モンスターペアレントはどこにいるのか?
モンスターペアレントはどこにいるのだろうか?
新聞やテレビでは、おどろおどろしい「モンスター」が解説されている。神聖なる教育現場に怒鳴り込み、執拗に要求をくり返し、教師をノイローゼに追いやる「モンスター」たち。
しかし、幸か不幸か、わたしの身の回りではぜんぜん聞かない。学校や園、地域の集まり、隣近所の立ち話など、けっこう首を突っ込んでいるが、一度として「そういう親」を見聞きしたことがない。
こういう場合のオチは、「モンスターは、実はわたしだった!」がよくあるパターン(「ゾンゲリア」パターンですな)―― ハッ!もしやわたしが「痛い親」なのかも、と不安になる(小心者なので)。
煽られっぱなしもイヤなので、少し調べてみた。教師と親との確執ってやつを。
2008 「モンスターペアレント」
「モンスターペアレントの正体」(山脇由貴子、2008)によると、モンスターペアレントとは、クレーマー化した親たちだそうな。
「うちの子さえよければいい」と自己中心的で、コミュニケーションが希薄化した親が、急増しているという。そうした親たちは、とにかく口を開けば要求ばかりで、学校が応えないと苦情になる。苦情はエスカレートし、担任や校長への個人攻撃に発展し、果てはネットやメールを駆使して根も葉もない誹謗中傷をまきちらす。これは子どもの「いじめ」と大差ないという。
「わが子が問題のある子といわれなければいい」という心理の裏側に、自分が「育て方に問題のある親」と言われたくない恐れが隠されている。この防衛心が働いて、子どもが問題を起こしたという事実を絶対に認めようとしない。「うちの子は悪いことをするような子ではありません」と全否定し、「悪いのは学校だ」と責めてくるんだってー。
著者の山脇氏は1969年生まれ。心理学を専攻したカウンセラーらしいが、この人が「親業」をやっているかどうか、かなり興味を惹かれるところだ。
さて、数字がぜんぜん出てこない、経験談と印象論で構成された本書を振り出しに、「学校と対立する親たち」の生態を、過去にさかのぼって見てみよう。
たとえば、山脇氏が中高生だった時代は、そういう狂育ママのことを「ママゴン」と呼んでいたよね。そしてこの頃は、「積み木くずし」が売れていたね。ええ、もちろん読んだよ。「わが子が不良化 = ダメ親の烙印」を恐れた有名俳優の釈明手記ですね、分かります。
1989 逆襲のオバタリアン
「別冊宝島95 ザ・中学教師――親を粉砕するやりかた」(1989)によると、家族ゲームとしての「積み木くずし」の原因は、100%、親にあるという。「家族をやれない」親が急増しているそうな。
自主性という名の放任主義の親、集団喫煙事件で息子の弁護士に早変わりする父親、「うちの子がバカなのは教師の教え方が悪い」とねじ込んでくる母親―― 子どものために手段を選ばぬバカ親たちの生態が痛い。
ねじ込む親。「うちの子が悪いことをするはずが無い」と子どもを信じるあまり、学校に圧力をかけてくる父親がいる。教師に直接苦情を言い立てるよりも、校長や教育委員会、後援会、果ては県議ルートから攻めてくる。
泣きつく親。「やればできる」信仰にすがりつく親と、「やってもできない」子どもの現実。進学させたいのは親の見栄なのであり、子どものためと思い込んでいることで自分をごまかしているにすぎない。偏差値34やる気のない生徒の尻をたたいて動かなかったら、教師の次の仕事は、親の願いをあきらめさせることになる。
現場の教師たちが体験した、「恐るべき親たち」の生態がよく分かる。子どもがおかしくなったのは親が原因であり、学校に矯正を求めるな!――教師の悲痛な叫びが聞こえてくる。
