神話に一撃!「日本人のしつけは衰退したか」
家庭の教育力は低下している。そのため、青少年の凶悪犯罪が増加している。だから、家庭の教育力を高めることが、最も求められている。
ホントだろうか?
あるいは、「昔は家庭のしつけが厳しかった」とか、「最近はしつけに無関心な親が増えており、しつけは学校まかせ」といったイメージは、無条件に受け入れられているが、事実なのだろうか?
リカセンセやウチダセンセあたりが放言してそな言説に、真ッ向から取り組んだのが本書。センセやマスコミが「常識」レベルで扱っている「家庭の教育力の低下」に思いっきりメスを入れる。「そもそも『教育力』って具体的に何?」からはじめ、戦前~現在にいたる文献・調査報告を集め、「しつけ」を立体的に解き明かす。
■ 「しつけ」の歴史的検証
本書のメインテーマは、「しつけ」の歴史的検証。こんなカンジで展開する。
――もともと日本の伝統的な子供観は、「子供は自然に大きくなって一人前になるもの」だという考え方が支配的だったという。そのため、しつけや教育は家庭内よりも地域社会や学校に任せていたのが一般だったそうな。ごく一部の上流階級が、西洋風の考えを取り入れた幼少時の厳しいしつけや英才教育を施していたのが現実。
それが昭和になり、中・高等教育が拡大していくとともに、経済構造の変容の中で、都市部を中心に新中間層が拡大してきた。この新中間層は、子どもを意図的な教育の対象とみなし、家庭を「教育する機関」として編成していったという。父親は外で働き、母親は家で家事・育児に専念するという性別役割分業が組み込まれ、なかでも母親こそが子どもの教育の責任を負っているという意識がうまれたのだという。
いっぽうで、地域社会や村落共同体は、戦前期から子どもの社会化に対する影響力を弱めていき、高度成長期に最終的に消滅した。学校は立身出世機関として利用されてきた反面、「教育する家族」が広がる中で、相対的に影響力を失っていく――
結局、「家庭の教育機能が低下している」のではなく、「子どもの教育に関する最終的な責任を家族という単位が一身に引き受けざるをえなくなっている」構図を描く。その中で、「昔は厳しかったしつけ」は一部の例外が拡大されている事例を追求し、「しつけの失敗→非行化」という物語がつくり出されていることを非難する。
■ セピア色の過去が暴かれていく過程が面白い
いちばん面白いのは、常識の問い直しの過程で、セピア色のイメージの裏側が暴かれていくところ。いちいち資料や数字にあたりながら検証していくので、イメージだけで知ったかぶるセンセたちは恥かくかも。
例えば、親ではなく、地域社会や丁稚奉公が教育的な役割を果たしていた、という主張の現実に目を向ける。一種のユートピアとしての村落共同体や、出世物語としての奉公制度のダークサイドを暴きたてる。
たしかに、親がしつけなくとも祖父母、近所の人、若者組など、周囲の人々が人間形成機能を果たしていたことはあった。あるいは、丁稚・徒弟奉公や女中奉公の教育的な役割を否定することはできない。
しかし、「村のしつけ」には差別や抑圧が組み込まれており、「目上」の人に礼儀正しいとは、忍従や卑屈さと表裏一体の関係であったことを指摘する。長男と次三男、男児と女児、家柄、家格の区別といった、微妙な差異付けの支配体系・隷属関係の上に成り立っていたことをあらわにする。
また、奉公制度の教育的側面ばかりを強調するのは、あまりにも牧歌的だと返す。見ず知らずの他人の中に放り出され、低賃金で一日中酷使されてきたことや、雇う側は必ずしも教育的な意図を持っていなかったことを指摘する。さらに、過重な労働で病気になったり、虐待がしばしばおこなわれたことも検証する。
■ 本書の結論
まとめると、こうだ。
子どもを放任してたのはむしろ昔(高度成長期以前)で、今どきの親たちは、はるかに子どもに手間ヒマお金をかけている。現代の親たちは、「教育する家族」のマネージャーとして、しつけや教育の担当者、手配師、責任者の役割を果たしている。
そして、童心主義・厳格主義・学歴主義の目標を同時に達成しようと奮闘する。つまり、子どもらしい心を持ち、礼儀正しく道徳的で、望ましい進学先に入学できるパーフェクト・チャイルドを作ろうとする。
なぜなら、親たちは常に不安にさいなまれているから。「あなたの子が非行に走ったならば、すべてあなたの教育・しつけの失敗なのだ」という言説が、親を恫喝するストーリーとなる。子どもの人生の失敗 は、そのまま親としての無能さや人格上の問題を示すものになりかねず、親たちは、子育てに熱心にならざるをえなくなっている。
