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ローマ人の物語XI「終わりの始まり」の読みどころ

 ここは抜群に面白かった。

 長い間、カエサル萌えにあてられるか、「たら・れば・思う」でお腹いっぱいになるか、でなければ「世界史の教科書」並みの解説に付き合わされて退屈だった。「史料のコピペ」+「だが、しかし」+「塩野節」のパターンは、正直ウンザリしてた。

 だが、しかし、この巻は「今までのまとめ」+「塩分ひかえめ」なところがいい。そう、塩野節は塩味のようなもの。ないと締まらないし、強いとこっちもしょっぱい顔になる。ローマ帝国の凋落はここから。来し方を感慨深くふりかえり、行く末を諦観する、ちょっとおセンチな塩野氏が可愛い。塩分キツくて投げた人はここから再開するといい。

■ 「ローマ人」を投げ出した人のために

 極端な話、ハンニバル(3-5巻)とカエサル(8-13巻)だけ読んだら、あとはすっ飛ばしてここ(29-31巻)を読めばいいんじゃないかと。ハンニバルとカエサルの面白さは徹夜レベルだし、この「終わりの始まり」は総集編なので、ここだけ押さえておけばOK。

 さらに、読み方を変えるといいかも。これは、「ローマの歴史物語」なんかじゃなく、「彼女の物語」なんだと再定義する。つまり、「(塩野七生の)ローマ人物語」なのであり、ローマ史をベースに彼女の好きなように語った「大説」なんだ。「(巨泉の)クイズダービー」みたいなもの。彼女の塩味というか演出というか妄想を一緒なって味わうのが、楽しく読む方法。

■ 「ローマ人」の外側を楽しむために

 とはいうものの、これが歴史書扱いされると話は別になる。おそらくアシスタントはいるだろうが、ほとんど独力でまとめあげたはず。主張や論拠は、学術的な検証にさらされておらず、[ こうした ]プロフェッショナルからの烽火も見える。

 ああ、それでも彼女の言い分(言い訳?)が見えるよ。専門家の批判に追い詰められる前に、こう言い放つはず→「だって物語だもん」。あるいは、「わたしは小説家だ。史料を元に、わたしの頭で再構成した仮説を説明しているんだ」なんて開き直るかも。単行本は完結したから、そろそろ反撃の鬨の声が挙がってくるはず、バトルが楽しみ~

■ 塩野節を誉めてみる

 まず、たとえがうまい。比喩的な言い回しから文明論まで膨らませる語りがいい。

 たとえば、高架水道。ローマ遺跡として有名だが、塩野氏はこれを首都高にたとえる。つまり、都市の外側から中心部へ入り込んでいる建築物として。自動車と水、レンガとコンクリートを鮮やかに対比させている。

 あるいは、ローマ国体を「身体」に置き換えるセンスが素晴らしい。ローマ中枢の元老院の議員と、辺境の防衛線を任される兵士が、同じ「蛮族への脅威」を抱いているとき、それを「頭」と「手足」と読み替えて説明する。作家を生業とするだけあって、この比喩はよく分かる。

 さらに、時代も場所もまるで異なる文明を、分かりやすく噛み砕いてくれる。軍団基地の物資を最小限に押さえる取り組みを、トヨタのジャスト・イン・タイムにたとえたり、属州や辺境に行かず、ローマ中枢でコントロールする皇帝を「本社に集まってくる情報をもとに、本社にいつづけながら多国籍企業を経営するトップに似ている」という、うまい。

 こうした比喩のおかげで、数千年の時を越えてローマをつかまえることができる(丸めすぎて誤解しているところもあるかもしれないが…)。

 シロウト目線もありがたい。あれだけ参考文献を読み込んでいるくせに「シロウト」の隠れ蓑をかぶるのはズルい。しかし、そのおかげで彼女と同じ感覚をもってローマを「観る」ことができる。

「ローマ人の物語」の連作を書くためにローマに住んでいるが、それによる利点の一つは、ここからは昔のローマの防衛線のどこにも、飛行機二時間以内で達せることにある。都市ローマはかつてのローマ帝国の中心に位置しているので、放射線状に行きたい地に行っては帰ってこられるからだ。だが、これを日常にしていると、ローマ帝国が、人種や民族や文化の別だけでなく、地勢的にも気候的にも実に多種多彩であったことを痛感させられる

 なるほど、ヨーロッパに住んでいるローマ史研究家は多々あれど、中心←→辺境を放射状に行ったり来たりする人は塩野氏ぐらいだろう。だからこそ、一口に「ローマ」といっても中身は多種多様であることを実感として指摘できる。かつて統治者も辺境からローマ都市へ還ってきたとき、同じ感懐を抱いたに違いない。「分割統治」が書物ではなく、体験から説明できるのは強みだろう。

■ 天邪鬼な書き手には天邪鬼な読み方を

 たとえばマルクス・アウレリウス。哲人皇帝として名高いし、「自省録」読んだならその真摯さに撃たれるだろう。だからこそ、こういう「できた人」を貶めるんだろうなー、と気をつける。通説に異を唱えるのが塩野流だろうと予測して読めば、とまどわずにすむ。

 案の定、出だしが好意的。気持ち悪いぐらい持ち上げられているので、「だが、しかし」に気をつけて読む。

 だが、しかし、あんまり攻撃されていないので拍子抜けする。哲学に悩むマルクス・アウレリウスの手紙に「茶々」を入れる程度。もちろん、マルクスの「至らなさ」をカエサルと比較してあげつらうところもある。けれど、いつもと違って迫力ないなー、やっぱりいちゃもん付けにくいのかなー、と思っていたら、逆天邪鬼に面食らう。

 マルクス・アウレリウスは、歴代皇帝の中でも評価の高かったにもかかわらず、無能で無責任な実の息子コンモドゥスを後継者としたことが「失策」として挙げられている。コンモドゥスは、映画「グラディエーター」に出てきた暴虐帝だ。

 これに真っ向から反論するのだ、「仕方がなかった」と。コンモドゥスを擁護するのではなく、彼を後継者にしたマルクスは非難されるべきでないと弁じる。弁護のいちいちに反応してはならない。なぜなら、「~と思う」で終わっているから疲れるだけでしょ。むしろ、「しょせん賢人マルクス・アウレリウスもこの程度ね~」という含みを味わうべし。

■ ハリウッド映画に噛み付く塩野節を楽しむ

 一番の読みどころはここ。映画「ローマ帝国の滅亡」や「グラディエーター」をこき下ろす。エンターテイメントなんだから時代考証はホドホドでいいでしょ、と嘆息するわたしを尻目に、すごい勢い。

一、マルクス・アウレリウスの死が他殺であったとは、ローマ時代の史書でも年代記でも、唯一の例外を除けば言及していない。唯一の例外とはカシウス・ディオの著作だが、この場合も、コンモドゥスに気に入られようとして侍医が皇帝を毒殺したらしいという噂を伝えているだけである。(中略)映画「ローマ帝国の滅亡」はこの侍医による毒殺説を採っているのだが、フィクションでもかまわない映画は別としても、最後の数年間のマルクスの体調の衰えは、長年彼に仕えてきた家臣たちにも将軍たちにも明白な事実であった。