この時代には「恐るべき親たち」に「モンスター」だの「クレーマー」といった洒落た名前はついていなかった。だいたい、「クレーマー」なんて1999年の東芝クレーマー事件で広まったようなものだし。この時代なら、「ママゴン」「パパゴン」「オバタリアン」ぐらいかね。
1987 カイワレ族とママゴン
ごく普通の息子を持つ母親の、受験奮闘記を例に取ってみよう。「カイワレ族の偏差値日記」(村崎芙蓉子、1987)なんて良いサンプル。
この物語は、ムスコの偏差値が52であることを知って、愕然とするところから始まる。52て、ふつうやんと思うんだが、この母は「お医者さま」なのだ。そしてダンナも医者。つまり、医者の両親を持つムスコが「ふつう」であることにガマンならんらしい。
ムスコといえば、ひっこみ思案の頼りなさげなタイプで、その様子から「カイワレ族」と命名される。このムスコの尻をたたき、高校受験に向けて猛勉強をさせるママゴンに変身するさまが面白い。
- 6ヶ月で30回三省堂に通って、111,470円の参考書を買ったと豪語し、河合塾の夏期講習費用 89,250円にのた打ち回る様子が痛い
- 「偏差値教育」の荒廃を嘆きながらどっぷり洗脳されている自分を弁解する言い訳のひとつひとつが痛い
- 放任してきたことを逆ギレしたムスコから指摘されて、最初に考えたことが「わたしにだって言い分はある」という自己中心的痛さが生々しい
で、あれだけ払った犠牲のワリには… 得たものがあまりに貧しく、二重三重に痛々しい。さらに、喉もと過ぎればなんとやら、「あの受験騒ぎ」が終わった後は、またいけしゃあしゃあと受験教育批判をくり返す。自分の放任を棚に上げて、教育の荒廃を招いたのは学校や文部省、臨時教育審議会だと断ずる、ステキな親だ。
本まで書いて反面教師を体現しているんですね、分かります。
1980 わが子主義の「未熟親」
よかれと思って指導に当たっていることについて、意外なほど曲解され、軽視されているんだって(もちろん原因は親)。「どうして、こうも分かってもらえないのだろう。このままでは、子どもたちはダメになってしまう」という教師の危機意識が累々と書かれている。
- 「入試はカネ次第」だと平然と口にし、内申書の不正を堂々と頼む親
- 面と向かって「がっかりしましたよ、女の先生で、しかも新卒で!」と言い放ち、嫁いびりならぬ女教師いびりが始まる
- 子どもを学校へ捨て子する親「学校は託児所、しかも格安の」
- 不平不満の匿名電話、安全地帯から教育委員会や議員にコソコソ訴える親
この本の良心的なところは、「教育委員会など『外部』に訴え出る親」の主張も掲載しているところ。
おお、妙にリアルな主張だ。著者自身も「もっともな話」と同意している。ではどうすればいいか? その回答が笑える。学校のことで問題が起きた場合、父母としては当然、信頼できる教師に相談したいと願うわけです。しかし、学校特有の事なかれ主義や、臭いものにはフタの姑息な保身主義にはばまれて、父母の率直な訴えがもみ消されてしまうのが実情です。
担任、教頭、校長、PTA会長に善処を要望しても、「権限がない」「それは教育委員会」といって逃げてしまう。そうなれば教育委員会への直訴もやむをえないのではないか。
これでおしまい。ホントだよ。ダラダラ書きのばしているけれど、要するに「よく話し合わなければならない」で和了。イマドキ、中学生の作文でももうちっとブレークダウンするぞなもし。おおいに議論すべき問題だ。父母と教師の相互理解の不足が不信感を増大させているから。これは、どちらが悪いと簡単に片付けられる問題ではない。本気になって話し合わなければならない問題だ。
今風にまとめるなら、「未熟で自己中な親」と「経験を積んだ(教育を受けた)教師」とのコミュニケーションエラー。あるいは、「親の無理解と非協力」により、「学校の教育指導」が阻害されている構図かなぁ。
