速読なんて読書じゃない「遅読のすすめ」
耳に痛い、目にしみる。「本はゆっくり読め、速読なんて読書じゃない」、おっしゃる通りでございます。でもね、速く読める人はゆっくりでも読めるんだけど。そんなツッコミ入れながらイッキ読み。
このごろハヤリの速読に、真ッ向勝負をかけてくる。立花隆や福田和也のような人が、毎日めまぐるしく本を読んでいるが、そんなものは「読書」じゃないとタンカを切る。情報を摂取して排泄しているだけだ、人生の無駄遣いだと言い張る。
ああ、うん、わかる。死んだ親父の言を借りると、
「それは本を読んでるんじゃない、見ているだけだ」
だね。字面を追っかけ拾ってるだけで、そんなものは読書じゃない。そういう風に読まなければならないときもあるが、それは本にとっても読み手にとっても不幸なことだ―― と言いたかったのだろう。
ここで終わればナットクなのに、古今東西の「遅読派」を探し出しては「ホレ見たことか」と騒ぐのが煩い。
たとえば、エミール・ファゲの「読書術」に、「ゆっくりした読書に耐えられない書物は、そもそも読むべきではない」という一文を見つけ、立花と真逆だと狂喜する。あるいは、遠藤隆吉の「読書法」に、「濫読する人の目玉は乱れている」を傑作だと手を叩く。
なんだかなぁ、五十過ぎたオッサンが、西田幾太郎やアンドレ・ジイド、川上弘美まで出してきて、遅読を奨励するというよりは、速読・多読に反発する。オトナゲないっす。
さらに、「小説は速読に不向き」と立花自身が言っているにもかかわらず、小説を引き合いにしては速読をケナす。うっかり本書をゆっくり読むと、そんな論理破綻がよく見えて仕方がない。
そんな矛先が狂ったのか、立花隆を「書生の読みで社会に通用しない」としたり、遅読と速読を「ゾウの時間とネズミの時間」に喩えてみたりする。気持ちは分かるがヒガみに聞こえる。
恨み節をヤセ我慢に昇華させず、「勤め人になって、好きなだけ読めなくなって残念」とか、「立花や福田がやうらやましい」と素直になればいいのに。可愛くないッす。ゆっくり読みは、読了の山脈をいくつも築いてきた人が成せるワザ。さらに、速読ができる人は遅読もできるが、逆は不可であることに気づくべき。
むしろ、透けて見える著者の怨言はうっちゃって、反面教師としたい。つまり、本に合わせて読むスピードを意図的にコントロールするんだ。わたしの場合、小説は息せき切ってイッキ読みする癖がある、先が知りたいからね。用心用心。古典なんざゆっくり読みの極地だろうし、論文はまとまった時間を作って読むべきだろうな。
残人生で読める本が限られていることを意識すると、目の前の一冊とは、まさに一期一会であることが分かる。この秋は、アクセルベタ踏みの読書ではなく、セーフティ・リーディングを心がけてみるか。
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コメント
むーん、難しいなぁ。
私はおそらく読書が遅い部類に入ると思う。なんというか、目で追うスピードに、脳が追いつかないから。
小説なんかだと、セリフを追うだけでなんとなく流れがつかめるものが多いから、ついつい字面を追うだけの「速読」になってしまう場合もある。
ただ、文章力をつけるためにはやはり精読が大事だろうかとも思う。けれど時間がない。
うーん。Dainさんのように自分にあった読書スピードを見つけるのが一番なのだろうか。
投稿: 空飛ぶスパ(ry | 2007.10.31 00:21
>わたしの場合、小説は息せき切ってイッキ読みする癖がある、先が知りたいからね。用心用心。古典なんざゆっくり読みの極地だろうし、論文はまとまった時間を作って読むべきだろうな。
小説はイッキ読みしたくなる、というのはよくわかります。ただ、本当に優れた作品に出会ったときに、「読み終えてしまうのが惜しくなって」あえて速度を落として一字一句舐めるように読んだ…という経験なんかもあるのではないでしょうか?