著者である広田照幸氏は、御歳から察するに、サカキバラと同年代の子どもを育ててたようですな… ああ、なるほど。強い被害者意識はさもありなん。あのころは、子どもを扱うひと皆ハレモノに触る如しだった。マスコミが騒ぎ立てる「ストーリー」に振り回されたエネルギーが粛々と爆発する様を堪能できるぞ。

| 固定リンク
コメント
いつも楽しく拝見しています。
Dainさんが取り上げたスゴ本はどれも外れなく面白いです。また、それらの書籍を媒体として語られる様々な思考は示唆に富み、「こんなに高度なことを、こんなにもわかりやすく楽しく書けるなんて、どんだけ頭がいいのだろう」といつも夫婦で感心しています。
今回は「なぜ最近の老人はキレやすいのか?」 「学力低下の本当の原因」に続く、教育関連の紋切型思考に「ちょっと待った」をかけるエントリーですね。
それでふと思い出したのですが下記、日経ビジネスに乗った田中耕一さんのインタビューです。
インタビュアー
「産業界の一部には、『ゆとり教育』を受けた20代~30代前半の若い世代は諦めざる終えないという議論があります。実験で手を動かし、失敗を経験しながら打開策を学ぶ訓練を初等・中等教育を受けていない。しかも周囲との摩擦を嫌い、他人と違うことをやろうとしない。だから次の世代に託すしかないという悲観論です。」
田中さん
「若い世代を切り捨てようと威張れるほど私たちは立派な成果を出してきたのでしょうか。今の子供たちだって脇目も振らずに勉強する人やスポーツに打ち込む人はいます。私は互いを無視しない、おとしめない姿勢が大切だと感じます。これは世代間でも一緒。リスペクトする意識を持てば、『諦める』などという、可能性を無視する発想には至らないはずです。」
つまり、本当に頭のいい人は安易にマスコミに乗らないん、単純な思考停止に陥らないんだなと、思った次第です。長くなり申し訳ありません。今後も楽しみに読ませていただきます。
投稿: ponta | 2008.05.19 23:48
>> pontaさん
えらく誉めていただいて恐縮です。
中の人はときどき暴走するのでびっくりなさらぬよう。
ウソだらけの「若者論」ですが、実は結論は出ています↓
最も古い「最近の若者は…」のソース
https://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2007/04/post_7265.html
他者を叩くことで自己正当化(重要化)を図ることは、ナチスをはじめ権威者の基本テクですから。マスコミが指さすとき、示された対象ではなく、指そのものを見つめることがコツです(なぜ、そういうことにしたいんだろう? ってね)。
投稿: Dain | 2008.05.20 21:27
大体同意ですが、
日本での最も優良な企業ですら、
拘束9時間+国が推進するみなし不払い残業2時間+無償労働の貧困故の遠距離通勤4時間+睡眠8時間+朝食1時間+夕食1時間+風呂1時間=26時間
という囚人以下の生活を送らなくてはならない現在の日本の父親は、
時間も金もかける事ができません。
バブル成金で権力を得ただけの無能な老害が贅沢を維持する為に、
必死で働く奴隷のみが採用され、疲弊してぼろぼろになると、
老害は贅沢維持の為に次の奴隷を募集するのです。
「雇ってもらえるだけでもありがたいと思え!クソニート!」
……これを繰り返すうちに何故か徐々に募集しても集まらなくなりました。
今は、旧ソフトバンクのようなインチキ詐欺広告で募集して、
どうにか少しだけ増加していますが、労力の割に増加率は
あまりにも微々たるものなので、長くは続かない。
投稿: 無責任アリス | 2008.05.21 09:10
>> 無責任アリスさん
> 拘束9時間+国が推進するみなし不払い残業2時間… =26時間
> =26時間
> =26時間
> =26時間
ちょwww、1日は24時間だった気が。
後藤和智著「若者論を疑え」など、「最近の若者論」への反論からはじまって、老害追求の動きは感じられます──が、メディアは「困窮している一部の老人」を犠牲羊にして世論対策がバッチリなされてます。
こうしてblogで言っててもどれだけ効果のあることやら──テレビの大合唱を見ていると自信を失います。
投稿: Dain | 2008.05.22 06:58
子どもに手間ヒマお金をかけるのと、躾ができているのとは違うと思いますが。
たっぷり手間隙をかけられて甘やかされて育った子供が多くなったのは事実ではないでしょうか?
