モンスターペアレントはどこにいるのか?
モンスターペアレントはどこにいるのだろうか?
新聞やテレビでは、おどろおどろしい「モンスター」が解説されている。神聖なる教育現場に怒鳴り込み、執拗に要求をくり返し、教師をノイローゼに追いやる「モンスター」たち。
しかし、幸か不幸か、わたしの身の回りではぜんぜん聞かない。学校や園、地域の集まり、隣近所の立ち話など、けっこう首を突っ込んでいるが、一度として「そういう親」を見聞きしたことがない。
こういう場合のオチは、「モンスターは、実はわたしだった!」がよくあるパターン(「ゾンゲリア」パターンですな)―― ハッ!もしやわたしが「痛い親」なのかも、と不安になる(小心者なので)。
煽られっぱなしもイヤなので、少し調べてみた。教師と親との確執ってやつを。
2008 「モンスターペアレント」
「モンスターペアレントの正体」(山脇由貴子、2008)によると、モンスターペアレントとは、クレーマー化した親たちだそうな。
「うちの子さえよければいい」と自己中心的で、コミュニケーションが希薄化した親が、急増しているという。そうした親たちは、とにかく口を開けば要求ばかりで、学校が応えないと苦情になる。苦情はエスカレートし、担任や校長への個人攻撃に発展し、果てはネットやメールを駆使して根も葉もない誹謗中傷をまきちらす。これは子どもの「いじめ」と大差ないという。
「わが子が問題のある子といわれなければいい」という心理の裏側に、自分が「育て方に問題のある親」と言われたくない恐れが隠されている。この防衛心が働いて、子どもが問題を起こしたという事実を絶対に認めようとしない。「うちの子は悪いことをするような子ではありません」と全否定し、「悪いのは学校だ」と責めてくるんだってー。
著者の山脇氏は1969年生まれ。心理学を専攻したカウンセラーらしいが、この人が「親業」をやっているかどうか、かなり興味を惹かれるところだ。
さて、数字がぜんぜん出てこない、経験談と印象論で構成された本書を振り出しに、「学校と対立する親たち」の生態を、過去にさかのぼって見てみよう。
たとえば、山脇氏が中高生だった時代は、そういう狂育ママのことを「ママゴン」と呼んでいたよね。そしてこの頃は、「積み木くずし」が売れていたね。ええ、もちろん読んだよ。「わが子が不良化 = ダメ親の烙印」を恐れた有名俳優の釈明手記ですね、分かります。
1989 逆襲のオバタリアン
「別冊宝島95 ザ・中学教師――親を粉砕するやりかた」(1989)によると、家族ゲームとしての「積み木くずし」の原因は、100%、親にあるという。「家族をやれない」親が急増しているそうな。
自主性という名の放任主義の親、集団喫煙事件で息子の弁護士に早変わりする父親、「うちの子がバカなのは教師の教え方が悪い」とねじ込んでくる母親―― 子どものために手段を選ばぬバカ親たちの生態が痛い。
ねじ込む親。「うちの子が悪いことをするはずが無い」と子どもを信じるあまり、学校に圧力をかけてくる父親がいる。教師に直接苦情を言い立てるよりも、校長や教育委員会、後援会、果ては県議ルートから攻めてくる。
泣きつく親。「やればできる」信仰にすがりつく親と、「やってもできない」子どもの現実。進学させたいのは親の見栄なのであり、子どものためと思い込んでいることで自分をごまかしているにすぎない。偏差値34やる気のない生徒の尻をたたいて動かなかったら、教師の次の仕事は、親の願いをあきらめさせることになる。
現場の教師たちが体験した、「恐るべき親たち」の生態がよく分かる。子どもがおかしくなったのは親が原因であり、学校に矯正を求めるな!――教師の悲痛な叫びが聞こえてくる。
