろうか? つまり、オンナが塩婆のように振舞うとき、それを受け止められるのは誰か? 絶対アタシ主義が振りかざされるとき、それを聞いてやれるのは誰か?

 これは、オンナではありえない。文字通り、「男は黙って」やね。

 そのためのトレーニング本として使うべし。鼻につく塩野節をガマンし、論理の跳躍に目をつぶり、腹を立てずに理解する。そのプロセスを通じて、男の器を広げることができる。

 ちなみに、ネットのあちこちに、「感心した」「納得できる」と評する男性陣がいる(特にamazonレビューwww)。彼女にいいように言いくるめられている男こそ、本書の「ふがいないオトコ」である罠に気づいていないのが情けないやら愉しいやら。

■ まとめ : 女心の傾向と対策

 オンナのトリセツとして7冊挙げたが、こうやって書き綴っていくうちに、マニュアルどおり扱えるわけがないことに気づく。だいたい、本なんか読んだって、目の前のオンナの気持ちが分かるわけないじゃないスットコドッコイ!

 それでも、そのココロにちょっとでも近づきたい「純粋」な動機はわたしを突き動かす。オンナの生態と思考様式を学んでいくと、その場のシチュや感情、TPOがかなりのウェイトを占めていることが否応でもわかる。

 むしろ、オトコの方が「原因→結果」に縛られて、非論理的な行動を取ることをさけがちだ。「オトコって単純」の意味がようやく分かった。複雑の反対の意味の「単純」とではなく、むしろ「底が見えるシンプルさ」が真に近い。原因結果の法則どおり、予想したとおりの言動を取るのがオトコ(その轍から外れるときは、それなりの「理由」がある)。

 要するに、「オトコって分かりやすい、たーん・じゅーん」やね。

 じゃぁオンナは分かりにくいのかというと、そうでもない。一見不可解な言動を取っても、その裏側には必ずオンナならではのパターンや方向性がある。その言動から原因を手繰るのではなく、言動からパターン、つまり傾向を見出すのだ。つまり、言動→原因の究明ではなく、そこから感情をパターン化して、その感情の成り行きを予測するのが吉。

 そして、傾向があるなら対策も取れる。そういう赤本として上の7冊を使ってほしい。だから、このエントリのタイトルは、「オンナの取扱説明書」よりも「女心の傾向と対策」のほうが合ってるかもー

 野郎ども、がんばれよ

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夜中にラーメンを食べても太らない技術

夜中にラーメンを食べても太らない技術 一言なら、「心がけダイエット」。

 何かを制限したり、強制したりするダイエットではない。「これを食べるな」「カロリーを抑えろ」といったマイナス思考的なダイエットではない。むしろ「これを食べて栄養を摂りましょう」というプラス思考ダイエット。だから、気軽に気長に続けられそう――とはいえ、ツッコミどころも多いので、割り引いて読むのが吉。

 たとえば、ビール+鶏唐揚げ

 揚げ物を食べるときは抗酸化の成分(ビタミンC)を一緒に摂りなさいという。曰く、レモンをかける。付け合せのキャベツから食べる。ビールではなく、生搾りグレープフルーツサワーを頼む。こうした一工夫で、酸化した油の悪影響を少しでも中和するように気をつけよと。ほとんどオマジナイのような気がするが、やらないよりマシなんだろうね。

 あるいは、深夜の宅配ピザ

 どうしても食べたいなら、オリーブオイルをかけろという。オリーブオイルという「良い油」で、加工食品に使われている「悪い油」を追い出せという。あるいは、タバスコをかけて体を温め、代謝を上げよという。「良い油で悪い油を追い出す」(原文ママ)とは何なのか理解できなかったが、やってみよう。

 さらに、飲み会の締めのラーメン

 食べる前に野菜ジュースを1本飲むのが秘訣なんだって。野菜ジュースで血糖値の上昇がゆるやかになり、体脂肪の蓄積を抑えることにつながるそうな。さらに、具のメンマやホウレンソウを先に食べることで、糖の吸収がゆるやかになる。あるいは、ラーメンに酢をかけることを提案している…ってラーメンに酢!それよりも、野菜ジュースって…かなり糖分があったはずなんだが、スルーされちゃっている。