二、「グラディエーター」には、その日の勝利の功労者であった将軍マクシムスを、皇帝が自分の天幕に招じて話し合う場面ばある。その最後で、コンモドゥスに代えて彼を皇帝にしたいと告げるのだが、それをする前に皇帝は将軍に、望みは何かとたずねる。それにマクシムスは、家族の許に帰りたいと答える。主人公の人間味を強調したかったのだろうが、マルクス・アウレリウスならば、この答えだけで、皇帝不適格者と断定しただろう。(中略)最高司令官である皇帝ともなると、いかなる事情も職務放棄の理由になりえない。無責任きわまる言動に、「任務を何と考えている!」と一喝されるのがせいぜいであったろう。

 極めつけは戦闘シーン。めったに誉めない一文がある。

しかし、映像には、文章では逆立ちしたってかなわない利点もある。その利点が最も良く活かされるのは戦闘の場面だが、映画「グラディエーター」でも冒頭の戦闘場面は、時代考証もよく成されていて秀逸だ。

 「天邪鬼読み」を実践しているならばピンとくるだろう。こんな風に持ち上げた後には、必ずケチつけるパターンが待っているんじゃないかと。正解ッ

ゲルマンの蛮族もローマ軍も、いずれも林を背にして、その中間に切り開かれたでもしたような狭い地帯に相対している。しかも、高所から攻め降りてくるのが蛮族で、ローマ側は低所で迎え撃つという陣容になっている。これでは、絶対にローマ側に不利な地勢であり、闘い方である。

 嘘だッ!(わたしの知ってる)ローマ軍はそんな闘い方はしない、何かの間違いだッ ローマ軍は広所で高台から敵陣容に相対するのがセオリーだッ と鼻息荒い。話はここで済まされず、時代考証の人がローマの戦法を知らないはずがない、とDVDを買い求め何度も見たそうな。そのうちに、「マルクス・アウレリウスが最高司令官を務めたゲルマニア戦役は、あの程度の闘い方しかしていなかったのではないか」と思い始める。要するに、地勢の考慮、戦闘の進め方が、(あたしの知ってる)ローマ軍にしてはお粗末すぎるのは、映画どうこうよりも、最高司令官がアレだからねー、というノリである。そしてカエサル、いつもカエサル。250年たっても出てくるカエサル。カエサルの呪いはローマ全史のみならず、現代まで続くかの勢いである。加速する妄想にふりおとされないように。

ローマ人の物語29ローマ人の物語30ローマ人の物語31

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寄生獣+エロ+綾波 = 「寄性獣医・鈴音」 (アダルト注意)

寄性獣医・鈴音 笑いと勃起は両立しないはずだが、このマンガにゃ参った、プロットに笑っておっきおっき、両方の意味でビクンビクンできるぞw

 「淑女を淫魔にする寄生虫」という、スーパーご都合主義な設定は、世の女性からヒンシュクを大量買いするだろな。この寄生虫、食品やサプリを通じて体内に入り込み、ラヴィアに張り付いて、愛液をちゅーちゅーするそうな(当然、宿主はエロエロになる)。

 なんとウラヤマ…けしからんパパ許しませんよ、と家族が寝静まった頃を見計らって読書に耽る。釘宮病のときとは違って、全身を耳にしながらの読書だから、嫁の襲撃にもコンマ1秒で反応できる(緊張しながら読むと集中力が増すねッ)

 綾波シャギーの入った鈴音たんがスゴい。寄生虫を「除去」するために、○○に突っ込んで、ぬぷぬぷ~と指を使う。昇天するおにゃのこをよそに、平然とつまみ出すとこが見もの。もちろんいつも冷静沈着というわけではない。感染した男に襲われたり、淫乱お姉さんに返り討ちにあったりする。

 しかもこの鈴音たん、寄性獣ハンターであるにもかかわらず、蟲を体内に「飼って」おり、さらに"混ざって"いるようだ。危機の際、運動能力が飛躍的に向上するトコなんて、"ミギーと混じったシンイチ"ではないか。「寄生獣」「無限の住人」「東京赤ずきん」をホーフツとさせるが、もっとライトでエロい奴を楽しめる。その一方で、「あなたの性欲はコントロールされている」という冒頭のメッセージはヒトゴトじゃない。

 残念なことに続刊がなく、描き手は別シリーズを連載中。ありがちな伏線が回収されることとを願いつつ、気長に待ちますか。


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ココロにガソリンを「ビジョナリー・ピープル」

ビジョナリーピープル 偽装された「成功」を、ずっと追いかけていたことに気づかされた。そして、エネルギー充填120%できた。やまざきさん、オススメありがとうございます!

 まず、自分が恥ずかしい。「カネ」や「名声」、「地位」など、世間の通りの良い"SUCCESS"を「わたしの目標」にすり替え、手帳に書き付け悦に入っていた。ベストセラーの成功本をマネすれば「成功」できると信じていた。そもそも「成功とは何か」を本気で考えていなかったことが情けない。

 その上で、自身と向き合うことができた。ビジョナリー・ピープルの「意義」「思考スタイル」「行動スタイル」と照らし合わせながら、わたしはどうなのか? をくり返し内省することができた。

■ 本書の「まとめ」

 本書を「まとめ」るのは簡単だ。世間一般の「成功」を捨て、改めて「成功」を問い直す。自分自身で成功を定義し、最低20年以上その分野で永続的に影響を与えている人を「ビジョナリーな人」と名付け、直接インタビューをする(なんと202人!)。そして、彼/彼女らに共通しているエッセンスをまとめあげたものが、本書だ。

 もちろん成功本好きにとっておなじみのスティーヴン・コヴィーやロバート・キヨサキもいるし、ビルならゲイツもクリントンも、ネルソン・マンデラもコントリーザ・ライスもジャック・ウェルチもクインシー・ジョーンズもいる(全リストは[ここ])。分野は脈絡なし、ただ一つ共通しているのは、継続して影響力を与えつづけている人に絞っていることだ。一発屋の成金はおらず、本質的な成功のエッセンス・オブ・エッセンスとでもいおうか。

 もちろん、本書を「あたりまえのことばかりじゃねーか」と腐すのはたやすい。しかし、「あたりまえのこと」をここまで突き詰めて調べ上げたレポートは、ないぞ。そもそも、そんな風に腐す奴は知ってるだけで実行しないからな。どうして断定できるかって? そりゃわたしがそういう奴だから。だから、次の問いかけはグサリと刺さった。

   なぜ今の今、私は自分の生きがいに打ち込んでいないのだろうか?