1973 「ローカルちゃん」ママ
「学校は死んだ」(川上源太郎、1973)は、当時のバカ親たちに面白い名前をつけている。わが子を学校に捨て子しておきながら、たいそうな口をきく連中は「ローカルちゃん」というそうな。
「ローカルちゃん」とは、世間知らずで厚顔無恥――自分のちっぽけな立場をオール・ジャパンに拡大して恥じない人のこと。つまり、新聞のローカル面に出てくる田舎名士で、視野が狭く、相対感覚を欠いている。さらに、限定的な地位と名誉と財産が世界の全てだと思い込んでいる人だと定義されている。
つまり、「ローカルちゃん」ママは、わが子だけが子どもだと思い、夫の職業だけが職業だと思い、自分の家庭だけが家庭だと思い込んでいる。何か問題が起きたとき、「ローカルちゃん」ママは、自分からもっとも離れた、自分とは全く関係のないところから、理由や責任を探し出そうとする。自分と自分の家庭の外に理由を求めて擬似的な解決をはかり、それで一件落着だと思い込む。
スパルタ教育、偏差値狂育がこれを助長する。東京都港区で、生後6ヶ月の乳児をかかえる小学校の女教師が自殺した。「育児疲れでは…」と口を濁しているが、一部の母親が「規定いっぱい産休をとるような教師にうちの子を任せられない」と突き上げていた事実が明るみに出た(毎日新聞1979.4.13)。教育ママたちの圧力が、先生を死に追い込む。
このような事態になっても、ローカルちゃんママは後ろめたいと思わない。悪いのはノイローゼになって勝手に自殺した女教師であり、むしろ思春期の感じやすい子どもに与えたダメージの方が大きい――と被害者ヅラを被ったまま。流行語にもなった「あっしにはかかわりのねえことでござんす」を地で行く親たちを見よ。教育ママではなく、「狂育ママ」はこの時代がピークだったような気が。ローカルちゃんママの典型は「素直な戦士たち」(城山三郎、1978)をどうぞ。
1967 「責任転嫁」親
「こんな先生はヤメテしまえ」(佐藤弘毅、1976)が面白い。戦後の民主主義教育によって小学校から育てられた最初の世代が親になっており、学校をダメにしたすべての元凶はそこに行き着くと断言する。
「宅の子」の不都合を学校にねじ込む親は、そもそもの原因が自らにあることに気づけない。大学生になっても、うちの息子が「ゲバ学生」になったのは、大学が悪いと言い張る父親までいたそうな。
以前も出したが、このグラフが雄弁だな。1967年のNHK世論調査で「教育改革の担当者は誰か?」という質問に対し得られた結果。
ポイントは、教育のまさに現場にいるはずの「教師」と答えたのが、たった8%ということ。あまつさえ、「父母」と答えたのがわずか2%とはこれいかに。教育とは、「お上」に任せるものという意識が蔓延していることがわかる。
親がうるさくなった理由として、「責任転嫁主義」の風潮がある。自分以外の悪人探しをして、そこに日ごろの不平不満を発散させる。環境が悪い、学校が悪い、政府が悪い、社会が悪い…いつでも自分以外のものが悪く、自分の責任は常に棚上げされる。自問する、反省するといった姿勢に欠けているのが特徴だという。
自分はいつでも「いい人」であり、公共の場でも「いい人ごっこ」の遊びをしたい、若い親たちが激増している。こうした三十代の親たちが、「学校を殺した」んだと。
じゃぁ戦後民主主義が全ての元凶かというと、そうでもない。当時、「センゴミンシュシュギ」は便利な言葉で、いいことも悪いことも、その「原因」に帰することができた。しかも、議論のきっかけも結論も、このマジックワードに収束・拡散させることができた。曰く「センゴミンシュシュギが教育の低下につながった」とか。
本当か?