投稿: 七誌 | 2008.05.23 02:57
あはは、確かにその一文から膨らませられますね。
言葉尻をつかまえられるのであれば、わたしの文章はまだまだです。
投稿: Dain | 2008.05.23 06:53
Dainさん
内田樹ファンの私としては「ウチダセンセはそんなコト言わない」と言いたくなりますが、全体のトーンとしてはこのエントリには同意します。
あと、こういった昔は云々の幻想という点からは、斉藤美奈子の『モダンガール論』をお勧めします。
雑誌などを資料に、主婦かキャリアウーマンかというあこがれは昔から女の子の悩みだったんですよ、ということを(影の部分もあまさず)楽しく掘り起こしています。
投稿: ほんのしおり | 2008.05.24 01:15
教師が生徒に体罰を与えたとします(今時、滅多にあることじゃありませんけど)。
自分がガキの頃は、それが発覚すると親から「悪い事をしたら怒られて当然だろう!」とさらに叱られました。子供心にも、それが当たり前と思っていました。
が、今は親が教師に文句を言うようです。
曰く「ウチの子が悪い事をするはずが無い」「ウチは子供を市から内容に伸び伸びと育てる教育方針だ」…さらに、教師に直接苦情を言い立てるより先に校長や市の教育委員会、ひどい時は県や都の教育委員会にねじ込むのだそうです。
どこかが間違ってる気がしてなりません。
投稿: EMANON | 2008.05.25 11:10
おっと失礼
誤:市から内容に
↓
正:叱らないように
投稿: EMANON | 2008.05.25 11:11
>> ほんのしおりさん
やだなぁ、タツルセンセのことじゃないですよ、内田リカ教授です。
内田リカ教授は、鋭い舌鋒で世相をズバズバ斬ることで有名な精神科医+仏文教授です。最近は主義主張の経年疲労が目立ち、ネタの使いまわしが散見される(本人談「もったいない精神」です)。著書多数――ってウソですごめんなさい。
内田樹教授なら、「最近の親はしつけに無関心」よりもむしろ、「しつけが何たるかすら知らない」といいそうですね。ブログを見る限り、ときどきいいこと言っているので、よく調べもせずにイメージ論を振り回してほしくないなーと願っています(PLAYBOY4月号の「この人の書斎が見たい!」を見ると、「思いつき→ネットで裏づけ→執筆」スタイルを取っているんじゃぁないかと)。
スゴい書斎とはこれだ「この人の書斎が見たい!」
https://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2008/04/post_f42d.html
>> EMANONさん
ああ、確かに!
わたしも親から、「悪い事をしたら叩かれて当然だ!」と叱られたことがあります。
でもって、「これ最近のことなのかしらん」と過去を漁ってみると――そうでもないような事例が続々と。
自主性という名の放任主義で長ラン・ツータックの息子になりました
集団喫煙事件の自供拒否でムスコの弁護士に変身した親の法廷闘争
問題生徒の母親が必ず口にする「だって家ではいい子なんです」の大嘘
…等18事例
(別冊宝島95「ザ・中学教師――親を粉砕するやりかた」1989.6)
校長、教育委員会だけでなく、後援会、代議士経由でねじ込む親の生態が痛いです。
「昔と今」の罠は、かなり気をつけておかないと。
投稿: Dain | 2008.05.25 16:17