 本書を読むことは、この質問を抱えながら自分にとっての「人生の意義」を注意深く検証する作業になる。お手軽にTips/Hacksをつまみ食いすることが「読書」だと思ってる人には、ちとツライ経験になるかも。さもなくば自己欺瞞でコーティングして読み干すのもアリ(一切消化されないだろうが)。

 本書では、ビジョナリー・ピープルに共通するスタイルを、次の3つの観点から分析している。それぞれ相反することなく、表紙の3原色のように照らす。重なったところが白色、即ち自分にとっての成功で、ビジョナリーな人はそこを最大限にするため全力を尽くす。

  1. 意義―― なぜ、成功しつづけられるのか? その理由
  2. 思考スタイル――究極の変身は、頭の中から始まる
  3. 行動スタイル――生きがいのある人生を紡ぐ

■ 「意義」について

 まず意義がくる。ピンとこないなら元の"meaning"、つまり「自分の人生の意味」を考える、しかも徹底的に。これをやらないまま、「カネ」「チカラ」「スキル」といった借り物の成功を目指すのは、間違った山に登ることになる。もちろん、金なんて不要だとは書いていない。代わりに、金そのものを目標にしてしまうとどういう結果になるかがセキララとある。

 自分にとって「生きがいとは何か」を強く意識した後、自分の考えと行動を一致させて自分なりの意義を定着させる。この文に「自分」が3回出てきたが、冗長ではない。自分でやらなければ、意味がない。これを最初にやっておかないと、思考スタイルや行動スタイル「だけ」マネしても、永続的な成功はおぼつかない。目標それ自体が目標になってしまう恐れがあるからだ。

ビジョナリーな人は目標そのもののために目標を追いかけるようなことはない。彼らはまず、自分自身にとって大切な、意義のあるものを見出そうとする。つまり意義が一番先にくる。それによって残りのモデルが規定される。ビジョナリーな人は、適切な針路を維持し、生きがいとなるもの(意義)を追い求めるために真剣に行動しようとして、なんとしても自分の考えをまとめあげる

 第一部を読んでいて、ずっとアタマの中を流れていたセリフがある。

   なにがきみのしあわせ なにをしてよろこぶ
   わからないままおわる そんなのはいやだ

 そう、ひょっとすると、「わからないまま終わって」いたかもしれない。いや、そもそも自問すらしなかったかも。借り物の「成功」に振り回され、そいつを微分した「目標」を追いかけているうちに、割当て時間が尽きていたかもしれない。

■ 「思考スタイル」について

 最も響いたのは、「楽観主義のほうが、最終的にトク」ということ。ポジティブ教だと腐す人はいるが、言わせておけ。永続する成功にとってプラスの方向に働いている事実を確認できる。

 ただし、悲観主義がダメ、とは書いていない。必要に応じて悲観的な立場を取ることもあるが、それはリスクを秤にかけるときに限定されている。重要な選択をとるときは、「自分が大好きなほう」をその結果の良し悪しにかかわらず選べという。そのほうが、結果的に生き延びられる率が高いからだそうな。ウィンストン・チャーチルの「私は楽観主義者だ」は有名だが、重要なのはその続き「―― 楽観主義以外のものはどれも役に立ちそうにないからな」。

 もう一つ。思考スタイルはスキルのようにトレーニングできることは知っていたが、むしろ、いつでもそのスタイルで思考することの方がが重要だ。スイッチのように思考スタイルを切り替えるのではない。成功本を読んで成功できるような気分になるのは愉しいが、気分だけだ。例えば、スティーブ・ジョブズの次の箴言はどこかで読んだことがあるだろう。

   人に与えられた時間は限れられている
   だから、誰か他人の人生を生きて、その時間を無駄にしてはならない

ここで重要なのは、怒りでアタマが爆発しそうなときでも、この文を思い出すことができるかだ。こいつを手帳に書き付けるのもいいが、最終的には、どんなときにもこのスタイルで考えられるようにならないと。

■ 「行動スタイル」について

 ビジョナリー・ピープル202人は202通りの行動スタイルを貫いており、共通した行動スタイルは、ほとんどない。それでも奇妙なほど似通っているのは、「うまくいかないときの行動スタイル」だ。何か困難なことにぶつかったとき、ビジョナリー・ピープルは申し合わせたかのように、「こだわらない」。

ビジョナリーな人がすぐに退けるものの一つに非難がある。彼らと話をするとき、明らかに抜け落ちているとわかるのは、他の人に対する非難や自分の抱えている問題などをくどくど並べ立てるような人間的な性向だ

 もちろんビジョナリー・ピープルも人間だから、怒り狂い、悲しみくれ、非難をすることもあるだろうが、「すぐに忘れてしまう」。いつまでも泣き言をくりかえすようなことはしない。ノーベル平和賞を受賞したデズモンド・ツツは、うまい言い方をしている。

「ものごとがうまくいかないとわかったとき、絶望的な気持ちになるのは当然だ」(中略)ツツは身を乗り出して、ささやくように言った。「それでもあきらめないことだ。感情は人生の中を駆け抜けていく嵐のようなものだ。味わった敗北感は、最終的に生み出したいものと比較すれば、取るに足りないものだ」と語っている

 「味わった敗北感」と「最終的に生み出したいもの」すなわち「意義」と比較しているところに注目。そのいっぽうで、自分で変えられることにはしっかりと目を向け、それに真正面から取り組むところが、これまた奇妙に一致している。「彼らは過去のツケを将来に回すようなことはしない」のだという。実際、いつまでも非難しているということは、問題に対処していることにもならないし、ましてや「意義」に向かって進んでいることにもならないからね。まさに「人事を尽くして天命を待つ」そのもの。

 さらに、ビジョナリーな人にとっても落とし穴になりがちな「間違った山に登る」事例も紹介されている。シェア至上主義のジャック・ウェルチが陥った罠はかなり笑える。ウェルチの会社を見学した人は、罠をこう指摘した。

「あるマーケットの規模を小さく見せかけて、ナンバーワンになっていると言えてしまうだろう。もし先頭にいると言いたければ、うまくいっているという評価をひじ掛け付きの椅子で生産量がナンバーワンという観点からすればよいだけの話だ」

 この失敗例は学ぶだけでなく、日々の行動に反映できる。すなわち、定期ふりかえりの際にこう自問すればいい、「持続させるべきものは何か」と。意義を理解し、自分の挫折ポイントから学習することに意識を集中させる。「ねばり強い持続性」はメリットとして見なされることが多いが、間違った目標に粘り強く頑張ることは悲劇だろう。なぜそれが「目標」なのか、どうやって確認したらいい?