僕は「大聖堂」や「百年の孤独」を読んだときなんかにそういう感覚を覚えました。普段はかなりの速読派ですが。
逆にくだらない作品ほど読み飛ばすかなと(笑)
古典(と一口に言っても色々ありますが)はやっぱり書かれた時代の読書スピードに合わせるといった感覚もありますし、たとえば和歌や俳句、詩なんてものは本来「音読」されることが前提ですからね。
それをチャチャッと速読して済ますのはあまりに勿体ないです。
論文、というのが論説文という意味ならわかりますけど、学術論文などなら普通はかなりのナナメ読みを身につけるのではないでしょうか。自分の専門分野でないものを興味で読むというなら別ですが、たいていの人は必要に迫られて読むものですし、これこそ「速読」の出る幕なんじゃないかなと。
論文はまあツールですよね。
ものによってはそれこそ何度も読み込まなきゃいけない場合もありますけど。あ、そういう意味で言ったのかな。
投稿: choumei | 2007.10.31 00:54
こうゆう物のすすめ方をできる方ってすごいなぁと思います。大人って感じです。
投稿: | 2007.10.31 15:10
まあ各々好きなペースで読めばいい、って話ですよね。
学校の教科書じゃないんですから、誰かに強制されて読んでいるわけではないですし。
読書のスタイルなんて特別高尚なものじゃあないし、その本を読んで何を得ようとするかはそれぞれなのですから、多様な読み方があって然り。ちなみに私は遅い方。
じっくりと、あじわって、かみしめて、よいんにひたる。
というのが私の読書です。
もう、お前の読書は間違ってる!なんて息巻いてる人達には、そんなこと言ってる暇があったら読めよ、話はそれからだ!と言うしかない。
読書で得られる感動や教養などというものが本当にあるのなら、それは読者自身が引き出したものでしかないと思うのです。
投稿: jackal | 2007.10.31 21:11
>> 空飛ぶスパ(ry さん
> ついつい字面を追うだけの「速読」になってしまう
ああ、たしかに。わたしもそんなトコあります。「この本はいい加減に読んでもいいな」と判断すると、大意をつかみとって良しとする悪癖(?)があります。いわゆる、読んだフリ、というやつですね。
そうならないように、厳密に選書して精読を心がけています。少なくともここで紹介する本は流し読みしていませんのでご安心を(^ ^
読書のスピードについて。井上ひさしが、「本はゆっくり読むと、速く読める」という極意を語っています(本の運命)。あるいは、加藤周一は「本によって読むスピードの緩急をつけよ」と言っています(読書術)。さらに、松岡正剛は、「本ごとに読み方を変えるのではなく、コンディション・シチュエーションごとに本を代えて読め」といっています(千夜千冊虎の巻)。
皆さん本読みの達人ですが、共通しているのは、自分の読みかたを意識しているところですね。
>> choumei さん
> 「読み終えてしまうのが惜しくなって」あえて速度を落として
> 一字一句舐めるように読んだ…という経験
ありますあります、もちろんあります。
そういう小説は、「つかみ」からピンとくるので、残りのページが惜しくなる前から舐めるように読んでいます。「大聖堂」や「百年の孤独」は、まさにそんな作品ですね。最近なら「カイト・ランナー」ですな。
「学術論文のナナメ読み」は、たしかにご指摘どおりです。あれこそ速読向けですね。この一文、
> 論文はまとまった時間を作って読むべきだろうな。
を書いたときは、小林秀雄の評論が脳裏に浮かんでいたので。「本居宣長」は、コマ切れの痛勤電車ではムリだろうな…
>> 名無しさん
> すごいなぁと思います。大人って感じです
お誉め(?)にあずかり恐悦至極です。大人っていうよりオッサンなのですが。
>> jackal さん
> 読書のスタイルなんて特別高尚なものじゃあないし、
> その本を読んで何を得ようとするかはそれぞれなのですから、
> 多様な読み方があって然り
そう、まさにその通りですね。「遅読のすすめ」の著者は、「速読を押し付けようとする」風潮に反発して、jackal さんと同じ出発点から論を進めます──が、ゆっくり読みを強調するあまり強要している自分に気づかない罠が…
読み方を変えると見えてくるものも違ってくるわけでして、自分のスタイルを見直すスケールにはなりますよ。
投稿: Dain | 2007.10.31 22:14
Dainさん
スローリーディングといえば、平野 啓一郎 『本の読み方 スロー・リーディングの実践』もお勧めですよ。
http://bookmark.tea-nifty.com/books/2006/10/__c825.html
投稿: ほんのしおり | 2008.05.07 00:19
>> ほんのしおりさん
ご紹介ありがとうございます。
読むつもりはなかったのですが、これでますます読まずにすみます。
「遅読のすすめ」の著者である山村修氏と似たり寄ったりのような…
投稿: Dain | 2008.05.07 23:47