Google Earth のような人類史「銃・病原菌・鉄」
Google Earth が愉快なのは、バスケットボール大の地球を、文字通り「手玉に取る」ところ。数千キロをぐるりとまわし、見たいピンポイントをズーミング。バードビューからサテライトビューまで自由自在。
この感覚で人類史を解説したのが本書。
数千~数万年単位の歴史を、猛スピードでさかのぼり、駆け下りる。大陸塊を横長・縦長で比較しようとする巨大視線を持つ一方で、たった16キロの海峡に経だれられた文化の断絶ポイントを示す。時間のスケールを自在にあやつり、Google Earth をグルグルまわす酩酊感と一緒。地球酔いしそうだ。
■ 本書のテーマとアプローチ
「東大、京大、北大、広大の教師が新入生にオススメする100冊」のNo.1がこれ。
世界の富や権力は、なぜ現在あるような形で分配されてしまったのか? たとえば、なぜヨーロッパの人々がアフリカや南北アメリカ、オーストラリアを征服し、どうしてその逆ではないのか? この究極の問いをとことんまで追いかける。
ひとつのやり方が、「民族間の生物学的差異」に目をつけることだ。この差が原因となって、民族によって異なる歴史の経路をたどったという説明だ。これを立証するために、民族の生物学的差異に優劣があることを証明しようとする科学者がいる。要するに、数世紀も前に征服されたり奴隷化された人々の子孫が、社会の最下層で暮らしているのは、そういう民族・人種だからである、という根拠だ。
このような考え方に、著者は真っ向から反対している。種としての民族・人種に優劣があるのではなく、そのおかれた環境・住んでいた場所が決定的な要因を果たしていると主張している。そのフィールドは、遺伝学、分子生物学、進化生物学、地質学、行動生態学、疫学、言語学、文化人類学、技術史、文字史、政治史、生物地理学と、膨大なアプローチからこの謎に迫る。
最初は違いがなかったはずだ。今から13,000年前、最終氷河期が終わった時点では、人類は世界各地でみな似たり寄ったりの狩猟採集生活をしていた。それが16世紀には、南アメリカ大陸のインカ帝国をユーラシア大陸からやってきたスペイン人が征服するまでになる(表紙にもあるとおり、インカ帝国の絶対君主であったアタワルパの捕獲は、ヨーロッパ人によるアメリカ大陸の征服を象徴している)。
その直接の原因は、スペイン人が持ってきた「銃・病原菌・鉄」であった。銃で殺し、結核で殺し、サーベルで殺した血の歴史になる。だが、著者は地球を逆回転させる。「では、なぜ『銃・病原菌・鉄』を持てたのか? 紀元前11,000年から西暦1,500年の間で、何がおこっていたのか」を突き詰める。
■ 「銃・病原菌・鉄」謎解きのフレーム(いちばん面白いところ)
そのフレームは以下の通り。それぞれの要素がどのように絡み合っているかを解きほぐし、指し示す。ミクロからマクロまで、距離と時間をカッ跳んで縦横無尽に説明する。謎解きの過程が非常にスリリング。
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┃直接の要因
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┃ 馬
┃ 銃・鉄剣
┃ 外洋船
┃ 政治機構・文字
┃ 疫病
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【 なぜ、銃・病原菌・鉄を手にできたのか? 】
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┃「銃・病原菌・鉄」をもたらした要因
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┃ 技術の発達
┃ 人口が稠密で、定住している人々
┃ 階層化された大規模社会
┃ 余剰食糧、食料貯蔵
┃ 多くの栽培植物と家畜の存在
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【 なぜ、そのような社会になったのか? 】
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┃究極の要因
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┃ 適正ある野生種の存在
┃ 種の分散の容易性
┃ 東西方向に伸びる陸塊
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ユーラシア大陸を「横長」、アフリカ大陸を「縦長」とみなす巨大な視点を持つ一方で、伝染病が家畜→人へうつるプロセスを丹念に追いかける微視的な視線も使いこなす。Google Earth でアフリカ大陸の家畜の分布図を眺めていたら、一気にズーミングして顕微鏡級になり、家畜が介在する伝染病の戦略を見せられる。
■ ユニークなところ
まず、科学者が見た人類史であるところ。
仮説と仮説をつなぎ合わせてストーリーができあがるから、「正しい」のではなく、必ず客観的データによって検証を行っている。仮説を裏付けるエビデンスのひとつひとつは、炭素年代測定法やDNA解析を用いた科学的手法に裏付けられており、強い説得力を持っている。
石器を一個見つけただけでその年代は石器を使えた~なんて断言しない。「たまたま紛れ込んだかもしれないじゃないか」と、証拠に充分な量を求めるところなんて、いかにも「科学者」だ。