■ もういちど、「意義」について

 ここで、最初の「意義」に戻ってくる。

 例えば、コヴィーの「第8の習慣」の話。彼の「すべてのことは最終的な目標を頭において始めるべきだ」と言ったことが誤解されているそうな。本来コヴィーが訴えたかったことは、頭においておくべき目標をどれにするのか自分で判断しろ、ということ。目標が合っているのか、違っているのか、分かるのは自分しかいない。しかも、真剣に、注意深く考え抜いた上でしか、判断することができない。わたしの人生の意味をつけるのは、結局、わたし。あたりまえのことなんだけれど、あらためて突きつけられたのは、「第8の習慣」でのたとえ話のおかげ。

「仮に読者が心臓発作に襲われたとしよう。生命の危機を前にしてどんな目標を最優先に設定するか。自分に残された時間の中で、何をするのが最も大切なことなのか。なぜ、自分が傷つかないかぎり、自分の将来を考えるのと同じ真剣さで、意思決定をしようとしないのか」

 ここで間違えてはいけない。真剣に目の前の仕事と取り組むことと、真剣に自分に取り組むことは、ひとまず別のものだと考えてみる。その上で、両者の重なるところと膨らませるところに注力すればいい。

 読むとココロを掻き立てられる。トム・ピーターズのような「尻に火をつける」感覚ではなく、ドラッカーのような「ゆるぎない意思をつかむ」気持ちになる。同時に、ココロにガソリンが注入されてくる。「人生に必要なものは、情熱、覚悟、能力」だと、コントリーザ・ライスは警告する。「この三つのうちどれをはずしても、いつまでも続けられる成功は得られない」。定期的に読み返して、これを「自分の情熱」「自分の覚悟」「自分の能力」で置換しよう。「7つの習慣」の刃を研ぐ(Sharpen the Saw)ように。


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ガチ・ファンタジー「闇の戦い」

 どこか歪んだ小説ばかり好んで手にするのは、わたしが傾いでいるから。だから、こういう「王道」を読むと、わたしの歪み具合が浮き彫りにされて興味深い。

 「光と闇の戦い」というと陳腐かもしれないが、初版は30年前。今以上に言葉が力を得ていた時代だ。スレてないときに読んだなら、ハートを掴まれるに違いない。児童書なので、エロなし/伏線ミエミエという反面、ずばりストレートな面白さを堪能した。ストーリーはこんなカンジ――

―― 11歳の誕生日に「古老」としての不思議な力に目覚めたウィルは「光」と「闇」の戦いに巻き込まれていく。アーサー王伝説を下敷きに、「光」の使者となったウィルが、仲間たちとともに「闇」の脅威と戦う ――

 日常生活と異世界との交錯が面白い。「魔法」をどうやって体現させるか? 例えば、「ベルガリアード物語」や「ザンス」のように異世界をつくりあげてしまえば解決できる。しかし本書では、「目覚める前の普通の人間世界」がベースになっているため、語り手は「つじつま」を合わせる必要がでてくる。

 さらに、異世界だと思っていたところは、実は遠い過去だった(ということはつまり、魔法とは科学じゃねーか ! と膝を打つ)。魔法は「場所」や「血縁」と強い関係性を持ち、本来の名前で呼ぶことで影響力を与えられる。正しいスイッチを入れることで力を行使することと一緒。魔法と見分けが付かないぐらい、充分に発達した科学技術を見せ付けられる気分(←これはひねたオトナ読み)。

 どうして現実の世界を下地にしたのだろうか… と思っていると後半でハッとさせられる。ウェールズにそれこそ八百万とあるアーサー王伝説とリンクさせるため。あいにくと極東の島国とは無縁だけど、ウェールズやイングランドの子どもたちはワクワクしながら読んだだろうなー。

 アーサー王伝説って何? という方のために、ちょっと解説。モデルとなった人物はいるが、物語のほとんどがフィクションという人物。詳しくは[Wikipedia]へ。

ユーサーの王の子アーサーは、生まれてすぐに魔術師マーリンによって騎士エクターに預けられ、育てられる。十五の時に、鉄床に刺さった不思議な剣を抜き取るのに成功し、認められて王となる。王は信仰心あつい武勇と礼節の人で、よりすぐりの騎士たちを集めた円卓を誇っていたが、王妃グイネヴィアは騎士ランスロットと恋に落ち、王を裏切る。これがきっかけとなって大戦争が起こり、王は甥にあたるモードレッドによって重傷を負わされ、女たちに神秘の島アヴァロンへ船で運ばれ、姿を消す。

アーサーは「かつていまし、また来るべき王」と呼ばれ、祖国が必要とする時に再び現れて黄金時代を築くとされている。「ペントラゴン」とは「竜頭」を意味し、イギリスが危機にある時に最高権力を与えられる族長(王)を指す。ユーサーとアーサーはともにペンドラゴン。

 二元論は単純でいいねーと斜めに読んでいると、人の要素、上位魔法(魔法を定義する魔法)が出てきて多層的になる仕掛け。ラストを決定付ける「人の判断」「人の絆」「人の記憶」も、科学技術と対峙した場合のメタファーとして読むと面白い(一行たりとも示唆しちゃいないけどね)。
闇の戦い1闇の戦い2闇の戦い3闇の戦い4

 もの足りねぇ ! という方は、「ベルガリアード物語」をどうぞ。おっと、ハリポタなんてオススメしないでね、ファンタジー指南役の嫁さんに釘さされてるので→「あんなものより前に読むべきものがいっぱいあるでしょー」。次はバーティミアスかな。

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エンジニアのモラルを鍛えろ「そのとき、エンジニアは何をするべきなのか」

 エンジニアとしてのモラルを鍛える一冊。

 昨今のモラルハザードを嘆くよりも、反面教師としたい。本書を通じ、職業人としての倫理の根っこがどこにあるのか内省できる。つまるところ、エンジニアのモラルとは、Professionalism に拠って立っている(と思うぞ)。そいつに気づくか、気づかないかだけのこと。

 例えば、タイシンギソー。「住まうわたし」視点からではなく、設計者や現場監督といった「エンジニア」の立場で考え直すと、本書がいきなり重たくなる。「IT業界だから」では済まされない。「技術者の倫理と社会的責任」が問われるタイミングは、かなり身近なところにある。

 たとえば、プロジェクトを引き継いだらズサンな設計であることに気づいた。直している時間もカネもない。たしかに酷い設計だが、ひょっとすると問題が表面化しないかもしれない。もちろん設計の責任はわたしにあるが、会社は「ほっかむり」を暗に迫ってくる ―― どうする?

 あるいは、会社が有害物質をタレ流していることに気づいた。法定の基準内には収まっているが、条例がザルだからであることを、あなたは知っている。会社のやり方に従うことで、給料をもらっているわけだし、今のところ査察が入る気配はない――どうする?

 エンジニアとしてなすべき判断と、会社の期待がズレるとき、どうすればいい?