1936 「廊下すずめ」
戦後民主主義のシッコクがなくても、やっぱりバカ親はいた。
「日本の近代小学校と中等学校進学」(所澤潤・木村元、1988)によると、「廊下すずめ」というレッテルだそうな。戦前期の新中間層において、熱心にわが子の教育を考える親の典型として「廊下すずめ」と呼ばれていた母親たち。
「廊下すずめ」とは、学校にやってきて教室をうかがい歩く母親たち。子どもの勉強ぶりを監視する母親たちが日常的にいた。中には病欠の子どもに代わって登校し、一日の授業を受ける猛者もいた。廊下にすずなりになって静かに見守っている――わけがなかろう。かまびすしくおしゃべりしながら群れ集う母親は、ちゅんちゅんやかましいスズメにたとえられている。かしまし娘の親世代からして姦しかったということ。
また、「子供をめぐる親と教師の問題」(霜田静志、1936)によると、学校や教師に多様で過剰な要求を突きつける親が目立つようになったという。これは、親こそが子どもの教育の責任者だという観念の広まりとともに増加し、学校側との対立も少なからずあった。
親の側の教育方針が内部に対立をはらむものであったとすると、彼らが学校に要求するものもばらばらにならざるをえない。わが子の教育に熱心になった親たちはさまざまなことを要求するようになった。しかし、「あれも」「これも」と求められても、学校はそうそうすべてに対応できるわけではない。父兄の要求する所と言っても、まちまちであって、これを一々迎える事になったらやりきれるものではないのである。ええと、70年後の今と変わらないグチなんだケド。
2008 Back to The Future
どの世代(職場・教室・地域)にも「困ったちゃん」がいるように、理不尽な要求を突きつける親たちはいる。しかし、そうした「困ったちゃん」が激増しているかのような印象操作をくり返すマスコミ・ライター連を見ると、「また君か」という気分になる。根拠と数字を元に議論しようよ。
新しい名前をつけて「発見」した気になるのはコロンブス・メソッド。ちっとは過去を見ろ。ママゴン、未熟児ならぬ未熟親、「ローカルちゃん」ママ、「責任転嫁」親、廊下すずめ、いろいろな名前で呼ばれてきた。「モンスターペアレントは、どこにいるか?」ではなく、「モンスターペアレントは、何と呼ばれてきたか」なんだね。
ろくに調べもしていないイメージが、ストーリーにすり代えられていく手法は舌を巻くほかない。こいつら文章上手いよ。けどね、その文、臭うよ。親の圧力を煙たがる学校と、対立を煽って対策を撒き散らすマッチポンプ役の売文屋、さらにそうした世相を憂う自称知識人の手垢と口臭で、ひどい臭いをたてている。
このイメージ、つまり、「未熟で自己中な親」と「経験豊かな教師」とのコミュニケーションエラーという構図が変わらないことに注目したい。時代が変われどもこのストーリーで説明されているのはなぜだろうか? 毎年毎年、無理解な「未熟親」が現れては無理難題をネジ込んでいるのが事実だからだろうか? 毎年毎年、「最近の親は…」と叩くストーリーこそが現実をピッタリ説明できるからだからなのか?
それよりも、これだけ年を経ても同じ問題が云々されるのなら、むしろ構造的なものがあるんじゃぁないかと勘ぐりたくなるね。
例えば、会社など外の組織で揉まれた親と、学校空間の内側に閉じた教師とのコミュニケーションギャップとか、ホメオスタシスな教師とトランジスタシス(by リツコ:EVA)な親とのせめぎあいとか、ちょっと別の「絵」も描けそうだが…
そして、この構図を仮説として、「社会の常識が通用しない v.s. 学校は社会と違う」的な議論に持っていったらリアルかも。あるいは、杉並の和田中学がやっている「夜スペシャル」の反応を、「学校」と「親」に分けて調査してみるとか。さらに、継続的に「苦情」が寄せられる学校とそうでない学校との違い、公立校と私立校への「要望・苦情」の濃度や種類を分類すると、数字を伴ったより具体的な話ができるかも。
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コメント
昔からいるいないと多い少ないは完全に別問題だと思いますが。
投稿: | 2008.06.01 08:36
この切り口、面白いですね!
いつの時代も・・・『○○が急増している!』と警鐘をならすもんなんだなぁ・・・。
少年犯罪のように、統計でもあればよかったんでしょうけど、集計の基準がむずかしいですね・・。
投稿: NMR | 2008.06.01 08:48
> 昔からいるいないと多い少ないは完全に別問題だと思いますが。
多くなったという統計が見つからない、って文中で書かれてるじゃないですか。
具体的な数字をご存知なら教えてあげればいいと思いますよ。
投稿: | 2008.06.01 11:22
残念ながら、地域によって全然状況が違うので、あなたの周りでそういう事が無くて良かったですね、としか言いようが無いです。低所得者の多い所や、酷く見栄を張る所ではクレーマー化した親は全然珍しくありません
投稿: any | 2008.06.01 14:18
面白い切り口ですね
どっちかと言えば、例えば教師が言う「モンスターペアレンツ」であるならば、それが「急増」したように見えるのは、彼らを「糾弾」する立場にある、つまり教師側の変化もあるのではないか?とは思っていましたが、それ以前に「糾弾」自体がこんなに脈々と行われ続けていたとは知りませんでした
投稿: | 2008.06.01 15:08
>会社など外の組織で揉まれた親と、学校空間の内側に閉じた教師とのコミュニケーションギャップ
昔も今もトラブルが絶えないとすればそれは構造的な問題だろう、というのは分かります。しかしその意味において「モンスターペアレンツなどいない」というなら、個人的には「学校空間の内側に閉じた教師」というのもまた実在しているかどうか疑わしい、という視点に立つ方がフェアではないかと思います。
投稿: _ | 2008.06.01 18:17
そして、自分は親になる資格がないと自覚してるような比較的マシな層は子供を持たず、イタい親が再生産されていく、と・・・。
投稿: khs | 2008.06.01 18:22
モンスターペイシェントは増えてると感じるなぁ
この値段(保険で払われる分を含めて)でそこまで求めるのは無理だよ...
