ローマ人の物語IX「賢帝の世紀」の読みどころ
古代と現代は、こんなに離れているのに、遺跡や美術品は、そのままで美しいと感じることができる。同様に、「物語」を介することでもっと身近に感じることができる。納得できる不思議さやね。
「賢帝の世紀」では、トライアヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウスの三皇帝に焦点を当てている。塩野氏一流の、絶妙な隠喩が愉しい。
■1 ローマの「空洞化政策」
たとえば、「空洞化対策」。パクス・ロマーナをこの言葉で表現しようとする諧謔というか、感覚は面白い。
本国は中小企業で、属州は大企業社会という感じだったらしい。資産家(元老院階級)は収益率の高い属州に流れ、その反面で本国(ローマ)がどんどん空洞化し、格差が広がっていったそうな。
で、トライアヌス帝が実施した施策は、ずばりアリメンタ(Alimenta)法、育英資金による人口の回復だそうな。今風に言うならば「子育て援助」かね。成年に達するまで、以下の育英資金がもらえ、かつ返却は求められていなかったそうな。軍団兵の月給が75セステルティウスであることを考えると、それなりの額だろう。
嫡出男子──16セステルティウス/月
嫡出女史──12セステルティウス/月
庶出男子──12セステルティウス/月
庶出女史──10セステルティウス/月
フェミニストが援助額の男女差を指摘する前に、塩野氏は素早く先回りする。
で、返す刀でキリスト教をサクっと。現代の女権論者ならば男女の援助額の差を非難するかもしれないが、1900年前の昔、女子をふくめたことだけでも前進であり、そのうえ、援助額で差をつけられようと、庶出の子まで加えられていたにいたっては画期的でさえある。
神に誓った正式な結婚によって生まれた子しか認められなかったキリスト教の時代は、このローマ時代の後に来るのであり、そのキリスト者の国家でも庶子の遺産相続も可能になったのは、つい最近のことでしかない。
■2 論旨破綻してても「カエサル至上主義」
ダキア戦記の捕虜は、徹底的に殺されたそうな。コロッセウムで剣闘士と対決させたり、捕虜同士で殺し合いをさせたり、野獣v.s.人間の闘いに供されたりしたらしい。しかも見世物として百二十三日間つづいたそうな。これぞ「パンとサーカス」に適用すべきネタなのに、見事にこの語をスルーしている。
カエサルの敗者同化政策とは完全に反対なんだけれど、塩野氏はこう述べる。
で、なぜ上手くいったかは一切説明なし。もし失敗したならば「カエサル流でなかったから」と一刀の元に断ずるだろう… 最初から引き合いに出さなきゃいいのに、わざわざ持ってくるから話が通らない。これだけでユニークな論文がゴロゴロありそうだね。カエサルによる敗者同化政策と、トライアヌスの敗者「非」同化政策は、手法ということならば完全に反対のやり方になる。だが、成果となればこの二つは同じく成功したのである。ダキアは、一個軍隊しか常駐させなかったにもかかわらず、ローマの中央政府を心配させることの少ない属州になる。
■3 コネ上等!