 もちろん、それが安全上・道義上のラインまで届くようならば、あなたはためらうことなく自分の判断にしたがうだろう。モラル・ヒーローになりたいがためではなく、自らの Professionalism によって。「だってプロだもの」ってやつ。

 しかし、上記のような明確な形を取ることはまれだ。「腐った設計」に見えるのは自分だけで、チームにうまく説明できないかもしれない(結果、疎まれる預言者になる)。経営層の期待は、あなたが瑕疵に気づく「前」に伝えられるかもしれない。最初は小さすぎて気づかないかもしれない。

 さらに、モラルを超えたところで仕事をするエンジニアはどうなる? 倫理規定に「エンジニアリングは公衆の健康、安全、福利を最優先するものとする」が普通だが、爆弾や銃を開発するエンジニアは? あるいはエンジニアリングの決定を超えたところでなされた「スペースシャトル・チャレンジャー号の発射」は? (審議の席上で「技術者の帽子を脱いで、経営者の帽子をかぶりたまえ」はキツい)。

 ユニークなことに、本書は小説仕立てとなっている。エンジニアの主人公が直面する「ビミョーな問題」が次から次へと出てくる。それこそリッピングからタイシンギソーまで盛りだくさん。さらにストーリーから派生した形で「ボックス」という名で短いコラムが大量に埋め込まれており、これが議論を深め/広めている。

 いちばん唸ったのは、1972年ニューヨークに建てられたシティコープ本社ビルの場合(こーいうビルね→[THE CITICORP CENTER])。構造設計はウィリアム・J・ルメジャーひきいる会社が行っている。

 ビルが使われるようになって6年後、ルメジャーは設計通りに作られていないことに気づく。筋違いの鉄骨が溶接されておらず、ボルト締めのため、16年に一度起こりうる斜めからの大風に崩壊する危険があることがわかった(ちなみに、建築方式の変更の手続きは規定どおりになされていたそうだ)。ルメジャーは、自らの選択肢を考えた。

  1. 黙っていて、何も起こらないように願う
  2. 自殺する
  3. 自分自身で内部告発する

 結局、ルメジャーはビルのオーナーのところへ行き、全てを明らかにする。そして、保険代理店、防災チーム、建築会社の協力を得て、建物の補修を行うことになる――

 ―― んだが、ポイントは「誠実さ」ではなく、「16年に一度起こりうる大風」にある。これが50年に一度だったら? 大惨事がおきるとき、ほとんどの関係者は他界しているだろう。あるいは、100年に一度だったら? つまり、どの時点でそのリスクを受入れることができるのだろうか(いつ acceptable risk になるのか?)。この短いコラムでは疑問の形で終わっているが、一番深刻なのは、リスク受入れレベルが「良心」の秤に乗っていること。もちろんどの建築プロジェクトにもリスク管理規定はある。しかし、その適用は当人の胸先三寸に拠っていることをお忘れなく。

 実際のところ、「良心の秤」が試されるときがある。エイヤッて思い切れればなー、と思うときがある(もちろんあなただってそうだろう)。そんなときは、フルオープンにして、わたしの中で抱えないようにしている。関係者全員で共有することにより、保険をかけるわけだ。必ずしも共犯関係を築こうと考えているのではなく、「ここまでおおっぴらにしたら、ズルできないだろう」という思惑が働いている。

 エンジニアとして仕事をする上で、さまざまな判断が求められる。技術的なものなら明白だし議論もしやすいが、倫理的な場合だと独りで苦悩するかもしれない。本書はそうした悩ましい事例を網羅し、「どうする?」といった疑問で形にしてくれている。迷ってから紐解いてもいいが、今から鍛えておいたほうが健康的かも。

 願わくば本書に頼らなければならないような判断を求められんことを。

 

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「冷血」は新訳がスゴい

冷血 11月の深夜、一家4人が殺された。父親と母親と息子と娘はロープで縛られ、至近距離から散弾銃で撃たれており、射殺というよりも顔や頭を破壊されていた。

 50年前のこの事件の犯人は、二人の若者。もちろん「若さゆえの凶行」なんてレッテルを貼ることもなく、それどころか、著者は感情や評価するような表現は極力使わず、徹底的に事実を積み重ねている。

 カポーティの「冷血」、大昔に読んだはずだが、残っていない。文字通り読んだというより「見た」だな。ともすると冗長すぎて途を見失う恐れがあるが、新訳で息を吹き返している。これは読みやすい。これはスゴ本。

 犯行状況を時系列の外に置き、調書を取る対話で生々しく表現したり、「なぜ若者が犯行に及んだか」はズバリ書かず、手記や調書から浮かび上がるようにしている。「書き手である自分」を、地の文から取り除くことに成功している。カポーティはノンフィクション・ノヴェルと呼んでいるが、レポートやドキュメントを読まされる感覚。読んだ「あなた」が判断せよ、というやつ。

 それにもかかわらず、証拠品の行方や何気ない一言が伏線となって回収されるといった、衒わないミステリ風味も楽しめる(ただし、ミステリのつもり読むと冗長感が倍化するので止めた方が吉)。

 初読のときは、「犯行がどのようになされたか」といった犯人視点で追いかけたが、今回は違う。和気藹々とした田舎の共同体が不信の目を向け合うようになる様子や、難航する捜査と世論の圧力、あるいは捜査官の苦悩ばかりに目がいった。

 さらに、わたし自身が「家族持ち」になったせいか、家族にかかわるデータが丹念に取り上げられていることに気づいた。被害者一家、加害者の家族、捜査官の家族だけでなく、背景の人々に至るまで、家族の構成とその絆が細かく記されている。

 若者二人について。ここまで詳細に取材してくれてたおかげで、頭を抱え込んでしまった。彼らは殺人狂でもなく、ボニー&クライドに憧れていたわけでもない。ちょいイカれた若者が、子どもの顔に向かってショットガンの引き金を引けるわけがない。読めば読むほど、凄惨な殺人を犯す心理と、わたしの感覚の間にズレなんてないことが分かる。

 ひねくれて拗ねた目で世を見ていた彼らは、くれない族という言葉がピッタリだ。「くれない族」は25年前の若者に貼られたレッテルなのだが、50年前の彼らにも違和感がない(もちろん現代でも通用する)。

 変化したのは、社会のほうだろう。凶悪犯罪者はおしなべて「心の闇」をもつ異物として扱い、糾弾することで「わたしはあいつとは違う」ことを確認させるマス・コミュニケーション装置。目を背けていても、「自分の闇」はここにあるのに。「このような狂気じみた犯行をする人間が正常であるはずがない」という思い込みは、50年前も今も一緒で、彼らを精神分裂病にしたいらしい「圧力」もよく見える。

 彼らの感情を評価するような文章は、意図的に取り除かれている。わずかに手紙の引用や調書の一文といった形で読み取れる。

幸せであったり満足であったりする他人を見たときに、この不合理な憤怒が生じるのはなぜなのか? そう、貴兄は彼らを愚者と思い、彼らのモラルや幸せが自分の欲求不満や憤懣の源であるという理由で彼らを軽蔑するのです。