と言うことを患者には分かって欲しい。
投稿: 石 | 2008.06.01 18:49
呼び名はともかく結構いるよ。
市役所行ってみ?生保もらうヤツラはかなりの高確率でDQNだから。
自分の周りで見聞きしない=社会全体の構図ではないことをお忘れなく。
投稿: a | 2008.06.01 20:35
↑
自分の周りで見聞きした=社会全体の構図ではないこともお忘れなく。
投稿: | 2008.06.01 21:49
私の親は教師ですが、すくなくとも10数年前から「最近の親はおかしい」「おかしい生徒が増えた」と言ってるわりに勤め続けてますから、最近の問題じゃなくていつでもある普遍的な問題なんだと思いますが、印象論でして数値の裏付けはありません。
で、私も最近教師みたいな仕事してるんですが、昔より今の教師のほうが真面目です。外部の圧力に過剰反応して、しなくてもいい仕事をどんどん増やして自分らで疲弊してますから、問題を煽ってるのは教師側ではないと思いますよ。ま、これも私の印象論なんですけどね
投稿: | 2008.06.01 23:01
>> NMRさん
このテの話をするときは根拠の数字を探すことを心がけているのですが、とうとうみつかりませんでした。「昔と今」といった切り口ではなくても、現状という数字すら見つけることができませんでした── あったら、それを俎上に乗せられるのですが…
>> 名無し@2008.06.01 11:22さん
ハイ、ご指摘の通りです。
「多い少ない」とか「昔と今」とか、曖昧な言い回しを使ったのもそのせいです。
数字が手に入るなら、手がかりになるのですが…
>> anyさん
ご指摘の、
> 低所得者の多い所や、酷く見栄を張る所では
> クレーマー化した親は全然珍しくありません
に対しては、
> どの世代(職場・教室・地域)にも「困ったちゃん」がいるように、
> 理不尽な要求を突きつける親たちはいる
というほかはありませんなー
このエントリは長いですからね (^ ^;
>> 名無し@2008.06.01 15:08さん
このテの話題は、常に教師から親を告発する形式しか得られませんでした… 子どもは学校を「通り抜ける」存在ですが、教師は居続けますからね…
>> _ さん
> 「学校空間の内側に閉じた教師」というのもまた実在しているかどうか疑わしい、 > という視点に立つ方がフェア
ああ、それでOKですぞ
そこからスタートする「立場」を設ければよいかと
このエントリで指摘したいのは、ストーリーのフレームワークが一様で一方的であるところなので
>> khsさん
「困ったちゃん」の再生産ならその通りかと
少なくとも30年前から使いまわされている言い回しとして、「子どもが子どもを育ててるよ!」がありますし
>> 石さん
> モンスターペイシェント
というワードは初耳です(意味は分かりますが…)
ただ、「増えている」実感がどこからくるのか、気になるところですね
>> aさん
> 自分の周りで見聞きした=社会全体の構図ではないこともお忘れなく
ハイ、それだからこそ慎重に、「わたしが見聞していないから事実ではない」という言い方を避けてきていることを強調しておきます。サイアク、わたし自身がモンスターである可能性もありますので
ドキュソが、「いない」もしくは「少ない」とは言っていませんゾ
> どの世代(職場・教室・地域)にも「困ったちゃん」がいるように、
> 理不尽な要求を突きつける親たちはいる
というのが現実でしょう
投稿: Dain | 2008.06.01 23:15
おいらは比較的貧しいと呼ばれる地域の小学校に通った
で親の努力もあったけど私立の中高のいわゆる進学校に通った
で何が言いたいかって言うと
貧しさや金持ちにかかわらずDQNな親はいる
と言うことだ
ただ地域に依存する部分はあると思う
投稿: 半兵衛 | 2008.06.02 08:25
いつも引きつけられる文章、楽しく読ませていただいています。
今回のエントリーと、過去の記事に2回ほど「親業」の言葉が出て来たので、気になっていたのですが、Dainさんは、「親業」(トマス・ゴードン著)の本をお読みになったことありますか(既読でしたらごめんなさい。過去の記事を見つけられなかったのです)?