コネ擁護論が愉しい。帝政時代のプリニウスでも共和時代のキケロでも、書簡を読むとコネのことばかり書いてあるそうな。
じゃぁコネは害悪なのかというと、「システムとしてそれほど悪いものであろうか」と反論してくる。ローマ人は、中国の科挙のような制度を作らなかった。その代わり、人材登用にコネを重視したのは、現実主義的傾向のあらわれの一つなんだってー。
つまり、コネとは、責任をもってある人物を推薦することで。優れた人が推薦する人物ならば、良い人材に違いないというリクツでくる。詭弁論 修辞法を目の当たりにする感じ。ものは言いようだね。
■4 なり代わりメソッドは女の超能力なのか
嫁さんと議論になるとき、思い知らされるのは、その想像力。わたしが言ったことではなく、わたしの抱いていた感情を鋭く追及する。曰く、「揚げ足を取ってやろうと思っていたはず」とか「怒っていたからこそ、そんな言い方をした」とか。
「思ってない」「怒ってない」と、本人が目の前で否定しているにもかかわらずだ。おまえはオレか!とツッコミたくなる。このなり代わりメソッドは、嫁さんの「個性」なのか? と心配していたが、塩野氏のおかげで払拭された。
皇帝の不倫についての議論で、塩野氏はこう断言する。
塩野グッジョブ!言い切った。ローマ時代の史家たちは、皇帝の不倫が肉体関係を持ったものか否かを追求して、結局失敗しているという。それに対し、私は、この二人の間にセックスは介在していなかったと確信する、介在していなかったからこそ、ハドリアヌスの胸のうちには、プロティナが生きつづけていたのだと思う。
おおーすげー、二千年の刻を超え、本人よりも本人のことを「確信」するさまは、潔いというよりも、単なる妄想のしすぎ。「あの娘がチラチラ見るのは、ボクを気にしてるからさッ」という発言に、「きんもーっ☆」と返されるのと一緒。幸運なことに、二千年前の話だから確認のしようがないわけなんだけどね。それは、セックスが介在していたか否かだけを問題にしているからである。プロティナは、教養が高く誇りも高い女だった。このような女にとっては、愛情とは常にイコール性愛ではない。
不倫が露見した場合の女の遠島と男の死刑を恐れたのではない。性(セックス)が介在することによって、普通の男女の関係になってしまうのを惜しんだのだ。(25巻p.33)
■5 コピペ元の方が明らかに優れている場合(その1)
そうした妄想に呆れながら、それでもつきあっているのは、彼女の読書量がハンパじゃないから。巻末文献もそうだし、所々に示される引用元は莫大な量になる。わたしが自分で読む代わりにゴクゴク消化して、オモシロどころを教えてくれる。ありがたやありがたや。
たいていは、長々と引用した後、「…というが、本当だろうか?」とツッコみ、自説(?)を開陳し、「~と思う」で締める。根拠は探すだけムダ、なぜなら、「ローマ人の物語」なんだからねー
これが、名だたる史家のキケロやタキトゥスを引き合いにするなら、v.s.権威主義として構図も決まるんだが、現代の同業者の場合だと、塩野氏のほうが見るまに色あせてくる。噛ませ犬に食い殺される様子は、別の意味でハラハラする。
それは、皇帝ハドリアヌスの陰謀論。反対派を裁判無しで粛清したことについて、事故か故意か、迷うところがある。このあたりの機微が、ユルスナル「ハドリアヌス帝の回想」から引用している。読めば分かるが、こいつぁ面白い。25巻のp.55からの数ページは、引用元が引用先を「喰って」しまっている。
本書よりずっと面白い「ハドリアヌス帝の回想」は、ぜひ読んでみようと思いつつ、塩野氏の反応を見ると、むべなるかな、殊勝にもこう言う。
と、いったんシャッポを脱ぐ。しかし、まことに美しい場面である。ペンで勝負する者同士としては脱帽するしかない。「ハドリアヌスの回想」の中でも、最も美しい場面ではないかと思う。(25巻p.63)
…ビール噴いたね。そこまでするかーって。以後、「――だろうか。」「――に過ぎない。」「――と思う」の三段論法(?)でヘコました気分に浸る。さらに追い打ちのつもりなのか、「私ならこう書く」と宣言、同じシーンをなぞるのだが、筆力が「だんち」に違うのがよく見える。うーん、編集段階で誰も指摘しなかったのか、できなかったのか… ケンソンのつもりではなく、逃げ道として「歴史のプロではない」と自認する塩野氏だが、文筆家としちゃプロだろうに… 気の毒なり。しかし、ほんとうに話は、このように進んだのであろうか。
■6 コピペ元の方が明らかに優れている場合(その2)
ローマ軍団の本質を、具体例を挙げて衝いているのは「ユダヤ戦記」だな。ちょこちょこ抜粋してくれているおかげで、いかに優れているかがよく分かる。失礼ながら孫引き。