二つの自白は、動機や手口についての疑問には答えてくれたものの、筋の通った計画性というものを感じさせてはくれなかった。この犯罪は心理的な事故、さらにいえば、人格を欠いた行為のようなものだった。被害者たちは雷に打たれて死んだも同然だった。ただ一点を除いては。それは、彼らが長い時間にわたる恐怖を体験し、苦しんだという点だ。

 たしかに、供述の一部で彼らの残忍性にゾッとすることになるが、それは引き金を引いた瞬間から始まったことであり、因果のもたらしたものにすぎない。しかし、どうやって範を超えてしまったのか、境目がどうしても見えない。

 「異常性」をセンセーショナルに煽る今のマスゴミよりも、50年も前の事件なのに、「普遍性」や「連続性」を強く感じる一冊。オススメ。あ、わたしが「狂っている」可能性があるかも

 翻訳について付記。かなりこなれていると思うが、旧訳が読み苦しいわけでもない。わたしのお気に入りの箇所で並べてみた。

【新訳 : 佐々田訳】
「あんた、鏡を見るたびに恍惚状態になるんだな。なんか、ゴージャスなケツでも眺めてるみたいにさ。そうすると、まあ、退屈するなんてことはねえだろうな?」

【旧訳 : 龍口訳】
「おまえは鏡をのぞいていると、いつでも失神状態にはいっているみたいだね。まるでものすごいお尻でも眺めているようだ。つまり、全然、退屈なんかしないんだろうな?」

 「ゴージャスなケツ」にピンと来たら新訳をどうぞ。


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数学ぎらいは幸せになれないか? 「生き抜くための数学入門」

生き抜くための数学入門 塾に行かせない方針だけど、読み書き算数は徹底している。できないと苦労するからね。

 しかし、これが「数学」になると文句が出るはず、「どうして生活の役に立たない数学を勉強しなきゃならないの?」ってね。もっともらしい小理屈はネットで探すとしても、とーちゃんが信じている理由は上手く表現できない。

 学校の数学の目的は、抽象化や論理的思考力を身につけることなんだが、そのまま言ってもハイそうですかと分かってもらえない。「考えるチカラ」なんて表現も納得しないな(自分が子どもだった頃を思い返してみよ!)。

 わたしの場合、数学の恩恵は常考レベルで染みわたっており、生活の端々でしみじみすることはない。帰納法は意識せず使うし、問題解決の基本「仮説検証プロセス」は公理→定理の導出そのもの。教養書の数式の鮮烈さにドキドキすることはあっても、「そのため」の勉強だと言っちゃうと逆効果だろう。

 ちょうどいい本が、よりみちパンセから出ていた→「生き抜くための数学入門」。中高生をターゲットにして、分かりやすく「数学とは何か」を説明している。

 著者にいわせると、数学はナイフのような基本的な道具なんだそうな。その役割は二つ。

  • 抽象的な、見えないものを「見る」
  • 見えないものについて、「だから」「どうして」「どうなる」を考える
 人は目に見える現実の中だけで生きているわけではなく、抽象的な概念を用いて思考をしている。たとえば、「権利」や「リスク」といった言葉は、具体的な対象を指し示さないが、同じ文化や言語の中で共有されている。

 著者は、こうした見えないものについて「だから」「どうして」「どうなる」を考える重要性を強調する。抽象的な概念を論理的に考え、比較検討できなければ、「この社会で幸せになる確率は相当に低い」とまで言いきる。

 たとえば「コスト」。ちょっと遠いけれど、安いと評判のスーパーへでかけることを考える。そのコストは交通費だけでなく、「時間」にまで目を向けられるか? 遠くのスーパーへ「でかけること」そのものが楽しみになっているのであればいい。しかし、ただ「安いから」というのが理由なら、結果的に損となる可能性が大だという(100均ショップも同じことが言えるね)。

 このように、ちょっと学校から離れた場所から数学の目で問いかけてくる。もちろんこれは孔明の罠で、「そんなの知ってるよ」とか「へーそうだったんだ」とつられて先を読むと、ちゃんと数学の授業になっている仕掛け。

 さらに、なーんだ中高生向けか、なんてタカ括っていると、ネイピア数やゲーデルまで連れて行かれる(その手並みは鮮やか!)。ショックだったのは、あれほどおなじみだった「自然数」に裏切られたとき。次の質問は、まちがいに見えるんだが…

   「2のn乗はいつも自然数になるとは限らない」
   これは正しいですか?

小学生レベルの限定された数理体系しか共有していない宇宙人に、これを説明しようとすると、正しくないことを証明できないことに気づかされる。さらに、その先の論理の限界まで言及されたとき…ゲーデルが出てくるんだが、数学好きなら相当ショックを受けるんじゃぁないかと。そんな読者を見越してか、書き手はフォロー(というか開き直り?)を入れる。

   でも、だからといって、どうだというの? と私はあえて言いたいのです

曰く、人間の論理の限界を正確な形で示したのは、数学の仕事だと。逆説的だが、数学のおかげで「複雑さ」への耐性を身に付けることができるんだという。本書を読み終わるころには、昔学んだ数式そのものよりも「どうやって数学という道具を使うか」について考えを新たにしているだろう。

 子どもが「どうして数学なんて…」と言い出したら渡そう。ラストの「挑発」にどう反応するか、楽しみだ。以下の目次で推して知るべし。

  1. そもそも、それってなーに?
  2. かけ算を宇宙人に教えよう
  3. 数学的な構えをチェック
  4. 俳句の可能性は無限大か?
  5. 億万長者になる方法
  6. 国語と数学のふかい関係
  7. 数直線は変な線
  8. 四角形って何だっけ
  9. ゲームを定義する
  10. かけ算の筆算ははぜ正しい?
  11. 累乗のこわさとおもしろさ
  12. あんなグラフ、こんなグラフ、どんなグラフ?
  13. 計算できない関数
  14. みんなだいっきらいな三角関数
  15. 博士の愛した数式に挑戦
  16. 数学があきらかにするもの

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面白くて、恐ろしい「その数学が戦略を決める」

その数学が戦略を決める ㌧でもないけど非常に説得力のある「やりかた」を知って大興奮する。いっぽうで、キナ臭さとウサン臭さも感じる一冊。

 本書で紹介される「絶対計算」は、あまりに強力&魅力的だ。「ご利用は計画的に」「使用上の注意をよく読んでお使い下さい」がピッタリ。たとえば…

  1. ワインの値段を、収穫した年の降雨量から予測する
  2. ハリウッド映画の脚本から興行成績を予測する
  3. 買い物履歴と離婚率
  4. 性犯罪者の保釈をするか否か「計算」する
  5. 症例データに基づいた医療

 IT技術革新によりテラバイト単位のデータ集積が可能になった。大量のデータを解析して相関関係を見つけ、未来を予測する絶対計算者(Super Crunchers)はスゴい。医者、政治家、評論家の「経験」や「直感」に基づく判断と同じどころではなく、それ以上の結果を弾き出しているのが痛快。