3年前に出会ったこの本には本当に驚かされました。特に、「問題を抱えている相手にしてはならない12のこと」を知った時は、「今まで相手のためを思ってしていたことが間違っている可能性がある!」と気づかされて衝撃でした。
おすすめです!
投稿: miwacco | 2008.06.02 10:17
給食費の滞納についての調査ですが、これは参考資料になりませんかね?
滞納が増えている原因として、経済的な問題以外が7割となっています。
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/19/01/07012514.htm
学校給食費の徴収状況に関する調査の結果について
平成19年1月24日
文部科学省
過去数年の未納の児童生徒数や未納額の推移について
・かなり増えたと思う 13.0%
・やや増えたと思う 36.0%
・変わらない 39.2%
・やや減ったと思う 8.9%
・かなり減ったと思う 2.9%
未納が増えたと思う原因について
・保護者としての責任感や規範意識 69.6%
・保護者の経済的な問題 37.7%
投稿: kamm | 2008.06.02 13:07
>> 半兵衛さん
> 貧しさや金持ちにかかわらずDQNな親はいる
その通りだと思います。どんなコミュニティグループにも「困ったちゃん」は必ずいるものです(どのレベルの「困った」人なのかは、グループに依存するかもしれませんが)
>> miwaccoさん
オススメありがとうございます、未読(のはず)です。似たような題名の「親業完全マニュアル」(パントリー)を読んで、そのあまりのマニュアルさ加減に辟易しました。勢い、ゴードンの「親業」まで敬遠してました。
この機会に、ぜひ手を出してみようかと。
>> kammさん
おお、参考資料になります、ありがとうございます。
たしかに、この文部省通知からすると、「責任感の欠如した親の増加による、給食費未納問題」が浮かび上がりますね。「増加している」のではなく、「増えたと思う」という感覚的な回答が気になりますが、とっかかりにはなります。
でもって、2006年の未納率(と理由)が数値で出たので、「過去調査」や「経年的変化」を調べれば、痛い親が増えているかどうか、分かりますね。
投稿: Dain | 2008.06.02 23:50
>>Dainさん
今親業完全マニュアルをAmazonでチェックしてみました。トマス・ゴードン博士の提唱する親業と真逆な印象です...。
親業に関心を持っていただけて嬉しいです。記事を読んで、モンスターペアレントは「伝えられなかった思いが発酵して攻撃に変わってしまった」人たちなのかもしれない、と思いました。
投稿: miwacco | 2008.06.03 01:22
>> miwaccoさん
おお、わざわざチェックしていただき、ありがとうございます。
「親業」、ぜひ読ませていただきますね。
> 「伝えられなかった思いが発酵して攻撃に変わってしまった」人たちなのかも
もっとカクシンハン的な、いわゆる「ゴネ得」追求派がいるみたいです(「ペアレント」に限りませんが…)
投稿: Dain | 2008.06.03 23:55
少なくとも田園調布には一杯いる…(ため息
勝ち負け思想だから、払わない方が勝ちとか、
そういった発想の延長にあるんじゃないか?
一種の上流社会意識のマイナス面みたいな物、
(ここに味方がいなくても)何か別の共同体
の一員と当人が感じてれば問題行動は取れる。
お店などで敷居の高さとして感じられる壁が
極端に狭くなったものと思えば想像がつく?
(妄想上でも)相手とは違うご立派な社会の
一員か、同じ社会でも特別に免罪される立場
という意識がそういう壁を作り出すのだろう。
定住型で、皆が同様に貧しい地域では不可能。
他の割り当て分を代わりに出来る余力はなく
外部の助けも期待できないので結果が見える。
妄想話「貧しい地域に多いだろう」と違って、
現実の理由に是非の余地はない。 シビアだ。
他所に仲間も行くあてもないのに孤立を選び
やっていけるような力がない、だからしない。
投稿: | 2008.06.09 10:26