 てな感じで、いちいちツッコミを入れながら読む。

 しかし、発想そのものは参考になる。一言なら、「帳尻あわせダイエット」。

 体に悪いものを食べたり、食べ過ぎたりしたら、翌日は体にいいものを摂り、量を控えめにする。カップ麺を食べた翌朝は、野菜ジュースだけにしておきなさい、というやつ。つまり、体内で「善悪の帳尻あわせ」をすることを心がけなさいという発想。

 食べるときも重要。30-40代の男性なら、外食やコンビニ飯、飲み会は避けられない。ガマンしてストレスためるよりも、食べちゃえ。ただし、食べるときは代謝効率のいいものを選んだり、体脂肪の蓄積を抑えるようにしなさいという。

 たくさんのノウハウが開陳されるのだが、その根っこにあるのは、不足がちな栄養素を積極的に摂り、代謝効率を上げて脂肪を燃やすメソッド。効果の信憑性はともかく、現実的かつ即実行可能なので、気軽に習慣化できる。

 とりあえず、次の飲み会の締めは、味噌汁にするぞ!


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子どもが「数学なんて役に立たない」なんて言いだしたら渡す「数学で犯罪を解決する」

数学で犯罪を解決する 天才数学者が犯罪者を追い詰める。

 アメリカのドラマ「NUMB3RS」の話だけれど、実際の事件をベースにしている。科学捜査官ならぬ数学捜査官。そのエピソードを糸口にして、元ネタとなっている様々な数学概念を解説するのが本書。サスペンスのドキドキ感と数学のエウレカ!を楽しみながら読む。

 まず、ロサンゼルスの連続殺人鬼。若い女を次々と強姦殺人した現場が、街路図に×印で記されている。捜査は行き詰っており、手がかりはない。次はどこで、誰なのか――?

 この事件を解決する数学の発想がスゴい。わたしなら、「×群の真ん中あたり」しか思いつかないが、この天才数学者は試行錯誤の結果、次の数式を書く。

Hotzone_3

 もちろんわたしにゃチンプンカンプンだった――が、本書ではその肝を解説してくれるので安心して(そしてわたしに訊かないように!)。

 これは、連続殺人犯の自宅を絞り込むための式だそうな。犯人は尻尾をつかませないよう、ランダムなパターンを選んだつもりだったのだが、その「ランダムなパターン」に傾向があり、

 1. 家の近くが多いが、あまり近すぎない
 2. いつも家の周りに「バッファゾーン」を設け、そこでは攻撃しない
 3. 安心して襲えるエリア外になると、遠くなるにつれて、犯罪件数は減る

を数式にしている。もちろん地形や移動手段や犯行状況による変動要素はあれど、本質的な「犯人はどうやって現場を選んでいるか」に迫っている。

 そして、ずばり住居があるホットゾーンがあぶりだされる。おかげで捜査範囲は絞り込まれ、スリル満点の場面もいくつかあって、犯人は捕まり、事件は解決する――これが、「NUMB3RS:天才数学者の事件ファイル」の第一話なんだって。

 ドラマの紹介と思いきや枕にすぎず、データマイニング、オペレーションズ・リサーチ、ベイズ確率、ゲーム理論、暗号、指紋とDNA鑑定の尤度など、「数学という武器」が縦横無尽に活躍している。ドラマとはいえ、ホントに「囚人のジレンマ」を使って数学による裏切りの説得をするトコなんて爆笑もの。理論的な下支えといった裏方的仕事ではなく、数学が直接現場に役立っているところがスゴい。

 もちろん、数学を武器として扱うため(捜査に役立たせるため)には、地道な裏取り調査や正規化された膨大なデータが必要だ。しかし、そうしたデータの大海から結果を出すためには、数学的にアタマを使う必要がある。

 つまり、重要な要素だけに集中して、他は無視すること。一見複雑な問題を、少数の主要変数に還元すること。変数の振る舞いから、問題の本質をつかまえ、表現すること。言うのはカンタンだが、やるのは難しい。パターン化って言い換えてもいいかもね。

 わが息子は、いま九九で四苦八苦しているところ。高校ぐらいにきっと言い出すはず→「なんで役に立たない数学を勉強しなきゃならないの?」…そのときは、本書と、「生き抜くための数学入門」、さらに「その数学が戦略を決める」を渡すつもり。