 たとえば、「ワイン」なんて典型で、降雨データからその土地で収獲されたワインの値付けの相関関係を見つける手法はお見事としかいいようがない。あるいは、一見したところ全く違う要素の相関関係を計算しつくすことで、意外な事実を見つける方法は、今だからこそできるようになったんだろう。

 いい話ばかりじゃない。VISAの「カード購入履歴と離婚率」なんてちょっとウソ寒い。カード履歴を元に「もうすぐあなたは離婚しそうですよ」と言ってきたらオーウェル的だが、「…こんな弁護士なんていかが?」とオススメしてくれる社会はやってきそうだ。

 タイムリーなのは、Life is beautiful の、「コンピューターはうそつかないので見逃さないで済む」らしいと、4章「根拠に基づく医療」がどんぴしゃ。デジタル化されたカルテから医師「たち」の集合知を抽出する試みが紹介されている。ただしこれを絶対視しているわけではなく、

専門家の色眼鏡を通したデータだけに頼るかわりに、診断はむしろ医療システムを使う何百万人もの人々の経験に基づくべきだ。実際、データベース分析は最終的には診断を下すにあたって何を調べるべきかに関する意思決定の改善につながるかもしれない。

という。微妙な判断が求められ、誤診リスクが高い場合、複数の医師に診断してもらうと安心だ。医師のリソースは限られているため、「蓄積された診断結果」にアシストしてもらうわけだ。「がん発見のための医療画像自動診断システム」なんて良例。

 ただし、モノには限度がある。症例・診断データベースを極限まで追求すると、未来世紀ブラジル(が古ければマイノリティ・リポート)な世界が見えてくる。本書では「グーグル診断」や「グーグル療法」をしている若い医師が紹介されているが、彼にはかかりたくないものだ。

 このように、これでもかというぐらい大量データ解析の例が挙げられており、無いのはコンビニPOSぐらいかと呟いていたら訳者解説でしっかりフォローされていた。山形浩生氏の翻訳本に共通して言えることだが、解説が二重マル。きちんとまとめているだけでなく、欠けている点を補ったり噛み砕いたりしており、解説だけで"読んだフリ"ができる(「誘惑される意志」なんて本文より解説のほうが明快かつ面白いぜ)。

 最後に、わたしの不安。回帰分析マンセーな論調にはウサン臭さとキナ臭さを感じる。そもそも回帰分析と事象との相関関係は説明されていないので。「だって膨大なデータが語っているんだもん」の賭け金はどこまで釣りあがるのか見えないのが怖い。カネじゃなく命まで懸かっている場合もあるからね。

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オンナの建前からホンネを見抜く10問

オンナの建前・本音翻訳辞典 男性のコミュニケーション能力の低下に起因するモテ格差は、今に始まったことではない。本書があったなら、どれほど楽できただろうに… と、わたしも思っているから。

 つまり、オンナの発言の真意をくみ取れず、カン違いや軋轢を引き起こす鈍感男がモテない一方で、女性言語の読解に長けた一部のヤリチンの草刈場が現代の恋愛市場なんだ。来る本格的恋愛格差社会に備え、「オンナの建前<―>本音翻訳辞典」で保険をかけておくことをオススメ。

 問題を10問、用意した。オンナの発言のタテマエを見抜き、本音を当てて欲しい。デキる人は正答率10割だろうし、鈍感男なら1問だってムリ(解答・解説は反転表示)。解説はアレンジしてあるが、本書の方がおもしろい(かつエゲツない)ことを申し添えておく。

問1 : 「かなりこだわってるよね」、または「詳しいんですね」

答1 : 「ウンチクはもうやめて」

趣味の話題などで、こちらがトウトウと説明した後のリアクションでありがち。「こだわってますね」と指摘されているだけで、「素敵」とは一切言われていないことに早く気づくべし。「オレのこだわりを理解してくれたんだ」と勘違いすると悲惨な目にあうので、さっさと話題を変える。

問2 : 今度メシでもどう?の返事→「いいですね、タイミングが合えば行きましょう!」

答2 : 「行くつもりは一切ありません」

タイミングが合うことは、永遠にありえない。いきなり「イヤだ」とは言えないし、「OK」は約束まで与えなければ言質とられたことにならない。「機会があれば」も同様で、「こんどの金曜だと?」と具体的にツッコムと「今度はちょっと…」→「じゃぁ来週の金曜は?」→「来週もちょっと…」と無限ループに陥る。脈なしと判断して、さっさと退却せよ。

問3 : 「私服だと雰囲気違うね」

答3 : 「スーツだとわからなかったけど、ダッサ!」

あるいは「ダサい男と一緒に歩くのは苦痛です」という意味。多少でも脈が残っていれば、「こんど一緒に服買いに行く?」が使われることもある。嫁さんが"彼女"だったころ、言われたことがあるが、この意味だったとは…!

問4 : 「歩くの速いね」

答4 : 「気の利かない男だな、こっちの歩く速度に合わせろよ」が、ホンネ。すまん、今でも言われているわたしって...orz

問5 : 合コンにて…「皆さん、どんなお仕事してるんですか?」「どんなクルマ、乗ってるの?」「職場はどこにあるの?」

答5 : 「オマエら、カネ持ってンのか?」

ハイクラスなら「ああ↑~(語尾上がり)」だし、パッとしない業界なら「ああ↓…(語尾下がり)となる。結局カネかよ!と嘆かない嘆かない。相手のやり口がわかれば、こちらの受け答えが変わってくるはず。

問6 : 「男の人って、どうして~なんだろうね」と一般名詞「男」で意見を訊かれる。あるいは「もしもなんだけどね~」と仮定の話を振られる

答6 : 仮定の話や一般論といいつつアナタの性格が試されている。一番よくあるパターンは、「彼女がいるときに、タイプのコから好きですって言われたら、男の人ってどうするんだろうね?」という質問。「男」=アナタなので要注意!誠意ある回答をすべし。どうでもいい人にこのネタは振らないので、脈あり(ただし検査中)のステータス。

問7 : 「最近は忙しいの?」

答7 : 「デートに、誘って、ほしいな」

忙しい?→そうでもないよ、飲みにでも行こうか? という自然な展開へ向けたい女の子の戦略。近況伺いを装った、誘われ待ちだと判断すべし。女の子は自分からヒマだと言いたくない、聞かれて答えたい心理があるそうな。ただし、あまりヒマをアピールすると値踏みされるので、「ある程度の予定はあるが、時間をつくれなくもない」というのが正答。

問8 : 「私って、さびしがりやなんだ」

答8 : 「押せば落ちるわよ」

聞いてもいないのに「さびしがり」と申告してきたら、それは「かまってほしい」のサイン。スキを与えていただいていると解釈してもOK…なんだが、こういうオンナはたいてい粘着質で、やたら男を束縛するタイプなので気をつけろとある。

問9 : 「モテそうですね」

答9 : 「社交辞令で~す」

一見、いかにも「気がある?」と思わせるセリフだが、「手っ取り早く上機嫌にさせるためのリップサービス」だという。さらに「浮かれてモテ自慢をするような男は、後で笑いものにする」ことがある、用心用心。

問10 : 「一緒にゲームをやりたいな」

答10 : 「お持ち帰りOKよ」

マジに受け取って、ゲーム三昧させたら激怒される(たとえ表情に出さなくてもね)。あ、そこのまなめさん、女の子から「マリオカート教えてー」ときたら、「じゃあロケットスタートの特訓からね」なんて返してはダメですぞ。対戦プレイはベッドの中で!