この時代には「恐るべき親たち」に「モンスター」だの「クレーマー」といった洒落た名前はついていなかった。だいたい、「クレーマー」なんて1999年の東芝クレーマー事件で広まったようなものだし。この時代なら、「ママゴン」「パパゴン」「オバタリアン」ぐらいかね。
1987 カイワレ族とママゴン
ごく普通の息子を持つ母親の、受験奮闘記を例に取ってみよう。「カイワレ族の偏差値日記」(村崎芙蓉子、1987)なんて良いサンプル。
この物語は、ムスコの偏差値が52であることを知って、愕然とするところから始まる。52て、ふつうやんと思うんだが、この母は「お医者さま」なのだ。そしてダンナも医者。つまり、医者の両親を持つムスコが「ふつう」であることにガマンならんらしい。
ムスコといえば、ひっこみ思案の頼りなさげなタイプで、その様子から「カイワレ族」と命名される。このムスコの尻をたたき、高校受験に向けて猛勉強をさせるママゴンに変身するさまが面白い。
- 6ヶ月で30回三省堂に通って、111,470円の参考書を買ったと豪語し、河合塾の夏期講習費用 89,250円にのた打ち回る様子が痛い
- 「偏差値教育」の荒廃を嘆きながらどっぷり洗脳されている自分を弁解する言い訳のひとつひとつが痛い
- 放任してきたことを逆ギレしたムスコから指摘されて、最初に考えたことが「わたしにだって言い分はある」という自己中心的痛さが生々しい
で、あれだけ払った犠牲のワリには… 得たものがあまりに貧しく、二重三重に痛々しい。さらに、喉もと過ぎればなんとやら、「あの受験騒ぎ」が終わった後は、またいけしゃあしゃあと受験教育批判をくり返す。自分の放任を棚に上げて、教育の荒廃を招いたのは学校や文部省、臨時教育審議会だと断ずる、ステキな親だ。
本まで書いて反面教師を体現しているんですね、分かります。
1980 わが子主義の「未熟親」
よかれと思って指導に当たっていることについて、意外なほど曲解され、軽視されているんだって(もちろん原因は親)。「どうして、こうも分かってもらえないのだろう。このままでは、子どもたちはダメになってしまう」という教師の危機意識が累々と書かれている。
- 「入試はカネ次第」だと平然と口にし、内申書の不正を堂々と頼む親
- 面と向かって「がっかりしましたよ、女の先生で、しかも新卒で!」と言い放ち、嫁いびりならぬ女教師いびりが始まる
- 子どもを学校へ捨て子する親「学校は託児所、しかも格安の」
- 不平不満の匿名電話、安全地帯から教育委員会や議員にコソコソ訴える親
この本の良心的なところは、「教育委員会など『外部』に訴え出る親」の主張も掲載しているところ。
おお、妙にリアルな主張だ。著者自身も「もっともな話」と同意している。ではどうすればいいか? その回答が笑える。学校のことで問題が起きた場合、父母としては当然、信頼できる教師に相談したいと願うわけです。しかし、学校特有の事なかれ主義や、臭いものにはフタの姑息な保身主義にはばまれて、父母の率直な訴えがもみ消されてしまうのが実情です。
担任、教頭、校長、PTA会長に善処を要望しても、「権限がない」「それは教育委員会」といって逃げてしまう。そうなれば教育委員会への直訴もやむをえないのではないか。
これでおしまい。ホントだよ。ダラダラ書きのばしているけれど、要するに「よく話し合わなければならない」で和了。イマドキ、中学生の作文でももうちっとブレークダウンするぞなもし。おおいに議論すべき問題だ。父母と教師の相互理解の不足が不信感を増大させているから。これは、どちらが悪いと簡単に片付けられる問題ではない。本気になって話し合わなければならない問題だ。
今風にまとめるなら、「未熟で自己中な親」と「経験を積んだ(教育を受けた)教師」とのコミュニケーションエラー。あるいは、「親の無理解と非協力」により、「学校の教育指導」が阻害されている構図かなぁ。