 その前に、一緒に「NUMB3RS」を観ようか。

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「コンゴ・ジャーニー」はスゴ本

コンゴ・ジャーニー上コンゴ・ジャーニー下

 とんでもない旅行記。

 臨場感たっぷりの破天荒さに、最初は小説だと思ってた。それっぽい表紙は映画化されたスチルなんだと信じ込んでた。

 ところが、これが本物のノンフィクションだと知ってのけぞった。

 だいたい、赤道直下のコンゴ奥地に恐竜の生き残りを探しにいくなんてどうかしてる。しかも、そのために全財産を投げ打って追っかけるなんて、オツムがあったかいとしか言いようのない。

 蚊、ノミ、ダニ、シラミ、ナンキンムシ、アブ、ブユ、ツェツェバエ――血と汗を吸い、皮膚の下にタマゴを生みつけようとするやつら。爪の間や性器に入り込もうとする線虫・回虫・寄生虫もあなどれない。そしてゴキブリ!ベッドマットを持ち上げたらゴキブリがざーっとあふれ出る場面は全身トリハダ立ちまくり。

 マラリア、眠り病、梅毒、イチゴ腫、エイズ、エボラ出血熱、コレラ―― 描写のいちいちが克明で、読んでるこっちが痒くなる。風土病や感染症だけではない、人を襲うヒョウやワニ、ニシキヘビといった猛獣について、いちいち挿話とウンチクを並べ立てる。その恐怖におののきながら、いそいそと出かけるところは笑うところなのか?

 その一方で、めずらしい鳥の姿を目にして乱舞したり、ゴリラのあかちゃんを糞尿まみで世話したり、さらには幻の怪獣、モケレ・ムベンベを必死になって捜し求める姿は、これっぽっちも滑稽ではない。読者はそこに、正真正銘の「愛」と「狂気」の目を見るだろう。後半、「旅行記」のタガが外れ壊れ始める著者が怖い。この地に白人が長いこといると、おかしくなるらしい。

いつも飛び交っている怒鳴り合いの会話から解放され、真に孤独になれるのは、アフリカではこんな瞬間しかないのではないか――ふとそう思った。こうやって歩いているとき、真夜中にふと防水布の上で目覚めたとき…。アフリカで、自力だけに頼ろうとする人は危険だ。孤独は狂気に直行する。孤立した人間はいとも簡単に、さ迷う霊の餌食になってしまう。だから、友達どうしいつも一緒にいて、しゃべりつづけなければならない。
 書き口で興味深かったのをひとつ。呪術師がしつこく警告していた精霊が、著者に語りかけるシーンがある。マラリア熱に浮かされた頭なので、どうせ夢なのだろうと疑ってかかるんだが、その融合の仕方が魔術的リアリズムまんま。境目が巧妙に隠されており、読者も一緒になってつきあうハメになる。しかも、夢オチにさせないように書いているので、どこからがホントで、どこからか夢なのか終わっても分からない。マジック・シュール・リアリズムといったところか。

 著者のレドモンド・オハンロンは、筋金入りの探検家というべきだろう。イカダで太平洋を渡ったり、犬ぞりで極北を目指す冒険家というよりも、「○○が見たい、だから行く、どんなことをしてでも」というタイプ。

 訳者あとがきによると、最初はボルネオ。幻となりかけているボルネオサイを見たい一心で、かつての首狩族の地「ボルネオの奥地へ」(めるくまーる、1990)乗りこむ。冒頭から、やめたほうが…と助言したくなる旅だそうな。

 次がアマゾン。オリノコ川とアマゾン川にはさまれた熱帯雨林にヤノマミ族に会いに行く。サッカーのフーリガンを除いて、地球上で最も凶暴といわれる人々に会いに行くのだが、題名がイカしてる、「また面倒なことに(In Trouble Again)」(1988、未訳)だってさ。

 で、三番目がこの「コンゴ・ジャーニー」、上二つと比べるとはるかに危険な旅だという触れ込みだけれど、たしかに死んでもおかしくない。「安全な」場所で読んでいると、なんでわざわざそんなところへ好んでいくんだろう? という(彼にとっては)愚問がわきあがってくる。