 難易度の低いものを選んだが、どうだろうか? この後、ベッドへ近づくにつれ、レベルが飛躍的に上昇する。たとえば、

   「先にシャワー浴びていい?」

この秘密はウスウスわかっていたが、本書でもっとセキララな本音を知ることになった(もっと切迫してたのね)。あるいは、

   「もう眠い?」

この問いかけは、要するに「誘って」いるわけなんだが、知らずに眠ってしまって大目玉食らわないように。初めての交接だと、次が黄金パターンやね(茶番ともいう)。

  1. 男「一緒に寝ようよ(≠眠ろう)」と横になる
  2. 横になりつつ、女の子を一緒に引き倒して「眠くなっちゃったよー」
  3. 女「えー、もっと起きてて~」
  4. そのままsexにもつれこむ
 いちばん悲しい思いをしたのは行為後の、

   「もっと、いっぱい、したいな」

男泣きに泣いたよ、この本当の意味を知ったとき。たとえ枕詞に「よかったから」が付いていたとしても、女のホンネは残酷なもの。厳粛に受け止めよう。

 彼女たちは遠まわしに告げているんだ。ハッキリNOと言われる前に、さっさと退散しよう。OKサインは見落としがちなので気をつけよう。リアルのフラグは見えないし、選択肢がポップアップされることもない。脈アリでも頬はピンクに上気しない。

 女の子は真顔で(さりげなく)ボールを投げて寄越す。モテなモテないと嘆く前に、そのボール、見えてないんじゃないの? 彼女たちの生々しい本音に幻滅するのもアリだが、選球眼を養って、戦略を練り直すべし。

 今こそこのノウハウを結集し、おにゃのこに叩きつけて初めて真の勝利を得ることができる。この勝利こそ、討死していった男たちへの最大の慰めとなる。男子よ立て!悲しみを怒りに変えて、勃てよ男子!少子化社会は諸君等の力を欲しているのだ。

 ジーク・男子!健闘を祈る!

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「コレラの時代の愛」で濃い正月を過ごす

コレラの時代の愛 51年9カ月と4日、女を待ち続けた男の話。正月に読んだ中でピカイチ。

 女は男を捨て、別の男(医者)と結婚し、子をつくり、孫までいる年齢になる。普通なら絶望して破滅するか、あきらめて別の人生を選ぶかだろうが、この男は待ち続ける。ヘタレ鳴海孝之の対極となる漢だ。

 現実ばなれした片恋をリアルに描くために、ガルシア・マルケスは周到に準備する。あ、だいじょうぶ、心配ご無用。「百年の孤独」のクラインの壷のような入り組んだ構成になっていないし、登場人物が多すぎてノートをとることもなく読めるから。

 1860~1930年代のコロンビアの地方都市が舞台。戦略的かつ長い長い恋物語を縦糸に、内戦や疫病におびえつつしたたかに生きる様々な階級のエピソードを横糸にして、ありえない物語を現実の中に据える手の込んだ技法を成功させている。

 時間処理の仕方が上手い。キャラクターを中心に背景をぐるりと回すカメラワーク(何ていったっけ?)を見るようだ。ひとまわりの背景にいた人物が次の中心となって、その周囲が回りだす。遊園地のコーヒーカップを次々と乗り移っているような感覚。

 象徴的なのは「コレラ = 死にいたる病」だな。もちろん、当時猛威を振るった伝染病としてのコレラと、そっくりの症状を見せる「恋の病」が掛けられている。片思いをする男のコレラのような恋患いだけでなく、恋のあまり死を選ぶ人々の生き様も伝染病そっくりなのが深いね。

 男子必読なトコは、「過去の女性遍歴を訊かれたとき、なんと答えるか」だろう。

 浮気がバレた夫(医者)は、妻に全てを包み隠さず告解する。いっぽう、半世紀以上も待ち続けた男は過去の女について問われると、「君のために童貞を守り通したんだよ」と答える(←超重要)。それが真実なのか嘘なのか、読者はもちろん知っているが、大切なのはそれを聞いた彼女が何と思ったのか、というところ。男子の方はぜひアタマに入れておきたいもの。

 一番ドキドキしたのはここ、新婚初夜、明かりをつけて男のイチモツを観察するシーン。

しかし、あの興味の対象である生き物をためらうことなくつかむと、右を向けたり、裏返したりして調べていたが、単に科学的な興味以上のものを抱きはじめたように思われた。最後にこういった。<<なんだか変な形ね、女性のものより醜いわ>>。彼は、たしかにその通りだと言い、醜いだけでなくほかにもいろいろと不便なことがあると言って、こう付け加えた。<<これは長男と同じなんだ。これのために一生働き続け、あらゆる物を犠牲にし、挙句の果てに結局これの言いなりになるんだからね>>。

 新潮社の中の人へ。誤訳(誤用?)らしきところを3点、再版時は直ってるといいね。

実のところコレラは肌の色や家柄に関わりなくその牙をむいた。はじまったときと同じように、突然流行が収まった。どれほど被害が出たのか見当もつかなかったが、確かめるすべがなかったからではなく、自分の不幸に関して語らないことが美徳であるという考えがわれわれの中に抜きがたくあるせいだった(p.165)

 ここの「われわれ」に違和感がある。もちろんイスパニア語なんてからっきしなんだけど、ここまで注意深く一人称を避けてきているのに、ここだけ「われわれ」が飛び出ている。原語では何て書いてあるんだろうね。

共和国大統領を三度務めた博士は哲学者にして詩人であり、国家の歌詞の作者でもあった(p.226)

typoでしょ、「国歌」が正解やね。

すでに彼が暗い中でワイシャツのボタンつけをしようとしていた。こういうことをしてもらうには、もうひとり妻がいるな、と彼が例の文句を口にする前に、彼女はあわててボタンをつけてやった。彼女が求めたのは背中の痛みをとるために瀉血してもらうことだけだった(p.497)

 転倒して背中を痛めているのは「彼」なので、瀉血してもらうのは「彼」ではないかと。

 人生も終わりになって気づくよりも、いま分かったのがありがたい一冊。超名作としてオススメしてた渡辺千賀サマは「女心を知り尽くしたマルケス」と評するけど、わたしは男視点から「あきらめたらそこで試合終了」だと思うぞ。ともあれ、正月早々濃い本を読ませていただきました、ありがとうございます >> 渡辺千賀さま

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