「冷血」は新訳がスゴい
11月の深夜、一家4人が殺された。父親と母親と息子と娘はロープで縛られ、至近距離から散弾銃で撃たれており、射殺というよりも顔や頭を破壊されていた。
50年前のこの事件の犯人は、二人の若者。もちろん「若さゆえの凶行」なんてレッテルを貼ることもなく、それどころか、著者は感情や評価するような表現は極力使わず、徹底的に事実を積み重ねている。
カポーティの「冷血」、大昔に読んだはずだが、残っていない。文字通り読んだというより「見た」だな。ともすると冗長すぎて途を見失う恐れがあるが、新訳で息を吹き返している。これは読みやすい。これはスゴ本。
犯行状況を時系列の外に置き、調書を取る対話で生々しく表現したり、「なぜ若者が犯行に及んだか」はズバリ書かず、手記や調書から浮かび上がるようにしている。「書き手である自分」を、地の文から取り除くことに成功している。カポーティはノンフィクション・ノヴェルと呼んでいるが、レポートやドキュメントを読まされる感覚。読んだ「あなた」が判断せよ、というやつ。
それにもかかわらず、証拠品の行方や何気ない一言が伏線となって回収されるといった、衒わないミステリ風味も楽しめる(ただし、ミステリのつもり読むと冗長感が倍化するので止めた方が吉)。
初読のときは、「犯行がどのようになされたか」といった犯人視点で追いかけたが、今回は違う。和気藹々とした田舎の共同体が不信の目を向け合うようになる様子や、難航する捜査と世論の圧力、あるいは捜査官の苦悩ばかりに目がいった。
さらに、わたし自身が「家族持ち」になったせいか、家族にかかわるデータが丹念に取り上げられていることに気づいた。被害者一家、加害者の家族、捜査官の家族だけでなく、背景の人々に至るまで、家族の構成とその絆が細かく記されている。
若者二人について。ここまで詳細に取材してくれてたおかげで、頭を抱え込んでしまった。彼らは殺人狂でもなく、ボニー&クライドに憧れていたわけでもない。ちょいイカれた若者が、子どもの顔に向かってショットガンの引き金を引けるわけがない。読めば読むほど、凄惨な殺人を犯す心理と、わたしの感覚の間にズレなんてないことが分かる。
ひねくれて拗ねた目で世を見ていた彼らは、くれない族という言葉がピッタリだ。「くれない族」は25年前の若者に貼られたレッテルなのだが、50年前の彼らにも違和感がない(もちろん現代でも通用する)。
変化したのは、社会のほうだろう。凶悪犯罪者はおしなべて「心の闇」をもつ異物として扱い、糾弾することで「わたしはあいつとは違う」ことを確認させるマス・コミュニケーション装置。目を背けていても、「自分の闇」はここにあるのに。「このような狂気じみた犯行をする人間が正常であるはずがない」という思い込みは、50年前も今も一緒で、彼らを精神分裂病にしたいらしい「圧力」もよく見える。
彼らの感情を評価するような文章は、意図的に取り除かれている。わずかに手紙の引用や調書の一文といった形で読み取れる。
たしかに、供述の一部で彼らの残忍性にゾッとすることになるが、それは引き金を引いた瞬間から始まったことであり、因果のもたらしたものにすぎない。しかし、どうやって範を超えてしまったのか、境目がどうしても見えない。幸せであったり満足であったりする他人を見たときに、この不合理な憤怒が生じるのはなぜなのか? そう、貴兄は彼らを愚者と思い、彼らのモラルや幸せが自分の欲求不満や憤懣の源であるという理由で彼らを軽蔑するのです。
二つの自白は、動機や手口についての疑問には答えてくれたものの、筋の通った計画性というものを感じさせてはくれなかった。この犯罪は心理的な事故、さらにいえば、人格を欠いた行為のようなものだった。被害者たちは雷に打たれて死んだも同然だった。ただ一点を除いては。それは、彼らが長い時間にわたる恐怖を体験し、苦しんだという点だ。
「異常性」をセンセーショナルに煽る今のマスゴミよりも、50年も前の事件なのに、「普遍性」や「連続性」を強く感じる一冊。オススメ。あ、わたしが「狂っている」可能性があるかも
翻訳について付記。かなりこなれていると思うが、旧訳が読み苦しいわけでもない。わたしのお気に入りの箇所で並べてみた。
「ゴージャスなケツ」にピンと来たら新訳をどうぞ。【新訳 : 佐々田訳】
「あんた、鏡を見るたびに恍惚状態になるんだな。なんか、ゴージャスなケツでも眺めてるみたいにさ。そうすると、まあ、退屈するなんてことはねえだろうな?」
【旧訳 : 龍口訳】
「おまえは鏡をのぞいていると、いつでも失神状態にはいっているみたいだね。まるでものすごいお尻でも眺めているようだ。つまり、全然、退屈なんかしないんだろうな?」

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コメント
旧訳の方は読んでいませんが、新訳はとてもすごかったですね。映画「カポーティ」を見るとさらによく分かるとおもいます。自らの取材の為に死刑執行を遅らせようとするカポーティ。はたして誰が「冷血」なんでしょうか。
投稿: | 2008.01.17 07:33
「冷血」を読ますに映画「カポーティ」を観ました。被害者一家の悲劇より、加害者の一人ペリーに興味を持ったカポーティ。小説家として創作意欲を掻き立てられる題材であったのだろうとは理解できますが、映画の終盤でいよいよ二人が死刑に処される際にカポーティが泣き崩れたのは理解不能でした。何故それほど二人に感情移入するようになってしまったのかが映画では描写が不十分だった様に思います。その経緯をどうしても知りたい!ということで昨日佐々田版「冷血」を購入したところです。
とりあえずDainさんの記事を読んで、「すごいお尻」より「ゴージャスなケツ」の方を選んで良かったと思いました!
投稿: | 2008.01.17 22:07
”ゴージャスなケツ”という表現にビビッときてしまいました。
ノンフィクションものは記憶を辿っても読んだ記憶がないので、これを機に読んでみようかと。
投稿: もっちょ | 2008.01.18 14:49
>> 名無しさん@2008.01.17 07:33
映画「カポーティ」ですかー、読了直後のいま観たら、さらにフクザツな
気持ちになるでしょうね…
>> 名無しさん@2008.01.17 22:07
地の文から「カポーティ」は完全に消されている一方で、犯人のひとり、
ペリー・スミスについては執拗なまでに書き込まれています
ペリーが言ったこと/思ったことよりもむしろ、
周りの人は、どのように見ていたか?が徹底的にさらされています
(それこそ本人よりも詳しいぐらいに)
ペリー・スミスの中に「自分」を見つけ出していたのではないかと…
>> もっちょ さん
「ゴージャスなケツ」に惹かれましたか!
ノンフィクションとしてもスゴいのですが、わたしの場合、
ロード・ムービーならぬロード・ノヴェルとしても面白かったです
(ケルアック「オン・ザ・ロード」に通じるものがあります)
投稿: Dain | 2008.01.18 22:59
読んでみますね (^_^.)
投稿: biomasa | 2008.01.21 11:03