 さらに、これで終わりではない。北大西洋の荒海で操業する漁船、「トロール船(Teawler)」(2003、未訳)に乗り込み、スコットランドの北海油田開発の基地「オークニー(Orkney)」(2008、未訳)で生活する。もはや「バイタリティあふれる」といった域は超えているぞ。


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首が切断されるでしょうwww「巨匠とマルガリータ」

巨匠とマルガリータ 現実と幻想が濃厚に融合している怪作。

 ケタケタ笑って読んでもいいし、いくら深読みしても耐えられる、軽薄かつ堅牢なつくり。小説としてしっかりしていれば、その容器(うつわ)に何を入れても許される好例だね。

 単なるファンタスティックに走り出さない。リアリズムからつかず離れず、一定の間隔をおいている。この距離感が絶妙なので、ナザレ人のイエスが蝿まみれになって死んでゆく様が異常なほど克明に見える。さらに、モスクワじゅうを大混乱に陥れる荒唐無稽さをたぐり寄せてゆくと、スターリン時代の恐怖がズルズル剥けだしてくる。

 この「つながっている」感覚は、映画監督ミヒャエル・ハネケ(カフカの「城」 で有名)のコトバを思い出す。

衝撃的な映像にマヒしている観客に、暴力をどう見せるかは問題ではない。問題は観客に、その暴力が自分とは無関係ではないことをいかに自覚させるかだ
 1930年から、さらにソビエト連邦から遠く離れた「いまここ」へ、波状攻撃がしかけられる。次から次へと連鎖するグロテスクなユーモアに笑い転げているわたしにチャンネルが合わさる。天井から降ってくる紙幣を追いかけて、ひっこ抜かれた首を探しまわり、裸のオンナたちが大通りを逃げ惑うさまを笑いのめす。無関係どころか、当事者の気分だ!

 これは「夢に出るリアル」だな。

 そして、名無しの主役、「巨匠」は、当然ながら著者ブルガーコフと重なる。粛清の嵐が吹き荒れていた時代だ。悪魔のセリフ「そんなはずはない。原稿は燃えないものなのです」がナイフのように光って尖っている。不遇をかこったブルガーコフの強烈な意趣返しが効く効く。訳者が高尚な解説をぶっているが、すまんな、そんな崇高な深読みはワケ分からん。書いたものの出版が認められなかったとはいえ、ブルガーコフは小説家だ。だから、小説で復讐を果たしただけなんじゃぁないかと。

 そうそう、みんなの大好きな裸エプロンのメイドも出てくるぞ。それだけではなく、全裸のメイドも豚に乗って飛び回るぞ。圧巻なのは全裸の魔女がモスクワの夜空を全力飛行するところ(裸女が多いが気にすんな)。非常に映像的で、疾走感覚あふれまくり、アドレナリンだかドーパミンを感じて、彼女と一緒にドッキドッキできる。ラストはずいぶん先なのに、もうカタルシスを覚える。

 この狂気(狂喜?)は伝染するぞ。

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たのしんで、はたらくために「はたらきたい。」

はたらきたい。 すべての「はたらきたい人」にオススメ。

 「ほぼ日の就職論」という触れ込みだが、就職活動している人にとどまらない。「はたらくこと」の根っこまで掘り下げて、「ほらっ」て見せてくれる。糸井重里がいうには、

「はたらくこと」って、どういうことなのか。
それについての自分なりの答えは「大切にしてきたもの」を考えることで、見えてくるのではないだろうか。
 仮に、就職活動をうまくやるための「すぐ効く処方箋」のようなものを求めて読むと、完全に肩透かしを喰らう。いっぽうで、漫然と働いていながら「はたらくこと」について何らかのヒントが欲しかった人にとっては、読んでよかったな、と思える一冊になるだろう。

 企業の人事担当や、キャリアマネジメントの研究者など、いわゆる「就職のプロ」の話から、漫画家(しりあがり寿)やミュージシャン(ピエール瀧)など就職していない人たちにとっての「はたらくこと」、さらには「矢沢永吉」の中の人まで出てくる。

 読んでて嬉しいのは、「その場の空気感」みたいなものに触れられるところ。プロの編集のなせる業が、メリハリの利いた対話文をつくりあげている。話の息継ぎのようなちょっとした「間」が再現してあったり、どんな風な笑顔か分かるような(笑)が絶妙なタイミングで挿入してたり。

