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人なら読むべき「夜と霧」

夜と霧・旧訳夜と霧・新訳

 受けとったものがあまりに重すぎて、へしょがれた。今でもへにょっている。

 「東大、京大、北大、広大の教師が新入生にオススメする100冊」のNo.10がこれ。

■ どんな本か

 これはホロコーストの記録。強制収容所に囚われ、奇蹟的に生還した著者の手記。限界状況における人間の姿が、淡々と生なましく描かれる。高校のときに手にした記憶がまざまざとよみがえる(「あの写真」があまりにも恐ろしく、読むことができなかったのだ)。

 目を覆いたくなるのは、その姿の痛々しさや残酷さだけではない。そんなことを合理的に効率的に推し進めていったのが、同じ人間だという事実―― このことが、どうしても信じられなかったのだ。

 でも大丈夫、今回読んだ新訳版では、「あの写真」はないから。だからといって、悲惨さはいささかも損なわれていない。丸刈り・個性の剥奪、強制労働、飢え、飢え、飢え、「世界はもうない」という感覚、ガス室、鉄条網へ向かって走る―― さまざまなメディアにコピられ、反すうされているから、隠喩としてのアウシュヴィッツのほうに馴染みがあるかも―― ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争での "ethnic cleansing" なんて最優秀コピーだろう。

 だから、さまざまな「物語」で知ったつもりになっている強制収容所の実態を読んで、一種の懐かしささえ覚えた(ホントのところは真逆で、本書を下地としてそうした「お話」が作られていたのだが)。

■ 苦しみの意義を問う

 むしろ、そんな狂気の状況で著者がたどりついた結論のほうに目が行った。それを紹介する前に、ひとつ質問したい。わたしが質問して、わたしが答えてみる。

   質問 : アウシュヴィッツのような極限状況では、何を目的とし、
       何を支えとすればいいのだろうか?

   回答 : 「生きる」ことそのもの。なんとしてでも生き延びることを
       第一の目的として、いつかは脱出することを支えとする

 もちろん、この回答は著者が出した結論と違う。宗教的価値観やイデオロギーのフレームワークが異なる、なんて片付けられればどんなに楽だろう。しかし、仮にそうだとすると、この書き手は、被収容者の大部分と、まるで違うところを見ていたことになる。

おおかたの被収容者の心を悩ませていたのは、収容所を生きしのぐことができるか、という問いだった。生きしのげないのなら、この苦しみのすべてには意味がない、というわけだ。しかし、わたしの心をさいなんでいたのは、これとは逆の問いだった。
 極限状態に陥ったとき、目の前の苦悩そのものの意味を問わない。わたしは、そこから逃れようとするだろうし、適わないのなら、次元を変えてでも達成しようとするだろう。つまり、物理的に逃げられないのなら観念の世界へ逃げるとか、外界をシャットアウトして自分を外在化してしまうとか。しかし、著者フランクルは違う。
すなわち、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。
 ここだけ読むと、まるで殉教者のようなものいいなのだが、その口は、「宗教」という枠から完全に離れたところで語っている。

 被収容者に「宗教」がどのような役割を果たしたのかについて紙面を割いている一方で、上記の発言は心理学者――むしろ、いち科学者としての観察結果だ。生きる目的を、脱出できる将来に託した人や、過去の思い出にしがみついた人を分析する。将来に頼った者は暫定的な状況に耐えられなかった。過去から離れようとしなかった者は現実と完全に縁を切った(肉体的にはしばらく"生きて"いたが)。

 ここで著者はニーチェの言葉を思い出させる――「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」。そして、人間とは何か、について彼のたどりついた結論をこう述べている。

わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とは何かをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。

■ アウシュヴィッツに収容されていた人は誰か

 「訳者あとがき」で気づかされるのだが、驚くべき事実がある。旧訳版には「ユダヤ」という言葉が一度も使われていないのだ。「ユダヤ人」も「ユダヤ教」も、ただの一度も出てこない。

 なぜだろうか?