1973 「ローカルちゃん」ママ
「学校は死んだ」(川上源太郎、1973)は、当時のバカ親たちに面白い名前をつけている。わが子を学校に捨て子しておきながら、たいそうな口をきく連中は「ローカルちゃん」というそうな。
「ローカルちゃん」とは、世間知らずで厚顔無恥――自分のちっぽけな立場をオール・ジャパンに拡大して恥じない人のこと。つまり、新聞のローカル面に出てくる田舎名士で、視野が狭く、相対感覚を欠いている。さらに、限定的な地位と名誉と財産が世界の全てだと思い込んでいる人だと定義されている。
つまり、「ローカルちゃん」ママは、わが子だけが子どもだと思い、夫の職業だけが職業だと思い、自分の家庭だけが家庭だと思い込んでいる。何か問題が起きたとき、「ローカルちゃん」ママは、自分からもっとも離れた、自分とは全く関係のないところから、理由や責任を探し出そうとする。自分と自分の家庭の外に理由を求めて擬似的な解決をはかり、それで一件落着だと思い込む。
スパルタ教育、偏差値狂育がこれを助長する。東京都港区で、生後6ヶ月の乳児をかかえる小学校の女教師が自殺した。「育児疲れでは…」と口を濁しているが、一部の母親が「規定いっぱい産休をとるような教師にうちの子を任せられない」と突き上げていた事実が明るみに出た(毎日新聞1979.4.13)。教育ママたちの圧力が、先生を死に追い込む。
このような事態になっても、ローカルちゃんママは後ろめたいと思わない。悪いのはノイローゼになって勝手に自殺した女教師であり、むしろ思春期の感じやすい子どもに与えたダメージの方が大きい――と被害者ヅラを被ったまま。流行語にもなった「あっしにはかかわりのねえことでござんす」を地で行く親たちを見よ。教育ママではなく、「狂育ママ」はこの時代がピークだったような気が。ローカルちゃんママの典型は「素直な戦士たち」(城山三郎、1978)をどうぞ。
1967 「責任転嫁」親
「こんな先生はヤメテしまえ」(佐藤弘毅、1976)が面白い。戦後の民主主義教育によって小学校から育てられた最初の世代が親になっており、学校をダメにしたすべての元凶はそこに行き着くと断言する。
「宅の子」の不都合を学校にねじ込む親は、そもそもの原因が自らにあることに気づけない。大学生になっても、うちの息子が「ゲバ学生」になったのは、大学が悪いと言い張る父親までいたそうな。
以前も出したが、このグラフが雄弁だな。1967年のNHK世論調査で「教育改革の担当者は誰か?」という質問に対し得られた結果。
ポイントは、教育のまさに現場にいるはずの「教師」と答えたのが、たった8%ということ。あまつさえ、「父母」と答えたのがわずか2%とはこれいかに。教育とは、「お上」に任せるものという意識が蔓延していることがわかる。
親がうるさくなった理由として、「責任転嫁主義」の風潮がある。自分以外の悪人探しをして、そこに日ごろの不平不満を発散させる。環境が悪い、学校が悪い、政府が悪い、社会が悪い…いつでも自分以外のものが悪く、自分の責任は常に棚上げされる。自問する、反省するといった姿勢に欠けているのが特徴だという。
自分はいつでも「いい人」であり、公共の場でも「いい人ごっこ」の遊びをしたい、若い親たちが激増している。こうした三十代の親たちが、「学校を殺した」んだと。
じゃぁ戦後民主主義が全ての元凶かというと、そうでもない。当時、「センゴミンシュシュギ」は便利な言葉で、いいことも悪いことも、その「原因」に帰することができた。しかも、議論のきっかけも結論も、このマジックワードに収束・拡散させることができた。曰く「センゴミンシュシュギが教育の低下につながった」とか。
本当か?