 いっぽう型破りなのは、就職面接での「パターン」や「定石」なんてうっちゃってるところ。むしろそうしたハウツーを否定し、「何を大切に思ってる?」とか「それ、楽しい?」と問うてくる。ニコニコしながら訊いてくるので、こっちはタジタジと考え込む。

 もちろん楽しいことばかりじゃないことなんて【お互い】分かってる。しんどいことだってある。仕事自体がイヤになるかもしれない。それでも、面白がれるところがないか、仕事の周りに楽しめる要素がないか、わたしの大切なものがないか、目を向けるようになる。じぶんにとっていちばん大切にしているものが、いまの仕事につながっていることを「幸せ」と呼ぶんやろね。

 ハッとしたのはここ。しりあがり寿がキリンビールに勤めていた頃の話。

面接官をやると決まったときに、人事部の人に相談したんです。人を選ぶということがよくわかってないんですけど、どうしたらいいんですかって。そしたら、その人は「あんまりいろんなことを気にしないで、自分がいっしょに働きたいと思う人を選んで」って言ってくれたんです
 そういや、ドラゴン桜外伝「エンゼルバンク」でも同じこといってたなぁ… 学生さんの就職論という体裁をとっているけど、すでに職(食)を得、キャリアを重ねている人には「はたらく論」あるいは「転職論」として有用だと思う。

 おまけ。本書の延長上にできた企画が面白い。「社会人がえらぶ人気企業アンケート」というお題で、社会人として経験や知識を培ってきた今、あらためて就職できるとしたら、どんな会社で「はたらきたい」と思うか―― というアンケート。学生さんとはちょっと違う、でも妙に生々しい(あるいは、切実な)結果をご賞味あれ。

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「チェルノブイリ旅行記」と「廃墟チェルノブイリ」

 究極の廃墟なら、チェルノブイリだろ。

 1986年4月26日未明、ウクライナ共和国、チェルノブイリ原子力発電所で起きた爆発事故――あれから22年経った今、チェルノブイリ「石棺」周辺は、ぶっちぎりの廃墟ゾーンとして聖地なっている。

 2003年、ただ独りで、バイクで訪れた人がいる。エレナという、ウクライナの若い女性だ(彼女のサイト : [elenafilatova.com])。

 彼女によると、原子炉を中心とした「ゾーン」そのものが放射能を帯び、呪われた土地となっている。たとえば、45km離れたヴィルチャでは、ガイガーカウンターは109mRを示している。危険ではないらしいが、吸い込んだ放射塵は分からない。ホコリは地面に吸収され、土地そのものが汚染されているのだ。

 彼女の旅行記の日本語訳は[チェルノブイリへのバイク旅]にある。文章よりも写真が豊富で、ある特定の廃屋や廃ビルの「写真集」ではないところがスゴい。

 つまり、バイクに乗って延々と走っても走っても、遺棄された光景が続く。連綿とつながる写真『群』を見ていると、核戦争後の風景はきっとこんなんだろうな、と思えてくる、オオカミが支配する大地。

 この地を、「自動車」で訪れた日本人がいる。中筋純といい、廃墟写真家としていくつかモノにしている。彼はクルマで行った。現地のガイドを雇い、装備をととのえ、「石棺」のかなり近いところまで迫っている。その写真集が「廃墟チェルノブイリ」。

 人間が完全に排除され、22年ものあいだ風雨にさらされ続け、植物が支配する街。メーデー祭の直前に事故が起こり、一度も使われることのないまま朽ちていく観覧車やゴーカート。ハイクラスの生活が根底から覆り、破壊と混乱のまま捨てられていった建物群。

 そして、その向こうにクレーンを張り巡らせた巨大な棺桶が並んでいる。

 面白いな、と思ったのは、このサンクチュアリを目指す人が少なくないこと。しかし、不用意に訪れるのは死を意味する。エレナによると、この周囲は何十キロと、地図からは地名も道路も抹消されている。旅のドライバーがうっかり迷いこまないようにとの配慮らしい。