「ユダヤ戦記」からの引用+塩野氏の解説の方がすいすい読めて、分かりやすい。おまけに、これまでここからコピペしていることが明瞭なので、底意地の悪い愉しさを味わえる。ローマの兵士は、戦時になってはじめて武器を取るのではない。平和である間は人生を享楽し、必要になるや武器を手に戦場に出向くのではない。まるで武器を手に生まれてきたかのように訓練を怠らず、実践で試す機会を待ってさえもいないとでもいうふうに、訓練と演習にはげむ日々を送っている。
(中略)まったく、ローマの兵士にとっての軍事訓練は、流血なしの実践であり、実践は流血を伴う訓練である、と言っても誤りではないだろう。(26巻p.37)
■7 「粗暴なローマ人と、虐げられたユダヤ人」という神話
「アニオタ=ロリコン」だとか「若者=ジコチュー」といった、マスコミによる刷りこみは意識して回避しているが、歴史にもそういうトラップがあったとは。真偽はともかく、気づかせてくれて感謝感謝。
「わたしの円を踏むな」文句をいったアルキメデスを殴り殺したローマ人、イエス・キリストをヤリで突き殺したローマ人、ローマ人は粗暴で武に訴えるといった「イメージ」が焼きついていたね。いっぽう、迫害者、殉教者、文字どおり、ディアスポラ(離散)の憂き目に遭った気の毒なユダヤ人といった「イメージ」が刷り込まれていたようだ。
読みどころは、26巻も後半にさしかかった「ローマ人とユダヤ人」論だろう。両者が反目しあうようになった理由について、言葉を選びながら、「イメージ」を切り崩そうとする。
そこには、小狡く立ち回るユダヤ人と、政策を誤ったローマ為政者という構図が浮かび上がるんだが、この期におよんで「カエサルなら…」が飛び出てくる。まだカエサルかよ!と叫ぶ。こうなったらもう、誰にも止められないね。
むしろ、古代史のプロフェッショナルに突っ込んでもらいたいのが、次の「カエサル流ユダヤ対策」だろう。
すごい、すごいよ。カエサルよりもカエサルのことをよく分かっている。「カエサルか!」と。そして、研究家たちを次のまっぷたつに斬り落とす。これがユダヤ民族ならば、その特殊性を全面的に受け容れて、つまりは彼らの悲願を認めて、パレスティーナに政教一致のユダヤ教国家の建設を許すことの不都合製はどこにあったろう。幸いにも、選民思想のユダヤ人には、自分たちの生き方を他民族にも広める意欲が少なかった。数が増えすぎては、神に選ばれたる民というありがたみが薄まるからである。
(中略)また、ユダヤ人の経済上の権利をギリシア人と同じ線に引き上げたカエサルの政策も、思い起こす価値は充分にある。宗教に従属する生き方のおかげで孤立しがちなユダヤ社会と帝国を結びつける「血管」は、ユダヤ人にとっては経済活動であるからだった。カエサルがユダヤ民族の孤立を防ぐ必要を感じたのは、人道上の理由からではない。孤立は、過激化の温床であったからにすぎない。(26巻p.94)
- いかにユダヤがローマによって弾圧されつづけてきたかの実証に努める人
- いかにローマがユダヤに対して忍耐強く寛容政策をとり続けたかの実証に努める人
次はインフラの話か。たのしみ~
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コメント
確かに塩屋さんの「ローマ人の物語」は個人的な思慕を
元に書かれてますよね。
ただローマの歴史を語る、NHK大河ドラマ(解説付き)と
してみれば、良いエンターテイメントで好きですよ。
次のインフラは「ローマ人の物語」でも屈指の不出来なので
(あまりに散漫過ぎて資料としても…むしろ書かない方が)
面白いですよ!でも、このシリーズは好きですよ。
投稿: | 2007.10.24 06:05
>>名無しさん
> インフラは「ローマ人の物語」でも屈指の不出来
ああ、やっぱり… ローマ「人」の物語にしておけばよかったのに…なのですね。塩婆一流のカエサル萌えが、どのように織り込まれているかを探求しながら読みます。
投稿: Dain | 2007.10.24 22:26
ずいぶん前のエントリで、失礼します。
作品への愛あるツッコミが面白かったもので。
>まったく、ローマの兵士にとっての軍事訓練は、流血なしの実践であり、実践は流血を伴う訓練である、と言っても誤りではないだろう。
『ローマ帝国衰亡史』第1巻に、ほぼ同じ文章があったりします。細かいところですが。
アウグストゥスの実権掌握術のように歴史考察がかぶるのは仕方ないんですが、文章がまるまるかぶっていると、おいおいと思ってしまいます。
切り口鮮やかで面白いけれど、実はそんなに深手じゃない、そんな感じのシリーズですね。
投稿: W引用 | 2010.09.17 23:53
>>W引用さん
ご指摘ありがとうございます、もともとはギボン御大だったんですね。ローマネタのエッセイなので、パクってもいいじゃないかと(個人的には)思います。が、大仰なパッケージでさも歴史書(?)のように喧伝しているので愉しいです。
投稿: Dain | 2010.09.18 08:40