1936 「廊下すずめ」
戦後民主主義のシッコクがなくても、やっぱりバカ親はいた。
「日本の近代小学校と中等学校進学」(所澤潤・木村元、1988)によると、「廊下すずめ」というレッテルだそうな。戦前期の新中間層において、熱心にわが子の教育を考える親の典型として「廊下すずめ」と呼ばれていた母親たち。
「廊下すずめ」とは、学校にやってきて教室をうかがい歩く母親たち。子どもの勉強ぶりを監視する母親たちが日常的にいた。中には病欠の子どもに代わって登校し、一日の授業を受ける猛者もいた。廊下にすずなりになって静かに見守っている――わけがなかろう。かまびすしくおしゃべりしながら群れ集う母親は、ちゅんちゅんやかましいスズメにたとえられている。かしまし娘の親世代からして姦しかったということ。
また、「子供をめぐる親と教師の問題」(霜田静志、1936)によると、学校や教師に多様で過剰な要求を突きつける親が目立つようになったという。これは、親こそが子どもの教育の責任者だという観念の広まりとともに増加し、学校側との対立も少なからずあった。
親の側の教育方針が内部に対立をはらむものであったとすると、彼らが学校に要求するものもばらばらにならざるをえない。わが子の教育に熱心になった親たちはさまざまなことを要求するようになった。しかし、「あれも」「これも」と求められても、学校はそうそうすべてに対応できるわけではない。父兄の要求する所と言っても、まちまちであって、これを一々迎える事になったらやりきれるものではないのである。ええと、70年後の今と変わらないグチなんだケド。
2008 Back to The Future
どの世代(職場・教室・地域)にも「困ったちゃん」がいるように、理不尽な要求を突きつける親たちはいる。しかし、そうした「困ったちゃん」が激増しているかのような印象操作をくり返すマスコミ・ライター連を見ると、「また君か」という気分になる。根拠と数字を元に議論しようよ。
新しい名前をつけて「発見」した気になるのはコロンブス・メソッド。ちっとは過去を見ろ。ママゴン、未熟児ならぬ未熟親、「ローカルちゃん」ママ、「責任転嫁」親、廊下すずめ、いろいろな名前で呼ばれてきた。「モンスターペアレントは、どこにいるか?」ではなく、「モンスターペアレントは、何と呼ばれてきたか」なんだね。
ろくに調べもしていないイメージが、ストーリーにすり代えられていく手法は舌を巻くほかない。こいつら文章上手いよ。けどね、その文、臭うよ。親の圧力を煙たがる学校と、対立を煽って対策を撒き散らすマッチポンプ役の売文屋、さらにそうした世相を憂う自称知識人の手垢と口臭で、ひどい臭いをたてている。
このイメージ、つまり、「未熟で自己中な親」と「経験豊かな教師」とのコミュニケーションエラーという構図が変わらないことに注目したい。時代が変われどもこのストーリーで説明されているのはなぜだろうか? 毎年毎年、無理解な「未熟親」が現れては無理難題をネジ込んでいるのが事実だからだろうか? 毎年毎年、「最近の親は…」と叩くストーリーこそが現実をピッタリ説明できるからだからなのか?
それよりも、これだけ年を経ても同じ問題が云々されるのなら、むしろ構造的なものがあるんじゃぁないかと勘ぐりたくなるね。
例えば、会社など外の組織で揉まれた親と、学校空間の内側に閉じた教師とのコミュニケーションギャップとか、ホメオスタシスな教師とトランジスタシス(by リツコ:EVA)な親とのせめぎあいとか、ちょっと別の「絵」も描けそうだが…
そして、この構図を仮説として、「社会の常識が通用しない v.s. 学校は社会と違う」的な議論に持っていったらリアルかも。あるいは、杉並の和田中学がやっている「夜スペシャル」の反応を、「学校」と「親」に分けて調査してみるとか。さらに、継続的に「苦情」が寄せられる学校とそうでない学校との違い、公立校と私立校への「要望・苦情」の濃度や種類を分類すると、数字を伴ったより具体的な話ができるかも。
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