このユニークさは、「文字」に依存しないところにも現れている。つまり、「書かれたもの」から抜け出た歴史なのだ。もちろん史実を追うために歴史書にあたることはあるが、その読み方も複数のソースから照射されるようにしている。その結果、征服者の視線でしか残されていない「書かれた歴史」は、必然的に重要視されないでいる。歴史とは、記録されたものを追いかけ、再構築するものだと思い込んでいた頭をふっとばしてくれる。
さらに、人の限界を冷徹に見ている。天才や偉人の業績よりも、それを「業績」にならしめている社会や情勢の方に眼を向けている。鉄器時代にアインシュタインが生まれても、「業績」は残さないだろうというやつ。
その反面、歴史学者トマス・カーライルは、歴史をこう定義している。
世界史、すなわち世界で人が成し遂げたものごとの歴史とは、根本的には、偉人たちが世界で成し遂げたものごとの歴史である
つまり、歴史とはアレキサンダー大王、アウグストゥス、釈迦、キリスト、レーニン、マルティン・ルター、インカ皇帝パチャクティ、ムハマンド、征服王ウィリアム、ズールー王シャカといった偉人伝である。それぞれの業績はスゴいものがあるが、「その人」だけがスゴいのだろうか? と考えているところが面白い。アレキサンダー大王はスゴいが、その騎馬は家畜というウマがいたから成り立ったのであり、アウグストゥスがアクティウムを制したのはもちろん船舶が発明されていたことが前提。「あたりまえじゃないか」というのはカンタンだが、そうした「あたりまえ」があったからこそ、歴史のティッピング・ポイントに力が加わったのだといえないか。イノベーションが起こった後は、イノベーション自体が「前提化」してしまい、ひいては一般化・陳腐化するというパラドクスは、ここにも垣間見ることができる。本書を通じ、「何がイノベーションだったのか」という視点で人類史を眺めなおすことができる。
■ ツッコミどころもあるけれど
いっぽうで、思わず首をかしげたくなるのもある。もちろんわたしの不勉強が招いている疑問なので、自分で調べれば事足りるのだが――たとえば、「文字」の存在について。
著者は文字の存在をあまり重視していない。もちろん蔑ろにしているわけではない。以下の引用や、イギリス人 vs アボリジニの歴史で、文字を「持てるもの・持たざるもの」の象徴的な例として挙げている。
要するに、読み書きのできたスペイン側は、人間の行動や歴史について膨大な知識を継承していた。それとは対照的に、読み書きのできなかったアタワルパ側は、スペイン人自体に関する知識を持ち合わせていなかった
しかし、記録や伝達などの文字の効用を詳説しながらも、上記のフレーム内での文字の役割は二次的になっている。文字そのものよりも、「その文字を読み書きする人」を養うだけのゆとりが生じている理由に注目している。すなわち、余剰食糧がある階層化された社会を「文字」の前提としているのだ。因→果のリクツはもっともだが、そのエビデンスは本書で提示されたものが全てだろうか? と、別の知的好奇心に火がつく。
あるいは、「日本」の扱いには疑問を持った。日本人はカタカナやひらがなが「発明」したが、その元となった「漢字」を捨ててしまうほど受容されなかったと述べている。つまり、受容されなかった発明の要因として、社会的ステータスがあり、その事例として日本の漢字があげられている。
(受容されない発明がある要因として、効率性より社会的ステータスが重視されることがある)日本人が、効率のよいアルファベットやカナ文字ではなく、書くのがたいへんな漢字を優先して使うのも、漢字の社会的ステータスが高いからである。
たしかに、平安から明治に渡る漢籍至上主義がもてはやされた理由は、支配階級のステータスの証なのかも。オトコもすなる日記というものを~というやつか。漢字の「漢」は「おとこ」とも読むからね。
けれども、だからといって、漢字を捨ててもいいぐらいカナは「効率的な」コードとは思えない。漢字の効用として、パターン認識や速読性、文節の目印といった点があるぞ。アルファベットの民にはこの利点が見えないんだろうなぁ… もちろん、「習得する」という目的からすると、かなカナ漢字アルファベットが入り混じる日本語は、かなり効率が悪いコードであることは否めないが(自分のツッコミも反論充分だな)。
■ 巨視的な場所を手に入れる
Google Earth に夢中になっているうちに、いつのまにか大気圏を突破していることに気づく。カメラを引いていくと、人々が生活する建物や橋サイズから、河川や山脈、そして大陸サイズ、そして大陸と海をカタマリとしてみることができる。
このレベルで歴史を語ったものとしては、梅棹忠夫の「文明の生態史観」を思い出す。「東洋 : 西洋」の単純な枠組みから離れ、ユーラシア大陸をブロック分けし、日本と西ヨーロッパを対照的に再配置している。この文明観のスケールの大きさに驚くだろうが、もっとスゴいのは30年も前に著者が Google Earth の眼を持っていたことだろう。その大胆すぎるアプローチは、かなりの論争を巻き起こしたそうな。
「生態史観」はユーラシア大陸における地理的な配置から比較文明論を展開しているが、本書はそれを上回る文字通りグローバルレベルで人類史を展開している。Google Earth を使って宇宙から地球を眺めるように、巨視的な場所から人類史を視ることができる。
そういう視座を手に入れる頃には、本書の究極の目的である、「富や権力の格差の原因は、民族間の生物学的差異ではなく、地誌的・環境的なもの」であることが理解できる。
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