 それは、この記録に普遍性を持たせたかったから、「ユダヤ」という色をつけなかったのだろうと、訳者は述べている。一民族の悲劇などではなく、人類そのものの悲劇として、自分の体験を示したかったのだろう。

 このメッセージ性の強い手記は、その人称の変化からも受け取れる。本作は、大きく三段階に分かれている。

   第一段階「収容」
   第二段階「収容所生活」
   第三段階「収容所から解放されて」

と三部構成となっている。そして、主語はこう移り変わっている。

   第一段階 「わたし」
   第二段階 「わたし」→「わたしたち」
   第三段階 「わたしたち」→「あなた」

 読み手は、彼の体験の聞き手から始まって、同じ被収容者として追体験し、最後には「わたしの」経験として受け取れるように配慮されている。もちろん、これほどおぞましく、無残な経験なんて想像することは難しい。しかし、再現の可能不可能よりも、そういう構図で本作が書かれていることに注目したい。この意図もやはり、この悲劇に普遍性をもたせる一助となっている。

■ 「ナチス」というラベル、「ユダヤ」というラベル

 わたしが知っているつもりの「ナチス親衛隊」とは違う側面も紹介されている。

 ナチス親衛隊員が全員冷酷で残酷な輩だったわけではない。彼らの中にも役割から逸脱し、人道的にふるまう者がいた。ある所長は、こっそりポケットマネーからかなりの額を出して、被収容者たちのために薬品を買ってこさせていたのだという。

 これには驚いた。多くの、非常に多くの「物語」で、ナチス親衛隊は冷酷で無慈悲で残忍な存在として扱われていたから。「夜と霧」の劣化コピーにおいて、このカリカチュアのプロパガンダは喧伝されていたが、ほかならぬ本作でその否定形を見せられるとは。

人間らしい善意はだれにでもあり、全体として断罪される可能性の高い集団にも、善意の人はいる。境界線は集団を越えて引かれるのだ。したがって、いっぽうは天使で、もういっぽうは悪魔だった、などという単純化はつつしむべきだ。
ラベル貼りにより相対化ができる。本書自身がラベル貼りを拒み、何らかのプロパガンダのプラカードと化することを拒絶していることがわかる。戯画・隠喩となった「ナチス」を見かけたら、もう一度本書に戻ってみよう。

■ 旧版と新版の違いについて

 旧訳版と読み比べたが、読みやすさはダンゼン新訳版。試みに旧訳版を引用する。読み比べてみよう。

すなわち彼は天に、彼の苦悩と死が、その代わりに彼の愛する人間から苦痛に満ちた死を取り去ってくれるように願ったのである。この人間にとっては苦悩と死は無意味なのではなくて… … 犠牲として… … 最も強い意味にみちていたのである。意味なくしては彼は苦しもうと欲しなかった。同様に意味なくしてわれわれは苦しもうと欲しないのである。

 また、底本が異なっており、旧訳版は1947年、新訳版は1977年の版を元にしている。それぞれかなり異同があり、興味深い。なかでも一番なのは、アメリカ軍と赤十字がついにやってきたとき、前出の「温情的なナチス親衛隊所長」を、被収容者がかばうところ。
これには後日譚がある。解放後、ユダヤ人被収容者たちはこの親衛隊員をアメリカ軍からかばい、その指揮官に、この男の髪の毛一本たりともふれないという条件のもとでしか引き渡さない、と申し入れたのだ。アメリカ軍指揮官は公式に宣誓し、ユダヤ人被収容者は元収容所長を引き渡した。指揮官はこの親衛隊員をあらためて収容長に任命し、親衛隊員はわたしたちの食料を調達し、近在の村の人びとから衣類を集めてくれた。
 ここで初めて、「ユダヤ人」が出てくる。ここまでずっと囚われていた人びとは「被収容者」と指されていた。また、宗教としても民族としても「ユダヤ」という言葉は一切使われていなかった。これは新訳にのみであり、旧版には無い。

 では、なぜ、ここで初めて「ユダヤ」という言葉が現れるのか?「訳者あとがき」で名推理が展開されているが、残念ながら、わたしにはそれほどの重みが感じられない。解説の是非はご自身の目でお確かめあれ。

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コメント

 ブログ主のDainさんが、レスをつけてくれたので書き込んでみます。
 夜と霧は読んだ事があります。三年前にとある駅で拾って、そのまま手をつけていませんでしたが。
 この本の著者であるヴィクトール・フランスは精神科医だったこともあって、読解力の足りない私にも心理分析の手法をもった獄中記として読めました。
 ちなみに、北杜生の『夜と霧の隅で』とは関係があるようで関係なかったです。舞台はどちらも、虐殺の現場ですが。

投稿: ギャルゲー太夫 | 2008.05.21 06:36

>> ギャルゲー太夫さん

旧訳と新訳とでは、かなり色が違います。
旧訳はその歴史的背景や映像を交えた「記録」的な一冊に仕上がっている一方で、新訳は一人の精神科医の「手記」のような印象を受けます(訳もやわらかく、告白体に合っていますし)。
ちなみに、同著者の「それでも人生にイエスと言う」が、次のわたしの課題本になっています。

投稿: Dain | 2008.05.22 06:50

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