 ゾーンは広範囲にわたっているため、完全に封鎖されているわけはなく、どこからでも入り込める。しかし、地図なしで汚染された区域をウロウロするのは自殺行為に等しい。

 だから、ガイドが必要だ。「その場所」までの安全なルートとクルマ、それからガイガーカウンターを用意できる人物 ―― ここらでタルコフスキーの「ストーカー」を思い出すのだが、この映画は1979年につくられている。黙示録的という評価はむべなるかなー

 ガイド付きにせよ、単独にせよ、目的地はゾーンの中心部、「石棺」だ。映画のように、その中で「あらゆる願いがかなう」わけがない――が、生きているうちにいける最後の場所となるに違いない。

 動画ならこれが入口かな。「あの観覧車」もしっかり撮っている。

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やりたいようにやればいいじゃん、しゅごキャラが憑いてるよ「楽園への道」

楽園への道All kids hold an egg in their soul...
Egg of our hearts...
Our would-be selves... Yet unseen

... But adult?

 「なりたいアタシ」や「ありたいジブン」は、普通、「夢」と呼ばれる。大きくなったら何になりたい? その子にとって大切なタマゴのようなものだ。みごと、そのタマゴを孵化させる人もいれば、割ってしまう人もいる。

 だが、それは子どもがオトナになる過程で実現したり失ったりするもの。

 では、いいオトナがそうしたタマゴを見出してしまったら、どうなる?

 本書の2つの人生が、それぞれ答えを示している。ひとりは、ポール・ゴーギャン。高給と妻子を投げ捨てて、絵を描き始める。もう一人は、その祖母フローラ・トリスタン。貴族生活から脱し、労働者や女性たちの権利確立のために奮闘する。

 自分を生贄にして楽園を目指す。ゴーギャンは芸術の楽園、フローラは平等な社会を。もちろん周囲には認められず、極貧と冷遇を余儀なくされる。その孤軍奮闘ぶりと確信・妄執っぷりは、何かに取り憑かれているようだ。

 さらに、それぞれの半生と照らし合わせると、文字通り「人が変わってしまった」ようだ。まさにキャラチェンジという言葉がぴったり。安定した生活から離れ、精力的に動き回る。いくつもの国や海を「横に」移動するだけでなく、ブルジョアや貴族社会から最底辺まで「縦に」堕ちていく。文明化社会から野蛮人の生活にダイブする。夫の奴隷から逃げ出す。キリスト教的禁忌を破り、桁外れのセックスライフを味わう。

 この生き生きと「移動」する2つの人生が、わたしの推進力になる。躍動する人生が流体クラッチのように伝わって、わたしのハートをアンロックする。

 しかし、2人の軌跡は決して交じり合うことはない。ゴーギャンと、その祖母というだけで、それぞれ違う人生を生きた。そこを強調したいのか、著者のバルガス=リョサは巧妙な構成をとっている。

 つまりこうだ。奇数章ではフローラの社会活動を、偶数章ではゴーギャンの退廃的な生活を交互に描いている。それぞれ混じることも譲ることもせず、互いに独立したストーリーとして成り立っている。

 しかも、それぞれの章で自分の人生を回顧するシーンを差し挟み、さながら四重奏のバウムクーヘンのような対位法を実現している。また、地の文と同じつながりで10年前の回想を混ぜ込んだり、内的独白と客観描写を平気で並列させているので、読む方はけっこう忙しい思いをするかも。

 たしかに、35歳以降のゴーギャンを「芸術というデーモンに取り憑かれた生涯」と評するなら話は早いが、冒険をするか常識的に考えて? 失ったものがあまりに多すぎる。祖母のフローラだってそうだ。ペルーで何不自由ない生活を送れたのに、それを捨てるどころか真逆の、いや誰もやったことがない人生を歩み始める。

 そして、病と貧困にあえぎ、「わたしがやってることなんて、何ひとつ意味なんてないのかもしれない」と夜ごと絶望に悶える。そのさまを見せ付けられると、軽々しく「好きを貫け」なんていえなくなる。

 それでも、彼・彼女はそういう人生しか生きれなかったんだ、と納得する。モームの「月と六ペンス」で植えつけられた「なぜ?」が、憑き物が落ちたように分かる。ゴーギャンは、楽園を目指したんだ。たどり着くことはなかったけれど、求めていく過程を身もだえしながら生き抜いたんだ。


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